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島田洋七 - Wikipedia

島田洋七

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

島田 洋七(しまだ ようしち、本名:徳永 昭廣(とくなが あきひろ)。1950年2月10日 - )は、広島市東区牛田出身の漫才師タレント作家。漫才コンビB&Bのひとり。

目次

[編集] 人物

1980年代、漫才ブームパイオニアとなり、月給1億円の時代から、人気急降下、そして現在ベストセラー作家と、ジェットコースターの様な激動の人生を歩むお笑い芸人である。ビートたけしの親友としても知られる。なお、下の名前の読みは「ようひち」との表記説が多く言われているが、本人にいわく「どっちでもいいが分かりやすい『ようしち』が良い」との事。

[編集] 芸歴

[編集] 広島/佐賀

1950年広島市に生まれる。父親は被爆して、洋七が生まれた頃は病床にあり、洋七の幼少期に原爆症で亡くなる。母・兄・洋七の三人で極貧の生活を送る。

1957年、小学校2年生8歳の時、佐賀の祖母に預けられ、中学を卒業するまでの8年間、更に極貧の生活を送る。このときの体験が「佐賀のがばいばあちゃん」として後に出版されベストセラーとなり、映画化・ドラマ化された。

佐賀市立赤松小学校、佐賀市立城南中学校と進むが、母親への思慕が募り、また野球がうまかったこともあり、高校野球の名門、広島広陵高校特待生として入学し、故郷・広島に戻る。本人は「甲子園に出場した」と語るものの、1967年・洋七3年の夏の選手権で広陵が準優勝した際のメンバーに名前はない。実際は怪我で野球部は2年生のときに退部したらしい。なお当時の監督は2005年夏、京都外大西を準優勝に導いた名将・三原新二郎である。広島東洋カープの主力投手だった佐伯和司は3学年下となる。

高校卒業後、広島工業大学工学部土木工学科に進学。しかし山の上にあり、急な坂を苦に2ヶ月で中退、と本人は語る。その後八百屋で働いたのち再び佐賀に戻り、当時デパートに勤めていた今の妻(りっちゃん)と知り合う。二人で東京へ駆け落ちを決意。間もなく妻の貯金も尽きて大阪に移る。

[編集] 大阪

1970年うめだ花月笑福亭仁鶴の落語や、中田カウス・ボタンの漫才を観たのがきっかけで漫才師になろうと決意。仁鶴がベンツ中田カウスポルシェで帰るのを見て「15分笑わせるだけでお金が稼げるなんて、こんないい商売があるのか」と、とても簡単そうに見えたのが決意した理由という。吉本興業にうめだ花月の進行係として採用され、美人の今喜多代、一番優しそうな島田洋之介に惚れ弟子入り。しかし同様の理由で弟子入り志願者が多く、毎日師匠の元に通い1ヶ月と4日目に弟子入りを許された。

現在放送作家として活動している団順一1972年初代B&Bを結成、島田洋一名で漫才師としてデビュー。このときはツッコミ担当だった。洋七の漫才スタイル・原型は、団の影響を強く受けたと言われている。初舞台となった名古屋・大須演芸場のお客は5人だった。

この初代B&Bは相方の団の失踪で消滅。1973年上方よしお(当時の芸名は上方真一)と二代目B&Bを結成。天性とも言えるスピード感溢れるしゃべりとセンスは、関係者の間で高い評価を受け、数々の賞を受賞。この頃、当時18歳の島田紳助がTVで洋七を見て衝撃を受け「島田洋七を倒す事に俺の青春を賭けよう」と考え、同門入りした話は今や伝説となっている。紳助は「結局何もしてないのに勝手に倒れた」と嘯くが、実際は二年間、金魚のふんのように洋七について回っていた。

1975年、洋七は東京進出を考えるが、真一(よしお)が「怖い」と尻込みし解散。漫才は諦めようかと悩んだが、花月劇場の進行役をしていた洋八と三代目をB&Bを結成。「七転び八起き」または「七転八倒」から、それぞれ洋七・洋八に改名。結成二年目の1977年には第6回上方お笑い大賞銀賞を受賞。翌1978年には第13回上方漫才大賞奨励賞を受賞するなど実力が認められた。しかし1979年、「ヤングおー!おー!」(MBS制作)のチンチラチンコーナーにレギュラー抜擢されなかった事が原因で大阪の活動に限界を感じる。また、大阪では結構売れっ子となっていたのに、郷里の広島や、祖母のいる佐賀では殆ど知られておらず、「いくら売れても大阪ローカルではダメ、東京発の全国ネットのTV番組に出演しなければ意味がない」と悟り、東京で活躍したいという野望が沸く。

