中西一男
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中西 一男(なかにし かずお、1922年10月4日 - 2003年9月1日)は、ヤクザ。指定暴力団・五代目山口組最高顧問(四代目山口組組長代行)、中西組初代組長。
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[編集] 来歴
昭和20年(1945年)の戦後、大阪 ミナミの愚連隊・南道会(会長は藤村唯夫)に加入した。
昭和38年(1963年)、三代目山口組・田岡一雄組長から盃をもらい、山口組直参に昇格した。
昭和46年(1971年)7月25日、山口組若頭・梶原清晴は、鹿児島県硫黄島で、磯釣りの最中に、高波にさらわれて、溺死した。
同年7月26日、田岡一雄は、入院中の関西労災病院で、梶原清晴の溺死を知った。山本健一、山本広、菅谷政雄、小田秀臣、小田芳一(小田吉一とも名乗った)、中西一男の若頭補佐は、若頭補佐全員の互選によって、若頭を選ぶことを決定した。田岡一雄も若頭補佐全員による互選を了承した。
山本広は、菅谷政雄に自分への票集めの根回しを依頼した。菅谷政雄は、山本広の依頼を了承し、他の若頭補佐に、山本広を若頭に推すように、根回しをした。
同年8月、6人の若頭補佐(山本健一、山本広、菅谷政雄、小田秀臣、中西一男、小田芳一)は、後任の若頭を決めるために、互選の会議を開らいた。結果は、山本広4票、山本健一2票だった。山本広が後任の若頭に内定した。
山本健一は、関西労災病院で、田岡一雄に、「山本広が若頭になるならば、自分は若頭補佐を辞任する」と云う意向を伝えた。田岡一雄は、妻・フミ子を遣わして、山本広に、若頭から降りるように説得した。山本広は、いったん若頭辞退を承諾した。後日、山本広は、関西労災病院を訪ねて、田岡一雄に若頭辞退撤回の意向を伝えた。田岡一雄は菅谷政雄を呼び、菅谷に、山本広に若頭を辞退させるように頼んだ。菅谷政雄は、いったんは山本広説得を拒んだが、最終的に了解した。その後、山本広は、菅谷政雄からの説得を受けて、若頭就任を辞退した。
同年9月5日、山本健一は、三代目山口組若頭に就任した。まもなく、小田芳一が、山本健一の若頭就任に反対して、菅谷政雄に若頭補佐を降りたいと云った。菅谷政雄は、田岡一雄に相談した。田岡一雄は、小田芳一を若頭補佐から解任した。若頭補佐には、山本広、菅谷政雄、清水光重、小田秀臣、中西一男、大平一雄(本名は松浦一雄)、竹中正久の7人が任命された。
昭和50年(1975年)7月26日深夜、大阪戦争が勃発した。
詳細は大阪戦争を参照
同年4月、山本健一、小田秀臣、中西一男ら山口組幹部8人は資本金6千万でビル管理を主業務とする「東洋信用実業」を設立し、役員となった。東洋信用実業は、「山口組会館」(後の四代目山口組本部)を建設した。また、それまで山口組幹部が田岡一雄の名代として使う慶弔の費用は、田岡から出ていたが、上納金(山口組会費)から出すようにした[1]。また、山口組若頭補佐が山口組幹部名で出す慶弔の費用も、上納金から出すようにした。
同月、田岡一雄は、菅谷政雄の謹慎を解くことを、山本健一に指示した。菅谷政雄は、若頭補佐を解任され、筆頭若衆に降格となった。
昭和52年(1977年)1月24日、菅谷政雄は、川内弘を破門とした。これを切っ掛けに、三国事件が勃発した。
詳細は三国事件を参照
同年4月15日、三国事件を受け、山口組本部[2]は、菅谷政雄を絶縁とした。
昭和56年(1981年)7月23日、田岡一雄は、急性心不全により死去した。
同年10月25日、神戸市灘区篠原本町の田岡邸で、山口組組葬が行なわれた。喪主は、妻の田岡文子。葬儀執行委員長は、稲川会・稲川聖城会長だった。服役中の山本健一が、副葬儀委員長だった。
山口組の運営は、山本健一の出所まで、山本広、小田秀臣、中西一男、竹中正久、益田芳夫、加茂田重政、中山勝正、溝口正夫と、田岡文子で行なわれることになった。
昭和57年(1982年)2月4日、大阪市生野区の今里胃腸病院で、山本健一は、肝硬変に腎不全を併発して死去した。
同年6月、山本広は、組長代行に就任した。
