関根賢
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関根 賢(せきね まさる、1899年1月20日 - )は、日本のヤクザ、実業家。関根組組長。関根建設社長。群馬県出身。
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[編集] 関根組結成まで
明治32年(1899年)1月20日、群馬県で生まれた。関根家は、家禄1200石の武士の家だった。父は学校の校長だった。兄は、関根実。関根賢は、中学校を卒業すると、土建業に入った。その後、関根賢は、半博徒の河合徳三郎(天下の河合と呼ばれた)の子分となった。兄・関根実は、民政党系の院外団の常任幹事となった。
明治42年(1909年)暮れ、河合徳三郎の身内だった高橋金次郎は、浅草で土建請負業「高橋組」の表看板を掲げて、一家を結成した。その後、関根賢の舎弟・中島豊吉(後の北関東大久保一家九代目)が、高橋組に入った。
大正10年(1921年)、河合徳三郎は、大日本国粋会[1]を脱会し、民政党の後ろ盾のもとに、大和民労会を結成した。大和民労会の結成式は、浅草伝法院で行われ、約5000人が集まった。大和民労会の中心メンバーは、土建業系博徒の関根賢(後の関根組組長)、高橋金次郎(高橋組組長)、城迫正一(後の小千鳥組組長)だった。それぞれが、浅草、吉原、向島、下谷を地盤としていた。
大正11年(1922年)4月14日夜、鼈甲屋事件が勃発した。
詳細は鼈甲屋事件を参照
同年12月30日、大日本国粋会系田甫一家の青沼辰三郎(後の田甫一家五代目)は、浅草区千束町で、年忘れの賭場を開帳した。高橋組の木村は、青沼辰三郎の賭場に乗り込み、青沼を罵倒した。青沼辰三郎たちは、木村を賭場の外に連れ出し、暴行を加えた。
同年12月31日、青沼辰三郎は、豊田吉次郎(青沼の親分である田甫一家四代目・金井米吉の兄弟分)の自宅を訪ねた。木村は、青沼辰三郎が豊田吉次郎の家にいることを知ると、ドスを持って、豊田宅に殴り込んだ。青沼辰三郎は、すでに豊田吉次郎の家を出ていた。木村は、豊田吉次郎の幹部・中島幸太郎をドスで斬った。木村は、青沼辰三郎がいないことを確認すると、豊田吉次郎の家から立ち去った。それを知った青沼辰三郎は、単身で、浅草区新谷町の高橋組・高橋金次郎組長の自宅に、ドスを持って殴り込んだ。青沼辰三郎は、高橋組組員と斬りあった後、高橋金次郎の自宅から逃げた。
大正12年(1923年)1月2日未明、高橋組の若衆約50人が、浅草・新谷町に集結した。高橋組の若衆は、喧嘩仕度を整えてから、日暮里町元金杉の田甫一家四代目・金井米吉の家に殴り込みをかけた。同日、大日本国粋会所属の博徒は、田甫一家が高橋組の殴り込みを受けたことを知り、芝区新幸町の関東総本部で、緊急会議を開いた。会議では、大日本国粋会所属の博徒は、すぐに田甫一家に応援し、高橋組に報復することが決まった。警視庁は、大日本国粋会の動きを察知し、非常召集をかけた。愛宕、築地、北紺屋の警官300人を新橋駅、土橋、虎ノ門周辺に配置した。同年1月3日午前2時すぎ、大日本国粋会は、400人の会員を関東総本部に集めて、浅草に向かって出発した。同日午前3時、大日本国粋会の博徒は、警官隊と遭遇し、解散を命じられた。大日本国粋会は、高橋組への報復を断念した。大和民労会は、大日本国粋会の行動を知り、東京市の会員約1万5千人に檄を飛ばした。関根賢も、下谷区上根岸の大和民労会本部に駆けつけた。大和民労会は、大和民労会本部に会員を集め、大日本国粋会と戦うために進んだが、300人の警官隊に取り囲まれて、解散を命じられた。大和民労会も大日本国粋会との戦いを断念した。
