明智光秀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
||||
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 | |||
生誕 | 享禄元年(1528年)?[1] | |||
死没 | 天正10年6月13日(1582年7月2日) | |||
改名 | 桃丸、光秀 | |||
別名 | 十兵衛(通称)、咲庵、惟任日向守、 金柑頭(仇名) |
|||
戒名 | 秀岳院宗光禅定門 | |||
墓所 | 滋賀県大津市の西教寺 | |||
官位 | 従五位下日向守 | |||
主君 | 斎藤道三→足利義輝?→朝倉義景 →足利義昭→織田信長 |
|||
氏族 | 明智氏(清和源氏土岐氏) | |||
父母 | 父:明智光綱、母:お牧の方 養父:明智光安 |
|||
兄弟 | 光秀、信教、康秀 | |||
妻 | 正室:妻木範煕の娘・煕子 | |||
子 | 光慶、筒井定頼、自然丸、乙壽丸、南国、 喜多村弥平兵衛、娘(津田信澄室)、 珠(細川忠興正室)、娘(明智光忠室)、 娘(筒井定次側室)、養女:綾乃(松平忠正 室→松平忠吉室→菅沼定盈正室)、革手 (荒木村次室→明智秀満室→酒井忠利室) |
明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代、安土桃山時代の武将。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。
正室は妻木勘解由左衛門範煕の娘煕子。2人の間には、織田信澄室、細川忠興室珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男光慶(十五郎)がいる。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 織田家仕官以前
清和源氏の土岐氏の支流明智氏に生まれ、父は明智光綱といわれる。生年は享禄元年(1528年)と大永6年(1526年)の2つの説がある。場所は岐阜県可児市明智の明智城、山県市美山出身という2つの説がある。幼名は桃丸。
青年期の履歴は不明な点が多いが、通説によれば、美濃国の守護土岐氏の一族で、戦国大名の斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三と義龍の争いの際、道三方に味方し、義龍に明智城を攻められ一族が離散したとされる。その後、母方の若狭武田氏を頼り、のち越前国の朝倉氏に仕える。なお、『永禄六年諸役人附』に見える「明智」を光秀と解し、美濃以後朝倉氏に仕えるまでの間、足利義輝に仕えていたとする説もある。
足利義昭が姉婿の武田義統を頼り若狭国に、さらに越前国の朝倉氏に逃れると、光秀は義昭と接触をもつ。光秀の母は武田義統の姉妹と伝えられ、また朝倉義景の母も若狭武田氏の出であり、それで義昭の接待役を命じられたものと考えられる。義昭は、朝倉に上洛を期待していたのであったが義景は動かず。そこで光秀を通して織田信長に対し、京都に攻め上り自分を征夷大将軍につけさせるよう要請した。光秀は、叔母が斎藤道三の夫人で、信長の正室である斎藤道三娘(濃姫)とは従兄妹関係にあった可能性があり、その縁を頼ったのだともいわれる。
[編集] 織田家臣時代
信頼できる史料によると、永禄12年(1569年)頃から木下秀吉(のち羽柴に改姓)らと共に織田氏支配下の京都近辺の政務にあたったとされる。義昭と信長が対立し始めると、義昭と袂を分かち信長の直臣となる。数々の戦功をあげ元亀3年(1572年)頃に近江国滋賀郡を与えられ、坂本城を築城してこれを居城とした。天正3年(1575年)には惟任(これとう)の姓、従五位下、日向守(ひゅうがのかみ)の官職を与えられ、惟任日向守と称す。