昭和59年(1984年)6月5日、山口組若頭・竹中正久が、山口組直系組長会で、山口組四代目組長就任の挨拶をした。
同日、山本広、加茂田組・加茂田重政組長、佐々木組・佐々木道雄組長らが、在阪のマスコミ各社を呼んで、記者会見を開き、竹中正久の四代目就任に反対した。
同年6月13日、山本広、加茂田重政、佐々木道雄らは、山本広を会長に据えて、「一和会」を結成した。加茂田は、副会長兼理事長に就任した。加茂田重政は、弟の神竜会・加茂田俊治会長を、一和会理事長補佐に据え、弟の政勇会・加茂田勲武会長を、一和会常任理事に据えた。
山口組福井組・福井英夫組長は、山口組宅見組・宅見勝組長に説得されて、一和会参加を取り止めて、ヤクザから引退した。小田秀臣も一和会には参加せず、ヤクザから引退した。名古屋市の弘田組・弘田武組長も、一和会には参加せずにヤクザから引退した。弘田組若頭・司忍(後の六代目山口組組長)が、弘田組を引き継いだ。
同年6月21日、田岡邸大広間で、竹中正久は、23人の舎弟、46人の若中と、固めの盃を執り行なった。
同年6月23日、竹中正久は、若頭に豪友会・中山勝正会長、舎弟頭に中西組・中西一男組長、筆頭若頭補佐兼本部長に岸本組・岸本才三組長を据えた。山健組・渡辺芳則組長、宅見組・宅見勝組長、嘉陽組・嘉陽宗輝組長、一心会・桂木正夫会長、角定一家・木村茂夫総長を若頭補佐に据えた。竹中武を竹中組組長、竹中正を竹中組相談役に就けた。竹中武は直系若衆になった。
同年7月10日、徳島県鳴門市の「観光ホテル鳴門」で、山口組襲名式が執り行なわれた。後見人は稲川会・稲川聖城会長。取持人は諏訪一家・諏訪健治総長。推薦人は住吉連合会(後の住吉会)・堀政夫会長と会津小鉄会(後の会津小鉄)・図越利一会長、大野一家・大野鶴吉総長、今西組・辻野嘉兵衛組長、松浦組・松浦繁明組長、大日本平和会・平田勝市会長、森会・平井龍夫会長、草野一家・草野高明総長。見届け人は翁長良宏。媒酌人は大野一家義信会・津村和磨会長。霊代は、田岡文子。
詳細は山一抗争を参照
昭和63年(1988年)、山口組若頭補佐・宅見勝、山口組本部長・岸本才三、野上哲男らが、山口組五代目に、渡辺芳則擁立に動き始めた。さらに、徳島市の心腹会・尾崎彰春会長、名古屋市の益田(啓)組・益田啓助組長、横浜市の益田(佳)組・益田佳於組長、尼崎市の大平組・中村憲人組長、尼崎市の古川組・古川雅章組長、伊丹市の松野組・松野順一組長、長野市の近松組・近松博好組長、名古屋市の弘道会・司忍会長が、山口組五代目に、渡辺芳則を推した。竹中武は、山口組執行部に「誰が山口組五代目になっても、組内の調整には協力するが、五代目と盃をするかどうかは、別物である」と宣言していた。
同年暮れ、野上哲男は、渡辺芳則から「渡辺芳則が五代目山口組組長となった場合、組長としての発言をしない」という言質を引き出した。
同年12月29日、渡辺芳則は、姫路市御着の竹中正久の実家を訪ね、竹中武と会談した。渡辺芳則は、竹中武に、山口組執行部の増員を相談し、了解を得た。また、渡辺は、竹中に、中西一男が山本広と接触して山本広引退工作を進めていることを話し、中西の山本広引退工作を止めてもらうように依頼した。竹中武は、中西一男説得を引き受けた。竹中武は、渡辺芳則に、「竹中正久の五回忌(平成元年(1989年)1月27日)に、山口組幹部一同が、竹中正久の実家で落ち合い、親睦を深める」ことを提案した。渡辺芳則は、提案に賛成した。その後、竹中武は、中西一男にも「竹中正久の五回忌に、竹中正久の実家で、山口組幹部一同が落ち合い、親睦を深める」ことを提案し、了解を得た。
このころ、宅見勝らは、益田(佳)組・益田佳於組長、小西一家・小西音松総長、伊豆組・伊豆健児組長らを説得し、渡辺芳則の五代目山口組組長就任を了承してもらった。
平成元年(1989年)1月27日、山口組本家で、直系組長会が開かれた。宅見勝らは五代目山口組組長決定の緊急動議を出そうとしたが、中西一男を五代目山口組組長に推す人らに、山一抗争が完全終結していないことを理由に反対されて、緊急動議を出せなかった。
同日、姫路市御着の竹中正久の実家に、中西一男、岸本才三ら山口組幹部が集まり、法要が営まれた。しかし、渡辺芳則や宅見勝らは、法要に欠席した。