同月末、洲崎・武部申策の身内・佐久間政雄と大日本国粋会幹事・小島長次郎(通称:茨城長)が喧嘩となった。佐久間政雄は、小島長次郎を斬った。大日本国粋会系の博徒は、小島長次郎が斬られたことを知り、日本刀や短刀を持って、洲崎の遊郭付近の広場に集まった。人数は約140人に達した。佐久間政雄は、大和民労会に駆け込んで、助けを求めた。大和民労会は、160人を集め、日本刀や短刀を用意し、自動車20台に分乗して、洲崎の遊郭付近の広場に乗りつけた。大和民労会と大日本国粋会は斬り合いとなった。関根賢もこの斬り合いに参加した。
大正14年(1925年)3月、大和民労会と大日本国粋会は、抗争事件を起こし、両者合わせて160人が検挙された。
同年9月、東京電力は、田島町の埋立地に火力発電所を新設することを決めた。火力発電所の工事は、指名競争により、清水組が落札した。工事の一部を、土建系博徒・三宅秀組傘下の青山組が請け負った。三宅秀組傘下で、青山組・青山巳代吉の兄貴分である中田組の中田峰四郎は、青山組が工事を請けることに反対した。
同年12月21日、中田峰四郎は、白装束姿で中田組を連れて、青山組の鍬入れ式に乗り込み、青山組に対して宣戦を布告した。青山巳代吉は、中田峰四郎と話し合いを持とうとした。中田峰四郎は、話し合いを拒否し、工事の中止を要求した。
同日、青山巳代吉の兄弟分・松尾嘉右衛門が、仲裁に入ったが、中田峰四郎は松尾の仲裁案を拒否した。松尾嘉右衛門は、青山巳代吉に付いた。同日、鶴見警察署は、青山巳代吉と中田峰四郎を呼んで、双方を説得した。青山巳代吉と中田峰四郎は、鶴見警察署の説得を受け入れた。東京電力も工事着工を延期した。
同日夕方、鶴見造船所前を、青山組の助っ人たち15人の乗った3台の車が、通ろうとした。鶴見造船所前の三宅秀組事務所前にいた三宅秀組組員は、拳銃や小銃、日本刀などを持って、3台の車に襲い掛かった。この事件を契機に、三宅秀組には四百数十人の助っ人が集まった。青山組、松尾組には、関根賢や上萬一家玉の井貸元・飯島半之助(本名は吉井半之助)ら約500人が集まった。同日午後5時すぎ、両組は、旭ガラス工場付近、浅野造船所、飛行場、小学校、埋立地で、斬り合った。同日午後11時半、両組の戦闘は終わった。青山組と松尾組の死者は4人、重軽傷者40人だった。三宅秀組も同数の死傷者が出た。
同年12月30日、東京・銀座の「松本楼」で、三宅秀組と青山組・松尾組の手打ち式が行われた。調停役は、関東国粋会代表の陸軍少将・木田伊三郎、関西国粋会代表・浪花組曽我長之助、東京土木建築業組合長・中野喜三郎だった。
昭和初期、日立の博徒・助川一家二代目・久野益義は、跡目を鈴木保三郎に譲って上京し、関根実のもとで右翼活動を始めた。
昭和元年(1926年)、関根賢は、木津勝治(通称:隼の勝二)を若衆とした。木津勝治の弟は、上萬一家飯島二代目・飯島竜二(本名は岩佐竜二郎)の若衆・木津政雄(通称:木津政。後の北星会・岡村吾一の呑み分けの兄弟分)だった。
このころ、木津政雄は、拳銃を持って、木津勝治の家を訪れ、自分を自分の舎弟の前でも子ども扱いすることへの不満を述べた。木津勝治は、木津政雄を取り合わなかった。木津政雄は、天井に向けて、拳銃を発射し、逃亡した。
まもなく、木津政雄は別の事件で逮捕され、少年刑務所に送られた。
藤田卯一郎(後の初代松葉会会長)は、旧制水戸中学校を卒業すると、上京し、退役海軍中将・高橋邦之介の書生となった。高橋邦之介は大和民労会の後援者だった。このころ、関根賢は、関根の若衆とよく喧嘩をしていた藤田卯一郎のことを、関根の若衆から聞いた。
