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高山右近 - Wikipedia

高山右近

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高山右近 凡例
マニラ時代(最晩年)の高山右近肖像。
時代 戦国時代から安土桃山時代
生誕 天文21年(1552年
死没 慶長20年1月8日1615年2月4日))
別名 彦五郎、右近大夫、右近允、右近助、
南坊等伯、友祥、長房、重友。
霊名 ドン・ジュスト
官位 従五位下大蔵少輔
主君 松永久秀和田惟政荒木村重
織田信長豊臣秀吉前田利家
利長ジュアン・デ・シルバ
氏族 高山氏
父母 父:高山友照
兄弟 右近、太郎右衛門、女子(和田惟政室)
正室:黒田氏の娘・ジュスタ
長房、忠右衛門、亮之進、ルチヤ

高山 右近(たかやま うこん)は、安土桃山時代江戸時代の武将。代表的なキリシタン大名として知られる。

目次

[編集] 呼称

友祥(ともなが)、長房(ながふさ)又は重友(しげとも)など複数伝わり、判然としない。通称は彦五郎。有名な右近の呼び名は私的な名で、正式な官位としては大蔵少輔までなっている。洗礼名ユスト茶道を究めた右近は「南坊」と号し、千利休の七高弟(利休七哲)の一人としても知られる。この項目での呼称は右近で統一する。

[編集] 生涯

[編集] 生い立ち

高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主である。出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つともいわれる。父の友照(飛騨守を自称)が当主のころには当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、長慶の重臣松永久秀にしたがって大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原区)を居城とした。

そうした中、天文21年に右近は友照の嫡男として生まれた。後世キリシタンとして有名となる右近であるが、早くも永禄7年(1564年)に12歳でキリスト教洗礼を受けている。それは父が奈良で琵琶法師だったイエズス会員ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためであった。父の洗礼名はダリヨ、右近はポルトガル語で「正義の人」を意味するユスト(ジュストとも)。

城跡公園にある高山右近の銅像
城跡公園にある高山右近の銅像

しかし、三好氏は当主長慶が永禄7年に没すると内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津においても豪族の池田氏・伊丹氏などが独自の力を強めつつあった。そうした中、永禄11年(1568年)に織田信長の強力な軍事力の庇護の下足利義昭将軍となると状況は一変する。義昭は土着の領主の一つである入江氏を滅ぼすと直臣である和田惟政高槻城に置き、さらに彼に伊丹親興・池田勝正を加えた三人を摂津の守護に任命した。高山親子は和田惟政に仕えることとなったが、領域の狭い摂津をさらに分割統治する体制がうまくいくわけもなく、摂津は大きく混乱する。まず元亀2年(1571年)、和田惟政が池田氏の被官・荒木村重の軍に敗れて討死、まもなくその村重が池田氏そのものを乗っとる。荒木村重は織田信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼす。こうして摂津は本願寺が領有する石山周辺(現在の大阪市域)を除き、荒木村重の領有となった。

こうした状況下で、高山親子はうまく立ち回る。和田惟政の死後、高槻城はその子惟長が城主となっていたが、まだ幼かった。そこで高山親子は元亀4年(1573年)4月、高槻城を乗っ取り、自ら城主となった。惟長が暗愚であったためともいわれるが、高山親子が荒木村重と示し合わせた上での下剋上ともいわれ、荒木の重臣であった中川清秀が高山氏にごく近い親族であったことからも、後者の可能性は高い。高山親子は荒木村重の支配下に入り、村重がすでに信長から摂津一円の支配権を得ていたことからこの事件は黙認され、高山親子は晴れて高槻城主となることができた。まもなく高槻城の修築工事を行い、石垣が塗り壁など当時畿内で流行しつつあった様式を取り入れた。右近は高槻城を乗っ取る際、惟長と切り合って瀕死の重傷を負うが、奇跡とも言える回復を遂げた。右近はこの機を境にキリスト教へ傾倒するようになった。このときまでは、父・友照ほど熱心ではなかったというが、生死の境を彷徨ったことで何か悟るものがあったのだろう[要出典]

ただしこうした戦国乱世を地でいくようなことをしつつも、高山親子はいっそうキリシタンに傾倒していく。特に父友照は50歳を過ぎると高槻城主の地位を息子の右近に譲り、自らはキリシタンとしての生き方を実践するようになった。この時代、友照が教会建築や布教に熱心であったため、領内の神社仏閣は破壊され神官僧侶は迫害を受けた。父の生き方は当然息子の右近に大きな影響を与えた。

