広島抗争
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広島抗争(ひろしまこうそう)は、1946年から1972年に掛けて広島県で起こった暴力団抗争事件の総称。第一次広島抗争から第三次広島抗争まで、3つの抗争事件がある。
第一次広島抗争とは、2つの抗争事件を指す。一つは、広島市内で起こった岡組と村上組の抗争である。もう一つは、呉市内で起こった土岡組と山村組・桑原組・小原組との抗争と、その後山村組内で起こった内部抗争である。
第二次広島抗争とは、山村組・山口(英)組連合と打越会・美能組・小原組連合の抗争である。本多会が山村組・山口(英)組を、山口組が打越会・美能組・小原組を支援にした。
第三次広島抗争とは、共政会の主流派・浅野組連合と共政会の非主流派・侠道会連合との抗争である。
警察庁による広島けん銃抗争事件とは、広島市における第一次広島抗争と第二次広島抗争を指す。
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[編集] 広島市における第一次広島抗争
[編集] 広島市における第一次広島抗争の勃発まで
昭和10年(1935年)ごろ、岡敏夫が、当時大阪在住の親分天本菊美(天本勝己)の子分となった。
昭和20年(1945年)8月ごろ、岡敏夫が土木建築請負「岡組」の看板を掲げた。岡組の事務所(「道場」と呼ばれる賭場も兼ねていた)は広島市猿猴橋町38番地にあった。天本菊美が引退した後、岡敏夫がその跡目を受継ぎ、主として広島市東部一帯に勢力を張った。
同月ごろ、村上三次がテキヤ・村上組を結成した。村上三次は、神農会秋月一家の流れをくむ祐森松男の身内だった。村上組の事務所は広島市松原町638番にあった。村上組は広島駅前の一帯をなわ張りにして勢力を張った。村上三次の次男・村上正明は愚連隊の首領となっていた。村上正明と村上組幹部・村戸春一、村上組幹部・菅重雄は、岡敏夫の舎弟分だった。
同年10月、山上光治(通称:殺人鬼)は、山県郡八重町の実家に復員した。
同年、山上光治は、岡組の若衆となった。岡敏夫に、自分を激しく暴行した村上正明への報復を直訴したが、岡敏夫は許可しなかった[1]。
昭和21年(1946年)、山上光治は、無期懲役の判決を受け、広島刑務所に服役した。[2]
同年春、岡組若衆・原田昭三(後の三代目共政会副理事長)の不良仲間だった網野光三郎が、岡組に加わった。当時、岡組事務所から10メートルほど離れた場所に、朝鮮連盟の事務所があった。朝鮮連盟の本部は、広島市宇品海岸通りにあった。岡組・村上組は、闇市で勢力を拡大してきた。岡組・村上組は、闇市の利権を巡って、朝鮮連盟と対立し始めた。
岡敏夫は、朝鮮連盟会長と1対1の話合いを求めて、単身で朝鮮連盟事務所に乗り込んだ。岡敏夫は、朝鮮連盟会長に対し、朝鮮連盟が広島駅前の事務所を引き払い、宇品本部に戻るように説得した。交渉は決裂した。それから、岡敏夫は2日おきに、朝鮮連盟を訪れ、朝鮮連盟会長を説得し続けた。交渉中、岡敏夫は、岡組事務所から尾長町の自宅に帰る途中、2度に亘って何者かに短刀で刺された。
交渉が長引くと、岡敏夫は、服部武(後の二代目共政会会長)、原田昭三、丸本繁喜、網野光三郎ら岡組全員を率いて、日本刀、あいくち、手榴弾、催涙弾を持参して、朝鮮連盟に出向いた。村上組のほとんど全員も、岡組の応援に駆けつけた。岡敏夫は、単身で朝鮮連盟事務所に入り、朝鮮連盟会長と話し合った。2時間ほどの話合いで、岡敏夫と朝鮮連盟会長は、朝鮮連盟は広島駅前の事務所を閉め、全員が朝鮮連盟本部に引き揚げることで合意した。
このころ、岡敏夫は、華僑連盟の張水木と兄弟分となった。岡組事務所には、青天白日旗が掲げられた。
その後、岡組の有志が、岡敏夫の自宅兼岡組事務所を、柳橋近くの広島市銀山町に建てた。このころ、国鉄は、広島駅の警備を天本菊美に依頼した。天本は、岡敏夫に広島駅の警備を任せた。
同年7月、村上三次は、小倉市(現:北九州市小倉北区・小倉南区)の祇園祭に露店を出したとき、地元のテキヤの親分らから、広島の闇市が岡組に牛耳られていることを指摘された。
同年9月21日ごろから、山上光治は断食を始めた。山上光治の断食は45日間続いた[3]。
同年11月4日、山上光治は、栄養衰退、重症状態により、刑の執行停止となって、広島赤十字病院に入院した。その後、山上光治は刑務所病舎に移された。
同年11月6日午前8時半ごろ、岡敏夫は裁判所から電話を受けた。同日午前9時すぎ、岡敏夫は、シボレーに乗って広島市基町の裁判所を訪れ、書類一式を受け取った。同日午前9時30分すぎ、岡敏夫は、吉島の広島刑務所に到着した。岡敏夫は、仮死状態に陥っていた山上光治を引き取り、柳橋の自宅兼岡組事務所に連れて帰った[4]。同日、山上光治は意識を回復し、食事を取った。10日ほどたつと、山上光治は、京橋川畔まで歩いていけるようになった。
[編集] 広島市における第一次広島抗争
同年11月10日[5]夜、猿猴橋の岡組の道場(賭場)で、客同士の揉め事が起こった。岡敏夫が岡組の道場に赴き、客を納得させて帰らせた。岡敏夫は、服部武と原田昭三とともに、岡組の道場に泊まった。同日深夜、村上正明が、村上組幹部・原田倉吉と近藤とを伴って、岡組の道場に乗り込み、岡敏夫を殺害しようとした。村上正明は、岡敏夫を拳銃で銃撃し傷害を負わせたが、銃声を聞いて飛び込んできた服部武と原田昭三に阻まれて、岡敏夫殺害は未遂に終わった。村上正明らは逃走した。この事件で、広島市における第一次広島抗争が勃発した。山上光治は、岡敏夫に村上正明への報復を直訴したが、岡敏夫は許可しなかった。
同年12月3日、網野光三郎と原田昭三が、映画館で映画鑑賞中だった原田倉吉を連れ出し、広島市仁保町で銃弾2発を撃ちこみ射殺した。網野光三郎と原田昭三は、いったん原田倉吉の遺体をゴミ箱に捨てたが、オート三輪を借りて原田倉吉の遺体を広島市向洋町まで運び、さつま芋畑に埋めた。同年年末、原田倉吉の遺体が野犬に掘り返され、事件が発覚した。
昭和22年(1947年)正月、岡組は、海田町海田市の柳川静麿(渡辺長次郎の二代目)宅に殴り込みをかけた。呉市阿賀町の土岡組・土岡博組長が仲裁に入った。土岡博、岡敏夫、柳川静麿、吉浦の中本勝一が兄弟分となった。同年1月末、網野光三郎と原田昭三は、原田倉吉殺害犯人として、警察に自首した。二人は殺人と死体遺棄で、懲役7年の実刑判決を受け、広島刑務所に服役したが、3年10か月で釈放となった。
同年2月18日夜、村上組幹部・菅重雄が、岡組の道場(賭場)に顔を出した。山上光治が、菅重雄を射殺した。山上光治は、呉市に逃亡し、岡敏夫の知り合いの親分衆に匿ってもらった。
