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竹中武 - Wikipedia

竹中武

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

竹中 武(たけなか たけし、1943年8月6日 - 2008年3月15日)は、日本のヤクザ。二代目竹中組組長。兵庫県飾磨郡御国野村村字深志野(後の姫路市深志野町)出身。

[編集] 来歴

昭和18年(1943年)8月6日、兵庫県飾磨郡御国野村字深志野(後の姫路市深志野町)で生まれた。父は長谷川龍次。母は竹中愛子。長谷川龍次は御国野村村議会議員で、竹中家に養子に入った。兄に、竹中正久(後の四代目山口組組長)、竹中英男、竹中正(後に姫路市竹中組相談役)がいた。竹中家には、よく木下会・木下亀次会長が訪れていた。

昭和20年(1945年立命館大学学生だった竹中家次男の竹中良男が、危険思想者として特別高等警察に逮捕されて、拷問を受けた。その後、竹中良男は放免された。

同年、中国牡丹江の南満州鉄道百貨店に勤務していた長兄・竹中龍馬が現地召集された。

同年6月22日午前11時、B29の9機編隊が姫路市の川西航空機の工場付近を空襲した。

同年6月26日、B29が再度姫路市を空襲した。

同年7月3日深夜、B29が飛来し、姫路市を空襲した。3回の空襲で、姫路市では514人が死亡し、総戸数の40%が消失し、羅災者は55000人を超えた。竹中の家は、被災を免れた。

昭和21年(1946年)4月、兄の竹中正久が旧制姫路市立鷺城中学校(後の姫路市立姫路高校)に進学した。

同年4月30日、父・竹中龍次が、結核前立腺肥大尿毒症を併発して死亡した。享年52。やがて、竹中の料理店は廃業となった。

同年、長兄・竹中龍馬が復員し、鉄工所に勤務した。

同年9月、兄の竹中正久が他校生と喧嘩になり、旧制姫路市立鷺城中学校を退学した。

昭和23年(1948年)12月、竹中良男が死亡した。

昭和26年(1951年)10月、兄の竹中正久が、知り合いに借金返済を強要して脅迫した。恐喝容疑で逮捕され、神戸市鑑別所に送られた。

昭和28年(1953年)6月、竹中正久が奈良少年院を出所し、姫路市御国町に戻った。母の愛子は、竹中の姉とともに食料品店を始めた。兄の正は、兵庫県立姫路東高等学校に進学したが、1年で中退した。

このころ、竹中正久は、御着の実家を拠点として、竹中英男、竹中正、竹中修、竹中武、坪田英和(後の竹中組初代若頭)、徳平正春、中塚昭男、平尾光、笹井啓三、桂勇一、西尾健太郎らと愚連隊を形成していった。竹中英男は、明石市の博徒・矢嶋清(後の四代目山口組舎弟・矢嶋長次の父)に弟子入りし、熱海市鶴政会(会長は稲川角二)の賭場などに出入りした。竹中正久は、週に1、2回ほど、姫路市総社の旅館「大阪屋」で、手本引きの賭場を開き、竹中英男に胴師を、竹中正や竹中武らに合力(進行係)をさせた。

昭和32年(1957年)4月14日、山口組宇野組の者と明石公園で花見をした帰りに、明石駅前で、竹中たちは喧嘩を起こした。警察10人が駆けつけたとき、竹中たちの喧嘩相手は逃げていた。竹中たちは、警官に逮捕されそうになり、抵抗して乱闘となった。竹中正久は、公務執行妨害などで逮捕された。このとき、徳平正春は別件で恐喝を働いていた。竹中正久は、徳平の恐喝罪も自分で背負った。竹中正久は、神戸市大久保の神戸刑務所に1年間服役した。

竹中正久の不在の間、竹中の愚連隊は、竹中英男の博打による収益だけを頼った。

昭和33年(1958年)、竹中正久は出所し、拠点を姫路市光源寺前町の「KO麻雀」に移した。

昭和34年(1959年)、竹中武は中学校を卒業した。

昭和35年(1959年)、竹中英男が結婚し、御着の竹中家の実家の裏に木造二階建ての新居兼賭場を建てた。このころ、すでに、竹中英男は結核だった。竹中英男は、野球賭博や金融業をやり始めた。