同年2月11日、神戸市の料亭「いけす」で、近松博好の呼びかけにより、渡辺芳則と竹中武の会談が行なわれた。近松と岸本才三が同席した。近松と岸本は、五代目山口組組長に渡辺芳則、同組若頭に竹中武を望んでいた。
その後、渡辺芳則は、山口組組長代行補佐グループから、「自分が五代目山口組組長になった場合、顧問とする。自分との盃はなしとする」という条件で、渡辺支持を取り付けた。その後、山口組舎弟グループからも、渡辺支持を取り付けた。
このころ、山口組各直系組長宛に、「任侠道新聞」1号、2号が送られた。1号では、「渡辺芳則の五代目山口組取りは失敗する」「宅見勝が嘘をつき、渡辺の五代目山口組組長就任を画策している」と書かれていた。2号では「山口組に謀反を企む者に、渡辺芳則、宅見勝、岸本才三の他、野上哲男がいた」と書き、「現山口組執行部の解体と山口組五代目問題の棚上げ」を要求していた。
同年2月27日、山口組定例総会で、竹中武の山口組若頭補佐就任が発表された。
同年3月27日午前、古参組長数人が、山口組執行部会への出席を申し入れた[3]。
同日、山口組執行部会で、中西一男と渡辺芳則の五代目山口組組長への立候補が決められた。
同年4月16日、山口組舎弟会で、渡辺芳則を五代目山口組組長に推すことが決まった。山口組舎弟会には、山口組二代目森川組・矢嶋長次組長も出席していた。
同年4月20日、山口組緊急幹部会が開かれ、山口組五代目の人選が議論された。竹中武は、態度を保留した。渡辺芳則と中西一男が話し合い、中西一男が五代目山口組組長立候補を取り下げた。渡辺芳則の山口組五代目擁立が決まった。
同年4月27日、山口組直系組長会で、中西一男が、五代目山口組組長立候補取り下げの経緯を説明した。渡辺芳則の五代目山口組組長就任が決定した。
同年4月下旬、神戸市花隈の山健組事務所で、渡辺芳則と岸本才三と近松博好が、竹中武を山口組に留め置くことを確認し、竹中武の連れ戻しを協議した。しかし、宅見勝は、竹中武の連れ戻しに反対だった。宅見は、尾崎彰春に依頼して、岸本に、竹中武連れ戻しを断念させた。渡辺も宅見の考えに同調し、竹中武の連れ戻しは白紙になった。
同年5月10日、山口組緊急執行部会で、宅見勝の山口組若頭就任が内定した。竹中武は、緊急執行部会を欠席した。
同年、渡辺芳則は、山健組を、同組若頭・桑田兼吉に譲った。
同年5月18日、山口組本家で、舎弟24人、若衆45人と盃直しを行なった。尾崎彰春の実子・尾崎勝彦ら4人が新たに直参になった。竹中武、矢嶋長次、牛尾組・牛尾洋二組長、森唯組・森田唯友紀組長は欠席した。
同年5月27日、山口組最高顧問を新設し、中西一男を最高顧問に据えた。英組・英五郎組長、倉本組・倉本広文組長、黒誠会・前田和男会長、弘道会・司忍会長、芳菱会・滝澤孝総裁を、若頭補佐に据えた。益田啓助を舎弟頭に据えた。章友会・石田章六会長、大石組・大石誉夫組長、西脇組・西脇和美組長を舎弟頭補佐に据えた。嘉陽宗輝、桂木政夫(後に舎弟頭補佐)、木村茂夫は舎弟となった。岸本才三は舎弟となり、山口組総本部長となった。野上哲夫は、山口組総本部副本部長となった。益田佳於、小西音松、伊豆健児は、顧問に就任した。新人事には、宅見勝の意向が強く反映された。
同年5月31日、昭和59年(1984年)11月に「神有カントリー倶楽部」で起こした傷害事件[4]で、神戸地方裁判所から、懲役10ヶ月、執行猶予3年の有罪判決を受けた。
同年6月4日、岸本才三、西脇和美、神戸市の佐藤組・佐藤邦彦組長が、竹中武を訪ね、「竹中正久の位牌と仏壇を受け取ってもらいたい」と頼んだ。竹中武は竹中正久の位牌と仏壇を受け取った[5]。
同年6月5日、山口組定例会で、竹中武、矢嶋長次、牛尾洋二、森田唯友紀の山口組脱退が発表された。
同年6月25日、竹中武は、中西一男、石田章六、倉本広文、前田和男の訪問を受け、山口組の守り刀の譲り渡しを了承した。ただし、守り刀は文化庁に登録されていたため、新たに渡辺芳則の名前で登録しなければ、銃砲刀剣類所持等取締法第14条違反となった。竹中武は、渡辺芳則に、山口組代紋の山菱が施された純金製三つ重ねの金杯を送った。
同日、「五代目山口組幹部一同」の名前で、他団体に向けて「竹中武、矢嶋長次、森田唯友紀、牛尾洋二は、今後五代目山口組とは何ら関係なし」とする文書を送付した。
