東京都第1区 (中選挙区)
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東京都第1区(とうきょうとだい1く)は、かつて存在した衆議院の選挙区。1947年の第23回衆議院議員総選挙から設置された。廃止時の定数は3。1964年の公職選挙法改正により、同区の一部は新設された東京都第8区として分区され、その際に定数は4から3へと変更された[1]。1994年の公職選挙法改正によって廃止され、旧東京1区地域は現在の衆議院小選挙区で東京都第1区にそのまま移行された。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 地勢
東京都東部、東京特別区(23区)の中心地域の選挙区である。千代田・港・中央の都心3区の他、副都心として発展した新宿区、文教施設の多い文京・台東両区などを含み、都市型選挙区の性格を持つ。また、国会議事堂をはじめ、皇居・最高裁判所・東京都庁舎・各政党本部・官庁街などが立地する、日本政治の中心地域の選挙区でもある。
選挙区設定後、第二次世界大戦に伴う東京からの疎開住民の帰還や日本の高度経済成長による移住者の増加によって選挙区内の人口が急増し、1964年には定数増に伴う分区が行われた。しかし、1970年代以降は地価の急騰などにより、就業する昼間人口は増加する反面、定住する夜間人口やこれに基づく有権者数は減少するという現象が発生した[2]。この状況に対し、定数是正問題と絡めて、昼間人口にも配慮した定数配分を求める意見も上がっていたが[3]、国会内の多数とはならず、昼間人口と比較すると極端に少ない定数配分での選挙が続けられた。
多くの事業所に選挙区外から通勤し、膨大な昼間人口の大半を占めるホワイトカラー労働者は同区での選挙権を持たない。従って同区の有権者は、戦前からこの地域で商売を行いながら居住する中小の商工業者、あるいは新宿区などに移住してきた勤労者や学生が多くなる。
[編集] 結果
首都東京のトップナンバー選挙区として各選挙で高く注目され続け、各党も幹部クラスや知名度の高い候補を擁立して[4]、同区での勝利に力を入れた。
当初、この地域は都市労働者の支持を得た革新勢力の力が強く、最初の1947年・第23回衆議院議員総選挙では浅沼稲次郎・原彪の日本社会党が2議席、野坂参三の日本共産党が1議席を獲得する革新優勢の結果となった[5]。野坂は続く1949年の第24回総選挙でトップ当選となったが、1950年に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)から公職追放処分(レッドパージ)を受けて失職した[6]。
1950年代の4回の総選挙では共産党が議席を失い[7]、1955年に自由民主党へ統合された保守勢力と、右派の浅沼と左派の原が議席を確保した社会党が2議席ずつを分け合った。保守側では1952年の第25回総選挙で戦争直後の公職指定が解除された鳩山一郎と安藤正純という2人の大物政治家が議席を占め[8]、特に1955年の第27回総選挙では総理大臣になった鳩山と右派社会党書記長の浅沼が争う党首対決となったが、鳩山がトップ当選となった[9]。
この状況を変えたのが麻生良方だった。浅沼の秘書だった麻生は1959年に民主社会党の結党に参加し、1960年の第29回総選挙で民社党公認で立候補して社会党委員長となった浅沼と対決した。この選挙の公示前に浅沼が赤尾敏が率いる大日本愛国党の元党員だった少年に刺殺される暗殺事件が発生し、社会党は妻の浅沼享子を擁立して原との2議席を守り[10]、麻生は次点に終わった。しかし、続く1963年の第30回総選挙で当選し、1期で引退した浅沼享子の議席を引き継げなかった社会党が後退した。
1967年の第31回総選挙からは分区後の新区割りで選挙が行われた東京1区は、定数3を巡って各党が競う激戦区になった。自民党は安藤の死後の第27回総選挙から当選を続けた元警視総監の田中栄一に続く2人目の議員を出せず、社会党[11]は広沢賢一が1969年の第32回総選挙で落選して、遂に同選挙区での議席が無くなった。広沢に代わったのは公明党の渡部通子だったが、以後2度の総選挙で敗れ、1979年の第35回総選挙で初出馬・初当選した同党の大内良明も3回当選の反面2度落選して、選挙上手といわれて候補当選率の高い同党の中では例外となった。共産党は全国で躍進した1972年の第33回総選挙で紺野与次郎が当選して議席を奪回したが、これも1期で終わった[12]。民社党の麻生は第33回総選挙で落選し、政界引退を表明してテレビ番組などで評論活動をしていたが、1976年の第34回総選挙に「完全無所属」を宣言して同区から返り咲いた。
