佐々岡真司
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佐々岡 真司 |
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基本情報 | |
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出身地 | 島根県浜田市 |
生年月日 | 1967年8月26日(40歳) |
身長 体重 |
184cm 88kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1989年 ドラフト1位 |
初出場 | 1990年4月12日 |
最終出場 | 2007年10月7日 |
経歴 | |
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佐々岡 真司(ささおか しんじ、1967年8月26日 - )は、島根県那賀郡金城町(現浜田市)出身の元プロ野球選手(投手)である。
目次 |
[編集] 来歴・人物
町立雲城小学校3年で野球を始め、町立金城中学校では内野手であった。 島根県立浜田商業高等学校2年時に投手に転向。以来、県内屈指の投手として注目を集めたが、夏の甲子園・春のセンバツには共に縁がなかった(3年時(1985年)には、夏の甲子園島根県予選にてベスト4の成績を残している)。
卒業後は、NTT中国野球部に入部。ソウルオリンピック代表にこそ選ばれなかったものの、アマチュア時代から既に、そのスライダーの切れ味はプロでも通用すると言われていた。1989年の第60回都市対抗野球大会には、三菱重工広島の補強選手として出場し、初戦のNTT東日本戦で与田剛と息詰まるような投手戦を演じる。同年ドラフト1位で広島東洋カープに入団。
プロ1年目の1990年から、スライダーを武器に二桁勝利・二桁セーブを挙げ、投手陣の主軸として活躍。しかし、史上初の新人で最優秀救援投手に輝いた与田剛に阻まれ、新人王の獲得はならなかった。2年目の翌1991年には、先発のエースとして17勝をあげ、最多勝利、最優秀防御率の二冠を獲得。チームのリーグ優勝に大きく貢献すると共に、シーズンMVP、沢村賞、ベストナイン(最優秀投手)と各タイトルを総ナメにした。
それ以降は、先発、中継ぎ、抑えと頻繁に転向を繰り返すも、全体的に安定した活躍を見せた。1999年5月8日の中日ドラゴンズ戦ではノーヒットノーランを達成。2003年9月14日の横浜ベイスターズ戦では、史上6人目となる100勝100Sを達成した。2006年5月4日には、東京ヤクルトスワローズ戦にて先発100勝目をあげる。先発100勝かつ100セーブという記録は、江夏豊以来史上2人目という快挙であり、各メディアで大きく取り上げられた。
2007年、シーズン終了後、現役引退。12月1日付けで2008年、中国放送(RCC。TBS系列)の野球解説者として、2008年11月30日まで契約が決まった。また、同系列のキー局・東京放送/TBSテレビ・ラジオの解説者も兼任することになった。[1]
[編集] 経歴
- 島根県立浜田商業高等学校2年時(1984年)、投手に転向。3年時(1985年)、夏の甲子園島根県予選にてベスト4の成績を残す。
- 高校卒業後、NTT中国野球部に入部。第60回都市対抗野球大会に三菱重工広島の補強選手として出場するなど、チームのエースとして活躍。
- 1989年、希望球団だった広島東洋カープにドラフト1位で入団。
- 1990年、初登板初先発を初勝利で飾り、その後も先発・抑えとして様々な場面で活躍、2桁勝利・2桁セーブを挙げ、当時の新記録となる17試合連続セーブポイントも記録。しかし、新人で最優秀救援投手を獲得した与田剛に阻まれ、新人王獲得はならなかった。
- 1991年、先発に専念。シーズンを通して17勝・防御率2.44を挙げ、最多勝利、最優秀防御率の二冠に輝き、チームのリーグ優勝に大きく貢献すると共に、シーズンMVP、沢村賞、ベストナイン(最優秀投手)を獲得。この年、4月25日の阪神タイガース戦の3回から5月11日の中日ドラゴンズ戦の7回まで、4試合にかけて30イニング連続無失点を記録。また10月23日の西武ライオンズとの日本シリーズ第4戦(広島市民球場)で先発し、8回途中まで無安打無得点に抑えた。
- 1992年、12勝を挙げ、プロ入り以来3年連続2桁勝利を記録。
- 1993年、シーズン最多敗を記録。
- 1994年、リリーフに転向。抑えの大野豊とともに投手陣を支えた。
