安藤昇
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安藤 昇(あんどう のぼる、1926年5月24日 - )は、日本のヤクザ、俳優、小説家、歌手、プロデューサー。株式会社東興業(通称:安藤組)組長。
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[編集] 安藤組(東興業)設立まで
大正15年(1926年)5月24日、東京府豊多摩郡淀橋区(現:東京都新宿区)東大久保で生まれた。安藤家の先祖は北条早雲の侍大将・安藤式部だった。
横浜市平安尋常小学校時代は6年間、級長を務めた。
昭和13年(1938年)ごろから、学校をさぼって、新宿のミルクホールにたむろするようになった。
昭和14年(1939年)3月28日、横浜市平安尋常小学校を卒業した。同年4月、神奈川県立旧制川崎中学校(現:神奈川県立川崎高校)に進学した。
昭和15年(1940年)晩秋、転勤のため両親は満州国奉天に渡るが、安藤自身は祖母とともに日本に残る。この年、先輩の相田とともに、自宅の剣道具を古道具屋に売る。後に相田は学校の剣道具を盗み、古道具屋に売った事で警察に逮捕されるが、安藤が主犯だと主張したため淀橋警察署に連行され、取調べを受けた。安藤は60数日間、相田と共謀して剣道具を盗んだことを否認し続けるが、九段の少年審判所に送られたのち調布の感化院「六踏園」に入れられた。1ヵ月後、相田の証言で嫌疑が晴れ、六踏園を出た。それ以後安藤は他校の不良たちと喧嘩に明け暮れるようになる。この頃、安藤は帝京商業学校(現:帝京大学高校)の加納貢(後に新宿の帝王と呼ばれた)と知り合う。同年暮れ、安藤と加納は、立教大学の学生・杉本法介(後の安藤組組員)と知り合う。安藤は、杉本の紹介で、新宿不良グループの首領・慶應大学学生の館崎直也の弟分となった。
昭和16年(1941年)2月、安藤は満州国奉天の両親の元に移り、4月には奉天第一中学校に転入、このころ、奉天の艶楽書館[1]に入った。同年11月、奉天の料理店で奉天商業高校の教師と喧嘩になり暴行を加え、この事件により奉天第一中学校を退学になった。その後帰国すると中部鍋屋横丁の叔父の家に預けられる。同年、安藤は濡れ衣を着せて自分を感化院にやった相田に暴行を加えて報復し、また大久保界隈の不良仲間の番長・秋田征治と決闘し、剃刀で相手の右頬を切り裂き、詫びを入れさせた。
昭和17年(1942年)2月、新宿駅で愚連隊の首領・万年東一(「愚連隊の元祖」と呼ばれた)の出征を見送った。同年4月、安藤は京王商業学校(現:専修大学附属高校)に転入した。すぐに、京王商業学校の番長になった。同年5月に喧嘩で前歯2本を折り、7月には安藤昇は京王商業学校を退学となった。その後、旧制智山中学校に転入するが3ヶ月後には、同級生が東洋商業学校(現:東洋高校)の不良たちに因縁をつけられたため、安藤は間に入って話をつけた。その1ヵ月後、旧制智山中学校の柔道部主将・戸山剛史や副将たちに、東洋商業学校の一件が知られ、安藤は旧制智山中学校の柔道部部員たちにリンチを受けた。1週間後、安藤は不良仲間2人を連れて、戸山剛史の住むアパートを襲い、戸山剛史ら柔道部部員を恐喝して、現金5円や剣道具、柔道着などを奪い、それらをを古道具屋に売って150円を得た。その2ヵ月後の年の暮れ、脅された柔道部部員が警察に訴え、安藤たちは淀橋警察署に逮捕された。
昭和18年(1943年)、安藤は練馬警察署に移送され、九段の少年審判所を経て多摩少年院に護送された。4ヵ月後、海軍予科練習生になる決心をして願書を提出し、合格した。同年12月8日、第21期海軍乙種飛行予科練習生として、三重海軍航空隊第83分隊6班に入隊した。
昭和20年(1945年)6月、109部隊特攻「伏龍」に志願し、横須賀市久里浜に配属された。同年8月15日、終戦を迎え除隊すると両親の疎開先である藤沢市に移るが、同年10月に上京し12月には新宿武蔵野館前で、野田克己(後の安藤組幹部)と再会し下北沢にある野田のアパートに転がり込んだ。その後、加納貢、法政大学の学生・黒木健児(後の安藤組幹部)、西条剛史(後の安藤組幹部)、庄司茂(後の安藤組幹部)とも再会した。同月、安藤たちは、下北沢の喫茶店「パール」を根城にして、新宿・渋谷・銀座に進出し始めた。このころから、愚連隊「下北沢グループ」が形成されていった。