同年春、山上光治は、中本勝一の賭場で、土岡組若頭・大西政寛(通称:悪魔のキューピー)と揉めた。中本勝一が2人の間に入って、仲裁した。
同年5月、岡敏夫の舎弟分・高橋国穂が、広島県安芸郡船越町(現:広島市安芸区船越町)の町議会議員選挙に立候補し、当選した。
同年夏過ぎごろから、山上光治は、岡組の道場を訪ねるようになった。
同年12月30日、岡敏夫は、柳橋の自宅兼事務所の祭壇に、自分と舎弟のためには5升の鏡餅を、直系のためには3升の鏡餅をつかせて、飾った。岡敏夫は、自身で半紙に名前を書き、お供えの餅に貼布した。名前を書かれた舎弟は、広島市紙屋町の打越信夫、岡友秋、高橋国穂、村上正明、村戸春一だった。
昭和23年(1948年)元旦午後1時ごろ、猿猴橋町の岡組の道場(賭場)で、手本引が始められた。同日午後2時40分ごろ、丸本繁喜が岡組の道場に顔を出し、胴師や客に挨拶をした。同日午後2時50分ごろ、丸本繁喜は、岡組の道場を出て、柳橋の自宅兼事務所に向かった。同日、柳橋にある岡敏夫の自宅兼事務所では、岡組全員が集まって、無礼講の酒宴が予定されていた。同日午後3時ごろ、村上組幹部・村戸春一が、岡組の若衆で村上組の預かりだった山口芳徳と、同じく岡組の若衆で村上組の預かりだった吉川輝男ら数人を伴って、岡組の道場の2階に駆け上がり、居合わせた下井留一(岡敏夫組長の兄貴分の弟で、堅気)に拳銃1発を発砲して、射殺した。広島東警察署は、村戸春一を指名手配した。
同年1月5日夜、岡組の道場で、丸本繁喜は、不良仲間から、山口芳徳と吉川輝男が広島市稲荷町の福吉旅館に潜伏していることを知らされた。山上光治は、丸本繁喜とともに、福吉旅館に向かった。同日午後8時ごろ、山上光治は、丸本繁喜に見張りを任せ、福吉旅館に入った。旅館にいたのは、山口芳徳だけだった。山上光治は、山口芳徳に、断指した上で岡敏夫に詫びを入れるように要求した。山口芳徳は、山上光治の要求を拒否した。山上光治は、山口芳徳に向かって3発の銃弾を発射して、射殺した。同日8時30分ごろ、丸本繁喜は、山上光治の身代わりとして、広島東警察署に自首した。丸本繁喜の自供は矛盾点が多かったため、広島東警察署は丸本繁喜を釈放した。警察は、使用された拳銃の弾丸から、山口芳徳殺害を山上光治の犯行と断定した。
その後、山上光治は吉川輝男を探し出して、射殺した。
MPから、警察に、山上光治が抵抗した場合、射殺してもかまわないという命令が出た。
同年3月23日午後5時、山上光治が広島市猿猴橋町の日劇で映画観賞中に、広島東警察署の捜査員2人に発見された。捜査員は駅前派出所に連絡した。武装警官20数名が日劇一帯を包囲しようとした。山上光治は、日劇を出て、近くの好川果物店の横手から、この家屋の風呂場に入った。すぐさま、警官隊やMP一個小隊が好川果物店を包囲した。同日午後5時30分ごろ、丸本繁喜も現場に駆けつけた。山上光治は、好川果物店の主婦に、持ち合わせていたすべての金を渡した。その後、山上光治は、五右衛門風呂の風呂釜の中で、右こめかみを、自身の拳銃・ブローニング38口径オートマチックで撃って、自決した。
その後、岡敏夫、村上三次、村上正明が逮捕・投獄され、岡組と村上組の抗争も休戦状態となった。
昭和24年(1949年)9月8日、団体等規正令により、岡組・村上組がともに解散した。だが、岡組の解散は表向きだけで、依然として岡組には子分が出入りしていた。村上組も表向きは一応解散したが、広島駅前付近を中心に、依然として勢力を持っていた。
昭和25年(1950年)、岡組と村上組が手打ちをした。
同年の夏ごろから、岡敏夫は、広島市内において特殊下宿業を開業した。
同年、岡組舎弟・打越信夫(広島鯉城会会長→打越組組長)は、東広島で、対立する葛原一二三を射殺した。このころから、打越信夫は、網野光三郎、服部武、、原田昭三、永田重義、山村組の若頭・佐々木哲彦、美能幸三、小原光男と個々に兄弟盃を交わしていった。
昭和26年(1951年)、網野光三郎が刑務所から出所した。岡組の実権は網野光三郎にゆだねられた、と云われている。同年6月、村上正明が刑務所から出所し、勢力を挽回して、村上組を名実ともに再現した。
同年7月、村上三次が引退した。村上組の跡目を、高木達夫が継いだ。村上正明はその後見役となった。
昭和27(1952年)9月、団体等規正令の失効により、岡組・村上組がともに復活した。岡組は解散前までの状態に戻った。
同年11月4日、村上組組員がジャックナイフで自称岡組組員の広島駅前の食堂コックを刺した。
同年11月6日、岡組組員が、広島駅前の理髪店で、村上正明を狙撃した。村上正明は無事だった。
同年11月7日、村上組組員が、岡組組員にアジトで暴行を加えた。
同年11月12日、岡組組員が村上組組員を拳銃で銃撃した。
同年11月18日、岡組事務所が狙撃された。
同年12月9日、山陽線内で、村上組組員・北山昭男(後の二代目中国高木会会長、五代目共政会最高顧問)が、清岡吉五郎を狙撃した。
同年12月18日、清岡吉五郎の入院先の病院で、岡組組員と村上組組員が撃ち合いとなった。
同年12月24日、広島駅前で、岡組組員と村上組組員が撃ち合いとなった。このとき、民間人が一人負傷した。
昭和28年(1953年)1月8日、岡組幹部・高橋国穂が、村上組組員に射殺された。同年1月12日、広島市内の路上で、岡組と村上組の組員同士が撃ち合いとなった。
このころ、岡組の勢力は、子分、身内が約100名。対する村上組は、子分が約50名だったが、中国、四国のテキヤ仲間に連絡があり、岡組に劣らない勢力を持っていた、と云われる。
同年10月5日、和睦を模索していた村上組組員・中本敬造が岡組組員・田中春男に射殺された。
同年11月25日、村上正明が神戸市東灘区東明町7丁目の愛人宅で逮捕された。同年年12月23日、村上組若頭・浅野間輝昭らが岡組が経営していた売春宿を襲撃した。
[編集] 呉市における第一次広島抗争
[編集] 呉市における第一次広島抗争の勃発まで
昭和19年(1944年)、呉市阿賀町の土岡博が、呉市の帯刀田俊一の口利きで、広島市の博徒・渡辺長次郎の舎弟となった。土岡博の父・土岡正一は、広島ガスの下請け会社・土岡組を経営していた。事業の土岡組は、土岡正一の長兄・土岡吉雄が継いだ。同年、土岡博は召集令状によって出征した。
同年、大阪で造船所の職工をしていた山村辰雄(後の共政会初代会長)が、呉市に戻った。
昭和20年(1945年)3月、波谷守之は、尋常小学校高等科を修了し、叔父・波谷乙一の口利きで、渡辺長次郎の舎弟となった。波谷守之は、渡辺義勇報国隊で、勤労奉仕をした。