城主となった光秀は、石山本願寺や信長に背いた荒木村重、松永久秀を攻めるなど近畿の各地で転戦しつつ丹波国の攻略を担当し、天正7年(1579年)までにこれを平定。丹波一国を与えられて丹波亀山城・横山城・周山城を築城した。京に繋がる道の内、東海道と山陰道の付け根2つを与えられたことからも光秀が織田家にあってかなり重要なポストにあったことが伺える。また丹波拝領と同時に丹後の長岡(細川)藤孝、大和の筒井順慶ら近畿地方の織田大名の指揮権を与えられた。近年の歴史家はこの地位を関東管領になぞらえて「近畿管領」とも呼ぶ。天正9年(1581年)には京都で行われた信長の軍事デモンストレーションである「京都御馬揃え」の運営を任され、この職務を全うした。
[編集] 本能寺の変
詳細は本能寺の変を参照
天正10年(1582年)、羽柴秀吉の毛利征伐支援を命ぜられて出陣する途上の6月2日(西暦6月21日)早朝、桂川を渡り京へ入る段階になって光秀は「敵は本能寺にあり」と発言し、主君信長討伐の意を告げたといわれる。しかし本城惣右衛門覚書によれば雑兵においては信長討伐を目的としていたことを最後まで知らされてはいなかったことになる。かくして光秀は信長が宿泊していた京都の本能寺を二手に分けて急襲し信長を包囲。僅かな兵のみに守られていた信長を自害させた。また二条御所において、信長の嫡男の織田信忠や京都所司代の村井貞勝らを討ち取っている。
この本能寺の変で、自分を取り立てた主君である信長を討ち滅ぼしたために、謀反人として歴史に名を残すこととなった。しかし、信長の死体が消えたため、信長の首はとれなかった。一方で光秀の心情を斟酌する人間も少なくなく、変の背景が未だあいまいなことと相まって、後に良くも悪くも光秀に焦点をあてた作品が数多く作られることとなる。
[編集] 山崎の戦い
詳細は山崎の戦いを参照
京都を押さえた光秀だったが、協力を求めた細川藤孝や筒井順慶の光秀への対応は期待に沿うものではなかった。そしてみずからの新政権の統制を整備する間も無く、本能寺の変から11日後の6月13日(西暦7月2日)、変を知って急遽毛利氏と和睦し、中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる山崎にて迎撃した(山崎の戦い)。決戦に及んで彼我兵力差は、羽柴軍2万4,000(2万6,000~4万の説もあり)に対し明智軍1万2,000(1万6,000から1万8,000の説もあり)と言われている。兵数において劣るものの、明智軍は当時の織田軍団では最も鉄砲運用に長けていたと言う。そのため戦況が拮抗し合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率や周辺勢力の去就)が予想され、羽柴軍にとって決して楽観視できる状況ではなかった。
しかしながら羽柴軍が山崎の要衝天王山を占拠して大勢を定めるや、主君信長を殺した光秀に付く信長旧臣は少なく、兵数差を覆す事ができずに敗れた。 同日深夜、坂本を目指して落ち延びる途上の小栗栖(おぐるす、京都市伏見区)にて、落ち武者狩りの土民(小栗栖の長兵衛)に竹槍で刺し殺されたとされる(三日天下)。
「される」とするのは、光秀のものとされる首が夏の暑さで著しく腐敗し、本当に光秀かどうか確かめようがなかったからである(土民の槍で致命傷を負ったため、家臣の溝尾庄兵衛に首を打たせ、その首は竹薮に埋められたとも、坂本城又は丹波亀山の谷性寺まで溝尾庄兵衛が持ち帰ったとも言われている)。
[編集] 辞世の句
[編集] 人物・評価
西近江で一向一揆門徒と戦ったとき、明智軍の兵18人が戦死した。その後光秀は戦死者を弔うために、供養米を西教寺に寄進した。西教寺には当時の状態のままで寄進状が残されている。他にも光秀は戦で負傷した家臣への見舞いの書状が多数残されている。このような家臣への心遣いは、他の武将にはほとんどみられないものであった。こうした家臣を思う気持ちから、光秀直属の家臣は堅い忠誠を誓ったとされる。実際に、光秀の家臣団は、本能寺の変でも一人も裏切り者を出さず、山崎の戦いで劣勢にも関わらず奮戦したといわれている。山崎の戦い敗戦後の光秀を逃すために、家臣が二百騎ほどで身代わりとなって突撃を行ったという記録がある。
しかし、それらの記録のみで明智軍の将校の忠誠の向き(求心力)を括らず、別の考慮も必要とする。
