猪飼昇貞
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猪飼 昇貞(いかい のぶさだ、生没年不詳)は、戦国時代・安土桃山時代の武将である。 通称甚介、姓は「猪飼野」とも。 実名は、「定尚」や「正勝」が伝わるが、署名によって確かめられるのは「昇貞」である。
父は「猪飼家系譜之図」(高島幸次「近江竪田の土豪猪飼氏について」所収)によると、猪飼野佐渡守宣尚。
子に猪飼秀貞(明智光秀に仕え、明智姓の明智半左衛門秀貞という名を賜り、その後は丹羽長秀の臣を経て、家康に仕え遠江・駿河にて四百九十石の知行を与えられている)がいる。
[編集] 略歴
志賀郡堅田の郷士。もともとは六角氏家臣。
浅井氏に属したが、1570年の織田信長の上洛戦志賀の陣終結以後は、同じ堅田衆の居初又次郎・馬場孫次郎と共に信長に降る。 以後は逆に浅井氏の警戒に当たった。 1570年(元亀元年)11月、織田家から派遣された坂井政尚らと共に物流を押さえる為に堅田を守備したが、前波景当率いる朝倉軍の攻撃をうけた為、応戦するも坂井政尚は戦死、 昇貞らも逃亡している。
その後、信長に志賀郡を与えられた明智光秀の麾下となり、志賀郡の一職支配を任せられ、 琵琶湖の水運・漁業を統轄するなど、かなり独立した権限を持っていた様子で、 朽木元綱らと共に、高島郡の信長蔵入地の代官も務めていた。
元亀3年(1572年)7月には、明智勢として浅井方の沿岸拠点へ向けて放火・銃撃を行っている。
天正10年(1582年)4月22日付の昇定下代による伊崎立場の猟場米請取状以降、消息を絶っており資料などにも掲載されていない為、 本能寺の変に際し、光秀方に加担し戦死したものと推測される。