同年、竹中英男に大島組からの盃の話が起こったため、竹中正久は、兄弟分の宇野正三に相談した。宇野が竹中英男に真意を確かめると、竹中英男は大島組入りを拒否し、「兄の正久を一人前にさせたい」と言った。宇野正三は、父の山口組宇野組・宇野加次組長に、竹中正久の山口組入りを頼んだ。宇野加次は、竹中正久を、山口組若頭・地道行雄に推薦した。湊芳治と姫路市の渋谷組・渋谷文男組長が、竹中の山口組入りに反対した。地道は、博打で竹中英男と顔見知りだった今治市矢嶋組矢嶋長次組長を、竹中のもとに送り、竹中正久の反応の確かめた。竹中正久は、山口組入りに拘ってはいなかった。

昭和36年(1961年)、竹中武は、長兄・龍馬から金を借り、山陽電鉄姫路駅裏の南地の3階建ての家を借りて、売春宿「25時」を開いた。その後、竹中英男が、姫路市の三代目山口組湊組(組長は湊芳治)の手本引き賭博で大負けした。竹中武が、兄・英男の負け分を支払った。

同年12月13日、竹中正久は神戸市生田区橘通りの山口組事務所において、地道行雄の推薦で、田岡一雄から盃をもらい、直参となった。細田利光(後の若頭補佐・細田利明の父)、小野新次、中村憲逸、前田重作らの山口組直参や、湊芳治、渋谷文男、宇野加次らの田岡の舎弟が見届け人となった。その後、竹中正久は神戸市三宮の「神戸観光ホテル」で行われた山口組「御事始(事始)」に出席した。

同年、竹中英男の発案で、竹中正久の舎弟全員を若衆とした。

昭和37年(1962年)1月16日、夜桜銀次事件が勃発した。

詳細は夜桜銀次事件を参照

同年3月、竹中武の発案で、竹中組の積立金制度が始まった。

同年9月、竹中正久が福岡拘置所から保釈で出た。この間、中山きよみが南地の新地で経営するスタンドバー「いこい」の売り上げだけが、竹中組の収入だった。

同年、姫路市本町の岡田組(組長は岡田守一)事務所2階で、竹中正久は他の竹中組組員と正式に盃を交わした。取持人は岡田守一だった。その後、組員は50人に増えた。

同年11月、「25時」の女性従業員の愛人(木下会会員)が、「25時」で閉店間際まで飲んでいたため、竹中武の若衆が木下会会員を下駄で殴って追い出した。女性従業員が警察に訴えたため、竹中武は傷害で逮捕され、神戸の鑑別所に送られ、その後保護観察処分となった。竹中たちは、「25時」を営業することが困難になったため、竹中組事務所として使うことにした。

同年12月、竹中正久の若衆・森田三郎がノミ行為を失敗し、岡山市の人に対して借金を作った。竹中武が借金の問題を解決するために、岡山市に行った。その後、竹中武は岡山市に定住した[1]。その後、岡山市に竹中組を設立した。

昭和38年(1963年)、竹中英男は、姫路市の旅館を買い取り、料理旅館としてリニューアルさせた。

昭和39年(1964年)1月 、「暴力取締対策要綱」が設置された。

同年2月、警視庁が「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(第一次頂上作戦」)を開始した。

同月、母の愛子が膵臓癌で死亡した。享年60。愛子の葬式には、田岡一雄の妻・田岡文子が参列した。

同年6月、竹中英男が結核で死亡した。

昭和40年、山口組に対する第一次頂上作戦が開始された。

詳細は第一次頂上作戦#山口組に対する第1次頂上作戦を参照

昭和46年(1971年)7月、竹中組組員・瀬古武志が、野球賭博での勝ち金を支払わない白龍会藤沢組若頭・長谷川智一を刺身包丁で刺殺した[2]。瀬古は、竹中組幹部・橘貴智雄の甥で、橘俊二に車を運転させて、長谷川の遺体を運び、仁寿山山中に遺体を埋めた。