同年7月2日、呉市の市街地は、2回目の空襲により、焼け野原となった。
同年8月6日、広島市に原子爆弾が投下され、渡辺長次郎が死亡した。波谷守之は、廿日市駅にいて無事だった。波谷は、広島市内で、渡辺長次郎の安否を調べた後、呉市阿賀町に戻った。波谷は、叔母の白銀キシノの家で生活した。このころ、波谷は白銀キシノの家に出入りしていた松本年春と知り合った。 同年秋、土岡博が、呉市阿賀町に復員した。
同年11月18日、美能幸三が南方戦線から復員した。
同年12月、呉市阿賀町で、土岡博が、土岡組[6]を結成した。土岡博の兄・土岡正三と、折見誠三は、土岡博の舎弟となった。波谷守之は土岡組の若中になった。土岡博は、呉市広町の映画館・広栄座の裏に、賭場(道場)を開いた。
昭和21年(1946年)3月、土岡博の舎弟・大西政寛が中国から復員し、土岡組に加入した。同月、呉の山村辰雄(後の初代共政会会長)が「山村組」の看板を掲げ、進駐軍の木材運搬を行った。
[編集] 呉市における第一次広島抗争
同年8月14日夜、呉市広町の広場で、阿賀町や広町では戦後最初となる盆踊りが、開かれた。同夜、波谷守之が、桑原組・桑原秀夫組長を襲うために、桑原秀夫宅を訪れた。桑原秀夫は留守だった。波谷守行は、桑原宅にいた番野正博(後の波谷守之の若衆)から、桑原秀夫が広町に向かったことを聞かされた。波谷守之は、桑原秀夫が広町に住む桑原秀夫の舎弟で小原組・小原馨組長の家にいると思い、小原馨宅に向かった。そのころ、土岡正三、折見誠三、大西政寛、亀井義治の4人は、波谷守之がいないことに気がついた。土岡正三、折見誠三、大西政寛、亀井義治、谷口の5人は、桑原秀夫宅を訪ねて、波谷守之が広町に向かったことを知った。5人は、桑原秀夫や小原馨が盆踊り会場にいることを聞きつけ、盆踊り会場に乗り込んだ。桑原秀夫らは逃げて、小原馨だけが残った。5人は小原馨を広場の隅に連れて行った。折見誠三が小原馨の左腕をかかえ、大西政寛が日本刀で小原馨の左腕を切り落とした。直後に、土岡組5人は、小原馨を心配して駆けつけた小原の兄弟分・磯本隆行を捕まえた。大西政寛が磯本隆行の右腕を日本刀で切り落とした。この所業から、大西政寛は「悪魔のキューピー」と呼ばれるようになった。亀井義治と谷口が、小原馨と磯本隆行を病院に送る途中、小原馨を心配して駆けつけた小原の舎弟・小早川守に襲われた。亀井義治が、小早川守に背中を切られた。
当時、呉市周辺の島々には、旧日本軍の弾薬が大量に放置されていた。
同年7月から、瀬戸内海運社長・荻野一(元特別高等警察刑事。後の山陽特殊製鋼社長)が、旧海軍の技術将校を10数人集め、人夫を雇って、弾体を海に沈め、火薬は焼却していった。山村辰雄は、作業の下請けとして、労務者を送った。作業完了には約1年を要した。
同年9月、土岡組は、阿賀町の事業家・海生逸一から、海生逸一の経営する映画館や劇場[7]で傍若無人に振舞う不良を押さえるように依頼された。同月、土岡正三、大西政寛、折見誠三、波谷守之らは、呉市中通り3丁目の映画館で行われたのど自慢新人コンクールで騒いでいた不良を、1人づつ映画館のトイレに連れ込み、暴行を加えた。
それから、土岡組は呉市山の手の賭場荒らしを行った。
同年、山村辰雄は、海生逸一の資金援助を受けて、土建請負業「山村組」を起こした。山村は、魚市場理事の谷岡千代松から、佐々木哲彦(通称は人斬り哲)を紹介してもらい、若頭に据えた。
その後、海生逸一の経営する呉市中通り3丁目の呉第一劇場と第二劇場では、再び不良たちの騒ぎや無料入場などのトラブルが、頻発するようになった。海生逸一の要請により、土岡組・桑原組・小原組が協同で、興行への不正入場者排除に当たることが合意された。同年暮れ、呉第一劇場・呉第二劇場で、劇場の者が、不良の不正入場を咎めたことから、不良グループと小競り合いになった。海生逸一からの要請で、土岡組・桑原組・小原組が不良グループを鎮圧した。その直後、大西政寛、土岡正三、波谷守之、小原馨、桑原秀夫ら10数人は、駆けつけたMPに逮捕された。全員が呉警察署に一晩拘留された。翌日、桑原秀夫が責任者として呉警察署に残り、他の者は釈放された。
昭和22年(1947年)正月、広島市の岡組が、海田町海田市の柳川静麿(渡辺長次郎の二代目)宅に殴り込みをかけた。岡組の組長は、岡敏夫。土岡博が仲裁に入り、海田町海田市の清岡吉五郎と話をつけた。清岡は、岡敏夫にとって、渡世上の祖父だった。土岡博、岡敏夫、柳川静麿、吉浦の中本勝一が兄弟分となった。その後、山村は、土岡博の了解を得て、岡敏夫を事業家としての舎弟とした。
同年春、久保健一(後の呉市市議会議員)が浪曲の興行を催し、その祝いを兼ねた花会が行われた。土岡正三と大西政寛が花会に出席した。祝儀のビラの中で、「土岡組」の文字が下の方にあった。土岡正三と大西政寛は、久保健一に激しく抗議した。大西政寛は、傍にあった火鉢を、久保健一らに向かって投げつけた。久保健一の若衆らは、土岡正三と大西政寛の行為を止められなかった。
同年春、山村辰雄は、土岡博の兄・土岡吉雄、海生逸一の弟・海生章三、新田規志人、西本薫と事業家として兄弟分となった。
同年5月、桑原秀夫と久保健一は、呉市市議会議員選挙に立候補した。桑原秀夫は39位で、久保健一は3位で、それぞれ当選を果たした。
同年5月22日午後3時ごろ、桑原秀夫と小原馨は、広町電車交差点前の急行マーケットで、ふとしたことから喧嘩となった。桑原秀夫は出刃包丁で、小原馨の腹部と頭部を刺傷した。一旦その場は収まったが、同日午後5時ごろ、小原馨は、小早川守ら小原組組員10数名を伴って、桑原秀夫宅に押しかけた。桑原秀夫と小原馨は、桑原宅2階で、大西政寛の仲裁の中、話合いを持った。会談中に、小早川守が乱入し、包丁で、桑原秀夫の腹部を刺した。桑原秀夫は、呉市阿賀町の西村病院に入院した。この事件で、小早川守をはじめ、大西政寛、小原馨も広警察署に逮捕された。同年5月24日、桑原秀夫が西村病院で死去した。大西政寛は吉浦拘置所に送られた。
同年5月末、呉市朝日町の遊郭で、山村組組員と旅のヤクザが喧嘩となった。山村組組員が旅のヤクザを叩き出したが、翌日旅のヤクザが日本刀を持って仕返しに来た。場所は呉駅前から5、60メートル堺川に向かったところだった。このとき、朝日町の用心棒だった山村組組員が指を切り落とされた。この山村組組員の遊び仲間だった美能幸三は、事件を聞きつけて、山村組事務所に駆けつけた。山村組事務所では、山村組若頭・佐々木哲彦らが日本刀や拳銃を集めて、喧嘩の支度中だった。佐々木哲彦、美能幸三、山村組組員らは、旅のヤクザがいる現場に行った。気後れした山村組組員に代わって、美能幸三が、佐々木哲彦に、旅のヤクザとの勝負を買って出た。美能幸三が拳銃で、この旅のヤクザを射殺した。翌日美能幸三は呉警察署に逮捕された。佐々木哲彦らも呉警察署に逮捕された。美能幸三は、佐々木哲彦から、射殺事件の罪をすべて背負うように頼まれた。美能幸三は、佐々木哲彦の頼みを了解した。3日後、山村辰雄と山村組顧問格・谷岡千代松が、美能幸三に面会に来た。このとき、美能幸三は、山村組の若衆となった[8]。
