円周率の歴史
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本記事は、円周率の歴史(えんしゅうりつのれきし)について詳述する。
円周率 π は無理数なので小数で表現すると無限に長い数値になる。その長い表現は何千年にも渡り、世界中で計算されてきた。
ほとんどの目的には 3.14 や22⁄7の近似値を使い、これで十分である。技術系では 3.1416 や 3.14159 などを使用することが多い。天気予報や人工衛星などの計算では 30 桁程度の値を使用している。355⁄113などは覚えやすく精度が高い分数である。
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[編集] 正多角形による評価の時代
- 紀元前2000年ごろ
- 1936年にスーサで発見された粘土板などから、古代バビロニアでは、正六角形の周と円周を比べ、円周率の近似値として 3, 3+1⁄7 ≒ 3.142857 , 3+1⁄8 = 3.125 などが使われたと考えられている。
- 紀元前1650年ごろ
- 古代エジプトでは円周と直径の比から得られる値と、円の面積と半径の平方の比から得られる値が同じであることは知られていた。神官アハメスが書き残したリンド・パピルスには円積問題の古典的な解法の一つが記されており円の直径からその1⁄9を引いた長さを一辺とする正方形の面積と、元の円の面積が等しいとしている。この計算から円周率を計算すると、256⁄81 ≒ 3.1605 が円周率の近似値として得られる。かなり精度が高かったものの普及はしなかった。リンド・パピルスはアハメスによって写されたものであり、内容自体はさらに紀元前1800年ごろにまで遡ると考えられている。
- ヘラクレアのアンティフォン(Antiphon)は円に内接する正多角形の面積を求めることにより円周率を計算する方法を編み出した。アンティフォンは、それぞれの正多角形から正方形が作図できることから、円積問題が解決できると主張した。
- すぐに同じヘラクレアのブリソン(Bryson)が、外接する正多角形の面積をも求めて内側と外側の両方から円の面積を評価し近似値を得た。
- 紀元前3世紀
- アルキメデスは円周と直径の比と円の面積と半径の平方の比が同じであることを証明した。さらに円に外接、内接するそれぞれの正 3×2n 角形の辺の長さを pn, qn としたとき、漸化式
- qn+12 = pn+1 qn
- が成り立つことを示し、n = 1 から n = 5 まで計算することにより223⁄71 < π < 22⁄7を求めた。小数だと 3.14084 < π < 3.14286 になる。
- 2世紀
- 天文学者プトレマイオスは377⁄120を使った。小数だと約 3.1417 である。
- 後漢の太史令だった張衡は、円に外接する正方形の周と円周を比べ、円周率を√10とした。約 3.162 になる。
- 263年
- 魏の劉徽は『九章算術』の注釈のなかで、ブリソンと同様の方法を用い 3.14+64⁄62500 < π < 3.14+169⁄62500であることを示している。小数では 3.141024 < π < 3.142704 となる。さらに正3072角形を用いて、3.1416という近似値も得た。
- 5世紀
- 7世紀に編纂された隋書律暦志(外部リンク)によると、天文学者の祖沖之(そちゅうし)は、当時としては非常に正確な評価 3.1415926 < π < 3.1415927 を示した。ヨーロッパでこれほど正確な評価を得るには、16世紀まで待たねばならない。さらに、分数での近似値 22⁄7(約3.143)と 355⁄113(約3.1415929)を与えている。正確な方法は伝わっていないが、九章算術の方法を踏襲したと推測するならば、上記の結果を得るには少なくとも円に内接する正24576角形の辺の長さを計算しなければならない。なお、隋書では現代と同じ「圓周率」という語が用いられている。祖沖之の息子の祖暅(そこう)は、父とともに球の体積の計算方法を導き出したことで知られる。
- 530年頃
