竹中組 (姫路)
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[編集] 略歴
[編集] 竹中組初代
1953年頃、竹中正久(後の四代目山口組組長)が、兵庫県姫路市御着の実家を拠点として、弟の竹中英男、竹中 正、竹中 修、竹中 武(後の竹中組二代目組長)や坪田英和(後の竹中組初代若頭)らと愚連隊を形成した。
1961年12月13日、神戸市生田区橘通りの山口組事務所において、山口組若頭・地道行雄の推薦で、三代目山口組組長・田岡一雄から盃をもらい、直参となった。
1962年12月、竹中正久の若衆・森田三郎がノミ行為を失敗し、岡山市の人に対して借金を作った。竹中 武が借金の問題を解決するために、岡山市に行った。その後、竹中 武は岡山市に定住し、岡山市で岡山竹中組を結成した。
1982年6月15日、竹中正久は、山口組若頭に就任した。
1984年6月5日午後3時、山口組直系組長会で、竹中正久は、山口組四代目組長就任の挨拶をした。山本 広を支持する直系組長は、直系組長会に出席しなかった。
詳細は竹中正久を参照
[編集] 竹中組二代目
竹中正久が四代目山口組組長に就任したことに伴い、同年6月23日に副組長で岡山竹中組組長・竹中 武が竹中組の組長に就任、四代目山口組直参となった。また、本人は「二代目」を名乗らず、単に竹中組組長であった。
同年8月5日、山一抗争が勃発した。
1985年1月26日午後9時15分過ぎ、竹中正久は、中山勝正と山口組南組・南力組長とともに、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」の1階エレベーター前で、田辺豊記、長尾直美、立花和夫に銃撃された。南力は即死だった。竹中正久は銃弾3発を受けたが、自力で自分のメルセデスベンツに乗り込み、運転手の南組組員に大阪南区の南組事務所に向かわせた。南組組員が自動車電話で救急車を手配した。中山勝正は、「GSハイム第二江坂」から救急車で、病院に送られた。同日午後9時30分、竹中らは南組事務所に到着し、竹中は大阪警察病院に搬送された。
同年1月27日午前1時7分、中山勝正は死亡した。
同年1月27日午後11時25分、竹中正久は死亡した。
同年6月5日、山口組定例会で、竹中組、森川組など4団体の山口組脱退が発表された。竹中 武は、岡山竹中組の本拠であった岡山に移り竹中組とした。これにより姫路市の竹中組は消滅した。
詳細は竹中武を参照