同年7月、吉浦拘置所で、大西政寛は美能幸三と知り合い、互いの血をすすって、美能幸三を舎弟とした。
同年夏、大西政寛は、吉浦拘置所内の散髪専用の部屋から、日本剃刀を持ち出し、自らの手で割腹した。20センチほどの傷だった。当時の留置場や拘置所では、満杯の状態で、しかも警察病院も整っていなかったために、治療の必要な怪我人や病人は、執行停止で保釈になっていた。これにより、大西政寛も執行停止となった。
同年9月、美能幸三は、懲役12年の判決を受け、広島刑務所に送られた。同年12月、美能幸三は、山村辰雄に保釈金5万円を用意してもらい、広島刑務所を出た。出所後、美能幸三は山村組に入った。
昭和23年(1948年)、山村組の若衆・前原吾一が、山村組を辞め、土岡組に入った。
昭和24年(1949年)春ごろ、土岡組は、山村辰雄が役員を務める呉市川原石町の魚市場に盆を開いた。当時、山村辰雄は、山村組事務所を、呉市中央3丁目(呉駅の側)に移していた。このころ、山村辰雄は、土岡吉雄とともに江田島の高須海水浴場の施設整備事業に乗り出していた。山村辰雄と土岡吉雄は、話し合いで「儲けを折半する」と約束していたが、土岡組のボート数が増えたり、土岡組の遊技場が新設されたりして、折半と云う約束がうやむやになった。同年夏、土岡組が呉市中心地に賭場(道場)を開いた。波谷守之らが開設にあたった。盆開きには、山村組から谷岡千代松と若衆・野間範男らが出席した。これらの問題に端を発し、山村辰雄は土岡博暗殺を計画し始めた。まず、山村辰雄は、土岡組若頭だった大西政寛を、山村組側に引き入れることに成功した。
美能幸三は凶状旅の果てに広島市・岡組の預かりとなっていた。
同年夏、美能幸三が、山村組事務所に顔を出すと、大西政寛らが土岡博暗殺計画を議論していた。その日、土岡博らが江田島の高須の海水浴場に一泊するので、そこを夜に襲う計画だった。夜、集合時間に山村組事務所に集まったのは、山村辰雄と大西政寛と美能幸三だけだった。その日の暗殺計画は中止された。3人は山村辰雄の自宅に移った。同日午後8時ごろ、美能幸三が、山村辰雄に、土岡博暗殺実行犯役を買って出た。大西政寛は、自身の拳銃・モーゼルHScオートマチック32口径を、美能幸三に渡した。
同年9月27日昼、広島駅前の岡組事務所前で、美能幸三が土岡博と土岡組組員・河面清志を狙撃した。銃弾1発ずつが命中した。美能幸三は、周りにいた清岡吉五郎と新田規志人や駆けつけた岡組組員に、それ以上の攻撃を阻まれた。美能幸三は、警官隊に追われたが、逃走して、知り合いの家に隠れた。土岡博と河面清志は、病院に運ばれた。同日午後8時30分ごろ、美能幸三は呉に戻り、大西政寛と野間範男と合流した。大西政寛は、美能幸三を、山村辰雄が用意していた隠れ家・西村芳一宅に案内した。同日午後9時ごろ、山村辰雄は、電話で「土岡博が一命を取り留めた。銃弾は急所を外れていた」との報告を受けた。山村辰雄は、美能幸三のいる隠れ家に赴き、美能に対して暗殺失敗をなじった。
同日夜、波谷守之は、土岡吉雄から、土岡博が美能幸三に撃たれたことを知らされた。波谷守之は単身で山村辰雄宅に乗り込んだ。大西政寛が波谷守之を2階に招いた。2階には、大西政寛のほか、谷岡千代松、野間範男、鼻万三、原寿雄ら山村組組員がいた。山村辰雄は不在だった。波谷守之と谷岡千代松らは激しく睨み合った。谷岡千代松が「山村は本当にいない。今夜のところは喧嘩してもどうにもならない」と云い、大西政寛がそれに頷いたときに、両者の緊張が緩んだ。波谷守之は、大西政寛とともに、山村辰雄宅を出た。大西政寛は、波谷守之に、明日阿賀に行って事情を説明すると云った。美能幸三の隠れ家から帰った山村辰雄は、大西政寛に対して、大西が波谷守之を生きて返したことを非難した。
同年9月28日、土岡博は阿賀に戻り、自宅で静養した。美能を預かっていた岡組の服部武(後の二代目共政会会長)が、責任を取って断指した。
同年9月30日、美能幸三は、山村辰雄の指示で、阿賀の隠れ家に移った。
数日後、美能幸三は、山村辰雄から、元山村組組員で現在は土岡組組員となっている前原吾一の案内に従って、三原市の隠れ家に移るように指示された。大西政寛は、その山村辰雄の指示を知ると、美能幸三に、前原吾一を射殺してでも逃げるように云った。美能幸三は、隠れ家を移動中、三原市の手前で、山村組から逃亡した。
土岡博は、波谷守之に「美能幸三が自分を襲ったときに使った拳銃は、大西政寛の物だった」と告げた。
その後、山村組と土岡組の手打ちが、海生逸一・清岡吉五郎・新田規志人の仲裁によって、実現した。山村辰雄は、手打ちの条件である、美能幸三の破門と自首を受け入れた。土岡吉雄が、土岡組からの山村辰雄への報復を抑えた。
同年10月11日、美能幸三は広島東警察署に出頭した。
昭和24年(1949年)11月26日午後5時ごろ、福山競馬場で、大西政寛は、鼻万三らとともに、賞金問題で競馬の騎手に因縁をつけて、暴行を加えた。
昭和25年(1950年)1月4日、呉市本通り5丁目で、大西政寛は、大西輝吉ら3人と口論となった。一旦その場は収まったが、野間範男ら山村組若衆が大西輝吉を探し出した。同日午後5時40分ごろ、呉市和庄通り4丁目の高日神社で、大西政寛は、大西輝吉を射殺した。呉警察署は、大西政寛を指名手配した。
同年1月17日夜、呉警察署に、「大西政寛が、呉市東鹿田町の山村組関係者・岩城義一宅に宅に潜んでおり、明日早朝には大学生に変装して関西方面に高飛びする手筈になっている」という密告が寄せられた。
同年1月18日午前1時30分、呉警察署の警官隊40人が、岩城義一宅を包囲した。同日午前3時、数田理喜夫警部補らが岩城義一宅に入った。警官が大西政寛を発見すると、大西政寛は拳銃を乱射し、数田理喜夫警部補と鞆井清刑事を射殺した。大西政寛は川相刑事に射殺された。同日、岩城義一宅にいた鼻万三も逮捕された。
同年1月20日から1月25日まで、波谷守之は、波谷吾一に出資してもらい、呉第二劇場で、浪花節の吉田奈良丸一行の興行を打った。波谷守之は、波谷の若衆・沖田秀数、番野正博を連れて、呉市に入った。