昭和4年(1929年)9月20日、木津勝治が、肺結核のため、死亡した。享年25。木津政雄は、少年刑務所で、木津勝治の死を知った。
昭和5年(1930年)3月26日、中村直彦が、昭和天皇御成婚、大正天皇崩御、昭和天皇即位の3つの恩赦で、小菅刑務所を出所した。
同年3月、河合徳三郎は、中村直吉の放免祝いを兼ねて、向島の料亭で食事会を行った。客は、高橋邦之介、関根賢、大和民労会・幹部や院外団幹部だった。高橋邦之介は、藤田卯一郎ともう1人の書生を連れて、河合徳三郎の主催した食事会に出かけた。河合徳三郎は、関根賢と中村直彦を連れて、料亭に現れた。河合徳三郎らは、料亭の表で、高橋邦之介らと会い、中村直彦を紹介した。
昭和7年(1932年)春、藤田卯一郎は、高橋邦之介の使いで、向島区寺島町(玉の井)の轟幸太郎宅を訪れた。轟幸太郎は、民政党院外団常任幹事・関根実(関根賢の兄)の若衆で、大和民労会系の人物だった。轟幸太郎は、ざる蕎麦の出前を取り、藤田卯一郎ら4人とともに応接室で食べ始めた。このとき、関東国粋会系神津島一家の刺客数人が乱入してきた。轟幸太郎の書生が腰を刺されて重傷を負った。藤田卯一郎は、刺客の1人を刺殺し、1人に重傷を負わせた。轟幸太郎の若衆が駆けつけると、刺客は退散した。藤田卯一郎は、轟幸太郎の指示で、向島の料亭「まえじま」に身を隠した。轟幸太郎と神津島一家の対立は、飯島半之助が仲裁した。翌日の夜、関根賢が藤田卯一郎を訪ねた。その場で、藤田卯一郎は関根賢の若衆になった。翌日朝、藤田卯一郎は、関根賢に付き添われて、向島警察署に自首した。藤田卯一郎は懲役10年の判決を受けた。
その後、関根賢は、飯島竜二の了解を得て、木津政雄を若衆とした。
関根賢の若衆・通称ガンテツと河合徳三郎一門の大頭矢一之助が言葉の遣り取りから、揉めた。木津政雄が、大頭矢一之助の殺害を買って出た。間もなく、大頭矢一之助は上野警察署に逮捕され、市ヶ谷刑務所に服役した。刑期は半年だった。半年後、大頭矢一之助は市ヶ谷刑務所を出所した。市ヶ谷刑務所前には、200人ほどの出迎えがいた。木津政雄は、拳銃を持参して、3人の若衆とともに、大頭矢一之助の前に歩み出た。木津政雄は、大頭矢一之助に向けて拳銃を1発撃ったが、当たらなかった。木津政雄は、若衆から日本刀を貰うと、大頭矢一之助に斬りかかり、大頭矢の肩を斬った。200人の出迎えが、木津政雄たちに襲いかかってきたので、木津政雄はとどめを刺すのを諦めて逃亡した。
昭和10年(1933年)春、藤田卯一郎は、模範囚だったことと皇太子誕生の恩赦により、刑期を短縮されて、千葉刑務所を出所した。
昭和11年(1934年)、関根賢が本所・向島区方面の博徒や愚連隊を集めて、向島に土建業「関根組」の看板を掲げた。関根組は、労務者たちの労働組合結成を許可した。
[編集] 関根組解散まで
その後、関根賢は、テキヤの関口愛治(後の極東愛桜連合会会長)に兄弟分のなることを持ちかけた。関口愛治は、すでに関根組幹部と兄弟分だったため、関根賢の申し出を断った。関根賢は、関口愛治が兄弟分を断った理由を知り、関口愛治に親戚になることを提案した。関口愛治も、関根賢の提案に賛成した。2人は、親戚固めの盃を交わした。
このころ、木津政雄は、岡村吾一から、高崎の愚連隊・関東流星団の首領で岡村吾一の弟分・武井紀義(後の出羽一家四代目)を紹介された。武井紀義は、木津政雄の舎弟となり、関根賢の若衆となった。
