岡村吾一
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岡村吾一(おかむら ごいち、1907年 6月11日- 2000年5月29日)は、日本のヤクザ、右翼活動家、総会屋。北星会会長。埼玉県行田市出身。「村岡健次」とも名乗った。
[編集] 来歴
明治40年(1907年)6月11日、埼玉県行田市で生まれた。
上萬一家飯島二代目・飯島竜二(本名は岩佐竜二郎)の若衆だった木津政雄(通称:木津政。後の松葉会綱紀委員長)と呑み分けの兄弟分となった。
昭和2年(1927年)、右翼団体・鉄血社に加盟した。
同年、鉄血社と縄張り争いをしていた新宿の一家の親分を殺害した。懲役3年の刑を受けて、巣鴨刑務所に服役した。
昭和4年(1929年)、出所し、高崎市に移り住んだ。高崎市の武田愛之助の客分となった。
昭和6年(1931年)、岩田富美夫が主宰する右翼団体・大化会に入った。その後、大化会高崎支部長になった。
昭和8年(1933年)、上州の博徒一家数団体をまとめて、共和一家として統合した。
このころ、石黒彦市(通称:ぼったくりの彦)と知り合った。
昭和10年(1935年)、中国上海で、児玉機関に入り、児玉誉士夫の元で働いた。
昭和11年(1936年)ごろ、木津政雄に高崎市の愚連隊・関東流星団の首領で岡村吾一の弟分・武井紀義(後の出羽一家四代目)を紹介した。武井紀義は、木津政雄の舎弟となり、関根組・関根賢組長の若衆となった。
その後、石黒彦市は、岡村の恩師へハイダシ(無心を装った恐喝)を繰り返すようになった。また、岡村吾一の若衆と石黒彦市の若衆とが喧嘩を繰り返した。
昭和17年(1942年)9月2日、石黒彦市は、新橋の第一ホテルで用事を済ませ、第一ホテルを出てから、省線のガードに沿って、帝国ホテルに歩いた。石黒彦一は、政友会本部近くで、岡村吾一の舎弟・水原新太郎(本名は菊池貞雄)に、拳銃で銃撃され、4発の銃弾を受けた。
同年9月3日、石黒彦市は死亡した。享年40。
昭和20年(1945年)の終戦後、高崎市を中心とした11の博徒を集めて、上州共和一家を結成した。岡村の兄貴分・武田愛之助が上州共和一家初代総長に就いた。
昭和36年(1961年)、上州共和一家や埼玉県、群馬県の博徒を糾合して、北星会を結成した。岡村吾一が、北星会会長に就いた。
昭和37年(1962年)夏ごろから、児玉誉士夫は、「一朝有事に備えて、全国博徒の親睦と大同団結のもとに、反共の防波堤となる強固な組織を作る」という「東亜同友会」の構想を掲げ、錦政会(後の稲川会)・稲川裕芳(後の稲川聖城)会長、岡村吾一、東声会・町井久之会長らに根回しを始め、同意を取り付けた。
昭和38年(1963年)、町井久之は、児玉誉士夫の取り持ちで、三代目山口組・田岡一雄組長の舎弟となった。関東のヤクザ団体はこの兄弟盃に反対したが、児玉誉士夫が関東ヤクザ団体を説得した。同年2月、神戸市須磨区の料亭「寿楼」で、田岡一雄と町井久之の兄弟盃が執り行われた。この結縁式には、稲川角二錦政会会長、関根賢・関根建設社長、阿部重作・住吉会名誉顧問、磧上義光・住吉一家四代目総長兼港会会長が出席した。
同年2月11日、京都市の都ホテルに、稲川裕芳、岡村吾一、町井久之、田岡一雄ら全国の主だった組長が集まり、児玉誉士夫の構想が披露された。関東の組長を稲川裕芳が、関西・中国・四国の組長を田岡一雄が、九州の組長を児玉誉士夫がまとめて、意思統一を図った。
同年3月、グランドパレス事件が勃発した。結果的に、児玉誉士夫が推し進めていた東亜同友会構想が頓挫した。
詳細はグランドパレス事件を参照
昭和38年(1963年)8月、安藤組幹部・西原健吾(花形敬の舎弟)の若衆・田中が、渋谷区宇田川町で、岡村文化部(会長は岡村吾一)組員と揉め、乱闘になった。これを切っ掛けに花形敬刺殺事件が発生した。
詳細は花形敬刺殺事件を参照
同年12月21日[1]、北星会は、錦政会、住吉会、松葉会、日本国粋会、義人党、東声会とともに、児玉誉士夫の提唱する関東会に参加した。同日、関東会の結成披露が、熱海の「つるやホテル」で行われた。関東会初代理事長には、松葉会・藤田卯一郎会長が就任した。関東会は、関東会加盟7団体の名で、「自民党は即時派閥抗争を中止せよ」と題する警告文を、自民党衆参両議院200名に出した。自民党衆議院議員・池田正之輔は、この警告文を、激しく非難した。警告文は、自民党の治安対策特別委員会で、議題に取り上げられた。