同年1月30日、野間範男が潜伏先の広島市内で逮捕された。
美能幸三は、広島刑務所で、大西政寛の死を知った。美能幸三は20日間、断食をした。土岡組若中だった万谷惣一が、解剖された大西政寛の遺体を受け取り、土岡正三の舎弟・中本繁らが葬式を行った。
同年、土岡正三が服役した。
同年4月、波谷守之は、呉市内のマージャン店で、愚連隊と喧嘩になり、拳銃を発砲して、呉警察署に逮捕された。殺人未遂で起訴され、広島地方裁判所呉支部で懲役3年の実刑判決を受けたが、控訴して保釈された。
同年、波谷は保釈中に、拳銃不法所持で逮捕された。翌日、波谷に拳銃を渡した相手が自首した。波谷は、呉市の簡易裁判所で罰金刑が確定し、釈放された。
同年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。山村辰雄は、広島県賀茂郡八本松町にあったアメリカ軍弾薬貯蔵庫からの輸送荷役を請け負った。
同年、海生逸一の支援を受けた小原馨は、佐々木哲彦と兄弟分となった。
昭和26年(1951年)2月、美能幸三は、旅ヤクザ殺人での懲役12年と、保釈中の土岡博殺人未遂を加えて、懲役21年10ヶ月の判決を受けた。美能は広島刑務所に服役した。
同年9月、土岡博は賭博罪で逮捕され、広島刑務所に収監された。土岡博は、先に広島刑務所に収監されていた土岡組若中・神田清人や跡野正治から、美能殺害の許可を求められたが、認めなかった。
同年9月23日、波谷は控訴が棄却され、懲役3年の実刑が確定した。
同年9月24日、波谷の若衆・沖田秀数が、小原組若中・門広(後の三代目共政会相談役)に殺害された。同日、実刑が確定した波谷が、警察に出頭した。
同年、万谷惣一の若衆・山本盛親が、小原馨と喧嘩になり、拳銃を乱射した。小原馨の弟・小原光夫(後の小原組二代目)が被弾し、重傷を負った。
昭和27年(1952年)6月24日、土岡博が出所した。
同年6月26日、佐々木哲彦の若衆・坂根鉄郎が、土岡博を射殺した。
昭和28年(1953年)、土岡正三が山口刑務所から出所し、土岡組を解散させて、堅気になった。
波谷守之、美能幸三、門広らは広島刑務所に服役した。山村辰雄は、門ら広島刑務所服役者と連絡を取り合い、波谷が刑務所を出たときに、射殺する計画を立てた。その後、波谷は、刑務所内で、門広と話し合いを持ち、堅気になる旨を伝えた。門が、波谷殺害を止めた。
昭和29年(1954年)、波谷守之は出所した。山村組顧問格・谷岡千代松から、野間範男と兄弟分になることを勧められたが、固辞した。波谷は、松本年春、番野正博とともに、土建業の長岡組の仕事に就いた。その後、波谷は一人で大阪に行き、博徒の山口浪之助と知り合った。それから、呉市阿賀町の白銀キシノの家に戻った。小原馨から阿賀でのカスリを渡そうと提案されたが、固辞した。
同年、山村組若頭・佐々木哲彦と山村組・今田泰麿や山村組幹部・新居勝己、山村組幹部・大段茂が対立した。佐々木は、大段茂の子分・高橋繁男らが、ヒロポン中毒だったため、山村組組員がヒロポンを扱うことを禁止した。今田は、呉市栄町マーケットを本拠地として、ヒロポンの密売をしのぎにしていたので、資金源を断たれることになった。
同年7月30日深夜、佐々木哲彦の客分・山平辰巳(美能幸三の舎弟)が、高橋繁男に射殺された。
今田泰麿は、山村組のヒロポン禁止に反対したため、山村組から破門された。今田は、波谷守之の叔父・谷角恭一を介して、波谷に加勢を求めた。波谷は今田への加勢を決めた。途中で、番野正博が山村組との抗争から降りた。松本年春が、小原組組員・平野一三を刺した。
同年8月16日、波谷は、河面清志と松本年春とともに、呉市内で今田泰麿らと合流し、佐々木哲彦と坂根鉄郎を探した。
同年8月17日午前3時ごろ、今田泰麿らが、佐々木哲彦の子分・吉兼悟を拉致した。波谷守之、今田泰麿らは、吉兼悟を、松本年春が用意した舟で、情島に連行し、佐々木哲彦の居場所を尋ねた。吉兼悟は答えなかった。波谷や今田らは、吉兼を無人島の下黒島に連行した。今田泰麿が吉兼を射殺した。それから、波谷守之、河面清志、今田泰麿、今田の若衆・荒井忠良の4人は、今治市の博徒・森川鹿次の自宅に匿まってもらった。森川鹿次は、波谷守之に、山村組への報復を思い止まるように諭した。
同年8月23日、波谷守之ら4人は、森川鹿次の説得を振り切って、船で呉市阿賀町に戻った。しかし、警察の警戒が厳しかったために、再び四国に渡ったが、四国でも警察に手配されていた。波谷守之、河面清志、今田泰麿、荒井忠良、今田の若衆・原田勲の5人が、岡山に逃げた。
同年8月26日、波谷や今田ら5人は、岡山県笠岡市で警察に逮捕された。警察は、波谷や今田らが所持していたカービン銃1丁、同実弾87発、ブローニング45口径拳銃1丁、同実弾22発、その他拳銃3丁、実弾9発、脇差3本を押収した。
同年9月9日午前8時ごろ、呉市阿賀町字東延崎の理容店で、松本年春は、コルト45口径の拳銃で4発の銃弾を撃ち、小原馨を射殺した。小原馨の内妻・清水光子が、小原組の組長代行となった。
同年9月10日、松本年春は、波谷吾一に付き添われて、広警察署に出頭した。広警察署には、波谷守之が拘留されていた。波谷吾一は、波谷守之と河面清志の弁護を、原田香留夫(八海事件の上告弁護団の1人。かつて、共産党推薦で呉市市長選挙に立候補した際、山村辰雄と癒着しているとして呉市市政を批判していた)に依頼した。呉地裁には、佐々木哲彦の子分たちが押しかけた。裁判では、波谷と河面の吉兼悟殺害共犯を事実誤認が認められ、吉兼に対する「不当な逮捕・監禁の罪」のみが問われ、波谷には懲役4年、河面には懲役3年の実刑判決が下された。検察側が控訴したが、広島高裁は一審判決を支持した。
同年10月6日午前0時15分ごろ、呉市阿賀町の昭和橋近くで、小原馨の実弟・小原明と小原組組員・平尾一三は、波谷吾一を射殺した。
同年11月、宮島競艇場が発足した。宮島競艇場の運営会社には、山村辰雄が出資していて、やがて、山村が社長に就任した。また、山村組は関西や名古屋に支店を開いた。佐々木哲彦は、岡組幹部・網野光三郎を舎弟とし、岡組幹部・打越信夫と兄弟分となった。
その後、山村辰雄は、波谷守之の叔父・谷角恭一を脅迫し、呉市から追い出した。土岡正三は、兵庫県尼崎市に移った。
警察は、谷角恭一を恐喝した容疑で、山村を捜査し始めた。佐々木哲彦が、山村の罪を被り、警察に出頭し、4ヶ月間服役した。佐々木の服役中に、山村辰雄が、佐々木の愛人を、自分の愛人にした。これを切っ掛けに、山村辰雄と佐々木哲彦は激しく対立した。このころ、呉市市会議員・西村芳一が、山村辰雄派の議員を抑えて、市会議長となった。西村芳一は、佐々木哲彦の従兄弟が経営する太陽興産に船舶清掃業の仕事を回して、佐々木を後押しした。