- インドのアールヤバタは、円に内接する正 n 角形と正 2n 角形の周の長さの間に成り立つ関係式を求め、正384角形の周の長さから√9.8684(≒3.1414)と求めた。この平方根の近似値として3927⁄1250(=3.1416)を与えた。
- 1579年
- フランソワ・ビエタが円に内接・外接する正393216角形の周の長さから 3.1415926535 < π < 3.1415926537 という評価をした。ビエタはさらに、無限乗積
- を示し π の計算を試みた。
- 1585年
- オランダのアドリアン・アンソニスが 333⁄106 < π < 377⁄120 と評価し、両端の平均に近い値として 355⁄113 を得た。これは、約 3.14159292 である。
- 1596年 - 1610年
- ドイツの数学者ルドルフ・ファン・コイレンは、正32212254720 (=60×229) 角形の辺の長さを計算し、35桁目まで π の正しい値を計算した。この計算はコイレンの生涯をかけた計算であり、コイレン自身これを大変誇りとし、墓標にこの値を刻ませた。墓標はその後失われ、碑銘のみが伝わっている。ドイツでは彼の名にちなんで円周率をルドルフ数 (Ludolphische Zahl) と呼んでいる。
- 1663年
- 村松茂清が『算俎』を著し、円に内接する正2n角形(2≤n≤15)の辺の長さから π ≒ 3.1415 92648 77769 88692 48とし、小数点以下7桁まで正しい。コイレンなどの計算には遠く及ばないものの、中国などを通じて入ってくる算書に頼り切ってきた和算と違い、はじめて数学的な方法で円周率を計算し発表した和算家が村松である。
コイレンの時代までで、正多角形の辺を増やすだけの力ずくの計算の時代は終わり、評価式の本質的な改良が行われるようになっていく。17世紀は多くの評価式が生まれ、コイレンの生涯をかけた 35桁までの計算も非常に簡単に求められるようになる。
[編集] 計算式の改良の時代
- 1621年
- オランダのウィレブロード・スネル・スネリウスが、円周の長さの評価式を与える。
- この式と円に内接・外接する正六角形から 3.14022 < π < 3.14160 と評価した。この式の証明はホイヘンスによって与えられ、さらにホイヘンスによって改良された結果、正六角形を用いただけで 3.1415926533 < π < 3.1415926538 と評価できるまでになった。
- 1655年
- イギリスのウォリスは無限乗積
- を示した。ビエタの公式のように根号が無いため計算はしやすいが、収束はとても遅い。
- 同じくイギリスのブラウンカーが、連分数を用いた公式
- を示した。
- 1671年
- スコットランドのグレゴリにより、グレゴリ級数
- が発見される。これとは独立に1674年にライプニッツも同じ発見をしており、グレゴリ・ライプニッツ級数とも呼ばれる。ライプニッツは x = 1 を代入し マーダヴァと同じ無限級数を得た。
- 1699年
- イギリス人のシャープがグレゴリ・ライプニッツ級数に x = 1⁄√3 を入れ、π を 72桁まで求めた。
- ウィリアム・ジョーンズが初めて π を円周率の意味で用いた。1748年にオイラーも同じ記法を用いたことで円周率を π と表記することが広まった。
- 1719年
- フランスのトーマス・ラグニーが、シャープの方法で 127桁まで計算を行う。
- 1850年頃 - 1873年
- イギリスのウィリアム・ラザフォードとその弟子のウィリアム・シャンクスがマチンの公式を用いて桁数の記録を塗り替えて行った。1852年にラザフォードが441桁、シャンクスが530桁まで計算し、441桁までは両者の計算が一致していることでその計算の正しさを確認できた。しかし、arctan(1⁄5) が530桁目までしか正しくなく、シャンクスの計算で正しかったのは、小数点以下527桁目までであった。その後、シャンクスは1872年に707桁まで達したが、この誤りが最後までつきまとった。
- 1897年