同年7月3日夜、岡山市新京橋の竹中組事務所の窓ガラスが、走行中の車から2発銃撃された。
同年7月4日、姫路市の病院の玄関ロビーで、治療を受けた牛尾組組員が、2人組の男から、銃撃され、同行の少年とともに負傷した。
同年7月5日、渡辺芳則の山口組守り刀相続の書類が整った。竹中武の使いが、守り刀を、桑田兼吉に届けた。
同年7月18日、山口組の山菱の代紋を降ろし、新しい代紋を掲げた。
同年7月28日、竹中組総会が開かれた。竹中武は、副組長に青木恵一郎、若頭に大西康雄、総本部長に笹部静男、組織委員長に貝崎忠美を据えた。牛尾洋二が竹中組舎弟頭補佐に就任した。竹中武は、舎弟頭補佐・杉本明政を除籍とし、若頭補佐・生島仁吉、同・宮本郷弘を破門した。杉本明政、生島仁吉、宮本郷弘は、竹中組の山口組からの離脱に激しく反対していた。
同年7月20日、神戸市灘区の山口組本家2階の80畳敷きの大広間で、渡辺芳則の山口組五代目襲名相続式典が行われた。媒酌人は大野一家義信会・津村和磨会長、後見人は稲川会・稲川聖城総裁、取持人は稲川会・石井隆匡会長、奔走人は稲川会・稲川裕紘理事長(後の三代目稲川会会長)。推薦人は、四代目会津小鉄会・図越利一総裁、松葉会・中村益也会長、四代目今西組・辻野嘉兵衛組長、三代目森会・平井龍夫会長、二代目大日本平和会・平田勝義会長、侠道会・森田幸吉会長、工藤連合草野一家・工藤玄治総裁、四代目小桜一家・神宮司文夫総裁、住吉連合会・堀政夫総裁。見届人は、導友会、愛桜会、四代目砂子川組、三代目倭奈良組、三代目互久楽会、二代目大野一家、三代目南一家、四代目佐々木組、諏訪会、二代目松浦組、三代目旭琉会。霊代は、中西一男。しかし、兵庫県警が、山口組五代目襲名式阻止の方針を打ち出したため、実際に山口組五代目襲名相続式典に出席したのは、山口組直系組長92人と、稲川聖城、石井隆匡、稲川裕紘、五代目酒梅組・谷口政雄組長、東亜友愛事業組合・沖田守弘理事長、双愛会・石井義雄会長ら10数人の親戚筋だけだった。渡辺芳則は、先代である竹中正久の内妻・中山きよみに、全く祝儀を届けなかった[6]。
平成15年(2003年)9月1日、中西一男は肝不全により死去した。享年80。
[編集] 脚注
- ^ 田岡一雄と山口組若頭は、上納金(山口組会費)を免除されていた
- ^ 絶縁状の差出人は、「田岡一雄」ではなく「三代目山口組幹部一同」となっていた。しかし、田岡一雄は、山本健一から菅谷組による川内弘射殺を聞き、山本に絶縁を示唆していた
- ^ 普段は組長代行補佐でも、山口組執行部会には出席しない
- ^ 事件の経緯は次の通り。
昭和59年(1984年)11月、神戸市の「神有カントリー倶楽部」で、渡辺芳則とクラブ所属のアシスタントプロと渡辺の知り会いの会社社長の3人は、プレーをした。
後続のパーティーは、二代目山健組系の組長3人で、渡辺のボディガードだった。
渡辺はアウトの4番と6番で、前のパーティーにボールを打ち込んだ。
前のパーティーの人が、渡辺のマナー違反を注意した。
渡辺は後続のボディガードに、自分を注意した人を教え、暴行を指示した。
渡辺のボディーガードは、渡辺を注意した人に、暴行を加え、全治45日の重傷を負わせた - ^ 通常、先代の位牌と仏壇は、当代が管理する
- ^ 通常は、襲名相続式典の祝儀の半分を、先代組長の未亡人に贈る。竹中正久は、四代目山口組襲名相続式典の祝儀全部を、田岡文子に渡し、田岡文子はその三分の一だけを受け取った
[編集] 人物・エピソード
[編集] 参考文献
- 『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0
- 山平重樹『北海道水滸伝』双葉社<文庫>、1999年、ISBN 4-575-50698-2
- 溝口敦『撃滅 山口組vs一和会』講談社<+α文庫>、2000年、ISBN 4-06-256445-9
- 溝口敦『山口組ドキュメント 五代目山口組』三一書房、1990年、ISBN 4-380-90223-4
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