- 1995年、プロ入り6年目で初の開幕投手を務め、勝利投手となる。シーズン当初は先発だったが、抑えの大野が不調に陥り先発に転向したため、井上祐二とともに再度リリーフに転向。
- 1996年、 プロ入り後初めて、シーズンを通して抑えに定着。Max152km/hのストレートと縦に大きく割れる独特のカーブを武器に活躍し、自己最多の23セーブを記録。。前年は先発、同年はリリーフとして2年連続で開幕戦の勝利投手となる。6月26日から6月30日にかけて、5日連続セーブの新記録を達成。7月23日のオールスター第三戦の9回に登板、堀幸一、小久保裕紀、ブリトーを3者連続見逃し三振に仕留めて優秀選手賞を受賞。 11月に行われた日米野球では第1戦と第3戦にリリーフで1イニングずつ登板し、第1戦でバリー・ボンズ、アンドレス・ガララーガを、第3戦でイヴァン・ロドリゲス、ブラッディ・アンダーソン、スティーブ・フィンリーを三振に仕留めた。
- 1997年、前年に続いて抑えに定着。同年台頭してきた横山竜士とともにリリーフ陣を支えた。
- 1998年、不振に陥ったため、抑えを小林幹英に譲って先発に再転向する
- 1999年、新たな球種・シュートを習得して先発として活躍。1991年の17勝に次ぐ15勝を挙げ、リーグトップの13完投・5完封を記録。5月8日の中日ドラゴンズ戦でノーヒットノーランを達成。
- 2000年、2度目の開幕投手を務め、勝利投手となる。前年に続いて先発として2桁勝利を記録。
- 2001年、2年連続3度目の開幕投手。シーズン当初は先発だったが、抑えのエリック・シュールストロムが故障でリタイヤし、7月から抑えに再転向。小山田保裕とともにリリーフ陣を支える。
- 2002年、3年連続4度目の開幕投手を務める。シーズン途中から小山田が抑えに定着したため、先発に復帰して8勝を挙げた。
- 2003年、前年に続いて先発としてスタートしたが、小山田に代わって抑えを務めたルーキー永川勝浩が夏場以降失速。これを支えるためにシーズン途中から抑えに再転向。9月14日の横浜ベイスターズ戦では、史上6人目となる100勝100Sを達成した。
- 2004年、中継ぎに転向。永川、大竹寛とともにリリーフとして投手陣を支える。8月以降はチーム事情により先発に再転向。8先発で48回1/3を投げ、防御率1.48と安定感を見せた。
- 2005年、前年後半の安定感から先発としてスタートするも、結果を残せず6月から二軍に降格、ルーキーイヤー以来となる二軍登板を経験する。一軍復帰後リリーフに転向。リリーフでは安定した投球を見せたが、シーズントータルでは30試合に登板し1勝、防御率6.33の成績に終わった。
- 2006年、前年の野村謙二郎の引退により、チーム最年長選手となり、先発投手に転向。当初は黒田博樹、大竹寛、ショーン・ダグラスの脇役的な扱いだったが、最終的にはチームで唯一シーズン通じてローテーションを守って投げきり、規定投球回数に到達すると共に8勝を挙げた。5月4日には、東京ヤクルトスワローズ戦にて先発100勝目をあげる。先発100勝かつ100セーブという記録は、江夏豊以来史上2人目。39歳での規定回数到達は、大野豊に次ぐ球団史上2位の高齢記録であった。
- 2007年、9月19日、現役引退を表明。11月30日に自由契約公示される。
[編集] エピソード
- 社会人時代に勤務していたNTT中国のビルは、広島カープのホームグラウンド・広島市民球場の一塁側スタンドのすぐ裏側にある。
- 入団1年目は、シーズン2桁勝利2桁セーブだけでなく、当時の新記録となる17試合連続セーブポイントも記録していた。最終的に新人王は与田剛が獲得したが、非常に高い成績を収めたことが認められ、セ・リーグ会長特別賞が贈られている。
- 投手ながら打力もあり、1990年8月14日対中日戦で郭源治投手からサヨナラホームランを放ったこともある。
- 同僚の玉木重雄とともに、ロージンバッグの粉を大量につけて投げることで知られていた[1]。
- 1994年、対ヤクルト戦でジェラルド・クラークに死球を与えた報復としてクラークから暴行を受けて鼻血を出すほどの大怪我を負ったが(その後全治2週間と診断された)、続投を強く懇願、その試合で勝利を収めている。
- 後半は、新人時代のスライダーの切れは影を潜めたが、代わりに縦に鋭く落ちるカーブ、シュートなど様々な球種を習得・駆使していた。特に縦のカーブは、オールスターや日米野球の際に様々な投手に教えを乞われるなど、代表的な決め球として内外に知られていた。