佐々木哲彦は、子分に指示して、山村組幹部・新居勝己を殺害した。山村組幹部・大段茂は、佐々木を恐れ、呉市から離れた。
昭和33年(1958年)12月21日、広島市で、佐々木哲彦は、子分の西山太一に指示して、山村組幹部・野間範男を射殺した。
昭和34年(1959年)3月、佐々木哲彦は、山村辰雄を引退させ、佐々木組を結成した。出所した美能幸三は、呉市に戻ったが、すぐに旅に出た。佐々木は、二代目小原組に、小原組幹部・岡崎義之を推薦した。小原組幹部・門広は、佐々木の提案に反対した。
同月、美能幸三は、岐阜刑務所から仮出所した。
同年7月14日夜、呉市広町大新開で、岡崎義之の子分・脇武ら3人が、門広を背後から銃撃した。門は重傷を負った。海生逸一が門広を後押しした。
同年7月15日、岡崎義之の二代目小原組襲名披露が行われた。
同年10月7日午後4時40分、呉市中通5丁目ビリヤード店「広一」前で、門広の子分・三宅譲と平本義幸が、コルト45口径の拳銃でダムダム弾(弾の先端を切って殺傷力を高めたもの)6発を撃ち、「広一」から出てきた佐々木哲彦を射殺した。
これにより、山村辰雄は、再び山村組組長に復帰した。これで、呉市における第一次広島抗争が終結した。
[編集] 第二次広島抗争
[編集] 第二次広島抗争の勃発まで
昭和35年(1960年)ころ、岡組・岡敏夫組長は健康問題から引退を決意した。
昭和36年(1961年)5月、美空ひばりの公演のため三代目山口組の組長・田岡一雄と若衆・山本健一(山健組組長)が広島を訪れていた。打越は、山本と美能幸三の仲介により山口組舎弟・安原政雄(安原会会長)と兄弟盃を交わした。
昭和37年(1962年)4月、岡敏夫は引退し、岡組の名跡を、山村辰雄に譲った。60人ほどだった山村組は、岡組を統合して、220人の組織となった。山村は、広島市にキャバレー「パレス」をオープンさせ、山村組の事務所を「パレス」に移した。
同年6月、山村辰雄は、広島選出の国会議員や県議会議員を招待して、岡組継承の披露宴を行った。
同年8月 、田岡一雄は広島の打越会・打越信夫会長を舎弟とした。
昭和38年(1963年)2月、山村辰雄(後の共政会初代会長)は、本多会・本多仁介会長と兄弟盃を交わした。これにより、山村組と打越会の抗争は、田岡一雄と本多仁介の代理戦争となった。
同年2月17日、美能幸三、原田昭三、網野光三郎、服部武、小原組・小原光男組長、永田重義、進藤の7人は、山本健一の泊まっていた旅館を訪ね、山本と面会した。山本は、7人に、打越信夫と復縁するように説得した。7人は山本の説得に応じ、復縁を了承した。
同年2月18日、山口組若頭・地道行雄と山口組舎弟・安原政雄の取り持ちで、打越信夫は、美能幸三、原田昭三、網野光三郎、服部武、小原光男、永田重義、進藤と舎弟盃を交わし、再度舎弟とした。式後の会食の席で、安原が、海生逸一に、小原光男と山本健一との兄弟盃を提案した。
その後、小原光男と山本健一の兄弟盃の話が進まなかった。それで、海生逸一は、美能幸三に、山本健一と会って、事情を確かめるように依頼した。翌日、美能は、神戸市の山本健一を訪ね、事情を聞いた。山本健一には、小原光男との兄弟盃の話は伝わってなかった。山本は、美能に、自身との兄弟盃と、山村組からの脱退を提案した。美能は、昭和40年(1965年)5月までに事件を起こせば、仮釈放が取り消しになり、残刑6年2か月間服役することになる立場だったため、山本の提案には応じなかった。美能は海生に山本との遣り取りを伝えた。このとき、海生は、美能に、自分が山村組から美能を貰い受けることを提案した。美能は、海生の提案に賛同し、山村組からの脱退を決断した。それから、海生逸一は、山村辰雄に、美能を譲ってくれるように、交渉した。
山本健一と安原政雄は、田岡一雄に、山村辰雄が打越会若頭・山口英弘(山口(英)組組長)の妻のバーに入り浸っていること、山口英弘が山村組幹部・樋上実と親しいことを報告した。
同年2月27日、田岡は、山本と安原政雄を遣わして、打越信夫に、山口英弘の行動を問いただした。
同年3月1日、打越は、山口英弘を破門にした。若頭には植松吉紀を据えた。山口の兄弟分だった広島県尾道市の高橋組(後の侠道会)幹部・森田幸吉(後の初代侠道会会長)が、地道行雄と会って「山口の裏切りが事実でない」と主張し、地道を説得した。地道は三ヶ月後に破門を解くことを約束した。
同年4月、山村辰雄は、下関市の合田組・合田幸一組長と本多会若頭・平田勝市に、美能幸三を海生逸一に譲るべきかを相談した。この席で、美能を引退させ、堅気にさせることが決定した。それから、山村は山村組若頭・服部武を遣わして、海生逸一に、美能を堅気にさせることを伝えた。海生は、服部に「美能を引退させずに貰い受ける」と宣言した。
同年4月6日、山村辰雄は、美能幸三を破門にした。
同日、山本健一、安原政雄、山口組若衆の吉川勇次は、呉市の美能組を訪ね、美能幸三に、山村辰雄への報復を思い止まるように説得した。さらに、山本は打越信夫を訪ね、原田昭三、網野光三郎、服部武、永田重義、進藤の5人の破門を迫った(原田昭三、網野光三郎、服部武、永田重義、進藤は山村辰雄に近い人物だった)。打越は5人の破門を了承し、各団体に破門状を送った。破門状を受け取った山村は、打越会との抗争を決断した。
同年4月12日、呉市内の美能幸三の自宅で、山本健一、美能、小原光男の兄弟盃が交わされた。見届け人は打越信夫、介添え人は海生逸一だった。山本が広島抗争に積極的に関与したのは自身が広島の安芸郡出身のためだった。
その後、山口英弘は引退には応じず、打越会から独立した。美能幸三も50人ほどの舎弟や子分を連れて、打越信夫に付いた。
[編集] 第二次広島抗争
昭和38年(1963年)4月17日、広島県呉市今西通りで、山口組打越会美能組幹部・亀井貢が、山村組樋上組(組長は樋上実)組員・上条千秋、樋上組組員・元中敏之(後の侠道会会長代行)、樋上組組員・中畑良樹に射殺された。警察は、美能組が報復に出ないように、すぐさま美能幸三の身柄を拘束した。
同年4月19日、呉市内の美能の自宅で、亀井貢の密葬が行われた。喪主は、美能組若頭・薮内伊佐男が勤めた。田岡一雄は、亀井貢の葬儀に、山本健一など15人の山口組組員を送り込んだ。
同年4月29日、亀井貢殺害を指示した樋上実が、逮捕された。
同年5月10日、上条千秋、元中敏之、中畑良樹の3人が、亀井貢殺害容疑で逮捕された。