- アメリカ合衆国のインディアナ州の下院で医者のエドウィン・グッドウィンによる円積問題解決方法を盛り込んだ議案264号が満場一致で通過した。グッドウィンの方法から得られる値は π = 3.1604, 3.2, 3.232, 4 であり、このうち 4 については公式に認められた最も不正確な円周率の値としてギネスブックに記載された。この法案は各審議会を通過していき上院に承認を求める段階にまで達した。しかし世論の批判にあい2月12日に上院によって議論の無期限延期が決められ、法案成立目前で却下された。
-
詳細はインディアナ州円周率法案を参照
- 1910年
- ラマヌジャンによって、無限級数表示
- が発見される。この公式は、ジョナサン・ボールウェインとピーター・ボールウェインの兄弟によって1987年に厳密に証明されることになるが、1985年にウィリアム・ゴスパーがこの公式を用いて円周率を計算し、その正確さを示している。
このファーガソンの計算までが手計算によるものだった。手計算の時代は誤りが起こることも多かったが、この時代の数学の成果は、現代の計算機による円周率の計算においても非常に重要な役割を果たしている。
[編集] 計算機による計算の時代
- 1947年-1948年
- ファーガソンは卓上計算機を用いて808桁まで求めた。この計算は、レビ・スミスとジョン・レンチによっても検算され、シャンクスの計算が間違いであることが繰り返し確認された。
- 1949年
- ライトウィーズナーがENIACを用いてマチンの公式により 2037桁を 70時間かけて計算した。ENIACは第二次世界大戦において大砲の弾道計算を行うために作られたが、完成時にはすでに戦争は終わっていた。戦争以外にも計算機が有用であることを示すために円周率計算などに用いられた。
- 1954年
- ニコルソンとジーネルがNORCを用いて3092桁を13分で計算した。
- 1958年
- フランソワ・ジェニューイが、IBM 704を用いて 1万桁まで計算した。
- 1961年
- ジョン・レンチとダニエル・シャンクスが IBM 7090を用いて 10万桁まで計算した。
- 1973年
- ジャン・ギューとマルティーヌ・ブイエがCDC 7600を用いて 100万1250桁まで計算した。
- ユージン・サラミンとリチャード・ブレントが独立に、算術幾何平均を用いたアルゴリズムを発見する。
- 1985年
- ウィリアム・ゴスパーがシュリニヴァーサ・ラマヌジャンの式を用いて、1752万6200桁まで計算した。
- 1989年
- この年は、チュドノフスキー兄弟と金田康正・田村良昭によって激しい計算競争が行われた。
- 5月にデビッド・チュドノフスキーとグレゴリー・チュドノフスキーによって4億8000万桁まで計算された。
- 7月に金田康正と田村良昭によって5億3687万898桁まで計算された。
- 8月にデビッド・チュドノフスキーとグレゴリー・チュドノフスキーによって10億1119万6691桁まで計算された。
- 11月に金田康正と田村良昭によって10億7374万1799桁まで計算された。
- 1994年
- デビッド・チュドノフスキーとグレゴリー・チュドノフスキーによって無限級数
- が発見された。
- 1995年9月19日午前0時29分
- カナダのサイモン・フレイザー大学において、デビット・H・ベイリー、ピーター・ボールウェイン、サイモン・プラウフの研究チームが無限級数
- を発見する。この式では2進表示または16進表示で n - 1 桁までを求めずに n 桁目以降の π の値を計算できる。ベイリーのウェブサイトで様々なプログラミング言語用の実装例を見ることができる。
- 1997年
- 金田康正と高橋大介が HITACHI SR2201 を用いて 4次のボールウェインのアルゴリズムにより 515億 3960万桁まで計算した。
- 1999年
- 金田康正と高橋大介が HITACHI SR8000 を用いてガウス=ルジャンドルのアルゴリズムにより 2061億5843万桁まで計算した。
[編集] パソコンでの計算記録
なお、初期の家庭向けパソコンでの計算記録には次のものがある。いずれも若松登志樹による。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 百万円周率 - 円周率1,000,000桁
- PI World of JA0HXV - 円周率の値