その後、木津政雄は、関根実の若衆に刺されて瀕死の重傷を負った。藤田卯一郎は、関根組事務所に顔を出したとき、藤田の舎弟・石渡幸吉から、木津政雄が重体であることを知らされた。藤田卯一郎は、関根実への報復を押しとどめて、石渡幸吉とともに、関根組若衆の運転する車で、木津政雄が運ばれた病院に向かった。藤田卯一郎は、瀕死の木津政雄に五分の兄弟分になろうと声をかけた。それから、木津政雄は死地から脱した。すぐに、藤田卯一郎は、木津政雄と兄弟分になった。
昭和17年(1942年)夏、藤田卯一郎は、拳闘倶楽部「日東ジム」会長・益戸克己(「不良の神様」と呼ばれた)、幸平一家・本橋政夫(後の幸平一家九代目)、生井一家・篠原鶴吉とともに、住吉一家三代目・阿部重作の舎弟となった。
同年2月、関根組幹部・石渡幸吉の兄弟分でテキヤの赤水貞道(通称:馬賊のバカ水。樋口天雷の三代目)が、本所の賭場で、藤田卯一郎に所作を注意されたことに腹を立て、藤田と揉めた。それから一週間後の昼、石渡幸吉が、関根組幹部・土田元勝(石渡の兄弟分)と関根組組員・露野五郎(石渡の舎弟)とともに、赤水貞道の住む浅草馬道の「金時アパート」に赴いた。石渡幸吉だけが、赤水貞道の自室で、赤水と話し合いを持った。土田元勝と露野五郎は、「金時アパート」の玄関前を固めた。石渡幸吉は、赤水貞道に、断指して藤田卯一郎に詫びを入れるように要求した。赤水貞道は、石渡幸吉の要求を拒否した。石渡幸吉と赤水貞道の話し合いはこじれ、両者は斬り合いとなった。石渡幸吉は、「金時アパート」の玄関前まで逃げた。赤水貞道は、石渡幸吉を追い、露野五郎の顔を斬った。石渡幸吉が赤水貞道を刺殺した。同日、石渡幸吉、土田元勝、露野五郎は警察に自首した。藤田卯一郎は、殺人教唆容疑で、警視庁に逮捕されたが、その後無罪放免となった。
昭和19年(1944年)夏すぎ、軍部から警視庁を通じて大和民労会に国家奉仕の依頼があり、関根組は、児玉誉士夫とともに鉄・銅資源の収集を行った。藤田卯一郎も鉄・銅資源の収集に奔走した。大日本国粋会は、武蔵挺身隊を組織して、東部軍に協力し、防空壕掘りなどの土木作業を行った。
昭和20年(1945年)8月15日の終戦直後、藤田卯一郎は、兄弟分・益戸克己の口利きで、佐藤栄助(後の松葉会二代目、四代目[2])を舎弟とした。さらに、佐藤栄助は関根賢から盃を貰って、関根組の若衆となった。終戦直後、住吉一家二代目・倉持直吉の元で修行中だった橋本時雄(後の出羽家一家五代目)は、浅草六区のサッポロビアホール前で、関根組組員10人に対して、喧嘩を売った。橋本時雄は、浅草の関根組幹部の事務所に連行されて、暴行を受けた。そのとき、藤田卯一郎が、関根組幹部の事務所を訪ねてきた。橋本時雄は、関根組組員に暴行を受けても、根をあげなかった。藤田卯一郎は、倉持直吉から橋本時雄を貰い受けた。
昭和21年(1946年)、関根賢は、藤田卯一郎の発案を採用し、関根組大幹部に金バッチ、関根組幹部に銀バッチ、関根組準幹部に青バッチを着けさせ、関根組組員と非組員を見分けやすくした[3]。
昭和22年(1947年)時の関根組の大幹部は、副組長・関根時雄、藤田卯一郎、久野益義(後の松葉会最高顧問)、田山芳徳(後の上萬一家六代目)、木津政雄、白土源次郎、渡辺庄吉、向里政文、三浦賢治、関原春重、小栗善清、上田武男、小林清、大宮福三郎、田中貞次、和泉武志の16人だった。関根組幹部は、北沢憲太郎、沼田九右衛門、武井紀義(後の出羽家一家四代目)、中島久見、高野吉三郎、石渡幸吉、板垣勇、佐藤由哉、松本三郎、土田元勝、石川清友、立原竹次、須永武美、遠藤一夫、上田久、富浦七五郎、小林英亮、秋葉満義、福井宇之輔だった。準幹部には、山中吾市(後の榎戸一家五代目)、菊池徳勝(後の松葉会三代目会長)などがいた。
