鼈甲屋事件
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鼈甲屋事件(べっこうやじけん)とは、大正11年(1922年)4月14日夜に東京浅草の博徒だった鼈甲屋一家・一見直吉親分(通称は鼈甲屋)が、大和民労会・河合徳三郎会長の命令を受けた中村直彦(通称は人斬り直)らに刺殺された事件。
[編集] 事件の経緯
大正11年(1922年)ごろ、東京浅草で大和民労会の高橋組(後の浅草高橋組)・高橋金次郎組長は、鼈甲屋一家・一見直吉親分と縄張り争いをしていた。出羽屋の山本周三は、高橋金次郎を応援していた。
その後、出羽屋の跡目問題が起こった。大和民労会・河合徳三郎会長は、山本周三を跡目に推し、他の親分からの了承を得た。河合は、服役中だった一見直吉にも「出羽屋の跡目を山本周三にしたい」と提案したが、一見は河合の提案に反対した。
それから、一見直吉が出所した。河合は、一見暗殺を計画し、中村直彦を中心に30人の子分を集めた。30人の暗殺隊は、3人づつ10組に分けられた。暗殺隊は、それぞれ連判状に署名したが、中村直彦だけが連判状に署名しなかった。中村は懲役を覚悟して、妻を浅草の女郎屋「日野屋」に売った。
同年4月14日夜、一見直吉は、浅草の料亭を出て、人力車に乗って自宅に向かった。途中で、中村直彦の組に遭遇し、停められた。人力車から降りようとしたとき、槍で腹部を刺された。中村らは、日本刀やドスなどで、一見を斬った。一見は、腹から腸が飛び出すほどの重傷を負った。一見は、中村らが去った後に、大学病院に運ばれたが、大学病院で死亡した。
その後、中村直彦は警察に逮捕された。警察は、殺人教唆をした人物を追及したが、中村は供述しなかった。中村は、懲役15年の判決を受けて、市ヶ谷刑務所に服役した。
[編集] 参考文献
- 山平重樹『ヤクザの死に様 伝説に残る43人』幻冬舎<幻冬舎アウトロー文庫>、2006年、ISBN 4-334-40894-2
- 山平重樹『義侠ヤクザ伝・藤田卯一郎』幻冬舎<幻冬舎アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40476-9