[編集] 荒木村重の反乱

荒木村重錦絵図
荒木村重錦絵図

天正6年(1578年)、右近が与力として従っていた荒木村重が主君織田信長に背いたのである。村重の謀反を知った右近はこれを翻意させようと考え、妹や息子を有岡城に人質に出して誠意を示しながら村重謀反を阻止しようとしたが失敗した。右近は村重と信長の間にあって悩み、尊敬していたイエズス会オルガンティノ神父に助言を求めた。神父は信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよとアドバイスした。

高槻城は要衝の地であったため、信長はここをまず落とそうとした。そこで信長の考えた作戦は右近を苦悩させる。右近が金や地位では動かないことを知っていた信長は、右近が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させるといってきたのである。

城内では徹底抗戦を訴える父友照らと開城を求める派で真っ二つとなった。ここにいたって右近は、城主を辞し、財産も地位も家族もすべてを捨てて紙衣一枚で城を出て、信長の前に立ったのである。結果として家族や家臣はじめ、村重側に出していた人質もすべて助かり、荒木勢の敗北の大きな要因となった。この功績を認めた信長によって、右近は再び高槻城主としての地位を安堵された上に、2万石から4万石に加増される異例の措置を受けた。

[編集] キリシタン大名として

天正10年(1582年)6月に本能寺の変で信長が没すると、明智光秀は右近の協力を期待していたようだが、右近は高槻に戻ると秀吉の幕下にかけつけた。まもなく起こった山崎の戦いでは先鋒を務め、中川清秀、池田恒興と共に奮戦、明智光秀を敗走させ、清洲会議でその功を認められて加増された。また、本能寺の変後の動乱で安土が焼けると安土のセミナリヨを高槻に移転した。賤ヶ岳の合戦では岩崎山を守るものの、柴田勝家の武将・佐久間盛政の猛攻にあって親族の中川清秀は討死、右近はやっとのことで羽柴秀長の陣まで撤退して一命を保った。その後も小牧・長久手の戦いや四国征伐などにも参戦している。

右近は人徳の人として知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなった。たとえば牧村正春、蒲生氏郷黒田孝高などがそうである。細川忠興前田利家は洗礼を受けなかったが、右近に影響を受けてキリシタンに対して好意的であった。

羽柴秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石に新たに領地を6万石与えられた。しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行される。秀吉の側近の黒田孝高が真っ先に棄教するなどキリシタン大名には苦しい状況となるが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせた。その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島肥後などに隠れ住むが、天正16年(1588年)に加賀国金沢城主の前田利家に招かれて同地に赴き、そこで1万5千石の扶持を受けて暮らした。金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったともいわれる。また利家嫡男の前田利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になったと思われる。慶長14年((1609年)には、利長の隠居城・富山の炎上により、越中射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したといわれる。

[編集] 国外追放

慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近はキリシタン追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去した。長崎から家族とともに追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着した。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペイン人総督、ジュアン・デ・シルバらから大歓迎を受けた。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため62歳の右近はすぐに病を得て、翌年の2月4日に息を引き取った。享年64。

葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会で盛大に行われた。右近の死後、その家族は日本に帰国し、現在石川県羽咋郡志賀町代田大分県大分市に直系子孫の2つの「高山家」がある。

[編集] 系譜

  • 兄弟
    • 高山右近(長房、重友)
    • 高山太郎右衛門
  • 姉妹
  • 息子
    • 嫡男:高山長房(十次郎、左近、ジョアン)
    • 次男?:高山忠右衛門 - 妻は永原重信の三女、亮之進と同一人物?
    • 次男?:高山亮之進(助之進) - 大友義統に頼る[要出典]大分県の高山家の祖。
    • ルチヤ - 横山康玄と婚姻、後に離縁。
    • 高山長房(フランシスコ) - 十次郎長房(ジョアン)の子
    • 高山八左衛門 - 忠右衛門の長男
  • 子孫
    • 石川県高山家
      • 長房(フランシスコ)-有道-得重…右中-節庵-豊機-久太郎
    • 大分県高山家

[編集] エピソード

  • 羽目を外さない非常に真面目な人物だったらしく、秀吉を始めとする諸将がそのことを褒め称える証言や数々のエピソードが残されている。織田有楽斎の「喫茶余禄」による右近の茶道の評価は「作りも思い入れも良いが、どこか『清(きよし)の病い』がある」というものだった。
  • ルイス・フロイスの「日本史」によると、高槻城下である村人が亡くなった時、当時は賎民の仕事であった棺桶を担ぐ仕事を率先して引き受け、領民を感動させたという。
  • バテレン追放令が出たときのこと。秀吉は右近の才能を惜しみ、茶道の師匠である千利休を遣わせてキリスト教の棄教を促したが、主君の命令に背いても志を変えないのが真の武士であると答え、利休に説得を諦めさせた。

[編集] 関連項目


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