この中、都心のドーナツ化現象によって選挙区内の人口、特に労働者の有権者が減少し、全体の年齢が高齢化した事は、同区での投票行動を保守化し、自民党に有利、社会党に不利に働くと分析された。自民党は第34回総選挙で新人の与謝野馨と大塚雄司が当選し、分区後初めて2議席を得た。続く1979年の第35回総選挙では与謝野が落選したが、1980年の第36回総選挙では再び2人当選に成功し、以後は共に当選を重ねた。一方、伝統の東京1区の議席を守りたい社会党は第35回総選挙で飛鳥田一雄委員長を同区から立候補させ[13]トップ当選に成功したが、次の第36回総選挙では第24回総選挙の片山哲以来、史上2人目の同党委員長落選の危機が迫り、107人が当選した同党の候補で最後に当選確実が伝えられるほどの辛勝だった[14]。1983年に飛鳥田が委員長を辞任して議員引退も表明すると、同年の第37回総選挙で社会党は佐々木秀典を擁立したが落選し、議席を再び失った[15]。1990年の第39回総選挙で「マドンナ旋風」に乗る社会党は鈴木喜久子をトップ当選させ、17年ぶりに議席を得たが、同党が惨敗した1993年の第40回総選挙では落選した。
この第40回総選挙で吹き荒れた「新党ブーム」はこの東京1区でも起こった。テレビなどで活躍する経済評論家の海江田万里が日本新党から出馬してトップ当選を決め、3位では新生党公認を得た柴野たいぞうが初当選した。この煽りで、自民党では大塚が7選を阻まれ、14年ぶりの1人当選(与謝野)となった。そして、海江田・与謝野・柴野の3人が、同じ区割りで小選挙区制に移行した新たな東京1区で1996年の第41回総選挙を争う事になった。
なお、東京1区は他の選挙区に比較して、当選の可能性がほとんど見込めない、いわゆる泡沫候補が多く出馬する選挙区でもあった。衆議院議員経験のある赤尾敏や平井義一[16]の他、深作清次郎・南俊夫・太田竜・東郷健などが諸派ないし無所属で立候補したが、当選からは遠かった。第39回総選挙ではオウム真理教が組織した真理党から教祖・松本智津夫(麻原彰晃)の妻の松本知子が立候補したが、惨敗している。
[編集] 当選者
- 原彪(日本社会党→左派社会党→日本社会党:1947、1949、1952、1953、1955、1958、1960、1963年)
- 浅沼稲次郎(日本社会党→右派社会党→日本社会党:1947、1949、1952、1953、1955、1958年)
- 野坂参三(日本共産党:1947、1949)
- 櫻内義雄(民主党:1947)
- 井手光治(民主自由党:1949)
- 野村専太郎(民主自由党:1949)
- 鳩山一郎(分党派自由党→日本民主党→自由民主党:1952、1953、1955、1958年)
- 安藤正純(自由党→日本民主党:1952、1953、1955年)
- 田中栄一(自由民主党:1958、1960、1963、1967、1969、1972年)
- 安井誠一郎(自由民主党:1960年)
- 浅沼享子(日本社会党:1960年)
- 麻生良方(民主社会党→無所属:1963、1967、1969、1976年)
- 広沢賢一(日本社会党:1967年)
- 渡部通子(公明党:1969年)
- 紺野与次郎(日本共産党:1972年)
- 与謝野馨(自由民主党:1976、1980、1983、1986、1990年)
- 大塚雄司(自由民主党:1976、1979、1980、1983、1986、1990年)
- 飛鳥田一雄(日本社会党:1976、1979、1980年)
- 大内良明(公明党:1979、1983、1986年)
- 鈴木喜久子(日本社会党:1990年)
- 海江田万里(日本新党:1993年)
- 柴野たいぞう(新生党:1993年)
[編集] 廃止時の選挙区域
※自治体の名称は第40回衆議院議員総選挙時点のものである。
[編集] 1947-91年に東京1区に含まれた地域
[編集] 1947-64年に東京1区に含まれた地域