- 明智軍の多くは信長より預けられた与力であり、与力たちにとっての主君はあくまで織田信長である事
- 変後の有力支持者が殆どいない事
- 変直後の明智軍内の混乱等
これらの事情から察するに、明智光秀の持つ求心力よりは、むしろ織田信長に象徴される体制の持つ引力のほうが強かったとの見方が出来る。
明智光秀と上級将校たちは、(結果論として)信長を討つ事で明智軍全体を共犯者に仕立て、軍団員が引くに引けない状況を作り上げることを意図していた可能性もある。
天正3年(1575年)の叙任の際に姓と官職を両方賜ったのは光秀・簗田広正・塙直政の三人だけである。この時点で既に官職を賜っていた柴田勝家・佐久間信盛は別としても、丹羽長秀・木下秀吉などより地位が高かったとみていい。当時織田家中で5本の指に入る人物であったことは疑いなく、簗田・塙は譜代家臣であることから考えても信長の信頼の厚さがうかがえる。
諸学に通じ和歌・茶の湯を好んでいた文化人であったこと、また内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたといわれ、現在も光秀の遺徳を偲ぶ地域が数多くある。
光秀は信長を討った後、上洛すると京周辺の朝廷や町衆・寺社などの諸勢力に金銀を贈与した。また、洛中及び丹波の地の地子銭(宅地税)の永代免除という政策を敷いた。これに対し正親町天皇は、変のあとわずか7日間の間に3度も勅使を派遣している。ただし、正親町天皇が勅使として派遣したのは吉田兼和である。吉田兼和は神祇官として朝廷の官位を受けてはいたが、正式な朝臣ではなかった。こうしたことから、この時に光秀が得ていた権威を事故的なものとし、状況の動静を冷静に見ていた朝廷の判断がうかがえる。
主君・織田信長を討った行為について当時から非難の声が大きく、そのために近代に入るまで"卑劣で陰湿な逆賊"としての評価が主だった。本能寺の変当日、織田信長は非武装の女子・共廻りを含めて100名ほどしかいなかった事、変後に神君徳川家康に伊賀越えという危難を味わった事等から、特に儒教的支配を尊んだ徳川幕府にておいてこのことは強調された。
『明智光秀公家譜覚書』によると、変後の時期に光秀は参内し従三位・中将と征夷大将軍の宣下をうけたとされる。
『老人雑話』は、以下の言葉を光秀の言葉として紹介している。曰く、『仏のうそは方便という。武士のうそは武略という。土民百姓はかわゆきことなり』。この言葉を、光秀の合理主義の表れであるという意見がある。例えば高柳光寿は著書『明智光秀』の中で、合理主義者同士、光秀と信長は気が合っただろうと述べている。
ルイス・フロイスの『日本史』に「裏切りや密会を好む」「刑を科するに残酷」「忍耐力に富む」「計略と策略の達人」「築城技術に長ける」「戦いに熟練の士を使いこなす」等の光秀評がある。鈴木眞哉・藤本正行は共著『信長は謀略で殺されたのか』の中で、フロイスの信長評が世間で広く信用されているのに対し、光秀評は無視されていると記し、光秀に対する評価を見直すべきではないかと問うている。
現代に至る亀岡、福知山の市街は光秀が築城を行ったことから始まる。光秀を偲んで亀岡では亀岡光秀まつりが行われている。福知山では「福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ」と光秀を思う福知山音頭が伝わっている。
[編集] 逸話
- 朝倉被官時代、有能さを朝倉直臣団に嫉妬され、そのため重く用いられなかったと言う。朝倉義景のもとを去って織田信長に仕えたのは、鞍谷副知なる者が義景に讒言し、それを信じた義景が光秀を冷遇したためとされる。
- 鉄砲の名手で、朝倉義景に仕官した際、一尺四方の的を25間(約45.5メートル)の距離から命中させたという。当時の火縄銃や弾丸の性能を考えると、驚異的な腕前である。そのほかにも、飛ぶ鳥を打ち落としたという逸話もある。
- 「一百の鉛玉を打納たり。黒星に中る数六十八、残る三十二も的角にそ当りける」(明智軍記)。
- 他に類を見ないほどの愛妻家としても知られており、正室である煕子が存命中はただ1人の側室も置かなかったと言われている。
