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元木大介 - Wikipedia

元木大介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

元木大介
愛称 モックン、ダイスケ、
クセ者、平成の暴れ馬
現在 2005年引退
所属球団 読売ジャイアンツ
国籍 日本
出身地 大阪府豊中市
生年月日 1971年12月30日(36歳)
身長
体重
180 cm
83 kg
血液型 O型
守備位置 二塁手三塁手遊撃手
投球打席 右投右打
プロ入り年度 1990年
ドラフト順位 1位
背番号 2(現役引退時)
英語表記 MOTOKI
初出場 1992年4月8日
経歴 上宮高校-
読売ジャイアンツ
このテンプレートTemplate:Infobox baseball playerに置き換えてください。
詳細はWikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 野球選手#Infobox MLB playerを参照

元木 大介(もとき だいすけ、1971年12月30日 - )は、読売ジャイアンツに所属した元プロ野球選手。ポジションは内野手大阪府豊中市出身。愛称は「モックン」「ダイスケ」「クセ者」「平成の暴れ馬」など。現在は野球解説者、タレントとして活動中。所属事務所はアワーソングスクリエイティブ(ケイダッシュ系)

目次

[編集] 来歴・人物

上宮高校甲子園に3回出場。1989年夏の甲子園では1試合2本塁打を放つなど注目された。同校では種田仁、小野寺在二郎、ほっしゃん。(お笑い芸人)とチームメイトである。高校通算24本塁打。甲子園通算6本塁打は清原和博に次いで歴代2位タイ(桑田真澄と同数)の記録である。

同年のドラフト会議では読売ジャイアンツの指名を希望するが、巨人は大森剛を1位指名。福岡ダイエーホークスから野茂英雄のはずれ1位で指名されるがこれを断り、1年間ハワイ野球留学する。実際にはハワイの環境では本格的な野球練習は出来ず、大学・社会人に進むと次回ドラフト指名まで年数がかかるためそれを避ける行動だったといわれる。

1990年のドラフト会議で巨人より1位指名を受けて入団する。1992年から1軍で活躍。レギュラーを確保したシーズンは1998年の1シーズンしかないが、バッテリーを除く全てのポジションを守れるユーティリティープレイヤーとして活躍する。マスコミに取り上げられる機会が多く、チャンスに強い打撃、隠し球・併殺崩しなどおよそ巨人選手らしくないプレースタイル、また進塁打や味方の盗塁を助けるためにわざと空振りをするなどの自分を犠牲にしたプレーを出来ることから長嶋茂雄監督にクセ者と言われ、マスコミに好んで使われる愛称となった。このプレースタイルは、高校時代はホームランバッターとして活躍したものの、プロではこれでは生き残っていけないと悟った元木が、プロで生き残っていくために選んだものだった。

2004年以降は度重なる故障に悩まされ、2005年堀内恒夫監督のチーム若返りの方針により後半戦は戦力構想から外れて2軍生活を送ることとなり、活躍の場を失った。その年の9月に戦力外通告を受ける。オリックス・バファローズ東北楽天ゴールデンイーグルスなどから入団の誘いがあったものの、浪人してまで巨人入団を1年待った経緯もあり、「ジャイアンツが好きだから、入団したときからこのチームでいらないと言われたら辞めようと決めていた」と33歳の若さで現役を引退。最終戦で引退試合に出場。

2005年シーズンオフから日本テレビ系列のTHE・サンデーのスポーツキャスターを務めている。2006年よりTBSラジオ野球解説者スポーツ報知評論家となった。まだ30代半ばと若いこともあり、中継の際は必ず年上・年下問わず「XX選手」と言うようにしている。

