ロレンソ了斎
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ロレンソ了斎(-りょうさい 1526年-1592年2月3日)は戦国時代後期に活躍した日本人イエズス会員。琵琶法師であったがフランシスコ・ザビエルに出会って洗礼を受けた。名説教家として知られた彼は精力的な布教活動を行い、当時の日本におけるキリスト教の拡大に大きな役割を果たした。ロレンソともいわれ、ロレンソ了西と表記されることも。
[編集] 生涯
肥前白石(現在の平戸市)出身の了斎は、目が不自由であったため、琵琶法師として生計を立てていた。彼の人生に転機が訪れるのは、1551年(天文20年)のことである。彼は山口の街角でたどたどしい日本語を話す男の声を聞いた。その声の主こそはフランシスコ・ザビエルであった。ザビエルの話を聞いていくうちに了斎は話の内容に不思議な魅力を感じるようになっていった。キリスト教についてのさらに深い説明を聞いた了斎はザビエルの手によって洗礼を授けられ、ここにロレンソという洗礼名を受けた。以後、ロレンソと呼ばれることになる彼はキリスト教布教に生涯を捧げることになる。
ザビエルが日本を離れた後もロレンソはイエズス会の宣教師たちを助けて働き、1559年(永禄二年)、コスメ・デ・トーレスの命を受け、ガスパル・ヴィレラと共に京に入ったロレンソは、苦労の末に将軍足利義輝に謁見し、キリスト教布教許可の制札を受けた。また、二人は当時の京都の実質的な支配者だった三好長慶にも会って布教許可を得ることができた。
さらにキリスト教に対し好意的でないという評判のあった松永久秀が、宗論のためにヴィレラを自らの領地である奈良に招いた時には、ヴィレラ自身が赴くのは危険すぎるということでロレンソが派遣された。ここでロレンソは理路整然と仏僧を論破し、その疑問にことごとく答えた。論議の審査のため、その場に居合わせた高山友照はこれに感心し、自らの城にロレンソを招き、さらに教えをこうた。このような経緯をへて高山友照は息子高山右近や家臣などと共にヴィレラから洗礼を受けた。
1563年(永禄六年)に正式にイエズス会に入会、修道士(イルマン)となった。
1565年(永禄八年)には九州に赴いて宣教活動を行い、1569年(永禄十二年)に再び畿内へ戻った。ここで織田信長から布教の許可を得ることができ、ルイス・フロイスとともに信長の面前で反キリシタンの論客であった朝山日乗(日乗上人)という僧と議論を行い、これを論破している。このとき、日乗は逆上して刀を持ち出したところを信長の家来に取り押さえられている。
1587年(天正十五年)に伴天連追放令を受けて九州へと移り、1592年(文禄元年)に長崎で逝去した。
琵琶法師として日本の伝統文化や仏教・神道の知識が深かったロレンソは、その知識を生かしてキリスト教を布教し、戦乱の世にあって救いを求め、キリスト教の教えを知ろうとした多くの人々の疑問に答えた。当時の畿内や九州で多くの洗礼者が出たことはロレンソの布教活動に負うところが大きい。