- 婚約成立後、花嫁修業をしている際に煕子が疱瘡を患い、顔にアバタが残ってしまった。これを恥じた煕子の父は、光秀に内緒で煕子の妹を差し出すが、これを見抜いた光秀は「自分は他の誰でもない煕子殿を妻にと決めている」と言い、何事もなかったかのように煕子との祝言を挙げた。
[編集] 史跡
- 高野山奥の院に光秀の墓所があるが、何度補修してもよく亀裂が入るため、信長の呪いと地元で囁かれている。
- 三好宗三が和泉に勢力を誇っていたとき、その弟三好長円が大阪府泉大津市に「蓮正寺」を建て、境内に仁海上人が「助松庵」を建立し、その助松庵に光秀が隠棲したと口碑に伝えられている。大阪府高石市の「光秀(こうしゅう)寺」門前の由来によれば、その助松庵が現在の「光秀寺」の地に移転したと書かれており、門内の石碑には「明智日向守光秀公縁の寺」と書かれている。この地域に残る「和泉伝承志」によれば、本稿「山崎の戦い」に書かれている光秀とされる遺体を偽物・影武者と否定し、京都妙心寺に逃げ、死を選んだが誡められ、和泉貝塚に向かったと書かれている。光秀と泉州地域との関連では、大阪府堺市西区鳳南町3丁にある「丈六墓地」では、昭和18年頃まで加護灯篭を掲げ、光秀追善供養を、大阪府泉大津市豊中では、徳政令を約束した光秀に謝恩を表す供養を長年行なっていたが、現在では消滅している。
- 桑田郡(亀岡市畑野町)の鉱山へ度々検視に訪れていた光秀が峠にさしかかったとき、大岩で馬は足をとめた。光秀に鞭打たれた馬は、身をふるわせて“馬力”をかけ何度も蹄で岩をけり、登ったという。その足跡が「明智光秀の駒すべり岩」として伝えられた。しかし、その岩はゴルフ場が建設されたときに地中に埋められたという。[4]
- 光秀が愛宕百韻の際に亀岡盆地から愛宕山へ上った道のりは、「明智越え」と呼ばれ現在ではハイキング・コースになっている。
- 本能寺の変の際、摂丹街道まで行軍していた丹波亀山城からの先陣が京都へ向かって反転した法貴峠(亀岡市曽我部町)には、「明智戻り岩」が残されている。
- 溝尾庄兵衛が、光秀の首を持ち帰られたとされる谷性寺(亀岡市宮前町)には明智光秀公首塚がある。[5]
[編集] 光秀の謎
[編集] キリシタン説
光秀が用いていた印章は、キリスト教に関する模様が使われている事が判明している。また、娘の珠や、組下大名(寄騎)の高山右近と身近な人物にキリシタンが多いことからこの説を支持するものもいる。
[編集] 愛宕百韻の真相
愛宕百韻とは、光秀が本能寺の変を起こす前に京都の愛宕山(愛宕神社)で開催した連歌会のことである。
光秀の発句「時は今 雨が下しる 五月哉」をもとに、この連歌会で光秀は謀反の思いを表したとする説がある。「時」を「土岐」、「雨が下しる」を「天が下知る」の寓意であるとし、「土岐家出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるとしている。あるいは、「天が下知る」というのは、朝廷が天下を治めるという「王土王民」思想に基づくものとの考えもある。
しかし、愛宕百韻後に石見の国人福屋隆兼に光秀が中国出兵への支援を求める書状を送っていたとする史料[6]が近年発見されたことから、この時点では謀反の決断をしていなかったのではないかとの説も提示されている。
- なお、この連歌に光秀の謀反の意が込められていたとするなら、発句だけでなく、第2句水上まさる庭のまつ山についても併せて検討する必要があるとの主張もある。まず、「水上まさる」というのは、光秀が源氏、信長が平氏であることを前提に考えれば、「源氏がまさる」という意味になる。「庭」は、古来朝廷という意味でしばしば使われている。「まつ山」というのは、待望しているというときの常套句である。したがって、この第2句は、源氏(光秀)の勝利することを朝廷が待ち望んでいる」という意味になるという解釈がある。
[編集] 本能寺の変の原因
本能寺の変でなぜ光秀が信長に謀反をしたのか、さまざまな理由が指摘されているが、確固たる原因や理由が結論として出されているわけではない。以下に現在主張されている主な説を記す。