昭和21年(1946年)1月、安藤と野田は銀座で愚連隊・銀座白虎隊の者2人と喧嘩になり、2人を叩きのめした。安藤は、銀座白虎隊の1人が持っていたドスを奪い取った。同月、安藤、野田、西条の3人は、銀座の喫茶店で銀座の「デカ市」と云う不良たちともめた。安藤は、喫茶店のトイレで「デカ市」と決闘をし、「デカ市」を破り、東銀座の進駐軍用ビアホールで「デカ市」と手打ちをした。同年、安藤の兄貴分だった館崎直也が肺病で死亡した。
同年3月、下北沢の屋台で、黒木と野田がテキヤ三田組組員2人ともめた。三田組組長は、万年東一の戦友・三田剛造だった。黒木が三田組組員2人を倒した。また、同月下北沢駅前で下北沢グループが三田組組員と喧嘩になり加納、野田、黒木らが三田組組員を叩きのめした。その後、喫茶店「パール」で、再び黒木・野田と三田組組員が喧嘩になり、黒木が三田組組員を倒した。それを知った三田剛造の舎弟・沢野哲也は、配下の三田組組員とともに、東北沢で、黒木と野田を襲った。野田が沢野に日本刀で背中を切られ重傷を負い、その日のうちに安藤昇たちは三田組に殴り込みをかけるも三田や沢野は既に警察署に自首していて不在であった。後に安藤は銀座白虎隊の1人から奪ったドスから足がつき世田谷警察署に逮捕され、銃砲刀剣等不法所持で書類送検された。
同年4月、安藤と西条は法政大学予科に入学、喫茶店「パール」で万年東一と話し合い、三田組と手打ちをし法政大学の番長となる。同年5月25日、新宿のダンスホールで安藤は元テキヤの大橋正二と喧嘩になり、ナイフで大橋の手のひらを切った。大橋の兄弟分だった山手線の顔役が、安藤と交渉し手打ちとなった。また同年、渋谷で安藤と西条は、地回りのヤクザ3人と喧嘩していた外食券食堂の闇切符売り・須崎清(後の安藤組大幹部)を助ける。須崎はその場で安藤の舎弟となった。安藤たちは、須崎の口利きで、外食券売りの元締めたちの用心棒となった。
昭和22年(1947年)4月23日、安藤は早苗と結婚し、早苗の両親が配給を受けるために酒屋として使っていた渋谷区金王町の家で所帯を持った。この家が下北沢グループの事務所となる。同年、花田瑛一(後の安藤組大幹部)、石井福造(後の安藤組大幹部・住吉連合常任相談役)、島田宏(後の安藤組参謀)が下北沢グループに加わった。同年、安藤はハワイの日系2世の下士官と知り合い、駐留軍の物資を闇で売りさばくようになった。
昭和23年(1948年)、シボレーを購入、この年、駐留軍の物資を闇で売りさばいていたことから、ハワイの日系2世の下士官や須崎清が物価統制令違反でCID(特別犯罪捜査部)に逮捕され、ハワイの日系2世の下士官は軍事裁判で、本国送還となった。同年秋、兄弟分・高橋輝男(後の住吉一家大日本興行初代)の紹介で銀座に洋品店「ハリウッド」を開店した。裏では、再び駐留軍の物資を闇で売りさばいていた。
昭和24年(1949年)春、銀座で在日外国人のヤクザ・蔡に左頬を切られる。傷は左頬のもみあげから唇まで約15センチで、30針が1時間半かけて縫われた。1ヵ月半後、喫茶店で蔡の兄から和解を頼まれていた高橋輝男が蔡との和解話を持ちかけてくるが、安藤はこれを断り、喫茶店近くまで連れて来らていた蔡は、安藤昇の舎弟に刺殺された。同年、安藤は法政大学を中退する。
昭和25年(1950年)秋、安藤は渋谷区宇田川町に、バー「アトム」を開店、同年に石井福造の紹介で花形敬が、下北沢グループに加入した。