同年5月16日、打越会会員・三橋巌が、打越信夫の経営する「紙屋町タクシー」を訪れた人たちを、山村組の襲撃と勘違いして銃撃した。1人は左足貫通で2か月の重傷、もう1人は9日後に死亡した。この後、打越は広島から離れた。
打越会を破門になった山口英弘は、山村辰雄を支援した。
同年5月26日、広島市内で、山口(英)組幹部・大下博が、打越会会員・倉本正英に暴行を加えた。倉本は、魚屋町の打越会の賭場だったバー「ニュー春実」の3階に逃げ込んだ。
同年5月27日、山口(英)組幹部・朝枝照明ら山口(英)組組員13人が、「ニュー春実」を襲った。山口(英)組組員と打越会会員の双方が拳銃で撃ち合った。
打越会若頭・植松吉紀ら打越会幹部は対策を協議したが、結論は出なかった。打越信夫は、安原政雄に山口組の応援を依頼したが、安原は拒否した。
同年6月11日、山口(英)組幹部・沖本勲(後の四代目共政会会長)が、打越会会員・藤田逸喜を殺害した。
同年6月14日、打越信夫が広島市に戻った。打越は、美能幸三を山口組安原会事務所に使わして、安原政雄に応援を依頼した。安原は美能の説得に応じて、安原の舎弟・泉半次郎ら50人を広島市に送った。美能も、美能組組員20人を広島に送った。
同年6月19日、安原政雄は、突然泉半次郎ら50人を神戸市に引き上げた。美能は安原に理由を問い質したが、安原は明言を避けた。
同日夜、山村組組員数人が、打越会黒川一孔の配下・上本昌史と貞森守に暴行を加え、貞森をナイフで刺殺した。
同年6月21日、田岡一雄は、地道行雄に指示して、打越を助けるために、北九州、防府、福山の山口組組員100人を、広島市に送った。さらに、地道は、美能幸三に、亀井貢の本葬を1963年7月8日に行うように指示した。地道は、亀井の本葬に、山口組組員3000人を送り込むつもりでいた。
同年7月5日、呉警察署は、暴力行為共同正犯容疑で、美能を逮捕し、身柄を拘束した。
同年7月8日、呉市登町の明法寺で、亀井貢の本葬が行われた。田岡は、山口組1660人を葬儀に送った。
同年9月8日昼、美能幸三の兄弟分だった西友会・岡友秋会長が、広島市安佐北区の可部温泉で、山村組組員・吉岡信彦に射殺された。岡は小学校の同窓会に出席していた。
同年9月12日午前4時、西友会組員は、山村組の広島市内での拠点だったキャバレー「パレス」の入り口を、ダイナマイトで爆破した。
同年9月19日、打越会組員・藤原竹千は、西友会組員3人とともに、山村組幹部・原田昭三(後の三代目共政会副理事長)の自宅を爆破した。
同年9月21日、打越会組員・李紛根が、広島市下流町新天地で、山村組組員に捕まり、暴行を受けた。李紛根を助けに来た打越会組員と山村組組員で、拳銃の撃ち合いとなった。打越会組員1人と山村組組員1人が死亡した。
同年9月24日、山村組若頭・服部武(後の二代目共政会会長)は、山村組組員・木元正芳や同組員・品川稔ら3人に指示して、山口組本部の1階の洗面所を、ダイナマイトで爆破した。怪我人は出なかった。
同年9月 警察は山村辰雄、打越信夫を逮捕した。
同年、波谷守之は、美能幸三の舎弟で、小原組組員・宮岡輝雄の勧めで、海生章三、小原光男と会食した。波谷と小原は、この席で和解した。
昭和39年(1964年)1月、美能幸三は、懲役1年2ヶ月の判決を受けた。これにより、美能は仮釈放が取り消され、7年4か月間服役した。
同年5月、山村辰雄は広島のテキヤ村上組の村上正明と提携し、共政会を結成した。初代会長には山村辰雄が、副会長には村上正明が、理事長には服部武が、幹事長には山口英弘が就任した。
同年6月29日、共政会の披露興行が行われた。
昭和40年(1965年)3月11日、傷害事件で逮捕された品川稔は、服部武の指示で、山口組本部にダイナマイトを投げ込み、爆破させたことを自供した。警察は、服部武を横浜刑務所から、広島に移管し、取り調べた。服部は、山村辰雄からの指示で、山村組幹部が共謀したことを認めた。山村辰雄は、藤堂真二に弁護を依頼した。藤堂は、依頼を引き受ける条件に、山村のヤクザからの引退と、身体障害者療養施設を経営する財団法人への出資を、要求した。山村が要求を飲んだため、藤堂は山村の弁護を引き受けた。
昭和40年(1965年)6月9日、山村辰雄は、広島県警でヤクザからの引退を宣言した。二代目共政会会長には服部武が、理事長には山田久、顧問には村上正明が就任した。山口英弘は引退し、山口(英)組は、十一会と改称された。十一会会長には、竹野博士が就任した。
昭和42年(1967年)8月25日、海生逸一の斡旋で、共政会と打越会の手打ちが行われた。
同年8月26日、打越信夫は弁護士とともに広島西警察署を訪れ、打越会を解散し堅気になることを誓った。 これで、広島市での第二次広島抗争は終結した(まだ、呉市内で共政会樋上組と美能組・小原組連合が対立していた)。
[編集] 第三次広島抗争
昭和42年(1967年)、波谷守之は、共政会樋上組・樋上実組長から、美能組・小原組との和解を依頼された。樋上の提案は「美能幸三が山村辰雄への報復を止めるのならば、美能を組長として、美能組・樋上組・小原組を統一する」というものだった。樋上は、森田幸吉と浜田一郎に自分の提案を示し、合意を得た。波谷は、美能組幹部・薮内威佐夫とともに、札幌刑務所に行き、美能を説得した。1回目、2回目の説得では、美能が納得しなかった。波谷は、3回目の説得で、美能を説得した。山田久が、共政会関係者を説得し、樋上の提案に合意させた。
昭和44年(1969年)11月、共政会十一会組員と共政会村上組組員が喧嘩をした。
同月、共政会村上組組員2人が、十一会との喧嘩の裁定について、山田久の自宅を訪れた。話合いの最中に、村上組組員1人が、山田久に向けて拳銃を発砲した。山田は被弾せず、テーブルをひっくり返して相手1人を押さえつけた。山田の子分がもう1人を抑えた。山田は2人を解放した。
同年11月、山村組組員が、小原組宮岡組・宮岡輝雄組長を射殺した。
昭和45年(1970年)6月30日夜、美能組若頭・薮内威佐夫の子分が、共政会副会長・樋上実を射殺した。これで、樋上が提案していた和解案は、消えた。長江勝亮が樋上組組長代行に就いた。
同年9月、美能幸三が出所した。波谷守之は、美能の引退を条件に、美能組・小原組と共政会が手打ちするすることを、山田久に提案した。共政会は手打ちを了承した。薮内威佐夫が二代目美能組を継ぎ、共政会に参加した。
同年11月18日、山田久は、共政会・原田昭三副会長、共政会・竹野博士理事長、共政会・大下博幹事長、浅野組・浅野真一とともに、大阪市西成区の二代目松田組・樫忠義組長に、共政会三代目の襲名挨拶を行った。山口英弘と梶山慧は、山田の共政会三代目襲名に反対していた。
