飯羽間遠山氏
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飯羽間遠山氏(いいはざまとおやまし)は、鎌倉時代の末期に美濃国土岐(岐阜県恵那市岩村町)を本拠とした利仁流加藤氏の一族。苗木遠山氏の同属によって管理された城である。
[編集] 概要
文治元年(1185年)に源頼朝の重臣・加藤景廉(岩村城の創造者)が遠山庄地頭に赴任し、景廉の子の景朝は地名をとって遠山氏と改姓した。
鎌倉時代に遠山氏は、この岩村遠山氏・苗木遠山氏・明知遠山氏とともに分岐したと伝わる。
文保2年(1318年)頃に誕生したと伝わる飯羽間に居館を構え、まず城砦の山城を築き、大きな規模を持つ飯羽間城を構築した。
室町時代、遠山一族は室町将軍(足利氏)に直属する有力な奉公衆となる。
長享元年(1487年)に足利義尚将軍が六角氏を討った時、美濃遠山勢はこれに従う(「遠山氏族着到帳」)。
上村合戦に参加した当時の飯羽間城の城主は、飯羽間遠山氏の代表者の遠山勘太郎直廉とする(「寛永諸家系図」)。
[編集] 美濃苗木藩
遠山友勝(勘太郎直廉?)は、飯場城(飯羽間城)を住居とするが、織田信長の命により苗木城に移り、飯場城を嫡子遠山友忠に譲る。
信長の妹婿に当たる友忠は、飯場城を住居として、嫡子遠山友信(友政)(信長の甥)に城を譲り、明照城に移り、後に苗木城に移城する。また、友信の姉は伯父信長の養女として、武田勝頼に嫁ぎ武田信勝を産んだ。
友信は、飯場城を住居とするが、後に反乱を起こしたという理由で、大伯父の信長によって誅せられたというが、これは明らかに間違いである。
友信は、伯父信長の死後、羽柴秀吉・徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いで大活躍し、美濃苗木藩1万500石の初代藩主となり、嫡子の遠山秀友に譲り、64歳で没した。
美濃苗木藩は幕末まで在続し、明治維新を迎えると華族に列せられたという。
[編集] 歴代人物
- (遠山景朝)
- (遠山景重)