このころ、関根組の事業場建設の際には、自由党・吉田茂総裁や自由党・鳩山一郎から、花輪が送られた。
昭和22年(1947年)4月、関根賢は、四月選挙で自由党候補者を後援した。
このころ、連合国軍総指令部(GHQ)は、内務省警保局を通じて、国警本部に、ヤクザの一斉検挙と壊滅を指示した。
同年7月8日、関根組は恐喝容疑で手入れを受けた。このとき、木津政雄が隠匿していた航空機用機関銃が発見された。機関銃の不法所持容疑により、関根賢、木津政雄など関根組幹部、多数の組員が、GHQに検挙され、軍事裁判を受けて服役した。関根賢は小菅刑務所に収監された。関根賢は留守を藤田卯一郎に任せた。これで、関根組は解散状態に追い込まれた。藤田卯一郎は、新たに「藤田組」を結成し、組織の存続を図った。
昭和23年(1948年)11月、九州・小倉で、初めて競輪が開催された。その後、橋本時雄は、競輪のレースそのものに関わるフィクサーとなっていった。
昭和24年(1949年)3月、藤田組は、GHQによる団体等規正令により、解散を命じられて消滅した。
同年6月、関根組もGHQによる団体等規正令により、解散を命じられて消滅した。
[編集] 関根組解散後
昭和28年(1953年)3月に、藤田卯一郎 が、関根組幹部だった久野益義、田山芳徳、木津政雄、和泉武志、武井紀義、山中吾一(後の榎戸一家五代目)らとともに、旧関根組と旧藤田組の組員を集めて松葉会を結成した。初代会長には、藤田卯一郎が就任した。松葉会の名称は、関根賢のかつての親分、河合徳三郎の家紋が「松葉」であったところから名付けられた。
関根賢は出所後に隠退し、関根建設社長に転進した。関根賢は、東京都葛飾区立石に自宅を移した。藤田卯一郎も関根賢の自宅近くに引越した。
昭和36年(1961年)10月、藤田卯一郎は、上萬一家五代目を継承した。同年10月30日、東京浅草の料亭「浜清」で、跡目披露が行われた。推薦人は、上萬一家の志村九内だった[4]。関根賢も出席した。
昭和38年(1963年)、町井久之は、児玉誉士夫の取り持ちで、三代目山口組・田岡一雄組長の舎弟となった。関東のヤクザ団体はこの兄弟盃に反対したが、児玉誉士夫が関東ヤクザ団体を説得した。同年2月、神戸市須磨区の料亭「寿楼」で、田岡一雄と町井久之の兄弟盃が執り行われた。この結縁式には、稲川角二錦政会会長、関根賢、阿部重作・住吉会名誉顧問、磧上義光・住吉一家四代目総長兼港会会長が出席した。
昭和38年(1963年)3月、警察庁は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会の5団体を広域暴力団と指定し、25都道府県に実態の把握を命じた。
同年9月5日、石川県山中温泉のキャバレー「リンデン」で、松葉会金沢支部の者が、二代目本多会山中支部の者に射殺された。その報復として、松葉会金沢支部6人が、本多会山中支部前で、本多会山中支部長を射殺した。藤田卯一郎は応援部隊220人を、山中温泉に送った。二代目本多会・平田勝市会長も200人の応援部隊を送り込んだ。この抗争は、関根賢や児玉誉士夫が間に入って、手打ちとなった。
昭和39年(1964年)1月、「暴力取締対策要綱」が作られた。
同年2月、警視庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(「第一次頂上作戦」)を開始した。
詳細は第一次頂上作戦を参照
昭和43年(1968年)7月8日午後11時50分、藤田卯一郎は心筋梗塞で死去した。享年61。同年7月11日、身内だけの密葬が行われた。密葬には、二百数十個の生花が届けられた。