- MVPに輝いたほどの投手が、30歳前後の最も脂の乗り切った時期において、毎年のように(時にはシーズン途中で)役割が変わるという例はかつてない。200試合以上登板している投手の中で、先発、中継ぎ、抑えの割合がそれぞれ25%を超えている、史上唯一の選手である。ファンの間では「先発に専念していたら、今頃は200勝を達成していたかもしれない」という声もあったが、この事に関して本人は「チームの勝利の為なら、どんな役割でも引き受ける」と語っていた。
- 2005年、出身地の金城町から町民栄誉賞を受賞している。
- 2007年10月6日、引退試合として広島市民球場で行われた対横浜ベイスターズ最終戦に登板。10-0と広島が大量リードして迎えた9回表、二死無走者から村田修一の打席に挑んだが、高めのボール球に空振りか本塁打かのつもりで振った村田のバットがボールを捉えた。悲鳴と罵声が入り混じる中、村田は涙を流しながらダイヤモンドを一周。「人生で一番辛いホームラン。こんな辛い気持ちになるのは今日が初めて」と語った(ただしこの時のカウントは1ストライク3ボールで、見逃せば4ボールになってた為に、村田があえて振りにいった結果である)。佐々岡はこの後、次打者の鈴木尚典を空振り三振に打ち取って、本拠地のラストゲームを締めくくっている。佐々岡も昔、新人王争いをしている最中、加藤博一の引退打席では真剣勝負で三振に打ち取っている。
- 引退試合終了後のセレモニーでは、「夢だったカープのユニフォームを今日まで着れて、私は幸せな男。感謝の気持ちでいっぱいです」とファンに挨拶し、場内を一周。この時、ひとり三塁側ダッグアウト前に残っていた村田が「申し訳ありませんでした」と頭を下げたが、佐々岡は「真剣勝負の結果。打たれて吹っ切れたよ。気持ち良かった」と笑顔で応えていた。
- なお村田は、この佐々岡からの本塁打が決め手となり、同年の本塁打王を獲得している。村田はシーズン後この時のことを「引退登板の時には、できれば打順が回って欲しくなかった。打った後は佐々岡さんの為にも、カープファンの為にも、絶対にタイトルを獲らなきゃいけないと思った」と振り返っている。
- 引退試合を終えた翌日10月7日の対東京ヤクルトスワローズ最終戦(神宮球場)、佐々岡と同じく同年限りでユニフォームを脱ぎ、アマチュア時代にはバッテリーを組んだこともある同期・古田敦也の引退試合にワンポイント登板し、ファンを驚かせた。この8回裏二死の対戦で古田を遊ゴロに打ち取り、登板後には古田と固い握手を交わし、花束を贈られた。試合後は左翼スタンドにサインボールを投げ込んで東京のファンに別れを告げ「マーティに最後のわがままを聞いてもらった。全部真っすぐを真ん中に投げるつもりだったけど、球が遅すぎた。凄くいい思い出になりました」と感慨に浸っていた。なお佐々岡は、この現役最後の登板でホールドをマークしている。
- 非常に温厚な人柄で知られ、チームメイトだった新井貴浩は「本当に優しい仏様のような人」と評していた。
- カラオケでの十八番はオヨネーズの「麦畑」。
[編集] 個人記録
- 初登板 : 1990年4月12日 対横浜大洋ホエールズ(横浜スタジアム)
- 初先発 : 同上
- 初完投 : 同上
- 初勝利 : 同上
- 初奪三振 : 同上(谷繁元信から)
- 初完封:1990年9月18日対横浜大洋ホエールズ
- 初セーブ:1990年5月9日対ヤクルトスワローズ(明治神宮野球場)
- 通算100勝:2000年6月16日対横浜ベイスターズ(115人目)
- 通算100セーブ:2003年9月14日対横浜ベイスターズ
- 通算100勝100セーブ達成 : 2003年9月14日対横浜ベイスターズ
- 先発100勝100セーブ達成(史上2人目) : 2006年5月4日対ヤクルトスワローズ
- 1000奪三振:1998年7月5日対阪神タイガース(102人目、新庄剛志から)
- 1500奪三振:2002年9月4日対阪神タイガース(45人目、片岡篤史から)
- 1000投球回:1995年8月29日対阪神タイガース(264人目)
- 1500投球回:2000年4月28日対横浜ベイスターズ(146人目)
- 2000投球回:2003年8月24日対中日ドラゴンズ(82人目)
- 500試合登板:2004年9月24日(75人目)
[編集] タイトル・表彰・記録
- 最多勝利:1回 - 1991年(17勝)
- 最優秀防御率:1回 - 1991年(2.44)
- ベストナイン:1回 - 1991年
- 最優秀投手:1回 - 1991年
- MVP:1回 - 1991年
- 沢村賞:1回 - 1991年
- セ・リーグ会長特別賞:1回 - 1990年