昭和47年(1972年)3月8日午後10時ごろ、坪田英和(初代竹中組若頭)、竹中組若頭・長尾米八、橘貴智雄と、姫路市魚町の飲食店ビル2階のクラブで酒を飲んだ。その後、坪田のみを連れて、先に次のクラブに移った。長尾と橘は遅れてクラブを出て、飲食店ビル前で高松市の坂井組元準構成員・津吉隆俊と喧嘩になった。長尾は津吉にナイフで顔を斬られ、橘は津吉にナイフで腹を刺され、ともに重傷を負った。坪田英和は、次のクラブに来ない長尾と橘を探しに出かけ、津吉を追いかけていた橘を発見した。坪田が橘に代わって、津吉を追ったが、魚町の小料理屋の前で、津吉に胸をナイフで刺された。近くにいた湊組組員たちが集まり、1人が坪田をタクシーで病院に運び、他の湊組組員で津吉を追った。津吉隆俊は、姫路市西塩町のクラブ「オウリョクコウ」逃げ込み立て篭もった。湊組組員1人が竹中組事務所に電話を入れた。岡山市の竹中組組員・貝崎忠美が竹中組事務所で湊組組員からの電話を受け、竹中組若頭補佐・坂本義一(後の竹中組舎弟頭)に事件を報告し、木刀を持って「オウリョクコウ」に行ったが、竹中組事務所に戻り、1階の台所から菜切り包丁を持って再び「オウリョクコウ」前に戻った。通報を受けた姫路警察署の警官隊が「オウリョクコウ」に突入し、津吉の身柄を確保した。貝崎忠美は、警官隊に連行されていた津吉の左胸を菜切り包丁で突いて、刺殺した。貝崎は姫路警察署の警官に、殺人及び公務執行妨害の現行犯で逮捕された。その後、貝崎は懲役12年の判決を受けて、服役した。

昭和49年(1974年)竹中武は瀬古武志の長谷川智一殺害を知り、瀬古に事実を問い質した。竹中武は仁寿山で長谷川の遺体を確認した。

同年6月、兵庫県警と姫路警察署は、瀬古武志を別件で逮捕し、長谷川智一殺害を自供させた。

同年7月、警察は、瀬古武志を殺人と死体遺棄で再逮捕し、仁寿山で長谷川智一の遺体を発見した。

昭和53年(1978年)、長兄・龍馬が死亡した。57歳だった。

昭和55年(1980年)1月10日、姫路事件が勃発した。

詳細は姫路事件を参照

同年3月上旬と中旬、矢嶋長次、長谷一雄、稲川会・林喜一郎副会長、忠政会・大森忠明会長、松正会・山本真喜夫会長らを招待し、竹中組若頭補佐・大西康雄宅などで、2回に渡ってサイ本引き賭博を開いた。両日で賭け金3、4億円が動いた。

昭和56年(1981年)7月23日、田岡一雄は、急性心不全により死去した。

同年10月25日、神戸市灘区篠原本町の田岡邸で、山口組組葬が行なわれた。喪主は、妻の田岡文子。葬儀執行委員長は、稲川会・稲川聖城会長だった。服役中の山本健一が、副葬儀委員長だった。

山口組の運営は、山本健一の出所まで、山本広、小田秀臣、中西一男、竹中正久、益田芳夫、加茂田重政、中山勝正、溝口正夫と、田岡文子で行なわれることになった。

同年10月29日、昭和55年(1980年)3月上旬と中旬に開いた賭博により、竹中正久、竹中武、杉本明政、矢嶋長次、長谷一雄、林喜一郎、大森忠明、山本真喜夫らが、兵庫県警に逮捕された。警察は、テラ銭を1億5000万円と推定した。

同年11月18日、竹中正久は常習賭博で起訴され、姫路拘置所に収監された。

昭和57年(1982年)2月4日、大阪市生野区の今里病院で、山本健一は、肝硬変腎不全を併発して死去した。

同年3月13日、竹中正久は姫路拘置所から保釈された。

同年3月15日、確定申告の締切日だった。兵庫県警は、昭和55年(1980年)3月上旬と中旬に竹中組で開かれた賭博でのテラ銭1億5000万円などを竹中正久の所得と認定し、大阪国税局に課税するように通報した。

