鳥取県立米子東高等学校
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過去の名称 | 鳥取県第二中学校 鳥取県立第二中学校 鳥取県立米子中学校 鳥取県立米子第一高等学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 鳥取県 |
設立年月日 | 1899年 |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通学科 |
学科内専門コース | 普通コース 生命科学コース |
専攻科 | 生命科学コース |
学期 | 三学期制 |
高校コード | 31118 |
所在地 | 〒683-0051 |
鳥取県米子市勝田町1番地 北緯35度25分58.7秒東経133度20分37.4秒 |
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電話番号 | 0859-22-2178 |
FAX番号 | 0859-22-2170 |
外部リンク | 公式サイト |
鳥取県立米子東高等学校(とっとりけんりつよなごひがしこうとうがっこう)は、鳥取県米子市にある公立高等学校。
目次 |
[編集] 概要
旧制鳥取県立米子中学校の流れを汲み、自由な校風で知られる、県内トップレベルの進学校。東大・京大、早大・慶大、医学部をはじめとする国立大学理科系学部などにも、多からず少なからず相当数を、継続的に輩出する。主要な進学先は、鳥取大学、島根大学などの地元国公立大である。選抜準優勝の経験がある野球をはじめ、サッカー、ラグビーなどの部活動、全国優勝を果たした高校生クイズの強さは全国的にも有名である(後述を参照)。また、校内に勝田山、3つのグランドを持つなど、環境に恵まれている。
[編集] 校訓・校章
[編集] 校訓
質実剛健
- 卒業生、在校生を問わず、「文武両道」と勘違いしている場合が多い。文武両道はあくまで校風である。
[編集] 校章
校章は、柏の葉をX型に組み合わせたもので、右の葉はロゴス、左の葉はパトスを象徴しており、本校の理念を表し、真理の探求と情緒豊かな人間性を陶冶するために努力をすることを意味している。
- 現校名になった後制定。当時としては珍しい、「高」の字を外したものだった。ロゴス、パトスは校歌(3番)にもうたわれている。校章作者は、特にその意味を考えていなかったが、意味するところを当時の生徒に問われ、その場で咄嗟に思いついたという。
[編集] 教育方針
日本海をのぞみ、大山を仰ぐこの美わしい学園は、つぎのごとき人間を育成する。
- 一.個性を生かして社会に生き、人類の幸福に貢献する。
- 一.自由を尊び、責任と自主性を重んずる。
- 一.英知に輝き、真理に徹する。
- 一.豊かでかおり高く、真実の人生を愛する。
- 一.明朗で健康で、信念を貫徹する強い意志と実行力を持つ。
[編集] 歴史
- 1899年(明治32年)4月1日 - 鳥取県第二中学校として創立
- 1901年(明治34年)6月12日 - 鳥取県立第二中学校に改称
- 1909年(明治42年)4月1日 - 鳥取県立米子中学校に改称。
- 1936年(昭和11年)4月29日 - 旧校歌制定(作詞:土井晩翠 作曲:東京音楽学校)
- 1948年(昭和23年)4月1日 - 鳥取県立米子第一高等学校に改称。定時制(夜間)を併設
- 1948年(昭和23年)9月1日 - 通信制を併設
- 1949年(昭和24年)4月1日 - 米子第一高等学校・米子実業高等学校・法勝寺実業高等学校が合併して鳥取県立米子東高等学校となり、男女共学となる。勝田校舎(旧米子第一)、長砂校舎(旧米子実業)、法勝寺校舎(旧法勝寺実業)を設置
- 1952年(昭和27年)4月1日 - 勝田校舎に全日制家庭学科を設置
- 1953年(昭和28年)4月1日 - 長砂校舎、法勝寺校舎が鳥取県立米子南高等学校(同年11月に法勝寺校舎は鳥取県立法勝寺農業高等学校(後の鳥取県立法勝寺高等学校、現在は鳥取県立米子高等学校)となる)として分離・独立。家庭学科は鳥取県立米子西高等学校へ移管
- 1955年(昭和30年)1月15日 - 校歌制定(作詞・針本武義 作曲・藤本秀夫 渡部恵一郎)
- 1960年(昭和35年)4月1日 - 専攻科を設置
- 1999年(平成11年) - 創立100周年
