明知遠山氏
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明知遠山氏(あけちとおやまし)とは、利仁流加藤氏一門美濃遠山氏の一派。飯羽間遠山氏とは同族である。恵那遠山氏とも呼ばれる。
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[編集] 概要
宝治元年(1247年)、加藤景廉の孫で、明知遠山氏の始祖・遠山三郎兵衛景重が明知城を築き、代々守護したと言われる(俗説に斎藤道三の親戚筋にあたる明智土岐家(土岐氏)より譲り受けたという説もある)。
明知遠山氏が飯羽間遠山氏とともに認知されたのは、三郎兵衛景重の末裔・遠山景行が自刃した後とされる。
[編集] 経歴
[編集] 中世
宝治元年(1247年)三郎兵衛景重が明知城を築き、代々守り抜いたとする。
岩村城主遠山景任(景行のいとこ)、苗木城主遠山友勝(景行の親族)、そして明知城主遠山景行を合わせて、美濃遠山氏の「三遠山」と呼ばれる。 この頃の明知遠山氏は、丸に二つ引き両の家紋を使用していた。
景行が明知城を守護していた頃、武田氏から織田氏に反乱したとき、飯羽間遠山氏と明知遠山氏の一派が生まれたとされている。
戦国時代には、甲斐、信濃を領する武田氏に属していたが、岩村城城主であった遠山景任が病死すると織田氏に仕えた。
元亀3年(1572年)12月、 武田氏の西上作戦が開始されると、織田氏方の遠山氏は攻撃を受け、上村合戦で景行は武田信玄の武将秋山信友の軍勢に破れ、明知城は陥落し、城主の景行は降伏を頑健として拒否し壮絶に自刃した。
以降は景行の子孫の内の一派が、相模に行き小田原の北条氏に仕えたが、他は武田氏に降伏し、仕えた。それ以外は引き続き織田家に残存した。
天正元年(1573年)5月 長篠の戦いで武田勝頼が信長に大敗すると、明智遠山氏の一派は徳川家康に仕えたと言う。
[編集] 近世・近代
慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦で石田三成を撃破した功績によって、所領を与えられ、明智遠山氏は東西に分かれる。
東の地区へ向かった一族は、のちに遠山景元を出生させるようになる。明智遠山氏の直系筋は西の地区へ向かい、松山城を構える伊予松山藩(愛媛県松山市)の藩主久松松平氏に仕え、この系統は200年間在続したという。
西地区へ向かった明知遠山氏は後に遠山九字直違の家紋を使用するようになる
一方、江戸時代に東の分家の後裔にあたる遠山景元が江戸町奉行に任命されてから遠山九字直違の家紋を使用するようになったと言われているが、遠山景元が遠山九字直違の家紋を使用していたという記録はない。
平成10年(1999年)に逝去した実業家のアール・エフ・ラジオ日本の会長であった遠山景久は、明知遠山氏の分家が使用していた遠山九字直違の家紋を使用していたという。
[編集] 遠山一門衆
本宗家の遠山繁衍と共にその有力な家を挙げる7人衆は、七遠山、または遠山七人衆と称された。
七遠山の内、下記に挙げる3人衆は、三遠山、または遠山三人衆と称された。
[編集] 庶家
- 相模遠山氏 : 遠山康光(直景の孫、綱景の子)は、相模国足柄郡川村郷にある川西村新庄城の城主。
- 武蔵遠山氏 : 遠山直景(明知遠山氏10代目とする景保の子)は武蔵国に在住した遠山氏の当主。
- 伊予遠山氏 : 遠山景延は、小牧・長久手の戦いで徳川家康から感状を得て、伊予今治藩久松松平氏に仕え、重臣の座に就く。
- 信州遠山氏 : 遠山景広は、信州伊那郡江儀庄に住居し、この遠山氏は江儀遠山氏とも呼ばれた(「伊那旧事記」より)。
- 長岡遠山氏 : 遠山吉兵衛は遠山景利の末裔。景利が榊原康政に仕え、400石の扶持を得た。後に主家の榊原家と共に越後長岡藩の転封に随行。館林遠山氏とも呼ばれる。
[編集] 系譜
景成 ┃ ┃ 景行 ┃ ┣━━━┓ ┃ ┃ 利景 景玄 ┃ ┃ 一行