同年3月18日、兵庫県警山口組解体作戦本部、大阪国税局、神戸地方検察庁は、姫路市の竹中組事務所や岡山市の竹中組事務所などを一斉捜索した。

その後、田岡文子は、竹中正久に若頭就任を要請した。竹中正久は断り、竹中は中山勝正を若頭に推薦した。他の直系組長が、中山勝正の若頭就任に反対したため、中山の若頭就任は見送られた。再び、田岡文子が、竹中正久に若頭就任を要請し、竹中から承諾を取り付けた。しかし、溝口正夫が「組長代行だけを置き、若頭は決める必要はない」と主張したため、竹中正久は若頭就任を止め、幹部会への出席を拒否した。

同年6月14日、山本広は電話で、竹中正久に若頭就任を説得したが、竹中は拒否した。山本広は、田岡文子に相談した。田岡文子は、竹中に電話をし、田岡邸で話し合いことを決めた。竹中正久は、細田利明とともに田岡邸に赴き、田岡文子と話し合った。

同日、兵庫県警は、田岡文子を「三代目姐」と認定した。

同年6月15日午前3時、竹中正久は若頭就任を再度承諾した。

同日午後1時、田岡邸で山口組臨時幹部会が開かれた。山本広、小田秀臣、中西一男、竹中正久、中山勝正、溝口正夫が主席し、竹中正久の若頭就任が了承された。

同年7月5日、山口組直系組長会が開かれた。「山口組運営は、山本広組長代行と、新たに組長代行補佐を決めれば十分で、若頭を決める必要はない」との意見が出されて、紛糾した。

同年8月25日、竹中正久と妻・中山きよみが、所得税法違反容疑で指名手配され、竹中組事務所まで40箇所が捜索された。竹中武は脱税の共謀容疑で逮捕された。

同年8月26日午後3時ごろ、竹中正久は、細田利明い付き添われて神戸地検に出頭し、所得税法違反容疑で逮捕された。

同年9月16日、竹中正久は、1億9439万円を脱税したとして、起訴された。神戸拘置所は、竹中正久に対して、接見禁止とした。

昭和58年(1983年)6月21日、竹中正久が神戸拘置所から保釈された。中村憲逸、小野新治、石川尚、細田利明らとともに、姫路の竹中組事務所に戻った。

同年6月5日午後3時、山口組直系組長会で、竹中正久は、山口組四代目組長就任の挨拶をした。山本広を支持する直系組長は、直系組長会に出席しなかった。

同日、大阪市東区の松美会事務所で、山本広、加茂田重政、佐々木道雄、溝橋正夫、北山悟、松本勝美、小田秀臣ら約20人が、在阪のマスコミ各社を呼んで、記者会見を開き、竹中正久の山口組四代目就任に反対した。

同年6月6日、竹中正久の山口組四代目就任に反対する山口組直系組長は、山口組の山菱の代紋を、組事務所から外した。この段階で、山口組参加者は直系組長42人で総組員数4690人、一和会参加者は直系組長34人で総組員数6021人だった。

同年6月8日、兵庫県警姫路警察署は、竹中事務所への家宅捜索を行なった。容疑は、昭和57年(1982年)7月の竹中組と小西一家との喧嘩の際に使用された拳銃が竹中組事務所に隠されていることと、昭和57年(1982年)8月に竹中組組員がサイコロ賭博に加わったというものだった。

同年6月13日、山本広、加茂田重政、佐々木道雄らは、山本広を会長に据えて、「一和会」を結成した。加茂田は、副会長兼理事長に就任した。加茂田重政は、弟の神竜会・加茂田俊治会長を、一和会理事長補佐に据え、弟の政勇会・加茂田勲武会長を、一和会常任理事に据えた。

山口組福井組・福井英夫組長は、山口組宅見組宅見勝組長に説得されて、一和会参加を取り止めて、ヤクザから引退した。小田秀臣も一和会には参加せず、ヤクザから引退した。名古屋市弘田組・弘田武組長も、一和会には参加せずにヤクザから引退した。弘田組若頭・司忍(後の六代目山口組組長)が、弘田組を引き継いだ。

