星セント・ルイス
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星セント・ルイス(ほし・セント・ルイス)は、星セントと星ルイスからなる、日本の漫才コンビ。2003年解散。
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[編集] メンバー
- 主にボケ担当。
星ルイス(1948年11月17日 - 2005年3月10日)
- 主にツッコミ担当。
[編集] 経歴
セントは長野で高校に通っていたころから芸人を志望しており、森繁久彌・谷啓・関敬六といった有名コメディアンにファンレターを熱心に送るような青年だった。その中の漫才コンビ・獅子てんや・瀬戸わんやから卒業後に来るよう返事を貰い、1969年に弟子入り。ルイスはその頃、晴乃ピーチク・パーチクに弟子入りしていたが、1971年に師匠コンビが解散することになったため、てんや・わんやに客分扱いで招かれる。その時、トリオ・ザ・パンチに所属していたセントを引き合わされてコンビを結成。師匠から「セント・ルイス」と命名された。
駆け出しの頃は有楽町の東宝演芸場を本舞台とし、浅草の舞台を修行と割り切るような気概があった。反面、それが表に見えたことで一部の浅草芸人達から嫌われていたという。二人の衣装は揃いのスーツに蝶ネクタイというような伝統的なものではなく、オープンシャツにノーネクタイ、革ジャンやタイトなマンボズボン、頭にはダービーハットといったモダンなものを好んだ。さらにブーツを履いてステージに上がる事が多く、新進の漫才コンビが古臭い漫才師の服装を崩すきっかけとなった。
セントは新劇に傾倒するところがあり、漫才にシェークスピアの戯曲から台詞を引用したり、スタニスラフスキーの名前をギャグのフレーズに登場させたりした。売れない頃は暇を見つけては文学座に所属していた友人と演劇芝居に取り組んでいたという。名が知られてからもイヨネスコの「授業」や、ベケットの「ゴドーを待ちながら」などに出演している。コンビ結成3年目あたりから不仲になり、会話はネタ打ち合わせの時と舞台に立っている時だけ。プライベートな付き合いは一切無かったようで、コンビ解消前はそのことを伏せてお互いプロフェッショナルに徹して舞台に立っていた。互いの住所すら明かさなかったという。
1977年、ツービートらを抑えてNHK漫才コンクールで優勝。長身のセントが早口でギャグをまくし立て、小さなルイスがつっこむというスタイルで、社会風刺をネタにした独特の漫才で一躍人気となる。
1980年には「田園調布に家が建つ」というネタで一世を風靡。「花王名人劇場・激突!漫才新幹線」では、やすし・きよしに対抗する東の代表として競演し、漫才ブームの先駆けとなった(もう一組として抜擢され出演したのがB&B)。しかし、その後ブームの仕掛人横澤彪と合わなかったこと等が原因となりテレビの露出度では後退する。そのスタイルは洗練されるがより低年齢むけのお笑いブームでは一線に出ることはなかった。
2003年にコンビを解消。2004年にはセントが、2005年にはルイスが相次いで他界。ともに死因は肺ガンであった。 セントが他界したとき、ルイスは「俺を置いていくなんて、大馬鹿者だよ」と発言したが、その8ヵ月後には同じ病で亡くなることになった。
ナイアガラレコードのオムニバスアルバム「Let's Ondo again」で、イーハトーブ田吾三九が歌う「ハンド・クラッピング音頭」にゲスト出演しギャグを披露している。
[編集] 主なギャグ
有名な「田園調布に家が建つ」のフレーズは、元々「ああ鎌倉に家が建つ」というものだった(セントの姉が鎌倉に住んでいた事と関係する)。
- 「俺達にあすはない。キャッシュカードに残は無い。」
- 「すぐ捨てよう、夢と希望と卒業証書」
- 「田園調布(でんえんちょうふ)に家が建つ」
- 「右目で右目が見られるか」
- 「きゅうり、ピーマン、ナス別荘」
- 「収入、睡眠、反比例」
- 「世の中で大切なもの。義理と人情とお中元」
- 「世の中に不足するもの。水と油とあんたの努力」
- 「飲みたい食べたい家(うち)建てたい、人が見てなきゃサボりたい」
- 「(ルイスを見て)こういう男は肩書きより手取り、そういう人生を送ります」