1979年、29歳で東京行きを決行した。吉本興業の幹部・芸人仲間からの反対を押し切って、強行で反旗を翻したため、吉本興業には解雇を言い渡される。

[編集] 東京

東京の漫才協団に加入し戸崎事務所に移籍。浅草松竹演芸場など東京の寄席にノーギャラで出演。B&Bの名前は東京の関係者には轟いており、観客がまばらなのに偵察に来た東京の若手芸人達が立ち見に並んだ。ビートたけしはB&Bを見て、スピードを早め喋りまくるスタイルへ変更したといわれている。東京でも瞬く間に高い評価を得て、漫才協団幹部の内海桂子が「よくもこんな(凄い)人を吉本がくれたわね」と驚嘆した。1980年1月、澤田隆治プロデュースによる「花王名人劇場」(関西テレビ)“激突!漫才新幹線”に大抜擢され出演。この番組はゴールデン(タイム)の1時間枠をMC無しで、B&Bとやすしきよし星セント・ルイスの三組が漫才のみをする、という現在のゴールデンでは見られない形態のものだった。当時は若手漫才師が、全国ネットのゴールデンに出演することなど無かった。また漫才と言えば例外なくスーツ着用で年期の入った掛け合いを見せる、というものだったが、TシャツにGパン、長髪の今風の若者が、掛け合いを無視した一方的なしゃべりで、広島や岡山など地方をネタにしたギャグを、体を使ったオーバーアクションで連呼する姿は、従来の漫才とは違うとても新鮮なもので、やすきよにも一歩も引かない姿は大きな反響を巻き起こした。こういったスタイルは現在もお笑いの基本となっている。続いて同年4月から始まった「お笑いスター誕生!!」(日本テレビ)でもケタ違いの実力を見せ、ストレートで10週を勝ち抜き初代グランプリとなり大ブレイク、漫才ブームを引き起こす。

[編集] 漫才ブーム

同年4月、フジテレビプロデューサー横沢彪が穴埋め企画として、失敗覚悟でゴールデンタイム1時間半という画期的なお笑い番組を敢行。「THE MANZAI」と題したこの番組は、B&Bをはじめとした若手芸人を中心に起用、客席には大学生だけを入れる、派手なセット、服装は自由、ネタを編集する、CMネタを認めるという、当時としてはタブーだった事をすべて許容した斬新なものだった。若手芸人といってもそれなりのキャリアを持った彼らは、大いにその実力を発揮し漫才は爆発的な人気を得て社会現象ともなる。中でもB&Bは若い女性に大人気となり、ブロマイドの売り上げがアイドルと混じって男性部門第3位となる。この人気で、月~金の帯番組を5本と計算すると週に実に26本もの番組に出演する殺人的スケジュールとなる。同年10月、「笑ってる場合ですよ!」(フジテレビ)の総合MCに抜擢される。この年、時間が取れない中、深夜0時、2時、3時、と3回のクリスマスディナーショーをこなす。「所属事務所は社長が一人、タレントはB&Bだけで社長がマネージャーを兼務した。そのため給料は3人で分けて紙袋や段ボール箱に入れて持って帰った。女は常に八角関係、たけしと一千万で銀座のクラブを貸し切ったり、現金持参でベンツを買いに行ったりするなどの豪遊をした。」と本人は語る。

[編集] 急降下

しかし、1981年から始まった「オレたちひょうきん族」(フジテレビ)ではたけしと明石家さんまがメインで洋七は完全に脇にまわる。また、1982年の「笑ってる場合ですよ!」終了と同時に人気が急降下、1983年にB&Bを解散。その後、国分健二と新コンビ「スティング」を結成したり、間寛平と「洋・寛」という漫才コンビを結成したりするも、いずれも長続きしなかった。間寛平の絡みで萩本欽一欽ちゃんファミリー入りしたこともある。またかねてより事業欲も旺盛で、最盛期には新宿渋谷原宿などの一等地に広島風お好み焼き店“モミジハウス”を6店舗展開、後に、母親の要求に応じて全て閉店してしまう。この頃まったく仕事が無かったので、たけしの仕事場に付いて回る。また、竜雷太と土地がらみの問題で裁判になり、勝訴するも結局借金しか残らなかった。1995年第17回参議院議員通常選挙に当時居を置いた埼玉県選挙区から出馬。洋八やぼんちおさむら昔の仲間が応援してくれたが、高速道路で演説したり他県で演説したりで落選。このため新潟県で2票入ったという逸話が残る。芸人引退を決意し、たけしに相談するが、「芸人をやめるなら友達づきあいをやめるぞ!」と一喝され、引退を思いとどまる。一度は解雇された吉本に頭を下げて復帰を許され、生涯一漫才師を誓い、洋八と再びB&Bを復活させ、こつこつと仕事をこなす。