同年6月21日、田岡邸大広間で、竹中正久は、23人の舎弟、46人の若中と、固めの盃を執り行なった。

同年6月23日、若頭に中山勝正、舎弟頭に中西一男、筆頭若頭補佐兼本部長に岸本才三を据えた。渡辺芳則、宅見勝、嘉陽宗輝、桂木正夫、木村茂夫を若頭補佐に据えた。竹中武を竹中組組長、竹中正を竹中組相談役に就けた。竹中武は直系若衆になった。

同年7月10日、徳島県鳴門市の「観光ホテル鳴門」で、山口組襲名式が執り行なわれた。後見人は稲川聖城。取持人は諏訪一家・諏訪健治総長。推薦人は住吉連合会(後の住吉会)・堀政夫会長と会津小鉄会(後の会津小鉄)・図越利一会長、大野一家・大野鶴吉総長、今西組・辻野嘉兵衛組長、松浦組・松浦繁明組長、大日本平和会・平田勝市会長、森会・平井龍夫会長、草野一家・草野高明総長。見届け人は翁長良宏。媒酌人は大野一家義信会・津村和磨会長。霊代は、田岡文子。

昭和59年(1984年)8月5日、山一抗争が勃発した。

詳細は山一抗争を参照

昭和63年(1988年)、山口組若頭補佐・宅見勝、山口組本部長・岸本才三野上哲男らが、山口組五代目に、渡辺芳則擁立に動き始めた。さらに、徳島市心腹会尾崎彰春会長、名古屋市の益田(啓)組・益田啓助組長、横浜市の益田(佳)組・益田佳於組長、尼崎市大平組・中村憲人組長、尼崎市の古川組古川雅章組長、伊丹市の松野組・松野順一組長、長野市の近松組・近松博好組長、名古屋市の弘道会司忍会長が、山口組五代目に、渡辺芳則を推した。竹中武は、山口組執行部に「誰が山口組五代目になっても、組内の調整には協力するが、五代目と盃をするかどうかは、別物である」と宣言していた。

同年暮れ、野上哲男は、渡辺芳則から「渡辺芳則が五代目山口組組長となった場合、組長としての発言をしない」という言質を引き出した。

同年12月29日、渡辺芳則は、姫路市御着の竹中正久の実家を訪ね、竹中武と会談した。渡辺芳則は、竹中武に、山口組執行部の増員を相談し、了解を得た。また、渡辺は、竹中に、中西一男が山本広と接触して山本広引退工作を進めていることを話し、中西の山本広引退工作を止めてもらうように依頼した。竹中武は、中西一男説得を引き受けた。竹中武は、渡辺芳則に、「竹中正久の五回忌(平成元年(1989年)1月27日)に、山口組幹部一同が、竹中正久の実家で落ち合い、親睦を深める」ことを提案した。渡辺芳則は、提案に賛成した。その後、竹中武は、中西一男にも「竹中正久の五回忌に、竹中正久の実家で、山口組幹部一同が落ち合い、親睦を深める」ことを提案し、了解を得た。

このころ、宅見勝らは、益田(佳)組・益田佳於組長、小西一家小西音松総長、伊豆組伊豆健児組長らを説得し、渡辺芳則の五代目山口組組長就任を了承してもらった。

平成元年(1989年)1月27日、山口組本家で、直系組長会が開かれた。宅見勝らは五代目山口組組長決定の緊急動議を出そうとしたが、中西一男を五代目山口組組長に推す人らに、山一抗争が完全終結していないことを理由に反対されて、緊急動議を出せなかった。

同日、姫路市御着の竹中正久の実家に、中西一男、岸本才三、ら山口組幹部が集まり、法要が営まれた。しかし、渡辺芳則や宅見勝らは、法要に欠席した。

同年2月11日、神戸市の料亭「いけす」で、近松博好の呼びかけにより、渡辺芳則と竹中武の会談が行なわれた。近松と岸本才三が同席した。近松と岸本は、五代目山口組組長に渡辺芳則と、同組若頭に竹中武を望んでいた。

その後、渡辺芳則は、山口組組長代行補佐グループから、「自分が五代目山口組組長になった場合、顧問とする。自分との盃はなしとする」という条件で、渡辺支持を取り付けた。その後、山口組舎弟グループからも、支持を取り付けた。