同年10月8日、東京都浅草の本願寺で、本葬が行われた。同日正午すぎから、約5000人の参列者が集まった。葬儀委員長は、元北星会会長・岡村吾一。喪主は、遺族と関根建設社長・関根賢だった。施主は、久野益義、田山芳徳、和泉武志、小林清、大日本平和会・平田勝市会長、直嶋義友会・山田祐作会長、中島会・図越利一会長、稲葉地一家・上條義夫総裁、侠友会・播磨福作会長らが当たった。児玉誉士夫が「藤田卯一郎君の死を悼みて」と題した弔文を読み上げた。
昭和44年(1969年)1月、関根賢は、松葉会群馬県支部支部長・牧野春夫(後の牧野国泰。本名は李春星。後の松葉会六代目会長)を東京・向島の関根の自宅に呼び出した。関根賢は、牧野春夫に北関東大久保一家十代目を継ぐように勧めた。
昭和45年(1970年)、牧野国泰は、中島豊吉から、北関東大久保一家十代目を継承した。
[編集] エピソード
- 関根賢の親戚だった極東関口一家初代・関口愛治の死後、藤田卯一郎は、関口の位牌を自宅の仏壇に置いて、朝夕拝み、関口の冥福を祈った。藤田卯一郎の死後、松葉会・佐藤栄助会長と松葉会幹部・渡辺博昭は、関口愛治の位牌を、関口三代目・小林荘八に返上した[5]。
[編集] 註
- ^ 大正8年(1919年)11月、河合徳三郎、梅津勘兵衛、倉持直吉、青山広吉、篠信太郎、西村伊三郎、中安信三郎が中心となり、政友会・床次竹次郎(当時は、原敬内閣で、内相)を世話役に、右翼の頭山満を顧問に迎えて、大日本国粋会が、政治外の侠客団として結成された。大日本国粋会は、土建業者を含む博徒の全国的な結集団体だった。
- ^ 昭和5年(1930年)、佐藤栄助は、上京して日本大学に入学し、日大の学生時代には益戸克己の家に下宿していた
- ^ 関根組の偽組員が大量に出て悪事を働き、関根組が「ギャング」と呼ばれ始めたためとしている 山平重樹『義侠ヤクザ伝・藤田卯一郎』PP.145,146 幻冬舎<アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40476-9
- ^ 志村九内は、関根賢の親分・河合徳三郎の兄弟分だった
- ^ 山平重樹『義侠ヤクザ伝・藤田卯一郎』P.29 幻冬舎<アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40476-9
[編集] 参考文献
- 山平重樹『義侠ヤクザ伝・藤田卯一郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40476-9
- 山平重樹『一徹ヤクザ伝 高橋岩太郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2004年、ISBN 4-344-40596-X
- 松江八束建設業暴力追放対策協議会「暴力団ミニ講座 37)松葉会」
- 「第046回国会 法務委員会 第30号」
- 「国会会議録・第077回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第22号」
- 『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0
- 飯干晃一『柳川組の戦闘』角川書店<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0
- 山平重樹『ヤクザの死に様 伝説に残る43人』幻冬舎<アウトロー文庫>、2006年、ISBN 4-344-40894-2