昭和27年(1952年)5月7日夜、花形と国士舘大学の学生・佐藤昭二(後の安藤組幹部)が、渋谷栄通りで、「人斬りジム」と呼ばれる白系ロシア人と揉めた。花形が「人斬りジム」を殴打し、佐藤が投げ飛ばした。「人斬りジム」は自宅に戻って日本刀を取り出し、妻(通称:お蝶)とともに、花形と佐藤を探して、渋谷を徘徊した。翌5月8日午前1時ごろ、花形と佐藤は「人斬りジム」とその妻と遭遇、佐藤が「人斬りジム」を路上に押さえつけ、花形が顔面に蹴りを入れ続けた。「人斬りジム」が動かなくなると、二人は安藤昇に挨拶に行った後、渋谷警察署に自首した。同年5月20日、このときの傷が原因で破傷風にかかった「人斬りジム」は死亡する。花形は裁判で正当防衛を主張するが認められず余罪も追及され、懲役4年の実刑判決を受け、宇都宮刑務所に服役した。佐藤は執行猶予となった。
同年、志賀日出也が、下北沢グループに加入した。
このころ、安藤は、渋谷区宇田川町に「東京宣伝社」の看板を掲げ、舎弟たちにパチンコの景品買いやサンドウィッチマン、靴磨きなどを取り仕切らせていた。
[編集] 安藤組(東興業)解散まで
同年7月、安藤は東京都渋谷区宇田川町に株式会社東興業(通称:安藤組)を設立し、正式に登記した。登記上の業種は、不動産売買と興行だったが、裏では水商売の用心棒なども行っていた。母体となったのは、下北沢グループだった。専務には志賀日出也、営業部長には花田瑛一、参謀に島田宏が就いた。設立当時、幹部が13人、それぞれの幹部に属する準幹部が26人、直属配下が70人だった。また、下北沢グループの流れをくむ組員が200人いた。組員には安藤組のバッジを配布した。安藤組のバッジのデザインは、黒地に、アルファベット「A」の文字を金色で浮き立たせたもので、幹部はそれを三重、準幹部は二重、他は一重の丸で囲んで区別した。幹部と準幹部は、グレーのベネシャンのスーツに、黒色のネクタイを制服とした。刺青や指詰めを禁止した。組員が使用する拳銃は、米軍用コルト45口径に統一した。上級者には絶対服従を徹底した。
同年、新宿三越裏の喫茶店「白十字」で、万年東一から、落合一家・高橋岩太郎総長を紹介された。安藤昇の兄貴分が、小林光也(通称:小光)で、小林光也の兄貴分が万年東一だった。安藤は、高橋から博打のテラの取り方などを学んだ。
昭和28年(1953年)、安藤組は、高橋岩太郎の舎弟・武田一郎率いる渋谷のテキヤ武田組(飯島連合会系)と小競り合いを繰り返していた。白昼に路上で、両組の若衆同士が乱闘を起こし、互いに相手方の事務所に殴り込みをかけた。武田組は、安藤組の地下事務所にガソリンをまき、火を付けようとした。安藤組組員が武田一郎宅に実弾3発を撃ち込んだ。同年、安藤昇は、東興業の事務所を、渋谷区上通り4丁目のビル3階に移した。事務所は10坪。社長室は8坪で、緑色の絨緞を敷き詰めていた。社長室の窓際には、丸い鳥かごが置かれ、紅いカナリヤが飼われていた。このころから、安藤は賭博を開帳し始めた。毎週金曜日にはポーカー賭博を行った。
同年4月8日、安藤組幹部・野田克己がモルヒネ中毒で死亡した。
同年、国学院大学学生の西原健吾が安藤組に加入した。
昭和29年(1954年)6月、花形敬は模範囚として、宇都宮刑務所を出所した。
昭和30年(1955年)、渋谷宇田川町にキャバレー「純情」がオープンした。安藤組に挨拶がなかったことから、花形敬が「純情」に赴いた。花形敬が「純情」のマネージャーを脅すと、店内から用心棒の力道山が出てきた。両者は激しく睨み合うが、力道山が先に折れて店内に消えた。花形敬は店内に入るとプロレスラーたちのテーブルをひっくり返して、そのプロレスラーたちに「力道山と翌日3時に銀座の資生堂で話し合いたい」と云う旨に伝えてから引き上げたが、翌日力道山は資生堂に現れなかった。花形敬から報告を受けた安藤昇は、力道山襲撃を計画、安藤組組員が力道山の自宅近くに待機していたが、力道山は帰宅せず、その後プロレスラーの東富士(元横綱)の仲介で、安藤組と力道山は和解した。
昭和31年(1956年)、安藤昇は東京赤坂に赤坂支店を開設した。支店長には、東興業専務・志賀日出也を据えた。