このころ、山口組各直系組長宛に、「任侠道新聞」1号、2号が送られた。1号では、「渡辺芳則の五代目山口組取りは失敗する」「宅見勝が嘘をつき、渡辺の五代目山口組組長就任を画策している」と書かれていた。2号では「山口組に謀反を企む者に、渡辺芳則、宅見勝、岸本才三の他、野上哲男がいた」と書き、「現山口組執行部の解体と山口組五代目問題の棚上げ」を要求していた。

同年2月27日、山口組定例総会で、竹中武の山口組若頭補佐就任が発表された。

同年3月27日午前、古参組長数人が、山口組執行部会への出席を申し入れた[3]

同日、山口組執行部会で、中西一男と渡辺芳則の五代目山口組組長への立候補が決められた。

同年4月16日、山口組舎弟会で、渡辺芳則を五代目山口組組長に推すことが決まった。山口組舎弟会には、山口組二代目森川組矢嶋長次組長も出席していた。

同年4月20日、山口組緊急幹部会が開かれ、山口組五代目の人選が議論された。竹中武は、態度を保留した。渡辺芳則と中西一男が話し合い、中西一男が五代目山口組組長立候補を取り下げた。渡辺芳則の山口組五代目擁立が決まった。

同年4月27日、山口組直系組長会で、中西一男が、五代目山口組組長立候補取り下げの経緯を説明した。渡辺芳則の五代目山口組組長就任が決定した。

同年4月下旬、神戸市花隈の山健組事務所で、渡辺芳則と岸本才三と近松博好が、竹中武を山口組に留め置くことを確認し、竹中武の連れ戻しを協議した。しかし、宅見勝は、竹中武の連れ戻しに反対だった。宅見は、尾崎彰春に依頼して、岸本に、竹中武連れ戻しを断念させた。渡辺も宅見の考えに同調し、竹中武の連れ戻しは白紙になった。

同年5月10日、山口組緊急執行部会で、宅見勝の山口組若頭就任が内定した。竹中武は、緊急執行部会を欠席した。

同年5月18日、山口組本家で、舎弟24人、若衆45人と盃直しを行なった。尾崎彰春の実子・尾崎勝彦ら4人が新たに直参になった。竹中武、矢嶋長次、牛尾組・牛尾洋二組長、森唯組・森田唯友紀組長は欠席した。

同年5月27日、山口組最高顧問を新設し、中西一男を最高顧問に据えた。英組英五郎組長、倉本組・倉本広文組長、黒誠会・前田和男会長、弘道会司忍会長、芳菱会滝澤孝総裁を、若頭補佐に据えた。益田啓助を舎弟頭に据えた。章友会石田章六会長、大石組大石誉夫組長、西脇組西脇和美組長を舎弟頭補佐に据えた。嘉陽宗輝、桂木政夫(後に舎弟頭補佐)、木村茂夫は舎弟となった。岸本才三は舎弟となり、山口組総本部長となった。野上哲夫は、山口組総本部副本部長となった。益田佳於、小西音松、伊豆健児は、顧問に就任した。新人事には、宅見勝の意向が強く反映された。

同年6月4日、岸本才三、西脇和美、神戸市の佐藤組・佐藤邦彦組長が、竹中武を訪ね、「竹中正久の位牌と仏壇を受け取ってもらいたい」と頼んだ。竹中武は竹中正久の位牌と仏壇を受け取った[4]

同年6月5日、山口組定例会で、竹中武、矢嶋長次、牛尾洋二、森田唯友紀の山口組脱退が発表された。

同年6月25日、竹中武は、中西一男、石田章六、倉本広文、前田和男の訪問を受け、山口組の守り刀の譲り渡しを了承した。ただし、守り刀は文化庁に登録されていたため、新たに渡辺芳則の名前で登録しなければ、銃砲刀剣類所持等取締法第14条違反となった。竹中武は、渡辺芳則に、山口組代紋の山菱が施された純金製三つ重ねの金杯を送った。