2007年から、マスターズリーグ・東京ドリームスに参加している。内野手登録で、背番号は2となっている。

[編集] エピソード

  • 幼少時代は南海ホークスファンで、たびたび大阪球場に足を運び、ホークス友の会に入会していた。もし、福岡ダイエーホークスが南海ホークスのままであったら入団していた。
  • 豊中市立第十二中学校時代、バッティング練習中にあまりに打球を飛ばすので学校が近所への迷惑も考え高いネットを張った。「元木ネット」と言われている。その後この中学では元木ネットが必要になるような選手は出ていない。
  • 高校時代、高校野球では全力疾走・全力プレーが当たり前にも関わらず、一塁まで走らなかったことがあり、当時の上宮高校・山上監督に殴られたことがあるという。実際に1989年の夏の甲子園3回戦の対八幡商で内野フライを放つが、これを内野手が落球。走るのをやめてしまっていた元木はアウトとなり、ベンチに戻った元木に監督が激怒するシーンが全国に中継された。引退後に出演したテレビ番組において、打球を見失ったためにボールを捜していたと言い訳したが、打球の行方は相手野手の動きを見ればある程度推測可能であるし、このような場合にはあらゆる可能性を考慮して最低でも一塁に到達しておくのが鉄則であり、元木のケースは単なる怠慢プレーである。
  • 同じく高校時代は、殺到するファンを避けるどころか、気さくな笑顔で手を振って応じるなど、それまでの人気選手の立ち振る舞いとは一線を画していた。別の高校に進学した先輩にもきちんと挨拶に行く等、礼儀正しい選手だった。
  • 高校時代の同期には、種田仁、小野寺在二郎がいる。
  • 高校時代は女子高生から非常に人気があったため、「元木には学校ごとに彼女がいる」という噂がまことしやかにささやかれていた。
  • 上宮高校野球部ではその端正なマスク、スターと言われた外見とは裏腹に、あまりに「痛い」発言の連発でチームの人気者となり、キャプテンに選ばれた。
    • 高校の試合で、相手チームにリードされていたときにチームメートに円陣を組ませて、中心で自分が「チーム一丸となって・・・」と言おうとしたところを「チームひとまるとなって・・・」と言ってしまい、チームメートは大爆笑。おかげでみんなリラックスして試合は逆転勝ちを収めた。
    • プロ入り後、遠征時にスポーツ新聞を読みながら大久保博元に「デーブさん、苦手が伸び悩んでるってどういう意味ですか」と聞き、聞かれた大久保がその新聞に目をやったところ、「若手が伸び悩んでいる」と書いてあったという(大久保が引退後1995年にテレビのバラエティ番組に出演した際に、「名前は言えないが、関西出身の某M内野手」としてこのエピソードを話していた)。
など。
  • 入団前に「巨人以外へは行かない」と公言しており、福岡ダイエーホークスのドラフト指名を高卒時に拒否したこと、規定打席に達したのが3回だけにもかかわらず年俸が1億円以上と高額であること、テレビ中継されていることを意識したオーバーなプレースタイルなどから、巨人ファン以外からの評判は軒並み悪く、アンケートなどでは常に嫌いな選手の上位であった
  • もちろん、気のない空振りから一転して振るスイングするようなプレーは相手に嫌われたが、全力でプレーしているように見えないのも「クセ者」としての一種の戦術でありお、自ら「練習嫌い=天才肌」のイメージを広めたという。入団時の監督の藤田元司は「センスも素質も凄いから何でもできちゃう」と元木の能力を認めた上で、「ぼくは元木にああなってほしい」と、当時のチームリーダーだった川相昌弘のあとを背負うことを期待していた(2002年の糸井重里との対談より)。高校時代の監督も、たびたび元木以外のチームメイト(種田仁など)を擁護した発言をしている。
  • は元日本テレビアナウンサー大神いずみ。日本テレビの番組で知り合い、大神の日本テレビ退社後、1998年に結婚。2006年1月、第1子となる長男が誕生。
  • 妻の大神いずみによると、大変に腹を壊しやすい。料理の内容に気をつけないとすぐトイレに入ってしまうようである。また家では非常に几帳面な性格で綺麗好き(妻、清原和博談)。遠征で清原と相部屋になった時、清原が散らかしっぱなしでどこかに出かけた間に、清原が散らかしたものを綺麗に整理整頓したこともある。
  • カレーが嫌い。大神いずみはメニューに悩んだ際、つい作ってしまうことがあるそうだが、慌てて肉じゃがに変更したりすることがあるという。カレー好きの槙原寛己がカレーを食べている時に「人間の食いモンやないですよ」と言ってしまい、激怒した槙原に食べていたカレーを顔に付けられた上、1週間カレーの匂いをかがせれた。槙原に「ジャイアンツには、変な人間が2人いた。元木と水野です。あの2人はカレーが嫌いだなんて、僕には理解できない」とビストロスマップで述べられた(槙原について元木は、自伝「クセ者」の中で「兄弟盃を交わした仲」と述べている)。
  • 阿部慎之助へのドッキリとして、番組の企画でメジャー移籍記者会見をした。
  • 1996年オフに西武ライオンズからフリーエージェント宣言し読売ジャイアンツへ移籍した清原和博とは親交が深く、清原は「広沢克己|広沢]]さんと元木がいなかったら自分はどうなっていたか」と語り、元木は親分と慕う仲である。意外にもプライペートの付き合いは少なく、巨人時代は年に2回ほど食事をする程度だったとのこと。