- オールスター優秀選手賞:1回 - 1996年7月23日 第3戦
- 月間MVP:6回 - 1990年9月、1991年5月、1991年9月、1996年6月、1999年5月、2000年4月
- 最優秀JCB・MEP賞:1回 - 1991年
- 特別功労賞:2007年
- オールスター出場:6回 - 1990年、1991年、1996年、1999年、2000年、2001年
- 30イニング連続無失点 - 1991年4月25日阪神タイガース戦の3回から5月11日中日ドラゴンズ戦の7回まで
- 5日連続セーブ - 1996年6月26日から30日まで
- ノーヒットノーラン達成 - 1999年5月8日対中日ドラゴンズ(セ・リーグ32回目、プロ野球78回目。1死球のみ、四球0は1948年の真田重蔵、1995年のブロス以来3人目)
[編集] 年度別投手成績
年度 | 球団 | 背 番 号 |
登 板 |
完 投 |
交 代 完 了 |
先 発 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1990年 | 広島 | 18 | 44 | 6 | 29 | 7 | 2 | 0 | 13 | 11 | 17 | .542 | 621 | 151.1 | 123 | 15 | 53 | 6 | 129 | 3 | 0 | 56 | 53 | 3.15 |
1991年 | 33 | 13 | 0 | 18 | 5 | 0 | 17 | 9 | 0 | .654 | 962 | 240.0 | 186 | 20 | 69 | 8 | 213 | 4 | 0 | 69 | 65 | 2.44 | ||
1992年 | 29 | 7 | 0 | 20 | 1 | 0 | 12 | 8 | 0 | .600 | 815 | 197.0 | 186 | 14 | 60 | 4 | 161 | 8 | 1 | 87 | 74 | 3.38 | ||
1993年 | 30 | 7 | 1 | 21 | 1 | 1 | 5 | 17 | 0 | .227 | 793 | 183.0 | 206 | 21 | 58 | 5 | 124 | 6 | 0 | 93 | 88 | 4.33 | ||
1994年 | 41 | 2 | 10 | 12 | 1 | 0 | 7 | 9 | 6 | .438 | 547 | 130.2 | 129 | 15 | 27 | 4 | 93 | 1 | 0 | 51 | 48 | 3.31 | ||
1995年 | 44 | 2 | 30 | 10 | 0 | 0 | 7 | 7 | 17 | .500 | 525 | 127.0 | 108 | 10 | 39 | 5 | 110 | 3 | 0 | 47 | 43 | 3.05 | ||
1996年 | 49 | 0 | 46 | 0 | 0 | 0 | 5 | 7 | 23 | .417 | 270 | 69.0 | 54 | 5 | 14 | 3 | 71 | 2 | 0 | 13 | 13 | 1.70 | ||
1997年 | 39 | 0 | 35 | 0 | 0 | 0 | 5 | 5 | 21 | .500 | 243 | 57.2 | 54 | 5 | 20 | 2 | 64 | 3 | 0 | 19 | 17 | 2.65 | ||
1998年 | 29 | 1 | 12 | 15 | 0 | 0 | 5 | 11 | 6 | .313 | 491 | 121.0 | 113 | 17 | 25 | 3 | 96 | 3 | 1 | 54 | 51 | 3.79 | ||
1999年 | 26 | 13 | 0 | 13 | 5 | 1 | 15 | 8 | 0 | .652 | 787 | 190.0 | 181 | 17 | 43 | 4 | 150 | 0 | 0 | 73 | 69 | 3.27 | ||
2000年 | 21 | 5 | 0 | 16 | 1 | 1 | 10 | 6 | 0 | .625 | 602 | 142.2 | 154 | 18 | 29 | 1 | 94 | 2 | 0 | 71 | 63 | 3.97 | ||
2001年 | 32 | 7 | 13 | 10 | 0 | 1 | 7 | 10 | 7 | .412 | 588 | 140.1 | 154 | 16 | 31 | 3 | 92 | 2 | 0 | 61 | 56 | 3.59 | ||