- 怨恨説
- 主君の信長は短気で苛烈な性格であったため、光秀は常々非情な仕打ちを受けていたのではないかと噂や作り話をされている。以下はその代表例とされるもの。
-
- 信長に酒を強要され、下戸の光秀が断ると「わしの酒が飲めぬか。ならばこれを飲め」と刀を口元に突き付けられた。
- 同じく酒席で光秀が目立たぬように中座しかけたところ、「このキンカ頭(禿頭の意)」と満座の中で信長に怒鳴りつけられ、頭を打たれた(キンカ頭とは、「光秀」の「光」の下の部分と「秀」の上の部分を合わせると「禿」となることからの信長なりの洒落という説もある)。
- 丹波八上城に人質として母親を預けて、身の安全を保障した上で降伏させた元八上城主の波多野秀治・秀尚兄弟を、信長が勝手に殺害。激怒した八上城家臣は母親を殺害してしまった(絵本太功記による創作)。
- 武田家を滅ぼした徳川家康の功を労うため、安土城にて行われた京料理での接待料理を任され、献立から考えて苦労して用意した料理を、「腐っている」と信長に因縁をつけられ捨てられた。魚が腐ってしまい安土城全体が魚臭くなってしまったからとの説もある。また、京料理独特の薄味にしたため、塩辛い味付けを好む尾張出身の信長の舌には合わなかったとも言われている。この一件により、すぐさま秀吉の援軍に行けと命じられてしまう。
- 中国2国(出雲国・石見国)は攻め取った分だけそのまま光秀の領地にしてもいいが、その時は滋賀郡(近江坂本)・丹波国は召し上げにする、と伝えられたこと。
- 武田征伐の際に、信濃の反武田派の豪族が織田軍の元に集結するさまを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言った所、「お前が何をしたのだ」と信長が激怒し、小姓の森蘭丸に鉄扇で叩かれ恥をかいた(明智軍記)。
- ルイス・フロイスも、信長が光秀を足蹴にした事があると記している。
- 桑田忠親は著書『明智光秀』で、独自の研究を基に「本能寺の変 怨恨説」を唱えた。
- 野望説
- 光秀自身が天下統一を狙っていたという説。この説に対しては「知将とされる光秀が、このような謀反で天下を取れると思うはずがない」という意見や、「相手の100倍以上の兵で奇襲できることは、信長を殺すのにこれ以上ないと言える程の機会だった」という意見がある。高柳光寿著『明智光秀』はこの説を採用している。
- ちなみに、佐久間信盛の追放に逆に光秀自身が関わっていた可能性もある。佐久間軍記には、この追放について誰かの讒言によるものとする可能性を示唆しており、また、寛政重修諸家譜の信栄(正勝)の項には「後明智光秀が讒により父信盛とともに高野山にのがる。信盛死するののち、右府(信長)其咎なきことを知て後悔し、正勝をゆるして城介信忠に附属せしむ。」とあり、もしも光秀が更なる出世欲等からこのような行為を行い、後の調査で信長がそれを知ったとしたら、何らかの罰を受けることになりそれを恐れて変に及んだ可能性もある。
- 恐怖心説
- 長年仕えていた佐久間信盛、林秀貞達が追放され、成果を挙げなければ自分もいずれは追放されるのではないかという不安から信長を倒したという説。
- あるいは、今までにない新しい政治・軍事政策を行う規格外な信長の改革に対し、光秀が旧態依然とした統治を重んじる考えであったという説。
- 将軍指令説 / 室町幕府再興説
- 光秀には足利義昭と信長の懇親役として信長の家臣となった経歴があるため、恩義も関係も深い義昭からの誘いを断りきれなかったのではないかとする説。
- 朝廷令旨説
- 「信長には内裏に取って代わる意思がある」と考えた朝廷から命ぜられ、光秀が謀反を考えたのではないかとする説。この説の前提として、天正10年(1582年)頃に信長は正親町天皇譲位などの強引な朝廷工作を行い始めており、また近年発見された安土城本丸御殿の遺構から、安土城本丸は内裏清涼殿の構造をなぞって作られた、という意見を掲げる者もいる。