[編集] カムバック

たけしに「出ろよ」と言われ出演した『平成教育委員会』も、いつまでも頼ってはマズいと辞める。この頃、レギュラーを持っていたラジオのゲストに学者野球選手が来ると「これから講演に行く」と聞かされ興味を持ち講演をはじめる[1]。祖母との思い出は、恥ずかしい過去でもあり、あまり他人に話してなかった。しかし講演で祖母の話をすると非常に受け、またたけしと寿司屋で飲んだとき、たけしの母親自慢に対抗して、ばあちゃんの話をしたら涙を流してたけしが大笑いし「絶対に本にすべき」とアドバイスされたことから、話をまとめて出版社に持ち込む。しかし、「お笑いの人にしては話が地味」として請けてもらえず、40社まわったが出版できなかった。やむなくNGKの楽屋やNHKロビーにカンパ箱を置き、お笑い仲間、佐賀や広島の人達からもカンパを募り、東京の小出版社から1987年12月、自費出版で単行本にし、当初3000部を出版。この時のタイトルは、たけしに付けてもらった「振り向けば哀しくもなく」だった。さほど評判になることもなく廃刊となっていたが、二度目の自費出版をした2002年には、自費出版では珍しい2万部を売上げ少々話題となる。

徳間書店から出版させて欲しいと連絡があり「佐賀のがばいばあちゃん」と改題し文庫化されると口コミで評判が広がる。さらに2003年「徹子の部屋」(テレビ朝日)で祖母の話をしたところ、大きな反響を呼ぶ。

その後増刷を重ね“がばいばあちゃん”シリーズ三部作はベストセラーとなり映画化・ドラマ化もされ、再び時の人となった。2007年に入って『スマステ』(テレビ朝日)など、テレビで特集が組まれ更に部数を伸ばしている。“がばいばあちゃん”シリーズ全作では、日本国内だけで2007年7月に540万部を越えている。

最近は多数のテレビ出演ほか、「佐賀のがばいばあちゃん」を演目とした講演依頼が殺到、その回数は3500回を越え、現在人気ナンバーワンらしい。常人には決して経験することのない波瀾万丈の人生を歩むお笑い芸人と言える。

現在は妻の母親の介護のため、佐賀市へ居を構え活動中。

2007年8月末をもって吉本興業を再度離籍することが発表された(2007年4月10日)。その原因としては、「がばい」関連の収益について吉本側と対立したためとされた。なお、完全に吉本との契約関係が終了したのは2007年12月9日である[2]