2002年 | 25 | 2 | 0 | 23 | 1 | 2 | 8 | 9 | 0 | .471 | 647 | 153.2 | 167 | 13 | 32 | 1 | 127 | 0 | 0 | 76 | 59 | 3.46 | ||
2003年 | 29 | 1 | 9 | 16 | 0 | 0 | 8 | 8 | 6 | .500 | 467 | 110.1 | 122 | 20 | 25 | 5 | 81 | 0 | 0 | 64 | 60 | 4.89 | ||
2004年 | 30 | 0 | 7 | 11 | 0 | 0 | 3 | 7 | 3 | .300 | 351 | 81.1 | 98 | 6 | 17 | 3 | 61 | 0 | 0 | 38 | 35 | 3.87 | ||
2005年 | 30 | 0 | 10 | 8 | 0 | 0 | 1 | 6 | 0 | .143 | 246 | 54.0 | 75 | 14 | 19 | 0 | 37 | 2 | 0 | 44 | 38 | 6.33 | ||
2006年 | 27 | 0 | 0 | 27 | 0 | 0 | 8 | 8 | 0 | .500 | 619 | 149.2 | 155 | 24 | 29 | 5 | 82 | 2 | 0 | 77 | 68 | 4.09 | ||
2007年 | 12 | 0 | 1 | 10 | 0 | 0 | 2 | 7 | 0 | .222 | 215 | 45.2 | 75 | 9 | 5 | 4 | 21 | 0 | 0 | 34 | 33 | 6.50 | ||
通算成績 | 570 | 66 | 203 | 237 | 17 | 6 | 138 | 153 | 106 | .474 | 9789 | 2344.1 | 2340 | 259 | 595 | 66 | 1806 | 41 | 2 | 1027 | 933 | 3.58 |
太字はシーズン中のリーグ最高
[編集] 脚注
- ^ 本人いわく、「(ロージンを大量につけて投げるのは)消える魔球のつもりだった」という(勇者のスタジアム・プロ野球好珍プレー内での本人の発言)
[編集] 関連項目
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監督 |
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71マーティ・レオ・ブラウン |
コーチ |
75ジェフ・リブジー(ベンチ)|72内田順三(打撃統括)|88小早川毅彦(打撃)|73小林幹英(投手)|87澤崎俊和(ブルペン)|77高信二(内野守備走塁)|85永田利則(外野守備走塁)|84植田幸弘(バッテリー)|89水本勝己(ブルペン補佐) |
二軍監督・コーチ |
76山崎立翔(監督)|82浅井樹(打撃)|80山内泰幸(投手)|74岡義朗(内野守備走塁)|83朝山東洋(外野守備走塁兼打撃補佐)|78熊沢秀浩(バッテリー) |
三軍コーチ |
81道原裕幸(バッテリー)|86阿部慶二(野手) |
投手 |
11ルイス|13佐竹健太|14篠田純平|16宮崎充登|17大竹寛|18前田健太|19上野弘文|20永川勝浩|21齊藤悠葵|22高橋建|23横山竜士|24河内貴哉|28広池浩司|29佐藤剛士|30森跳二|34コズロースキー|36青木勇人|39梅津智弘|42長谷川昌幸|46大島崇行|47青木高広|48岸本秀樹|53林昌樹|58小島心二郎|62今井啓介|65相澤寿聡|67丸木唯|68金城宰之左|69中村憲|70シュルツ|93マルテ|122山中達也(育成選手)| |
捕手 |
27上村和裕|31石原慶幸|32白濱裕太|40倉義和|61山本翔|64会沢翼 |
内野手 |
00山崎浩司|2東出輝裕|4尾形佳紀|5栗原健太|6梵英心|10比嘉寿光|12小窪哲也|25シーボル|44喜田剛|45松本高明|52大須賀允|56中谷翼|57甲斐雅人|59山本芳彦|60安部友裕|66木村昇吾 |
外野手 |
0井生崇光|1前田智徳|9緒方孝市(野手コーチ兼任)|26廣瀬純|33鞘師智也|35中東直己|37松山竜平|38赤松真人|41森笠繁|43アレックス|49天谷宗一郎|50鈴木将光|51末永真史|54吉田圭|55嶋重宣|63丸佳浩|121山内敬太(育成選手) |
広島東洋カープ 1989年ドラフト指名選手 |
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1位:佐々岡真司 / 2位:仁平馨 / 3位:前間卓 / 4位:前田智徳 / 5位:山口晋 / 6位:浅井樹 |