- 2005年(平成17年)4月1日 - 定時制・通信制を鳥取県立米子白鳳高等学校として分離・独立
- 2009年(平成21年)3月31日 - 専攻科を閉科予定(2008年7月頃に存続か否か正式決定)
[編集] 学科
- 全日制普通学科普通科
- 普通コース
- 生命科学コース
- 専攻科
[編集] 部活動など
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[編集] 硬式野球部
- 硬式野球部は1900年創部。鳥取西と並ぶ旧制中学以来の山陰の名門で、春夏の甲子園で通算16勝21敗の成績を残している。伝統的に短打戦法に犠打、堅い守備に加え、洗練されたマナーは「米東(べいとう)野球」と称され、特に第32回選抜高等学校野球大会では準優勝を果たしている(これは現在のところ山陰勢として唯一の決勝進出である)。
- 1950年から着用している純白を基調に緑と黄の胸文字のユニフォームは、「勝者を讃え敗者をいたわる清らかな心をもち、清流に躍る若鮎のごとくはつらつとあれ」との願いが込められたものであり、全国的にも有名である。また、かつて主として慶應義塾大学野球部に師事したため、胸文字にはいわゆる慶應体を採用している。
- 県内では鳥取西とともに、夏の選手権大会の第1回予選からの皆勤校である。夏の出場回数と勝ち星ではライバル鳥取西に後れを取っているが(米子東:13回出場で8勝13敗、鳥取西:22回出場で23勝22敗)、春の出場回数と勝ち星では鳥取西を大きく上回っている(米子東:8回出場で8勝8敗、鳥取西:4回出場で2勝4敗)。春夏連続出場は1935年と1960年の2回ある。
- 米子東と鳥取西両校の、特に夏の県大会での対戦は「山陰の早慶戦」と呼ばれ、県内の高校野球ファンの熱い注目を集める。旧制中学の頃の両校の対戦の際は、試合開始前から観客の小競り合いや喧嘩は当たり前だった。1930年の山陰大会決勝で両校が対戦した際は、短刀を持った観客が乱入し、警官監視下で試合が続行されたという。1957年からは夏の大会前に、両校で校長を務め、野球部強化に尽力した林重浩の名を冠した「林重浩杯」と呼ばれる定期戦が行われている。
- ただここ10年ほどは、進学重視に伴う部活動時間の縮減もあってチーム力が低下、かつての米子東では考えられなかった失策の連鎖や淡白な攻撃によって、県大会の早い段階で敗退することが多くなり(特に1999年夏から2004年夏まで実に16季連続で県大会ベスト4に進出できないという低迷を続けた)、オールドファンを寂しがらせている。
全国高等学校野球選手権大会 夏通算成績8勝13敗
年度 | 出場回数 | 全国大会成績 | 対戦校 |
---|---|---|---|
1925年(第11回大会) | 初出場 | 2回戦敗退 | 2-0 前橋中(群馬) 4-10 第一神港商(兵庫) |
1930年(第16回大会) | 5年ぶり2回目 | 1回戦敗退 | 0-4 大邱商(朝鮮) |
1932年(第18回大会) | 2年ぶり3回目 | 2回戦敗退 | 1-3 石川師範(石川) |
1935年(第21回大会) | 3年ぶり4回目 | 1回戦敗退 | 4-5 育英商(兵庫) |
1939年(第25回大会) | 4年ぶり5回目 | ベスト8 | 12-7 高岡商(富山) 0-3 海草中(和歌山) |
1950年(第32回大会) | 11年ぶり6回目 | ベスト8 | 3-2 盛岡(岩手) 7-8 鳴門(徳島) |
1954年(第36回大会) | 4年ぶり7回目 | 2回戦敗退 | 2-1 滝川(兵庫) 延長11回 1-3 早稲田実(東京) |
1956年(第38回大会) | 2年ぶり8回目 | ベスト4 | 1-0 別府鶴見丘(大分) 3-0 中京商(愛知) 1-2 岐阜商(岐阜) 延長10回 |
1960年(第42回大会) | 4年ぶり9回目 | 2回戦敗退 | 8-0 盈進商(広島) 5-12 徳島商(徳島) |
1983年(第65回大会) | 23年ぶり10回目 | 1回戦敗退 | 1-2 学法石川(福島) 延長10回 |
1986年(第68回大会) | 3年ぶり11回目 | 3回戦敗退 | 3-1 東亜学園(西東京) 2-7 天理(奈良) |
1989年(第71回大会) | 3年ぶり12回目 | 2回戦敗退 | 0-3 帝京(東東京) |
1991年(第73回大会) | 2年ぶり13回目 | 1回戦敗退 | 0-5 我孫子(千葉) |