[編集] 逸話

  • B&Bのギャグの代表格と言えば「モミジまんじゅう~!」である。実はこれが流行るまでは、広島県民にとってもあまり馴染みのあるものでは無く「宮島に行きゃぁ売っとるよ」という程度の存在だった。このギャグのブームでメーカーが15社から一気に300社にまで、また最大手のにしき堂は売上が10倍に跳ね上がり、深夜にまで工場を稼動させていた。ブームが終わった後も完全に広島名物として定着し、現在でもメーカーは200社ある。広島のおみやげ物屋では今でも1/3のスペースがもみじ饅頭で占められる。洋七の功績に感謝したにしき堂の大谷照三会長は、お礼に現金5000万ほどを手渡そうとしたが、洋七は「われわれももみじ饅頭のお陰で売れた」と受け取らなかった。しかし、大谷会長が感謝の気持ちを表すため、広島の飲食店に対して「B&Bの飲食代は当人から受け取らず、にしき堂へ請求書を回せ」と指示しているそうで、洋七は今でも広島へ行くと、店がお金を受け取らないため飲食費は無料との事。
  • 「モミジまんじゅう~!」以外のギャグとしては、洋八のアフロヘアーをジャングルに見立て髪を掴んで頭の中に「小野田さ~ん!」と叫ぶ、クイズ「リンゴとミカン、どっちがバナナ」などがある。B&Bは洋七が一人でしゃべって、洋八がタイミングよくツッコむという形態なので「練習・打ち合わせはしない。したのは消防署のネタだけ」(洋七談)と言う。消防署のネタというのは、セリフをアクションを交えて洋七が少しずつ見せて洋八に復唱させる、というもので、最初は短いので出来るが段々長くなり出来なくなるというネタである。正式題名は"消防士の生きざま"という。
  • うめだ花月の進行係をしていた時、当時吉本新喜劇の新入りで同学年の間寛平と仲良くなり、程なく寛平が、新婚の洋七夫婦のアパートに転がり込み三人の共同生活が始まった。仕事から帰ると冷蔵庫にマヨネーズケチャップしか無いので二人でそれを啜った。うさぎに食べさせると八百屋からもらってきた野菜の芯、パン屋の食パンの耳、花月のお客様が置いていったお弁当などが貴重な食料となった。
  • 6年間に二度も相方に逃げられた失意の洋七に洋八を紹介したのは桂三枝とされる。その後洋七自身が「俺と一緒に漫才で勝負しよう」と役者志望の洋八を口説いた。三枝は舞台の袖で進行係をしていた洋八を「あいつ、どうや?」と指さしただけだが、「あいつ男前やんか。これからは漫才も男前が売れるぞ」と言ったというから、これは恐るべき先見性と言えるだろう。
  • 1970年代の後半、「ヤングおー!おー!」(毎日放送)のプロデューサーに、「番組でウケたらコーナーを持たせてやる」と言われ、B&Bとザ・ぼんち、のりお・よしおに、明石家さんまを加えて『ビールス7』(後にチンチラチン)を結成した。コントの練習中、キャラの被る西川のりおと度々殴り合いの大ゲンカを繰り返し、当時まだ20歳そこそこだったさんまが仲裁に走った。二人の機嫌をとるため代わりに殴られ「初めて大人の汚い世界を見た」らしい。結局このグループからB&Bが外され、紳助・竜介が代わりに起用され大きな人気を得た。弟弟子にレギュラーの座を奪われた洋七の、吉本への不信は決定的となり、東京行きを決意するに至った。
  • 西川のりおとは犬猿の仲で有名。B&B再結成時の劇場の前座でのりお・よしおが漫才をしたが、「客を温めて」おくのでなく客を「疲れさせ」たのでB&Bが登場してもウケず、洋七が激怒。のりおの泊まっているホテルへ乗り込むも不在で、鍵を開けさせ中に入り衣装を破き、薬を捨てた逸話がある。その後のりおから「請求書」が届いたというオチもある。
  • この番組の出演にあたり、プロデューサーからキチッとしたスーツの着用を強要されたが、金が無い事もあり拒否。自らがデザインしたB&Bとロゴの入ったTシャツ着用で舞台に立った。このTシャツがよく売れて、これも数千万の利益が出た。ロゴのデザインは当時流行っていたABBAのロゴをパクったと言われている[4]。この手法はタカアンドトシが真似ている。
  • 本人の語るところによると、最盛期、毎月数千万円が入った段ボールを妻に渡していたにもかかわらず、ある日「こんなに売れてるのに、何で給料がこんなに安いのか」と真顔で言われ、顔面蒼白となった。聞き返すと、段ボールの中はファンレターかと思い開けず、別に封筒で渡された端数の数十万円だけが給料と勘違いした、とのこと。段ボールは押入れの中に保管してあり約3億円の現金は無事だった。その日は1月1日、銀行も休みで預ける事が出来ず、こういう時に限って来客も多く、夫婦揃って押入れの前から微動だにしなかった。1月4日になって銀行が開き電話をかけ金額が大きいから取りに来てくれと頼んでも「3億」と言うと、「イタズラ電話はやめて下さい」とどこも信用してくれなかった。仕方なく自ら銀行に出向き、自宅に支店長を連れてきて現金を見せると、「どうしたんだ貴様!!、この金!!」と言われた。
  • 洋七を可愛がっていた“ミスター赤ヘル”山本浩二とイベントで一緒に出演。その年大活躍した山本は、王貞治を抜き年俸が球界一となった。司会が「王選手を抜いて球界一の8千~万円になりましたね!おめでとうございます!」と言ったあと、山本に「漫才師はどれくらいもらうんだ?」と聞かれた。あやうく「8億です」と言いそうになったが「いや、3000万くらいです」と答えると、「漫才師はもらい過ぎだな」と言われた。洋七は「そのとき8億と言っていたらバットでノックされてたろう」と語る。
  • 「モミジまんじゅう~!」のギャグが流行った時、広島の県菓に選ばれ宮島で表彰された。二千人位の参列者の前で、一枚板の3メートルもある巨大しゃもじを渡された。「このしゃもじは由緒あるなにがし寺に奉納されたもので…」と言われたため、「いらん」とは言えず、半分にして持って帰るわけにもいかず。結局梱包して宅急便で送ったら5万円かかった。しかし大きすぎて家に入らず、仕方なく物置を70万円かけて作って斜めに入れた。やはり使い道もないので処分することになり、高野山まで運んで奉納して拝んでもらって燃やしたら100万円かかったという[5]
  • 洋七を可愛がっていた横山やすしと東京での仕事が一緒になったとき、「東京で一番面白い若手」と紹介してもらったのが、ビートたけしとの最初の出会いである[6]。千葉の飯やで「成功して大金を掴んだら何が欲しいか」の質問に対して洋七は「を腹一杯食べたい」と言ったが、同じ質問に対してたけしは「俺は芸が買いたい」と言ったという。また親友になったのは1986年、たけしがフライデー事件を起こした時である。当時謹慎中で誰も面会に来なかった中、唯一洋七だけが会いに来たため、たけしは感謝で一日中泣いた、という。
  • 浅草キッドは、「漫才師」という一見愚にもつかない職業をあの80年代初頭の空前の“漫才ブーム”の到来とともに、キラ星の如くスターが輝く芸能界のなかで眩しいほどの光明を誇る一等星に押し上げたのは、紛れもなくビートたけしと島田洋七であると評価、「俺たちがこの世界に飛び込んだのも二人に魅入られて決めたようなもの」と述べている[7]
  • 洋七とビートたけしが“漫才ブーム”で儲けて、憧れの「銀座で飲む!」と初めて銀座に繰り出したが、どこの店に入ったらいいか分からないので、高橋慶彦に紹介してもらった店に行ったという。銀座で一晩飲むと200万と噂で聞いていたので、お互い2000万ずつボストンバッグに詰めて行った。その店の会計は14万円だった。200万という金額は銀座でナンバーワンのホステスの給料だったらしい[8]
  • 人気が急降下し、仕事が全くなくなった時期に睡眠薬自殺を図ったことがある。しかし薬を飲もうとしたそのとき、たけしから電話があり「一緒に飲もう」と誘われ、一晩中飲み明かしているうちに自殺のことなど忘れてしまったという。
  • 山本浩二らと付き合いがあり一時は広島カープファンと言っていたが、西武ライオンズのエースだった東尾修に「空気がいいから」と勧められ、佐賀に転居するまで西武ライオンズ球場の近くに住んでいた。
    それが縁で、その後は長年にわたる西武ライオンズのファンとなっている。