昭和32年(1957年)、武田組組員と安藤組組員が揉めた。武田組・武田一郎組長の親分は、関東尾津組・尾津喜之助組長だった。翌日午前6時ごろ、安藤昇は、2丁の拳銃を所持し、志賀日出也とともに、新宿の尾津喜之助の自宅に赴いた。安藤昇は、武田組との抗争の件で、直接尾津喜之助のもとに掛け合いに来たことを告げた。尾津喜之助は、安藤昇の武田組に対する要求を認めた。同日、高橋岩太郎と小林光也は安藤昇の行動に立腹した。翌日、高橋岩太郎と小林光也は、尾津喜之助宅を訪れて、尾津喜之助に安藤昇の行動を謝罪した。尾津喜之助は、安藤昇の要求を認めていた。高橋岩太郎は、尾津喜之助に、安藤組と武田組に手打ちをさせることを提案した。尾津喜之助は、高橋岩太郎の提案に賛成した。その後、安藤組と武田組は、池袋の料理屋で、高橋岩太郎を仲裁人、尾津喜之助の兄弟分・極東関口初代の関口愛治を見届人として、手打ちを行った。
昭和33年(1958年)2月17日、酔った花形敬が、石井福造の配下の牧野昭二を殴打した。同日深夜、牧野昭二は、石井福造のアパートを訪れ、石井福造に事の経緯を説明し、花形敬襲撃を訴えた。牧野昭二は、石井福造のアパートを出てから、花形敬を探して、渋谷を徘徊した。同日、牧野昭二は、花形敬と遭遇し、拳銃で花形を撃った。一発が花形敬の左手指を貫通し、一発が花形の腹部に命中した。花形敬はタクシーを拾い伊達外科病院に入るが、4ヶ月以上の入院治療が必要な傷だった。花形は傷の手当だけ受けると、病院を抜け出し、牧野昭二を探し回った。花形は牧野を探し回りながら酒を飲み、夜明け前には女を連れて宇田川町の「岩崎旅館」に入った。翌2月18日昼、安藤昇から東興業事務所に来るように云われた花形敬は、事の経緯の説明を求められたが、無言を押し通した。両者の対立は、安藤昇の兄弟分・加納貢が仲介して収まった。
同年6月11日午後7時10分、横井英樹襲撃事件が発生した。
詳細は横井英樹襲撃事件を参照
昭和34年(1959年)2月9日早朝、安藤昇は、中野分類刑務所から前橋刑務所に移された。
昭和36年(1961年)4月、花形敬は宇都宮刑務所を出所した。花形敬が組長代理となった。
昭和38年(1963年)8月、安藤組幹部・西原健吾(花形敬の舎弟)の若衆・田中が、渋谷区宇田川町で、岡村文化部(会長は岡村吾一)組員と揉め、乱闘になった。これを切っ掛けに花形敬刺殺事件が発生した。
詳細は花形敬刺殺事件を参照
昭和39年(1964年)9月15日午前6時、安藤昇が仮釈放され、前橋刑務所から出所、その後志賀日出也も出所した。
同年11月6日、西原健吾の舎弟・小池が渋谷区宇田川町のバーで、錦政会(後の稲川会)会員と喧嘩になった。同年11月7日午後5時50分、レストラン外苑で、西原健吾と矢島武信が錦政会側と話し合いを持ったが、2人は錦政会会員に襲われた。西原健吾は三発の銃弾を受けて死亡し、矢島武信は日本刀で頭を切りつけられて、重傷を負った。
同年12月9日[2]、安藤昇は千駄ヶ谷区民講堂で「安藤組解散式」を行い、安藤組を解散した。「安藤組解散式」には高橋岩太郎が出席し、佐郷屋留雄が来賓として招かれた。
[編集] 安藤組(東興業)解散後
昭和40年(1965年)、映画会社松竹が、安藤昇の自叙伝を元にヤクザ映画『血と掟』の製作を内定した。安藤は、映画プロデューサーから、自叙伝の映画化を申し入れられ、了承した。ところが、安藤昇役の俳優が見つからなかった。映画プロデユーサーは、安藤自身に、『血と掟』での安藤役を依頼した。安藤は、出演依頼を了解した。
同年8月、湯浅浪男監督のヤクザ映画『血と掟』が公開された。その後、短身だがその端整な顔立ちと有名な元暴力団組長という類を見ない経歴から、松竹重役がさらなるヤクザ映画への出演を安藤に持ちかけた。安藤は了承し、俳優に転向した。[3]
昭和45年(1970年)、安藤昇は、五社英雄監督のテレビ時代劇『新・三匹の侍』に主演した[4]。
昭和49年(1974年)、東映配給・五社英雄監督の映画『暴力街』において、安藤昇は江川紘一役で主役を務めた。五社英雄とは互いに義兄弟と認めた間柄であり、五社英雄が自分の映画への出演を安藤昇に打診していたからである。
昭和54年(1979年)、『総長の首』出演を最後に俳優を休業。現在はごくたまにVシネマに出演する程度で、専ら文筆活動の方に勤しんでいる。
[編集] 脚注