- 近年、立花京子は「天正十年夏記」等をもとに、朝廷すなわち誠仁親王と近衛前久がこの変の中心人物であったと各種論文で指摘している。この「朝廷黒幕説」とも呼べる説の主要な論拠となった「天正十年夏記」(「晴豊記」)は、誠仁親王の義弟で武家伝奏の勧修寺晴豊の日記の一部であり、史料としての信頼性は高い。立花説の見解に従えば、正親町天皇が信長と相互依存関係を築くことにより、窮乏していた財政事情を回復させたのは事実としても、信長と朝廷の間柄が良好であったという解釈は成り立たない。三職推任問題等を考慮すると、朝廷が信長の一連の行動に危機感を持っていたことになる。
- 朝廷又は公家関与説は、足利義昭謀略説、「愛宕百韻」の連歌師里村紹巴との共同謀議説と揃って論証されることが多く、それだけに当時の歴史的資料も根拠として出されている。ただし、立花説では「首謀者」であるはずの誠仁親王が変後に切腹を覚悟するところまで追い詰められながら命からがら逃げ延びていること、「晴豊記」の近衛前久が光秀の謀反に関わっていたという噂を「ひきよ」とする記述の解釈(立花は「非挙(よくない企て)」と解釈しているが、これは「非拠(でたらめ)」と解釈されるべきであるとの指摘(津田倫明、橋本政宣ら)など問題も多い。
- 一時期は最も有力な説として注目されていたが、立花が「イエズス会説」に転換した現在、この説を唱える研究者はいない。現在の歴史学界では義昭黒幕説とともに史料解釈の曲解であるとの見解が主流となっている。
- 四国説
- 比較的新しい説とされるが、野望説と怨恨説で議論を戦わせた高柳・桑田の双方とも互いの説を主張する中で信長の四国政策の転換について指摘している。信長は光秀に四国の長宗我部氏を懐柔させるべく命じていた。そして光秀は斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせ婚姻関係を結ぶまでこぎつけたが、天正8年(1580年)に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更し光秀の面目は丸つぶれになった。大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって光秀(正確には利三)が本能寺を襲撃したとする。
- イエズス会説
- 信長の天下統一の事業を後押しした黒幕を、当時のイエズス会を先兵にアジアへの侵攻を目論んでいた教会、南欧勢力とする。信長が、パトロンであるイエズス会及びスペイン、ポルトガルの植民地拡張政策の意向から逸脱する独自の動きを見せたため、キリスト教に影響された武将と謀り、本能寺の変が演出されたとする説(『信長と十字架』)。この説には大友宗麟と豊臣秀吉の同盟関係が出てくるが、他にイエズス会内の別働隊が、キリシタン大名と組んで信長謀殺を謀ったとする説も出てきている。いずれも宗教上の問題以外に硝石、新式鉄砲等の貿易の利ざやがあったとされる。
- 諸将黒幕説
- 織田家を取り巻く諸将が黒幕という説。徳川家康や羽柴秀吉が主に挙がる。
- 家康の場合、信長の命により、長男信康と正室築山殿を自害させられたことが恨みの原因といわれている。後に家康が、明智光秀の従弟(父の妹の子)斎藤利三の正室の子である福(春日局)を徳川家光の乳母として特段に推挙している(実際に福を推挙したのは京都所司代の板倉勝重)。
- 秀吉の場合は、佐久間信盛や林秀貞達が追放され、将来に不安を持ったという説がある(中国大返しの手際が良過ぎることも彼への疑惑の根拠となっている)。
- 他に少数意見として、細川藤孝や織田信忠が黒幕という説もある。
- 補足
-
- 上記に加え、「本願寺黒幕説」や比較的近年の研究成果として「明智家臣団の国人衆による要請があったとする説」などもある。
- 信憑性はともかく、信長の革新的な様々な政策は、光秀の家臣団にも受け入れがたい点もあったと考えられる。信長の軍団・柴田勝家の北陸統治にみられるように、武士団にとって簡単に国替えを行うことは大きな負担と不安を与える事が考えられる。しかし、この国替えは信長自身も数度行っており、信長はそれらを解決するために家族そのものの移住等を行いその度にその国を発展させてきたが、信長にとっては大した事ではないが家臣にとっては難しい問題であったが故の摩擦となった可能性もある。明智氏やその家臣、従者に関わる口伝などはいくつか伝わっており、資料の少ない考証については、従来日の目をみる事のなかった、こうした信憑性について確定できない資料の分析を行っていく必要がある。