- 第25回大会には、のちに阪神で活躍した土井垣武捕手、長谷川善三遊撃手が出場している。2回戦で、1イニング最多四死球8、連続四死球7の大会記録を達成した(記録は破られていない)。また準々決勝で敗れた相手校・海草中の投手は、全5試合を完封して優勝した嶋清一。
- 第32回大会では、準々決勝で鳴門に逆転負けを喫してベスト4入りを逃したが、飛田穂州はこの試合を「まさに惜敗中の惜敗」と賞賛した。
- ベスト4入りした第38回大会では同じく飛田穂州に、「負けても後味のよい試合をすることが、高校野球の魅力ともいうべきであろう。その最たるものは、山陰米子の力戦であった。米子東の活躍は、老いのまぶたに今も残る。真実を言うならば、このチームに優勝を与えたかったと思う」と激賛された。なおこの大会で主戦だった長島康夫は、引き揚げ者救済措置に伴う年齢超過での出場だった。またこの時以降、鳥取県勢は夏の1大会で2勝以上を挙げていない。
- 第68回大会では石川直主将が選手宣誓をしている。
選抜高等学校野球大会 春通算成績8勝8敗
年度 | 出場回数 | 全国大会成績 | 対戦校 |
---|---|---|---|
1935年(第12回大会) | 初出場 | 2回戦敗退 | 2-5 島田商(静岡) |
1960年(第32回大会) | 25年ぶり2度目 | 準優勝 | 2-1 大宮(埼玉) 4-2 松阪商(三重) 2-0 秋田商(秋田) 1-2 高松商(香川) |
1961年 (第33回大会) | 2年連続3度目 | ベスト4 | 2-1 掛川西(静岡) 2-1 敦賀(福井) 延長16回 1-4 高松商(香川) |
1965年(第37回大会) | 4年ぶり4度目 | 2回戦敗退 | 0-4 高松商(香川県) |
1966年(第38回大会) | 2年連続5回目 | ベスト8 | 6-1 富士宮北(静岡) 2-0 高知(高知) 2-11 中京商(愛知) |
1970年(第42回大会) | 4年ぶり6回目 | 1回戦敗退 | 0-5 津久見(大分) |
1977年(第49回大会) | 7年ぶり7度目 | 1回戦敗退 | 0-5 県岐阜商(岐阜) |
1996年(第68回大会) | 19年ぶり8回目 | 2回戦敗退 | 9-7 釜石南(岩手) 4-8 大阪学院大(大阪) |
- 第32回大会の決勝戦では、宮本洋二郎投手が高松商・山口富士雄選手にサヨナラ本塁打を浴びた。選抜のサヨナラ優勝本塁打は今のところこの1本のみである。
- 第33回大会の準々決勝・敦賀戦で矢滝伸高投手が記録した奪三振23は、参考記録ながら選抜における1試合の最多奪三振記録。
- 第68回大会の初戦・釜石南戦の初回に、大田優投手が春夏通じて鳥取県勢初めてとなる満塁本塁打を記録している(大会史上13本目)。
[編集] サッカー部
- 米子工とともに、鳥取県内における古くからの高校サッカーの強豪。1983年には高校サッカー選手権での鳥取県勢初勝利をあげ、1992年には県勢初のベスト8進出を成し遂げるなど、高校サッカーにおける県内の草分け的存在。ただ近年は境や米子北に押され、2003年のインターハイを最後に全国大会から遠ざかっている。
全国高等学校サッカー選手権大会 通算成績 5勝8敗
年度 | 出場回数 | 全国大会成績 | 対戦校 |
---|---|---|---|
1979年(第58回) | 初出場 | 1回戦敗退 | 0-1 水戸商(茨城) |
1983年(第62回) | 4年ぶり2回目 | 2回戦敗退 | 2-2 北陸(福井) 0-3 暁星(東京) |
1985年(第64回) | 2年ぶり3回目 | 2回戦敗退 | 3-0 丸岡(福井) 1-3 京都商(京都) |
1986年(第65回) | 2年連続4回目 | 1回戦敗退 | 0-4 暁星(東京) |
1992年(第71回) | 6年ぶり5回目 | ベスト8 | 1-0 東京学館新潟(新潟) 2-0 宮崎工(宮崎) 1-0 富山第一(富山) 0-4 国見(長崎) |
1993年(第72回) | 2年連続6回目 | 1回戦敗退 | 0-2 桐光学園(神奈川) |
1996年(第75回) | 3年ぶり7回目 | 2回戦敗退 | 0-2 光星学院(青森) |
1998年(第77回) | 2年ぶり8回目 | 2回戦敗退 | 1-3 水橋(富山) |
[編集] ラグビー部