  • 晩年は、控え生活が続き、首脳陣への当てつけか、自軍ダグアウトのベンチ・椅子ではなく、階段に体育座りしていたようなところもあったが、2005年に戦力外通告を受け、現役続行・トレードなども打診されたが、後藤考志とともに自ら身を引いている。世代交代する巨人に迷惑をかけたくなかったという。
  • キャンプの際は真っ先にリタイアし別メニューになる常連だった。足が遅い事が珍プレー好プレーでよく取り上げられ、カメラを担いで後ろ向きに走る取材陣に追いつけないシーンがしばしば放送された。長嶋茂雄監督が、巨人担当記者に「大介は何が得意なんだ?」と聞く始末であった。ただし、1シーズン三塁打3本を2回記録しているように、走塁センス自体は高かった。
  • 広島市民球場での広島東洋カープ戦で、そのとき球審だった谷博にストライクカウントを間違えられ、2ストライクなのにストライクアウトとコールされたことがある。珍プレー好プレーでも取り上げられた。
  • ここぞという大事な場面できっちり結果を出すことの多かった選手であり、ファンの信頼も大きかった。やる気がない(と見受けられる)ときにはあっさり凡退するという声もあった。
  • 送りバントのサインを無視して本塁打を打ったことがある。ダイヤモンドを一周してベンチに戻って来た元木に当時ヘッドコーチであった須藤豊が何やら諭す場面がテレビで中継された。
  • 選手時代後半にはファンサービスの一環で試合後に東京ドームベンチ裏で勝利インタビューを受ける監督の背後をわざとカメラ目線で通過することがお約束となっていた。その姿はよくマスコミに使われ、さらには他の選手(工藤公康清水隆行など)も同様の行動をとったことがある。
  • 隠し球を画策することが多い。このせいで桑田真澄ボークをとられてしまった事がある。
  • 愛車はトヨタ・ハイエース。車内は「走る応接室」と化しており、改造費に600万円かかったという。雑誌「カスタムCAR」にも載った事がある。
  • ジャイアンツ時代の打席テーマソングはウィル・スミスの「Party Starter
  • 2000年シーズンも佳境を迎えた頃の出来事で、ある日試合前トイレに行った際、「個室」のドアが閉まりっぱなしでなかなか開かず、中にいるのが二岡智宏だと思っていたためドアの前で「ウンコちゃん待ちぃー!」などと散々悪態をついたところ、中に入っていたのは首位争いにピリピリしていた長嶋茂雄監督(当時)だった。長嶋は用を済ませドアを開けるなり顔をグッと元木に近づけ「ガタガタうるさいんだ、バカ!!!」と一喝。元木はこれを「肝を冷やした出来事」の一つとして挙げている。この事でこの日は試合に出してもらえないと思ったという。この日の試合は読売ジャイアンツが勝ったものの、元木のテンションは低かった(元木が勘違いしたのは二岡ではなく松井秀喜だったと言う話もある)。
  • 1998年の得点圏打率.398はセ・リーグ1位。「巨人キラー」と言われていた中日の山本昌との対戦成績は5割を誇っていた。
  • 高校時代にスラッガーとして活躍したため、入団当初はそのような期待を受けていたが、本塁打を9本打ったシーズンが4度あるものの結局10本に届くことはなかった。
  • いわゆる併殺崩しを積極的に行った。なかには相手野手にしがみつくなどの行為もあり、守備妨害と判定されることも度々あった。
    • 2000年中日ドラゴンズ戦で1アウト1、3塁の場面でバッターがショートゴロを打ち、併殺打かと思われたが、一塁ランナーの元木が二塁に滑り込んだ時、二塁ベースにいて一塁に送球しようとしていた二塁手立浪和義を蹴ったため、立浪は一塁へ投げることが出来ず、三塁ランナーのドミンゴ・マルティネスがホームインした。
    • 同年阪神タイガース戦で三塁ベース付近で走者の平尾博嗣に後ろから抱きついたために走塁妨害と判定された。
    • 2001年広島東洋カープ戦で1アウト1、3塁の場面でバッターがサードゴロを打ち、三塁手新井貴浩が二塁へ送球し、二塁ベースにいたセカンドのエディ・ディアスが一塁へ投げようとした所に、一塁ランナーの元木が体当たりするように二塁ベースに滑り込んできたため、ディアスは一塁へ送球できず、これを不服とした広島の山本浩二監督が抗議しようとしたが、山本監督が抗議する前に審判は守備妨害と判断し、併殺が成立した。
  • チームの中心選手ではない元木がトレードされる噂はしばし流されたが、何故か彼とキャラクターが共通するチーム(右の渋い控え選手がいるチーム)への移籍話が多かった。2004年シーズン途中にも、当時大阪近鉄バファローズ高村祐とのトレードという誤報を東京中日スポーツに出されてしまったが、高年俸や巨人入団の経緯に対する拒否反応などよりも、何よりチーム構成を無視した補強からバファローズファンにはヒステックな拒否反応がみられた。
  • 最後のシーズンとなった2005年、ある打席でバスターを狙うもツーナッシングまで追い込まれた時、外角のボールめがけて投げたバットにボールが当たり、その打球がフェアゾーンに飛んでタイムリーになるという、ヒットを放った。後のインタビューではボールがフェアゾーンに飛んだ際、元木自身も驚いている表情をしていたが「狙ってました」とコメントしていた。
  • プロ入り前の野球留学中、ベニー・アグバヤニ(現千葉ロッテ)とチームメイトになり、知り合いになったという。