[編集] 主な受賞歴

[編集] 書籍

  • 佐賀のがばいばあちゃん/自著、1993年、徳間書店、(2004年1月文庫化)
  • がばいばあちゃん佐賀から広島へ めざせ甲子園/自著、徳間書店
  • がばいばあちゃんの笑顔で生きんしゃい/自著、徳間書店
  • がばいばあちゃんの幸せのトランク/自著、徳間書店
  • がばいばあちゃんの贈る言葉/自著、徳間書店
  • 佐賀のがばいばあちゃんのレシピ/ソニー・マガジンズ、2006年5月
  • がばいばあちゃんの贈る言葉 POST CARD BOOK/自著、徳間書店、2006年4月
  • 文句あっか!!/自著、文藝春秋、2005年11月
  • 島田洋七とがばい芸人たち 笑魂伝承/自著、イースト・プレス、2006年7月
  • かあちゃんに会いたい/自著、徳間書店
  • 俺の彼 がばいばあちゃんスペシャル劇場/自著、徳間書店、2007年9月

 

  • B&Bの仁義なき戦い 広島ヤクザと岡山ギャングの巻/KKベストセラーズ、1980年9月
  • B&Bの愛しかた愛されかた/KKベストセラーズ、1980年12月
  • B&Bと遊ぶ本 いたずらハイスクール<爆笑編>/KKベストセラーズ、1982年1月

[編集] 脚注

  1. ^ 『BIG tomorrow』324、2007年6月1日号、p85、青春出版社
  2. ^ 吉本と再び決別!島田洋七の契約終了
  3. ^ 『BIG tomorrow』324、p83
  4. ^ 『BIG tomorrow』324、p82
  5. ^ 浅草キッド『お笑い 男の星座』 p79-80、文藝春秋、2001年
  6. ^ 浅草キッド『お笑い 男の星座』 p72-74、文藝春秋、2001年[1]
  7. ^ 浅草キッド『お笑い 男の星座』p71、文藝春秋、2001年
  8. ^ 『俺の彼 がばいばあちゃんスペシャル劇場』 p54-61、徳間書店、2007年

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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