- 長年の恨み説の中で登場する八上城攻囲に関して、人質とされている光秀の母親が偽者(叔母)であったとする説もある。この偽物説は、過去いくつかの書籍で取り上げられていたが、丹波味土野には、口伝として光秀の母堂を隠しその身を守ってきたとする伝承があり、これに信をおくとすれば、長年の恨み説の中で八上城に関する部分は人質である叔母の犠牲は伴うものの、本能寺の変の原因の主因としては考慮からはずしてもよいことになる。
- これらの理由が決定的でない理由として、怨恨説は元になったエピソードが主として江戸時代中期以降に書かれた書物が出典であること(すなわち、後世の憶測による後付である。例えば、波多野秀治の件は現在では城内の内紛による落城と考えられており、光秀の母を人質とする必要性は考えられないとされている)、織田信長・豊臣秀吉を英雄とした明治以来の政治動向に配慮し、学問的な論理展開を放棄してきたことが挙げられる(ただし、ルイス・フロイスの記述など、明らかに同時代の資料も存在しない訳ではない)。
- 光秀は信長から浪人とは思えないほど取り立てられただけではなく、信長は石山合戦では1万5,000の兵に光秀が取り囲まれていたところを自ら前線に立ち傷を負いながらもわずか3,000ほどの兵で救出しており、この事からも光秀は信長からかなり眼をかけられていたようである。本能寺の変当時、光秀の領地は信長の本拠安土と京都の周辺で30万石とも50万石とも言われており、史上権力者が本拠地周辺にこれだけの領土を与えた事例は秀吉が弟秀長に大阪の隣地である大和に100万石を与えたくらいしかない。この配置を見ても、信長が相当の信頼を置いていたことがうかがえる(結果として、これが裏目に出てしまった)。また、『明智家法』には「自分は石ころ同然の身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という文も残っている。このことを根拠に「光秀は恩を仇で返した愚か者」と酷評する歴史研究家も存在する。
- 2007年に行われた本能寺跡の発掘調査で本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見され、本能寺を城塞として改築した可能性が指摘された。
- 本能寺の変はいずれにしても、知将と謳われた光秀にしてはあまりに稚拙とする意見も多い。光秀が変を起こした際、三法師(織田秀信)を保護しながら前田玄以や織田長益(有楽斎)らが京都から逃亡しているのも、それを証左している。
- 光秀は変の前に三回くじを引いたという逸話もあり、決心がつきかねていたのではないかとする者もいる。
- 「敵は本能寺にあり」と言ったのは光秀ではなく、後年、頼山陽が記した言葉である。
[編集] 南光坊天海説
光秀は小栗栖で死なずに南光坊天海になったという異説がある。天海は江戸時代初期に徳川家康の幕僚として活躍した僧で、その経歴には不明な点が多い。
異説の根拠として、
- 日光東照宮に光秀の家紋である桔梗の彫り細工が多数あること
- 日光に明智平と呼ばれる区域があること
- 徳川秀忠の秀と徳川家光の光は光秀、徳川家綱の綱は光秀の父の明智光綱、徳川家継の継は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないかという推測
- 光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っていること
- 学僧であるはずの天海が着たとされる鎧が残っていること
- 光秀の家老斎藤利三の娘が徳川家光の乳母(春日局)になったこと
- 光秀の孫(娘の子)にあたる織田昌澄が大坂の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されていること(天海が関わったかは不明)