同日、「五代目山口組幹部一同」の名前で、他団体に向けて「竹中武、矢嶋長次、森田唯友紀、牛尾洋二は、今後五代目山口組とは何ら関係なし」とする文書を送付した。

同年7月3日夜、岡山市新京橋の竹中組事務所の窓ガラスが、走行中の車から2発銃撃された。

同年7月4日、姫路市の病院の玄関ロビーで、治療を受けた牛尾組組員が、2人組の男から、銃撃され、同行の少年とともに負傷した。

同年7月5日、渡辺芳則の山口組守り刀相続の書類が整った。竹中武の使いが、守り刀を、桑田兼吉に届けた。

同年7月18日、山口組の山菱の代紋を降ろし、新しい代紋を掲げた。

同年7月28日、竹中組総会が開かれた。竹中武は、副組長に青木恵一郎、若頭に大西康雄、総本部長に笹部静男、組織委員長に貝崎忠美を据えた。牛尾洋二が竹中組舎弟頭補佐に就任した。竹中武は、舎弟頭補佐・杉本明政を除籍とし、若頭補佐・生島仁吉、同・宮本郷弘を破門した。杉本明政、生島仁吉、宮本郷弘は、竹中組の山口組からの離脱に激しく反対していた。

同年7月20日、神戸市灘区の山口組本家2階の80畳敷きの大広間で、渡辺芳則の山口組五代目襲名相続式典が行われた。媒酌人は大野一家義信会・津村和磨会長、後見人は稲川会稲川聖城総裁、取持人は稲川会石井隆匡会長、奔走人は稲川会・稲川裕紘理事長(後の三代目稲川会会長)。推薦人は、四代目会津小鉄会・図越利一総裁、松葉会・中村益也会長、四代目今西組・辻野嘉兵衛組長、三代目森会・平井龍夫会長、二代目大日本平和会・平田勝義会長、侠道会・森田幸吉会長、工藤連合草野一家・工藤玄治総裁、四代目小桜一家・神宮司文夫総裁、住吉連合会・堀政夫総裁。見届人は、導友会愛桜会、四代目砂子川組、三代目倭奈良組、三代目互久楽会、二代目大野一家、三代目南一家、四代目佐々木組、諏訪会、二代目松浦組、三代目旭琉会。霊代は、中西一男。しかし、兵庫県警が、山口組五代目襲名式阻止の方針を打ち出したため、実際に山口組五代目襲名相続式典に出席したのは、山口組直系組長92人と、稲川聖城、石井隆匡、稲川裕紘、五代目酒梅組・谷口政雄組長、東亜友愛事業組合・沖田守弘理事長、双愛会・石井義雄会長ら10数人の親戚筋だけだった。渡辺芳則は、先代である竹中正久の内妻・中山きよみに、全く祝儀を届けなかった[5]

同年7月29日、山口組臨時直系組長会で、「竹中組組員でも、希望するならば、自分の組で拾っても良い」と通達した[6]