[編集] 年度別打撃成績

年度 球団

























1991年 読売 37 一軍出場なし
1992年 34 72 59 7 11 2 0 0 13 2 2 2 2 0 10 1 15 2 .186
1993年 80 222 186 25 44 7 1 4 65 15 1 3 3 0 32 1 25 7 .237
1994年 2 90 248 218 26 61 6 0 4 79 25 1 2 6 1 21 2 23 3 .280
1995年 67 219 197 13 48 11 1 3 70 25 5 3 5 1 15 1 23 5 .244
1996年 91 326 288 34 66 14 1 9 109 35 3 2 6 4 25 3 51 5 .229
1997年 101 337 312 33 88 10 1 9 127 32 1 1 7 2 14 2 46 6 .282
1998年 114 456 397 49 118 18 3 9 169 55 3 2 6 3 45 5 56 18 .297
1999年 114 372 327 28 75 12 0 6 105 34 0 1 8 1 36 0 49 11 .229
2000年 114 353 310 40 85 17 0 5 117 29 0 2 7 1 34 1 47 7 .274
2001年 123 441 391 51 114 16 3 9 163 39 3 0 9 2 37 2 51 13 .292
2002年 121 381 343 39 88 12 1 6 120 52 1 0 8 5 23 0 58 19 .257
2003年 60 153 143 11 32 9 0 0 41 14 0 0 3 0 5 2 19 6 .224
2004年 55 128 121 11 29 5 0 2 40 13 0 1 0 1 6 0 24 3 .240
2005年 41 120 105 9 32 4 0 0 36 8 1 1 4 1 9 1 21 2 .305
通算成績 1205 3828 3397 376 891 143 11 66 1254 378 21 20 74 22 312 21 508 107 .262

[編集] 年度別守備成績

年度 二塁 三塁 遊撃
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1992 13 19 21 0 2 1.000 14 10 24 6 0 .850
1993 51 74 114 2 21 .989 6 2 12 1 3 .933 15 6 6 1 3 .923
1994 57 97 141 2 29 .992 21 6 16 2 0 .917 9 10 16 0 3 1.000
1995 47 68 87 4 18 .975 6 1 2 1 0 .750 19 30 56 1 8 .989
1996 77 188 222 2 57 .995 8 3 5 1 0 .889 16 14 22 1 6 .973
1997 35 72 90 1 22 .994 42 23 64 4 6 .956 28 33 50 0 13 1.000
1998 15 26 35 0 5 1.000 60 45 64 5 8 .956 51 74 115 2 27 .990
1999 11 20 25 1 5 .978 88 55 117 4 10 .977 4 6 10 0 2 1.000
2000 7 14 11 0 2 1.000 34 15 25 1 1 .976 54 67 98 7 22 .959
2001 3 2 2 0 1 1.000 19 4 13 0 1 1.000 83 92 194 4 42 .986
2002 27 35 62 0 11 1.000 60 28 67 6 5 .941 30 41 63 0 13 1.000
2003 16 25 49 0 8 1.000 42 18 41 1 3 .983 1 0 0 0 0 -
2004 1 2 5 0 1 1.000 5 1 0 1 0 .500 23 32 63 1 13 .990
2005 13 22 29 2 7 .962 8 4 6 0 2 1.000 1 0 0 0 0 -
通算 373 664 893 14 189 .991 399 205 432 27 39 .959 348 415 717 23 152 .980
年度 一塁 外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1999 1 2 0 0 0 1.000
2000 6 15 1 0 1 1.000 28 15 0 0 0 1.000
2001 1 1 0 0 0 1.000 35 39 3 0 1 1.000
2002 19 93 3 0 3 1.000
2003 11 27 2 0 1 1.000
2005 11 66 0 0 7 1.000
通算 48 202 6 0 12 1.000 64 56 3 0 1 1.000

[編集] 記録

[編集] 著書

[編集] 出演番組

[編集] 関連項目

読売ジャイアンツ
1990年ドラフト指名選手
1位:元木大介 / 2位:吉原孝介 / 3位:藤崎靖彦 / 4位:阿部茂樹 / 5位:原正俊 / 6位:内田大孝
福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)
1989年ドラフト指名選手
1位:元木大介 / 2位:金沢健一 / 3位:橋本武広 / 4位:西俊児 / 5位:馬場敏史 / 6位:田代広之


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