昭和39年(1964年)1月、「暴力取締対策要綱」が作られた。
同年2月、警視庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(第一次頂上作戦)を開始した。
詳細は第一次頂上作戦を参照
同年5月25日午後1時から、神戸市須磨区の料亭「寿楼」で、藤田卯一郎は、二代目本多会・平田勝市会長と、五分の兄弟盃を交わした。このときの結縁披露宴では「御芳名録」まで作成された。取持人は、極東関口一家初代・関口愛治[2]、媒酌人は箸家四代目・秋野傳三郎だった。住吉会顧問・阿部重作と全国港湾荷役振興協会会長・藤木幸太郎が山口組との間に入り、山口組・田岡一雄組長に「田岡一雄組長は結縁式に出席しない。関東の博徒系の親分衆も結縁式には出席しない」と云う条件で、神戸市での結縁式を認めさせた。岡村吾一は、藤田卯一郎の兄弟分だったので結縁式に出席した。
昭和43年(1968年)7月8日夜、藤田卯一郎の知人が経営していた東京都新宿区の「ホテルみやこ」で、藤田卯一郎は心筋梗塞の発作を起こして倒れた。急報で医師が駆けつけた。同日午後11時50分、藤田卯一郎は死去した。享年61。
同年10月8日、東京都浅草の本願寺で、本葬が行われた。同日正午すぎから、約5000人の参列者が集まった。葬儀委員長は、岡村吾一が務めた。喪主は、遺族と関根建設社長・関根賢。施主は、久野益義、田山芳徳、和泉武志、小林清、大日本平和会・平田勝市会長、直嶋義友会・山田祐作会長、中島会・図越利一会長、稲葉地一家・上條義夫総裁、侠友会・播磨福作会長らが当たった。児玉誉士夫が「藤田卯一郎君の死を悼みて」と題した弔文を読み上げた。
昭和48年(1973年)4月11日か4月12日、殖産住宅相互株式会社社長・東郷民安は、流動社長・倉林公夫と会った。このとき、東郷民安は、倉林公夫に、殖産住宅相互株式会社の株主総会を、谷口経済研究所・谷口勝一所長に任せていることを話した。倉林公夫は、株主総会のことを、児玉誉士夫に相談するように進めた。
翌日、東郷民安は、児玉事務所を訪ねて、児玉誉士夫に会った。児玉誉士夫は、東郷民安に、岡村を紹介すると、約束した。
同年4月20日、東郷民安は、岡村と会い、100万円を渡した。殖産住宅相互株式会社の株主総会を岡村吾一が取り仕切ることになった。
同年5月28日、岡村吾一の仕切りによって、殖産住宅相互株式会社の株主総会は終了した。東郷民安は、児玉誉士夫に挨拶に行き、殖産住宅相互株式会社の株2万株(時価2500万円)を渡した。児玉誉士夫は、東郷民安から貰った株のうち、1千株を岡村吾一に渡した。
同年5月、東郷民安は、作詞家・川内康範が買った殖産住宅相互株式会社株3万株を、殖産住宅相互株式会社に引き取らせた。
平成12年(2000年)5月29日、死去した。晩年は宝塚歌劇団のスポンサーでもあった。
[編集] 註
- ^ 「第046回国会 法務委員会 第30号」と「国会会議録・第077回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第22号」では、結成披露日を12月21日と記載されているが、山平重樹『義侠ヤクザ伝 藤田卯一郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40476-9では11月21日と記述されている
- ^ 関口愛治は、関根賢の渡世上の親戚だった
[編集] 参考文献
- 山平重樹『義侠ヤクザ伝・藤田卯一郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40476-9
- 山平重樹『一徹ヤクザ伝 高橋岩太郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2004年、ISBN 4-344-40596-X
- 「国会会議録・第080回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第9号」
- 「国会会議録・第046回国会 法務委員会 第30号」
- 「国会会議録・第077回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第22号」
- 山平重樹『ヤクザの死に様 伝説に残る43人』幻冬舎<アウトロー文庫>、2007年、ISBN 4-344-40894-2