同年8月1日、杉本明政と宮本郷弘は、宅見勝の盃を受け、舎弟となった。杉本明政は、宅見組組長代行に就任した。

同年8月3日、姫路市の竹中組事務所の窓ガラスが、銃撃された。

同年8月23日、竹中組組員が自発的に集まり、今後の対策を協議したが、結論は出なかった。

同日午後8時、竹中組大西組(組長は竹中組若頭・大西康雄)事務所に銃弾が撃ち込まれた。

同日、竹中組笹部組(組長は笹部静男)事務所に銃弾が撃ち込まれた。

同年8月24日、竹中組牛尾組(組長は牛尾洋二)仮説事務所に銃弾が撃ち込まれた。その後、牛尾洋二は、ヤクザから引退した。

同年8月25日、竹中組山本組・山本浩司組長宅に銃弾が撃ち込まれた。

同年8月26日、山口組三代目山健組疋田組組員が、8トントラックに乗って、竹中正宅の隣に突っ込んだ。

同日、山口組山健組村正会組員が、竹中組林田組・林田誠一組長宅に銃弾を撃ち込んだ。

同年8月27日、高松市の竹中組二代目西岡組事務所に銃弾が撃ち込まれた。

同年8月28日、神戸市灘区の竹中組一志会事務所に銃弾が撃ち込まれた。

同年8月31日、山口組若頭補佐・倉本広文、同・司忍、同・前田和男が、竹中武を訪問し、竹中組の解散と竹中武のヤクザからの引退を迫った。竹中武は拒絶した。

同年9月4日、岡山市の竹中組貝崎組事務所、姫路市の竹中正宅に銃弾が撃ち込まれた。

同年9月6日、岡山市の竹中組宮本興業に銃弾が撃ち込まれた。

同年9月27日、山口組誠友会(会長は石間春夫。通称は北海のライオン)と稲川会越路一家との抗争が勃発した。お互いが、相手傘下組織の事務所に銃弾を撃ち込んだ。

同年10月5日、山口組直系組長会で、稲川会など他団体との抗争を厳禁をした。

同年11月5日、山口組本家で、竹中正久の組葬が営まれた。喪主は、中山きみよと発表されたが、中山きよみは列席しなかった。その後、山口組は、香典として3000万円を中山きよみに贈ったが、中山に突き返された。

平成2年(1990年)1月23日、竹中正の自宅前路上が火炎瓶で焼かれた。

同年1月24日、竹中組組員が、山口県柳井市の元一和会幹部宅に侵入し、元幹部の家族から山本広の所在を聞き出そうとした。

同年2月5日、姫路市北条に建設中だった竹中正の家が放火された。火は、鉄骨2階建て延べ約810平方メートルのうち、1階の床など約60平方メートルを焼いた。

同年2月27日、竹中正の配下組員が、犬の散歩中に、白い乗用車から銃撃された。組員は近くのタクシー会社に逃げ込んだ。全治1ヶ月の重傷だった。

同年3月3日昼、黒のジャンパー姿の男が、ヤクザから引退した牛尾洋二が経営する不動産会社に入り、拳銃で3発を発砲した。従業員2人が被弾して、重傷を負った。

同年3月4日午後6時すぎ、山口組組員が、姫路市延末の中山きよみ宅の電動式門扉が鉄棒で壊して侵入し、玄関の木戸と表札に5発の銃弾を撃ち込んだ。怪我人はいなかった。

同日夜、姫路の山口組神田組幹部が、中山きよみ宅を訪れ、徹夜で警備した。

同年3月5日、兵庫県警は姫路警察署で緊急対策会議を開いた。兵庫県警本部刑事部参事官・箱崎逸夫は「山口組は、先代組長の内妻を襲撃するなど、統制を欠いた状態にある」と発表した。

同日夜、岡山市十日市東町で、竹中組組員・熊原健裕が、車で自宅に戻ったところを、待ち伏せしていた者に、首や胸などを銃撃され死亡した。

同年3月6日午前4時ごろ、岡山市並木町の飲食店経営者が、自宅に帰る途中、竹中組組員と間違われて、腰を銃撃されて全治1ヶ月半の重傷を負った。飲食店経営者は、竹中組組員が住むビルで、店を開いていた。

同日、岡山県警は、拳銃3丁の所持容疑で、竹中組幹部3人を逮捕した。

同年3月12日夜、鳥取県倉吉市で、竹中組幹部・八栗拓一が、道路を歩行中に、胸や腹を銃撃されて死亡した。

平成20年(2008年3月15日、病死した。享年64。

[編集] 脚注

  1. ^ 当初、竹中武は短期間滞在するつもりでいた
  2. ^ 事件の経緯は以下の通り。
    昭和46年(1971年)、竹中組組員・瀬古武志は、白龍会藤沢組若頭・長谷川智一の野球賭博の客になり、160万円を勝った。
    瀬古は、長谷川が留守だったため、藤沢組組長らと交渉して、80万円を受け取った。
    同年7月、瀬古は、姫路市に戻ってきた長谷川に、勝ち金の残り80万円を要求したが、長谷川は支払いを渋った。
    瀬古は、竹中組事務所近くに長谷川を呼び出し、刺身包丁で刺殺した
  3. ^ 普段は組長代行補佐でも、山口組執行部会には出席しない
  4. ^ 通常、先代の位牌と仏壇は、当代が管理する
  5. ^ 通常は、襲名相続式典の祝儀の半分を、先代組長の未亡人に贈る。竹中正久は、四代目山口組襲名相続式典の祝儀全部を、田岡文子に渡し、田岡文子はその三分の一だけを受け取った
  6. ^ 本来、他団体で絶縁・破門・除籍された者を拾うことは、ヤクザ社会では、ご法度だった

[編集] 参考文献


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