同日昼、大阪市西成区松田町の路上で、梶山慧の子分数人が、山田久らの乗ったベンツ(ちょうど、信号待ちをしていた)を銃撃した。浅野真一と大下博は無事。原田昭三は即死。山田久と竹野博士は、救急病院に搬送されて、一命を取り留めた。梶山慧の子分が使用した車は、侠道会の物だった。
同年11月19日、山田久は広島市に戻った。
同年11月22日、広島県廿日市市厳島(通称は安芸の宮島)の旅館「錦水館」で、山田久は、共政会三代目の襲名披露を行った。
昭和46年(1971年)1月16日、呉市で、共政会美能組幹部・田島重徳らが、共政会樋上組組長代行・長江勝亮ら2人を暴行した。長江は、自宅に戻り、拳銃2丁を持って、田島を探した。長江は、呉市中通3丁目「サン劇場」前で、田島に向かって拳銃を乱射した。田島と美能組組員、女子店員が銃弾を受けて、重傷を負った。さらに、長江は、美能組事務所に押しかけ、美能組組員を銃撃し、重傷を負わせた。
その後、侠道会・東畑貞夫理事長が、浅野組組員に射殺された。浅野組若頭・日田義男(後の二代目浅野組組長)が、任道会組員に撃たれて重傷を負った。
竹野博士は、第三次広島抗争の手打ちを、波谷守之に依頼した。当時、波谷は、広島県福山市松永町の博徒・清水春日(森田幸吉の親分・高橋徳次郎の兄弟分)から、森田幸吉との兄弟盃を打診されていた。波谷は、自身と森田幸吉と山田久の3人が兄弟分になることによって、手打ちをしようと考えた。波谷は、広島拘置所の山田久を訪ね、3人が兄弟分になることの同意を取り付け、広島県警本部に行き、山田の40日間の保釈を認めてもらった。樫忠義と忠誠会・大森忠義会長が浅野真一を説得した。波谷は、尾道市の「青山荘」で、森田幸吉を説得し、森田からの了承を得た。
昭和47年(1972年)5月、兵庫県有馬温泉で、山田久と森田幸吉の手打ちが行われた。仲人は、大日本平和会・平田勝市会長がなった。手打ち式の後、波谷と山田と森田は、兄弟分になることを約束した。
これで、第三次広島抗争は終結した。
[編集] 脚註
- ^ 村上正明が山上光治を暴行した経緯は以下の通り。
昭和20年(1945年)年11月、山上光治は、広島駅前の闇市に姿を現すようになった。山上光治は、進駐軍からキャメルやラッキーストライクなどの洋煙草を手に入れると、闇市で売り始めた。
山村組2人が、山上光治に、闇市のショバ代を要求した。山上光治は支払いを拒否した。山村組2人は、山上光治に暴行を加えた。
2日後、山上光治は、闇市に現れ、洋煙草を売った。次に闇市に現れたとき、山上光治は、山村組4人にさらわれ、広島駅裏の二葉山に連れ込まれた。山村組4人は、山上光治に暴行を加えた。その後も山上光治は、猿猴橋の闇市に現れた。
同年11月末、山上光治は、闇市で、村上正明ら4、5人に捕まった。村上正明らは、その場で、山上光治に激しい暴行を加えた。うち1人が、山上光治の頭部をピッケルで刺した。暴行現場には、岡組組員が集まってきた。岡敏夫が、村上正明らの暴行を止めた。服部武(後の二代目共政会会長)が、山上光治を背負って、広島市尾長町の岡敏夫の自宅に運んだ。岡敏夫が医者を呼んできた。山上光治は仮死状態に陥っていた。服部武、原田昭三(後の三代目共政会副理事長)、丸本繁喜、近藤、甲島ら岡組若衆が交代で徹夜の看病をした。
3日後、山上光治は意識を取り戻した。1か月後、山上光治は歩行が自由になった。
山上光治は、怪我が完治すると、岡組の若衆となった。 - ^ 事件の経緯は以下の通り。
昭和21(1946年)4月16日夜、山上光治は、岡敏夫の親類筋の男ら2人とともに、広島市旭町の旧広島被服廠倉庫に、隠退蔵物資を盗みに押し入った。山上光治は、米国製45口径の拳銃を持参年し、警備役にあたった。梱包類を運び出し始めたとき、警備員・泉に発見された。警備員・泉は、岡敏夫の親類筋の男を捕まえ、拳銃を突き付けた。山上光治は、警備員・泉を拳銃で撃った。撃たれた警備員・泉は、警笛を鳴らして、当直の警備員を呼んだ。山上光治は、逃走した。警備員・泉は、そのまま死亡し、死後、巡査に昇格した。
同年4月26日、山上光治は警察に自首した。
山上光治は、広島刑務所に拘置された。当時は拘置所がなく、広島刑務所で拘置されていた。裁判は、東洋工業(現:マツダ)の本社工場で行われた。当時の広島市には、裁判できるような法廷がなかった。
岡敏夫の親類筋の男ら2人は、ともに懲役6年の判決を受けた。服役した山上光治は、短歌の創作に没頭した。 - ^ 岡組内部では47日間と云われた
- ^ 記録上、山上光治は、昭和21年(1946年)11月4日広島赤十字病院から脱走したことになっている
- ^ 「国会会議録・第15回国会法務委員会第19号」では、「11月10日」と明記されているが、本堂淳一郎『広島ヤクザ伝 「悪魔のキューピー」大西政寛と「殺人鬼」山上光治の生涯』幻冬舎<アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40420-3では、「11月18日」と記述されている
- ^ この博徒の土岡組は、土岡博の兄・土岡吉雄が経営する土岡組とは別。
- ^ 海生逸一は、阿賀町の映画館「天地館」や呉市中通り3丁目の映画館「呉第一劇場」・「呉第二劇場」などを経営した
- ^ 正式に親子盃を交わしてはいない
[編集] 参考文献
- 飯干晃一『仁義なき戦い<死闘篇>』角川書店<角川文庫>、1980年、ISBN 4-04-146401-3
- 飯干晃一『仁義なき戦い<決戦篇>』角川書店<角川文庫>、1980年、ISBN 4-04-146402-1
- 本堂淳一郎『広島ヤクザ伝-「悪魔のキューピー」大西政寛と「殺人鬼」山上光治の生涯』幻冬舎<幻冬舎アウトロー文庫>、2005年、ISBN 4-3444-0420-3
- 正延哲夫『波谷守之の半生 最後の博徒』幻冬舎(幻冬舎アウトロー文庫)、1999年、ISBN 4-87728-733-7
- 「国会会議録・第15回国会法務委員会第19号」
- 「松江、八束建設業暴力追放対策協議会・暴力団ミニ講座36)四代目共政会」
- 溝口敦『荒らぶる獅子 山口組四代目竹中正久の生涯』徳間書店、1988年、ISBN 4-19-123603-2
[編集] エピソード
- 広島抗争は、映画「仁義なき戦い」のモデルとなった。
[編集] 関連図書
- 『組織暴力の実態』(毎日新聞社会部編・毎日新聞社)
- 『ある勇気の記録』(中国新聞社報道部・社会思想社)
- 『暴力許すまじ 暴力団の実態と壊滅作戦』(広島県警察組織暴力団特別取締本部・広島県警察)
- 『無罪の記録』(向江璋悦著・法学書院)