- ^ 「書館」とは日本の芸者屋と御茶屋を兼ねた所。
- ^ 出典は、安藤昇『自伝 安藤昇』ぶんか社、2001年、ISBN 4-8211-0734-1
- ^ 松竹重役からさらなる出演依頼が来た当初、安藤昇は松竹を諦めさせるつもりで、当時のトップクラスの俳優のギャラを上回る出演料を呈示したが、松竹重役が条件を呑んだため安藤も断りきれずに出演に踏み切ったという。
- ^ 当時の安藤昇は、専ら映画に出演していた。
[編集] 参考文献
- 『愚連隊伝説』洋泉社、1999年、ISBN 4-89691-408-2
- 山平重樹『愚連隊の元祖 万年東一』幻冬舎<アウトロー文庫>、1999年、ISBN 4-87728-755-8
- 安藤昇『やくざと抗争 上巻』徳間書店<文庫>、1993年、ISBN 4-19-890018-3
- 安藤昇『やくざと抗争 下巻』徳間書店<文庫>、1993年、ISBN 4-19-890019-1
- 山平重樹『一徹ヤクザ伝 高橋岩太郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2004年、ISBN 4-344-40596-X
- 安藤昇・向谷匡史・神田たけ志『餓狼の系譜 1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5590-1
- 安藤昇・向谷匡史・神田たけ志『餓狼の系譜 2』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5606-1
- 安藤昇・向谷匡史・神田たけ志『餓狼の系譜 3』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5610-X
- 安藤昇・向谷匡史・神田たけ志『餓狼の系譜 4』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5620-7
- 安藤昇・向谷匡史・神田たけ志『餓狼の系譜 5』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5629-0
- 安藤昇・向谷匡史・神田たけ志『餓狼の系譜 6』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5640-1
- 安藤昇・向谷匡史・神田たけ志『餓狼の系譜 7』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5652-5
- 安藤昇・向谷匡史・神田たけ志『餓狼の系譜 8』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5662-2
- 安藤昇『自伝 安藤昇』ぶんか社、2001年7月10日、ISBN 4-8211-0734-1
[編集] エピソード
- 子供の頃からオシャレには気を遣っており、特に履物はコレクションするほどのこだわりがある。中学時代にはお気に入りのコードバン革の靴がはけなくなる理由から戦時下で義務付けられていたゲートル着用を徹底して拒否したという。
- 安藤組は、従来の暴力団とは異なるファッショナブルなスタイル(背広の着用を推奨し、刺青・指詰めを厳禁した等)で、当時の若者の絶大な支持を集めた。最盛期には500人以上の構成員が在籍し、中には大学生や高校生の姿も珍しくなかったという。安藤自身いわく、早大や、慶大の学生も多くいたという。
安藤組の幹部には、後年になって安藤組の回顧録『修羅場の人間学-実録 安藤組外伝』(徳間書店、文庫、1995年、ISBN 4198904375、1993年には映画化もされた)を執筆した森田雅や、本田靖春の小説『疵 花形敬とその時代』(文藝春秋社、文庫、1987年、ISBN 4167263041)の主人公として知られる花形敬らがいる。また作家の安部譲二が、中学生の頃から末端組員として安藤組に出入りしていたことが知られている。 - 当時の渋谷は、渋谷駅を世田谷方面からのターミナル駅として利用する学生が集まる町だった。
