河合徳三郎
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河合 徳三郎(かわい とくさぶろう、1871年5月 - 1937年12月3日)は、日本の土木建築請負業者、博徒。大都映画社長。民権新聞社社長。東京府参事会員。大和民労会会長。「天下の河合」と呼ばれた。
[編集] 来歴
明治3年(1871年)5月、岐阜県の河合吉次郎の次男として生まれた。明治33年(1900年)ごろ、東京市に土木建築請負業で登録した。関根賢(後の関根組組長)は、中学校を卒業すると、土建業に入った。その後、関根賢は、河合徳三郎の子分となった。関根賢の兄・関根実は、民政党系の院外団の常任幹事となった。
明治42年(1909年)暮れ、河合徳三郎の身内だった高橋金次郎は、浅草で土建請負業「高橋組」の表看板を掲げて、一家を結成した。
大正8年(1919年)11月、河合徳三郎、梅津勘兵衛、倉持直吉、青山広吉、篠信太郎、西村伊三郎、中安信三郎が中心となり、政友会・床次竹次郎(当時は、原敬内閣で、内務大臣)を世話役に、右翼の頭山満を顧問に迎えて、大日本国粋会が、政治外の侠客団として結成された。大日本国粋会は、土建業者を含む博徒の全国的な結集団体だった。
大正10年(1921年)、河合徳三郎は、大日本国粋会を脱会し、民政党の後ろ盾のもとに、大和民労会を結成した。大和民労会の結成式は、浅草伝法院で行われ、約5000人が集まった。大和民労会の中心メンバーは、土建業系博徒の関根賢、高橋金次郎、城迫正一(後の小千鳥組組長)だった。それぞれが、浅草、吉原、向島、下谷を地盤としていた。
大正11年(1922年)4月14日夜、鼈甲屋事件が勃発した。
詳細は鼈甲屋事件を参照
同年12月30日、田甫一家の青沼辰三郎(後の田甫一家五代目)は、浅草区千束町で、年忘れの賭場を開帳した。高橋組の木村は、青沼辰三郎の賭場に乗り込み、青沼を罵倒した。青沼辰三郎たちは、木村を賭場の外に連れ出し、暴行を加えた。
同年12月31日、青沼辰三郎は、豊田吉次郎(青沼の親分である田甫一家四代目・金井米吉の兄弟分)の自宅を訪ねた。木村は、青沼辰三郎が豊田吉次郎の家にいることを知ると、ドスを持って、豊田宅に殴り込んだ。青沼辰三郎は、すでに豊田吉次郎の家を出ていた。木村は、豊田吉次郎の幹部・中島幸太郎をドスで斬った。木村は、青沼辰三郎がいないことを確認すると、豊田吉次郎の家から立ち去った。それを知った青沼辰三郎は、単身で、浅草区新谷町の高橋組・高橋金次郎組長の自宅に、ドスを持って殴り込んだ。青沼辰三郎は、高橋組組員と斬りあった後、高橋金次郎の自宅から逃げた。
大正12年(1923年)1月2日未明、高橋組の若衆約50人が、浅草・新谷町に集結した。高橋組の若衆は、喧嘩仕度を整えてから、日暮里町元金杉の田甫一家四代目・金井米吉の家に殴り込みをかけた。同日、大日本国粋会所属の博徒は、田甫一家が高橋組の殴り込みを受けたことを知り、芝区新幸町の関東総本部で、緊急会議を開いた。会議では、大日本国粋会所属の博徒は、すぐに田甫一家に応援し、高橋組に報復することが決まった。警視庁は、大日本国粋会の動きを察知し、非常召集をかけた。愛宕、築地、北紺屋の警官300人を新橋駅、土橋、虎ノ門周辺に配置した。同年1月3日午前2時すぎ、大日本国粋会は、400人の会員を関東総本部に集めて、浅草に向かって出発した。同日午前3時、大日本国粋会の博徒は、警官隊と遭遇し、解散を命じられた。大日本国粋会は、高橋組への報復を断念した。大和民労会は、大日本国粋会の行動を知り、東京市の会員約1万5千人に檄を飛ばした。大和民労会は、下谷区上根岸の大和民労会本部に会員を集め、大日本国粋会と戦うために進んだが、300人の警官隊に取り囲まれて、解散を命じられた。大和民労会も大日本国粋会との戦いを断念した。
同月末、洲崎・武部申策の身内・佐久間政雄と大日本国粋会幹事・小島長次郎(通称:茨城長)が喧嘩となった。佐久間政雄は、小島長次郎を斬った。大日本国粋会系の博徒は、小島長次郎が斬られたことを知り、日本刀や短刀を持って、洲崎の遊郭付近の広場に集まった。人数は約140人に達した。佐久間政雄は、大和民労会に駆け込んで、助けを求めた。大和民労会は、160人を集め、日本刀や短刀を用意し、自動車20台に分乗して、洲崎の遊郭付近の広場に乗りつけた。大和民労会と大日本国粋会は斬り合いとなった。
大正14年(1925年)3月、大和民労会と大日本国粋会は、抗争事件を起こし、両者合わせて160人が検挙された。
藤田卯一郎は、旧制水戸中学校を卒業すると、上京し、退役海軍中将・高橋邦之介の書生となった。高橋邦之介は大和民労会の後援者だった。このころ、関根賢は、関根の若衆とよく喧嘩をしていた藤田卯一郎のことを、関根の若衆から聞いた。
昭和5年(1930年)3月26日、中村直彦が、昭和天皇御成婚、大正天皇崩御、昭和天皇即位の3つの恩赦で、小菅刑務所を出所した。
同年3月、河合徳三郎は、中村直吉の放免祝いを兼ねて、向島の料亭で食事会を行った。客は、高橋邦之介、関根賢、大和民労会・幹部や院外団幹部だった。高橋邦之介は、藤田卯一郎ともう1人の書生を連れて、河合徳三郎の主催した食事会に出かけた。河合徳三郎は、関根賢と中村直彦を連れて、料亭に現れた。河合徳三郎らは、料亭の表で、高橋邦之介らと会い、中村直彦を紹介した。
その後、上萬一家飯島二代目・飯島竜二(本名は岩佐竜二郎)の若衆だった木津政雄(通称:木津政。後の北星会・岡村吾一の呑み分けの兄弟分)が、飯島竜二の了解を得て、関根賢の若衆になった。
関根賢の若衆・通称:ガンテツと河合徳三郎一門の大頭矢一之助が言葉の遣り取りから、揉めた。木津政雄が、大頭矢一之助の殺害を買って出た。間もなく、大頭矢一之助は上野警察署に逮捕され、市ヶ谷刑務所に服役した。刑期は半年だった。半年後、大頭矢一之助は市ヶ谷刑務所を出所した。市ヶ谷刑務所前には、200人ほどの出迎えがいた。木津政雄は、拳銃を持参して、3人の若衆とともに、大頭矢一之助の前に歩み出た。木津政雄は、大頭矢一之助に向けて拳銃を1発撃ったが、当たらなかった。木津政雄は、若衆から日本刀を貰うと、大頭矢一之助に斬りかかり、大頭矢の肩を斬った。200人の出迎えが、木津政雄たちに襲いかかってきたので、木津政雄はとどめを刺すのを諦めて逃亡した。
昭和12年(1937年)12月3日、死亡した。墓は墨田区の常泉寺にある。
[編集] 註
[編集] 参考文献
- 山平重樹『義侠ヤクザ伝・藤田卯一郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40476-9
- 山平重樹『ヤクザの死に様 伝説に残る43人』幻冬舎<アウトロー文庫>、2006年、ISBN 4-344-40894-2