などが挙げられている。
しかし、桔梗の紋は加藤清正など多くの武将が使用しており、光秀の紋とは限らないし、天海が一時期僧兵として鎧を着たことがあっても不自然ではない。比叡山の石碑に関しても後世の偽造との説も出ている。また、天海が明智光秀であるとすると、116歳(記録では108歳)で没したことになり、当時の平均寿命からみて無理が生じる。ただテレビ東京が特別番組で行った筆跡鑑定では、「極めて本人か、それに近い人物」との結果が出ている。
なお、僧と光秀の関係で言えば、光秀の子(とされる)・南国梵桂が建立した海雲寺→本徳寺(岸和田市)には光秀の唯一の肖像画が残されているが、この寺にある光秀の位牌の裏には「当寺開基慶長四巳亥」と刻まれている。この文言と位牌の関係については現時点では不明である(文言から「光秀は慶長年間まで生きていた」と主張する者もいる)。
[編集] 系譜
明智氏は『明智系図』によれば、清和源氏の一流摂津源氏の流れを汲む土岐氏の支流氏族。美濃国明智庄(現在の岐阜県可児市)より発祥。
- 父母
- 明智光綱
- お牧の方
- 兄弟
- 明智光秀
- 明智信教
- 明智康秀
- 妻
- 正室:妻木煕子
- 縁戚
- 子孫
[編集] 家臣
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
- 本能寺の変
- 明智秀満
- 明智光慶
- 明智光忠
- 妻木範煕
- 斎藤利三
- 細川ガラシャ
- 果心居士
- 西教寺
- 岐阜県可児市 - 明智光秀生誕の地とされ、連絡協議会もこの地で行なわれた。
- 京都府
- 本城惣右衛門覚書
- 八上城
- 神尾山城
[編集] 明智光秀を題材とした作品
[編集] 文学・戯曲など
- 絵本太功記(人形浄瑠璃)
- 井上靖『幽鬼』新潮社(文庫),1968年。短編集『楼蘭』に所収。
- 司馬遼太郎『国盗り物語』新潮社,1971年(文庫)
- 南条範夫『桔梗の旗風』文藝春秋
- 徳永真一郎『明智光秀』PHP研究所,1988年 ISBN 4569564054
- 早乙女貢『明智光秀』文藝春秋,1991年 ISBN 4167230240
- 遠藤周作『反逆』講談社,1991年(文庫)
- 浜野卓也『講談社 火の鳥伝記文庫 明智光秀—本能寺の変』講談社,1991年 ISBN 4061475789
- 桐野作人『反・太閤記—光秀覇王伝』学習研究社,1995年
- 山口敏太郎『是非に及ばず』青林堂,2006年 ISBN 44792603862
- 山口敏太郎『なにわの夢』青林堂,2006年 ISBN 4792603935
- 三浦綾子『細川ガラシャ夫人』
- 堺屋太一『鬼と人と―信長と光秀』
- 宝塚歌劇「ささら笹船」
- 戸矢学『天眼──光秀風水綺譚』河出書房新社,2007年
など多数
[編集] 映画
[編集] テレビドラマ
- 愛宕百韻や変の前に三回くじを引いたシーンが描かれた。
- NHK大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』(1992年、光秀:マイケル富岡)
- 放送当時の社会問題であった過労と不眠を本能寺の変の遠因の一つとしていた。信長(緒形直人)を討ち取ったことを知らされた光秀が「これでやっと眠れる」との言葉を漏らす。
- NHK大河ドラマ『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』(2002年、光秀:萩原健一)
- 信長(反町隆史)への恐怖心を本能寺の変の要因とした。
- テレビ朝日日曜洋画劇場特別企画『敵は本能寺にあり』(2007年、光秀:中村梅雀)
[編集] 漫画
- もとむらえり『愛しの焔~ゆめまぼろしのごとく~』(2007年~ FlexComixフレア連載)
[編集] ゲーム
[編集] 歌謡曲
- 浜北弘二『明智光秀』
[編集] 参考文献
- 谷口克広『信長軍の司令官』中央公論新社中公新書1782、2005年:ISBN 4-12-101782-X