- 映画『網走番外地 吹雪の斗争』に出演した際、監督・石井輝男に無断で撮影現場を離れて帰ったことがある。石井は含むところもなく、安藤これ以降の映画でも仕事をしている。
- 俳優として人気も実力もあったが、あまり出演しなくなった事には理由がある。撮影中のカメラリハーサルで拳銃を撃つシーンがあり、この時「バン!バン!」と銃を撃つ声を自ら出さなければならなかった。それをたまたま知り合いに見られてしまい、さすがの安藤も恥ずかしい思いをした事がきっかけと言われている。
- 安藤本人と安藤組には数々の逸話・武勇伝があり、現在でもたびたび小説やVシネマの題材として取り上げられている。
- 現在は、渋谷に拠点を持つ右翼団体「日本民族連合」(住吉会住吉一家石井会系)の相談役でもある。
- 俳優転向後は、映画主題歌を歌いレコードも数枚出した。ただし、俳優となった後も暗黒街との交流は続いていた。友人がある一家の跡目を襲名した際には、その記念に開かれた賭場に顔を出し、後日警察に逮捕された。安藤の話によると、この時警察で著書へのサインを頼まれたという。
[編集] 主な出演
[編集] 映画
- 湯浅浪男監督『血と掟』(1965年 松竹)、配役:安藤昇
- 湯浅浪男監督『やさぐれの掟』(1965年 松竹)、配役:ヘンリー奥田
- 湯浅浪男監督『逃亡と掟』(1965年 松竹)、配役:南洋一郎
- マキノ雅弘監督『男の顔は切り札 』(1966年、松竹)、配役:岩上
- 加藤泰監督『男の顔は履歴書』(1966年 松竹)、配役:雨宮修一
- 井上梅次監督『炎と掟』(1966年 松竹)、配役:南条伸
- 野村芳太郎監督『望郷と掟』(1966年 松竹)、配役:相良
- 斎藤芳朗監督『阿片台地 地獄部隊突撃せよ』(1966年 松竹)、配役:宇留木少尉
- 梅津明治郎監督『白昼の惨殺』(1967年 松竹)、配役:時岡敬太
- 佐藤純彌監督『続 組織暴力』(1967年 東映)、配役:国崎健司
- 工藤栄一監督『日本暗黒史 血の抗争』(1967年 東映)、配役:河上純一
- 加藤泰監督『懲役十八年(1967年 東映)、配役:川田章
- 降旗康男監督『懲役十八年 仮出獄』(1967年 東映)、配役:郡司信介
- 降旗康男監督『ギャングの帝王』(1967年 東映)、配役:新田
- 石井輝男監督『網走番外地 吹雪の斗争』(1967年 東映)、配役:轟
- 鈴木則文監督『侠客道』(1967年 東映)、配役:伊吹剛
- 工藤栄一監督『日本暗黒史 情無用』(1968年 東映)、配役:坂下健一
- 瀬川昌治監督『密告(たれこみ)』(1968年 東映)、配役:相良守
- 佐藤純彌監督『組織暴力 兄弟盃』(1968年 東映)、配役:大場健二
- 松尾昭典監督『やくざ非情史 刑務所兄弟』(1969年 日活)、配役:岩本直治
- 中川順夫監督『やくざ非情史 血の盃』(1969年 日活)、配役:緒形哲
- 野村孝監督『昭和やくざ系図 長崎の顔』(1969年 日活)、配役:小岩竜吉
- 深作欣二監督『日本暴力団 組長』(1969年 東映)、配役:工藤登
- 萩原遼監督『やくざ非情史 血の決着』(1970年 日活)、配役:林田常吉
- 深作欣二監督『博徒外人部隊』(1971年 東映)、配役:工藤登
- 降旗康男監督『新網走番外地 嵐を呼ぶ知床岬』(1971年 東映)、配役:五代政雄
- 降旗康男監督『新網走番外地 吹雪の大脱走』(1971年 東映)、配役:久保
- 中島貞夫監督『懲役太郎 まむしの兄弟』(1971年 東映)、配役:早崎雄吉
- 原田隆司監督『関東テキヤ一家 浅草の代紋』(1971年 東映)、配役:大月慎吾
- 五社英雄監督『出所祝い』(1971年 東宝)、配役:尾関軍次郎
- 本田達男監督『まむしの兄弟 お礼参り』(1971年 東映)、配役:二階堂剛
- 佐伯清監督『昭和残侠伝 破れ傘』(1972年 東映)、配役:寺津力松
- 深作欣二監督『現代やくざ 人斬り与太』(1972年 東映東京)、配役:矢頭俊介
- 佐藤純彌監督『ギャング対ギャング 赤と黒のブルース』(1972年 東映)、配役:水森徹三