[編集] 選挙結果
当落 | 得票 | 候補者 | 年齢 | 政党 | 経歴 |
---|---|---|---|---|---|
当 | 63,939 | 海江田万里 | 日本新党 | 新 | |
当 | 39,867 | 与謝野馨 | 自由民主党 | 前 | |
当 | 34,784 | 柴野たいぞう | 新生党 | 新 | |
28,382 | 大塚雄司 | 自由民主党 | 前 | ||
26,711 | 鈴木喜久子 | 日本社会党 | 前 | ||
24,542 | 筆坂秀世 | 日本共産党 | 新 | ||
530 | 今泉雲海 | 無所属 | 新 | ||
450 | 東郷健 | 雑民党 | 新 | ||
118 | 浅野光雪 | 諸派 | 新 |
当落 | 得票 | 候補者 | 年齢 | 政党 | 経歴 |
---|---|---|---|---|---|
当 | 72,117 | 鈴木喜久子 | 日本社会党 | 新 | |
当 | 63,284 | 与謝野馨 | 自由民主党 | 前 | |
当 | 51,940 | 大塚雄司 | 自由民主党 | 前 | |
43,321 | 大内良明 | 公明党 | 前 | ||
23,754 | 筆坂秀世 | 日本共産党 | 新 | ||
1,188 | 久保田孝 | 無所属 | 新 | ||
341 | 太田竜 | 地球維新党 | 新 | ||
276 | 松本知子 | 真理党 | 新 | ||
187 | 清原淳永 | 諸派 | 新 | ||
169 | 木本幸雄 | 日本国民権利擁護連盟 | 新 |
[編集] 備考
- ^ 実質的には8区の定数3と合わせ、2人増。8区は1986年の同法改正で定数2へ1人削減された。
- ^ 例えば、千代田区では2000年のデータとして昼間人口855,172人、夜間人口36,035人(昼間が夜間の23.7倍)という調査結果が同区のホームページで紹介されている[1]。
- ^ この要求は東京都議会での定数是正問題でより強かったが、実現しなかった。
- ^ 例えば、浅沼の自宅は東京都江東区にあり、飛鳥田は地盤の横浜から移動しての立候補となった。
- ^ 保守唯一の当選者は民主党の櫻内義雄。櫻内は第24回選挙で落選し、その後参議院の島根県選挙区、さらに衆議院の島根県全県区に転じた。
- ^ その後、参議院の東京都選挙区で当選。
- ^ 同党は第27回の宮本顕治をはじめ、細川嘉六や聴涛克巳などの党内有力者を擁立したが、当選ラインには遠かった。
- ^ 2人とも衆議院議員在職中に死去。
- ^ 浅沼は最下位当選(4位)。また、六全協で武装闘争路線の放棄を決定する直前の共産党から出馬した宮本は立候補者7人中の最下位。逆に、1958年の第28回総選挙では社会党書記長(ナンバー2)の浅沼(2位)が首相退任後の鳩山(4位)を抑えたが、トップ当選は安藤の死去後に自民党新人の田中に譲った。
- ^ トップ当選は初代東京都知事だった自民党新人の安井誠一郎。
- ^ 原は分区後の東京8区に移ったが落選し、引退。
- ^ その後、同党は弁護士の平山知子や、後に参議院議員になる筆坂秀世を擁立したが、当選は出来なかった。
- ^ 飛鳥田は横浜市長を辞任して中央政界に戻ったため、かつての地盤の神奈川1区からの出馬が困難だった。
- ^ この際、「俺が苦戦するのもしょうがねえや、ろくに地元にいねえんだもんな」という飛鳥田の言葉が報じられている。
- ^ 佐々木は第39回総選挙で北海道2区から当選した。1986年の第38回総選挙で同党公認だった元参議院議員・東京都知事選候補の和田静夫も、同選挙で埼玉1区で当選した。
- ^ 赤尾は戦時中の1942年・第21回総選挙で旧東京6区から当選1回、平井は1948年から1960年まで福岡4区から通算5回当選している。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- ザ・選挙 -JANJAN全国政治家データベース-
(文中の選挙結果はここから引用)
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地方の区分は現行の衆議院比例代表のブロックに基づく。 1992年12月の公職選挙法改正で奄美群島選挙区は鹿児島県第1区に編入され廃止。 |