鳥取県の高校ラグビーは長らく米子工の牙城だったが、米子東は1989年に初出場を果たし、以後9回の出場を数える。鳥取県全体のラグビーのレベルが高くないため苦戦が続いているが、1999年には鳥取県勢としての大会初勝利をあげている(現在のところこれが唯一の県勢の白星である)。
全国高等学校ラグビーフットボール大会 通算成績1勝9敗
年度 | 出場回数 | 全国大会成績 | 対戦校 |
---|---|---|---|
1989年(第69回) | 初出場 | 1回戦敗退 | 3-30 岐阜工(岐阜) |
1990年(第70回) | 2年連続2回目 | 1回戦敗退 | 0-41 早稲田学院(東京) |
1996年(第76回) | 6年ぶり3回目 | 1回戦敗退 | 0-69 磐城(福島) |
1997年(第77回) | 2年連続4回目 | 1回戦敗退 | 5-93 深谷(埼玉) |
1998年(第78回) | 3年連続5回目 | 1回戦敗退 | 7-69 山形中央(山形) |
1999年(第79回) | 4年連続6回目 | 2回戦敗退 | 12-10 鶴来(石川) 3-106 東海大仰星(大阪) |
2000年(第80回) | 5年連続7回目 | 1回戦敗退 | 17-34 富良野(北海道) |
2002年(第82回) | 2年ぶり8回目 | 1回戦敗退 | 0-113 秋田工(秋田) |
2003年(第83回) | 2年連続9回目 | 1回戦敗退 | 7-62 桂(山梨) |
[編集] 高校生クイズ
全国大会へは12回出場しており、奈良県東大寺学園に次ぐ、最多出場回数第2位を誇る常連校である。特に、準優勝した第14回(1994年)でリーダーだった生徒が、次の第15回(1995年)でメンバーを替えて出場し、大会史上初となる、同一人物の全国大会決勝2度進出を成し遂げ、優勝した。
- 1986年(第6回) - 準決勝進出
- 1987年(第7回)
- 1989年(第9回)
- 1990年(第10回) - 第3位
- 1991年(第11回)
- 1992年(第12回) - 準々決勝進出
- 1993年(第13回)
- 1994年(第14回) - 準優勝
- 1995年(第15回) - 優勝
- 1997年(第17回) - 準優勝
- 2000年(第20回) - 1回戦勝ち抜け
- 2005年(第25回)
[編集] その他
- 制服
- 男子は標準学生服(いわゆる学ラン)、女子はセーラー服を着用する。女子のセーラー服は、硬式野球部のユニフォームをデザインした美術教員がデザインしたものであり、かつてのものよりブルー系になった。夏期はいずれも夏服となるが、女子は盛夏服もある。男子は制服の襟の部分に、金色の校章及び「Z」(全日制の頭文字)のバッジを付ける。専攻科生は「S」のバッジである。男子の制帽には白線を2本付ける(現在制帽自体着用は任意)。
- 授業
- 数年前までは2学期制だったが(定期考査の名称も「夏休み前第1回定期考査」などであった)、学校システム(終業式などや成績発表など)自体3学期制で運営されていたため、現在は3学期制を採用している。また、1コマ45分の7限授業である。
- 2004年から主に7月の夏期休業期間中、基本的に午前中は全員参加の夏期講習を実施している(正式な授業日数などには含まれない)。
- 環境
- 校内敷地には勝田山(かんだやま)がある。麓はかつて勝田神社(現在は移転)があった場所であり、元勝田とも呼ばれる(1960年代頃までは鳥居も立っていた)。創立90周年記念行事の一環として、登山道が整備された。頂上からは米子市内をはじめ、島根半島、日本海、大山などを見渡せる。
- 第1グランド(野球場。硬式野球部が使用)、第2グランド(軟式野球部、ソフトボール部、ハンドボール部が使用)、第3グランド(サッカー部、ラグビー部が使用)、屋内練習場、ピッチングハウス(以上は主に硬式野球部が使用)、トレーニングルーム(各部共用)、第1体育館(バスケットボール部、卓球部が使用)、第2体育館(バレーボール部、バドミントン部が使用)、硬式テニスコート、ソフトテニスコート、50メートルプールを有するなど、運動施設は全国の公立校の中でも稀なほど充実している(ただし、第2体育館、プールの取り壊し、体育館については敷地内新設が予定されている)。
- 正門以外からも何箇所かから入構できる。むしろ正門以外から通学する生徒の方が多いと思われる。特に柵や門などで仕切られているわけではないため、昔から夕方になると、犬の散歩などで校内を出入りする人も見受けられる。