- 佐藤純彌監督『やくざと抗争』(1972年 東映)、配役:爆弾マッチ(本名は山崎松雄)
- 佐藤純彌監督『実録 私設銀座警察』(1973年 東映)、配役:池谷三郎
- 佐藤純彌監督『実録・安藤組 襲撃篇』(1973年 東映)、配役:安藤昇
- 石井輝男監督『現代任侠史』(1973年 東映)、配役:栗田光男
- 佐藤純彌監督『やくざと抗争 実録安藤組』(1973年 東映)、配役:安藤昇
- 小沢茂弘監督『三代目襲名』(1974年 東映)、配役:菅谷政雄
- 中島貞夫監督『唐獅子警察』(1974年 東映)、配役:栗原友雄
- 山下耕作監督『あゝ決戦航空隊』(1974年 東映)、配役:関根賢
- 深作欣二監督『新仁義なき戦い』(1974年 東映)、配役:海津卯之吉
- 中島貞夫監督『安藤組外伝 人斬り舎弟』(1974年 東映)、配役:安藤昇
- 斎藤耕一監督『無宿〈やどなし〉』(1974年 東宝)、配役:斐川仙蔵
- 五社英雄監督『暴力街』(1974年 東映)、配役:江川紘一
- 三堀篤『非情学園ワル ネリカン同期生』(1974年 東映)、配役:東盟会会長
- 深作欣二監督『仁義の墓場』(1975年 東映)、配役:野津竜之助
- 唐十郎監督『任侠外伝 玄海灘』(1976年 ATG)、配役:近藤
- 田中登監督『安藤昇のわが逃亡とSEXの記録』(1976年 東映)、配役:安藤昇
- 中島貞夫監督『総長の首』(1979年 東映)、配役:花森庄造
- 和泉聖治監督『極道渡世の素敵な面々』(1988年 東映)、配役:牧師
- 和泉聖治監督『実録新宿の顔 新宿愚連隊物語2』(1997年 ムービーブラザース)、特別出演
- 梶間俊一監督『安藤組外伝 掟』(2000年 TPO)、配役:大道寺崇政
- 梶間俊一監督『実録・安藤組外伝 餓狼の掟』(2002年 東映)、配役:安藤昇
- 梶間俊一監督『渋谷物語』(2004年 東映ビデオ)、配役:安藤昇
- 『やくざ残酷秘録 片腕切断』(1976年 東映)構成・企画
[編集] 主な著作・インタビュー本
- 安藤昇・『東海の殺人拳』双葉社 1982年、ISBN 978-4198125820
- 安藤昇『自伝安藤昇』ぶんか社、2001年、ISBN 4821107341
- 山口猛『映画俳優安藤昇』ワイズ出版、2002年、 ISBN 4898301347
- 安藤昇『激動―血ぬられた半生』双葉社、1998年、ISBN 4575506605
- 安藤昇・向谷匡史・神田たけ志『餓狼の系譜 1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5590-1
- 安藤昇・向谷匡史・神田たけ志『餓狼の系譜 2』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5606-1
- 安藤昇・向谷匡史・神田たけ志『餓狼の系譜 3』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5610-X
- 安藤昇・向谷匡史・神田たけ志『餓狼の系譜 4』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5620-7
- 安藤昇・向谷匡史・神田たけ志『餓狼の系譜 5』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5629-0
- 安藤昇・向谷匡史・神田たけ志『餓狼の系譜 6』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5640-1
- 安藤昇・向谷匡史・神田たけ志『餓狼の系譜 7』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5652-5
- 安藤昇・向谷匡史・神田たけ志『餓狼の系譜 8』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5662-2