- 創立100周年記念行事の一環として、校門のそばに勝利の女神像(サモトラケのニケ)が設置された。
- 行事
- 新入生に対して4月中の1週間、生徒会(応援団)による応援練習が行われる。指導される曲目は、校歌、凱歌松の緑、応援歌黒鉄(くろがね)の力、応援歌北風荒きなどに加え、コンバットマーチ、ダッシュ米東(ダッシュケイオウ)、コール米東(突撃のテーマ)、スパークリングマーチ、大進撃など、早稲田大学応援部、慶應義塾大学應援指導部から導入したマーチなどである。この応援練習を乗り越えて真の米東生になると言われる。特に2000年頃から、応援団による応援練習の在り方が問題視されるようになったが、学校側、歴代校長は「伝統の学校行事として欠かせない」旨の発言をし、存続している。
- 毎年春と秋に球技大会が行われる。第1回は1908年、第1グランドの全校生徒による整地事業の完成記念校内野球大会であり、2008年に100周年を迎えた。種目は現在、バスケットボール、バレーボール、ソフトボール、卓球、ソフトテニスである。また、強歩遠足、校内陸上競技大会も平成初め頃までは実施されていたが、週休2日制移行に伴う授業時間確保のため廃止された。春の遠足は行われている。
- 学校祭は校章からとって「柏葉祭」(はくようさい)と呼ばれている。以前より日程が短縮され、現在は文化の部が2日間、体育の部が1日間、計3日間にわたり8月下旬から9月上旬に開催される。各クラスが張り子、ユニフォームを制作する。
- 名物
- 同窓会
- 同窓会組織は「勝田ヶ丘(かんだがおか)同窓会」と称され、全日制はもとより、分離した定時制、通信制課程も含めた卒業生が加入している。東京、関西、東海などに支部を持つ。全日制は第1回卒業生から卒業期をカウントしており、2008年3月卒業生は第104期にあたる。校内に同窓会館(1階は学食)があり、寄贈品などの展示が行われている。
[編集] 出身者
[編集] 政治家
- 三好英之(北海道開発庁長官)
- 粟屋仙吉(原爆投下時の第18代広島市長 野球部OB・元主将、柔道部OB)
- 森田隆朝(元米子市長)
- 山内功(衆議院議員)
- 手島栄(郵政大臣、逓信次官)
- 福嶋浩彦(元我孫子市長)
- 湯原俊二(鳥取県議会議員)
[編集] 実業家
[編集] 学者
[編集] 文化人
[編集] 芸能人
- 桂小米
- ハセガワタカオ(P.I.MONSTERのボーカル) ※森下滋とHot Buttered Loveを結成している
- 渡部和正(俳優)
- 小鉄和広(バス歌手)
- 森下滋(ジャズ・ピアニスト・作編曲家)
- 松本茜(ジャズ・ピアニスト)
[編集] スポーツ選手
- 阿部信文(柔道)
- 湯浅禎夫(野球監督、選手):毎日監督
- 岡本利之(野球選手):ライオン。元野球部監督。1960年第32回選抜大会で準優勝
- 清水秀雄(野球選手):南海-中日-大洋
- 井上親一郎(野球選手):国鉄(初代主将)。元野球部監督
- 成田啓二(野球選手):国鉄
- 木下勇(野球選手):大阪-近畿日本-大陽-西鉄。元野球部監督
- 土井垣武(野球選手):大阪-毎日-東映-阪急
- 長谷川善三(野球選手):南海-大阪-西鉄-毎日-高橋
- 国頭光仁(野球選手):阪急
- 義原武敏(野球選手):巨人-近鉄
- 長島康夫(野球選手):富士製鉄広畑-姫路南高監督。1956年夏の甲子園ベスト4のエース。外地引き揚げによる年齢超過が認められる
- 宮本洋二郎(野球選手):巨人-広島-南海 1960年選抜準優勝時のエース。のち南海・広島コーチ
- 岩本紘一(野球選手):亜大-日本軽金属 元野球全日本。都市対抗に8年連続出場。元野球部監督
- 野口裕美(野球選手):西武
- 杉本真吾(野球指導者、解説者):慶應義塾大学新人監督・助監督-元野球部監督。NHKの甲子園解説者
- 塚野真樹(サッカー選手):神戸
[編集] その他
- 西田税(軍人、国家社会主義思想家 - 二・二六事件で指導的役割を果たした)
- 福留繁(連合艦隊参謀長)
- 稲田正純(陸軍中将)
- 佐々井秀嶺(インド仏教の代表的僧侶。師はビームラーオ・アンベードカル)
- まつもとゆきひろ(プログラミング言語「Ruby」の作者)
- 錦織敦史(GAINAXアニメーター)
- 宇田川修一(山陰放送アナウンサー)
- 大田祐樹(山陰放送アナウンサー)
[編集] 教員
- 門脇誠一郎(柔道家。中退)