ペレ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ペレ | ||
---|---|---|
![]() |
||
名前 | ||
本名 | エドソン・アランテス・ド・ナシメント | |
愛称 | ペレ、王様 (O Rei) | |
ラテン文字 | Pelé | |
基本情報 | ||
国籍 | ![]() |
|
生年月日 | 1940年10月23日(67歳) | |
出身地 | トレス・コラソンエス | |
身長 | 171cm | |
体重 | 73kg | |
血液型 | A型[要出典] | |
選手情報 | ||
ポジション | FW | |
利き足 | 右足 | |
クラブチーム1 | ||
年 | クラブ | App (G) |
1956-1974 1975-1977 |
サントス ニューヨーク・コスモス |
|
代表歴 | ||
1956-1971 | ![]() |
92 (77)
|
ペレ、本名エドソン・アランテス・ド・ナシメント(Pelé, 本名Edison Arantes do Nascimento, 1940年10月23日 - )は、ブラジルのミナス・ジェライス州トレス・コラソンエス出身の元サッカー選手。アフリカ系ブラジル人。
目次 |
[編集] 人物
[編集] サッカーの王様
生涯で1281ゴールを記録するというその実績から、「20世紀最高」、あるいは「サッカー史上最高」と評される選手。「サッカーの王様」と称される。
171センチと(ブラジル人サッカー選手としては)小柄であるが身体能力が抜群で、バランス感覚に優れ自身より大柄な相手ディフェンダーの激しいタックルにも当たり負けしなかった。ペレのプレースタイルは、「パーフェクトバランス」という言葉に集約される。
また、小柄ながら並外れた跳躍力で打点の高いヘディングも得意としており、さらに100メートルを10秒台で走る俊足を持ち合わせているなど、サッカー選手に必要な全ての才能を持ち合わせていた。その一方で、自分勝手で傲慢なプレーに走ることは決してなく、自らのゴールを減らしてでも周りの選手の能力を最大限に引き出す献身的なプレイヤーでもあった。
しかし、ペレの出来がチームに与える影響は計り知れないものがあり、そのため相手チームに「ペレさえ止めれば」が「ファウルでしか止められない」という脅威と重なって現役を通じて悪質なファウルに悩まされることになった。
[編集] 海外の評価
この様な、華麗かつ献身的なプレースタイルとその成績により、その後もブラジルのみならず世界的な賞賛と尊敬を集め続けている。なお、自らの実力に絶対の自信を持ち、「マラドーナやミシェル・プラティニといった過去の偉大な名選手たちですらをも上回る」と自らを評するヨハン・クライフが、唯一賞賛を惜しまない相手こそ、このペレである。曰く「彼は理論を越えている」。
[編集] 経歴
[編集] ユース時代
サッカー選手であった父親の元にトレス・コラソンエスで生まれた。なお、「ペレ」の愛称の由来はペレの父親の所属していたサッカークラブのGKの「ベレ」の大ファンであったが、そのころのペレは幼かったので「B」の発音が出来なくて「P」と言っていたので「Pelé」が愛称になった。本人は少年時代はこの呼び名を好んでおらず、友人と喧嘩になったこともある。
多くのブラジル人と同じく幼少時からサッカーに親しむ中で、その天賦の才能を現し、1954年にバウルーのユースでデビューした。当時からそのバランスがとれたプレーが全国的注目を浴びることとなる。
[編集] プロ時代
1956年には、サンパウロ州の強豪クラブであるサントスでプロデビューした。その後1975年までの19年間は同クラブのみに所属し、この間に多くのゴール記録を樹立するとともに、同クラブがコパ・リベルタドーレスやインターコンチネンタルカップ、サンパウロ州選手権を数度に渡り獲得するなど同クラブの黄金期を作ることに大きく貢献した。
その後莫大な契約金を得て北米サッカーリーグ(NASL)に所属するアメリカのニューヨーク・コスモスに移籍し、1977年には同チームの北米選手権のタイトル獲得に貢献し、同年のシーズン終了とともに引退した。
[編集] ブラジル代表及びFIFAワールドカップ
ブラジル代表デビューは1957年7月7日で、当時まだ16歳であった。ワールドカップには、1958年のスウェーデン大会に17歳で初出場。準決勝でジュスト・フォンテーヌを擁するフランスを相手にハットトリックを達成し世界中を驚かせた。
ワールドカップでは、「ヨーロッパ大会では南米勢は優勝できない」、というジンクスがあるが、スウェーデン大会で唯一このジンクスを破ったのがペレである(ワールドカップのもう一つのジンクスである「開催国は強い」というジンクスから、スウェーデンが優勝する事が予測されたが、ペレの技がそのジンクスを上回った事になる。その上手さは、ペレがゴールしたとき、スウェーデンのディフェンス陣が、余りにも見事に抜かれたためペレの元へ祝福に駆け寄った、という逸話がある)。
その後1962年のチリ大会と1966年のイングランド大会、1970年のメキシコ大会の計4大会に出場し、歴代最多記録の77ゴールを記録し1958年スウェーデン大会と1962年チリ大会、1970年メキシコ大会における3度の優勝に大きく貢献した。
[編集] 引退後
1995年から3年間はブラジルのスポーツ長官を務めた他、多くの名誉職に就任するなど、引退後も仕事が後をたたない。この為ペレが生涯稼いだ金は現役時代よりも、引退後の仕事で得た報酬のほうが多いと言われている。
なお、そのサッカーにおける功績と数々のボランティア活動に対する貢献をたたえられて、イギリス政府より大英帝国勲章を授与されている他、世界各国より多くの勲章を授かっている。
[編集] 所属クラブ
- ユース
- プロ契約
- 1956年 - 1975年
サントス
- 1975年 - 1977年
ニューヨーク・コスモス
1954年に14歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働23年。生涯通算成績、1363試合出場、1281ゴール。公式記録として残っているものの中では、世界最高の記録である(公式でないものには、アルツール・フリーデンライヒの1329ゴールという記録がある)。1試合5得点が6回、4得点が30回、ハットトリックはなんと92回。1試合最多得点は8点。
[編集] 個人成績
年度 | クラブ | サンパウロ 州選手権 |
リオ・ サンパウロ 選手権 |
トルネオ・ R.G.ペドラサ |
全国選手権 | タッサ・ブラジル | 南米カップ戦 | 世界カップ戦 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
1956年 | サントス | 0 | 0 | _ | _ | _ | _ | _ | _ | _ | _ | _ | _ | _ | _ |
1957年 | サントス | 29 | 36 | 9 | 5 | _ | _ | _ | _ | _ | _ | _ | _ | _ | _ |
1958年 | サントス | 38 | 58 | 8 | 8 | _ | _ | _ | _ | _ | _ | _ | _ | _ | _ |
1959年 | サントス | 32 | 45 | 7 | 6 | _ | _ | _ | _ | 4 | 2 | _ | _ | _ | _ |
1960年 | サントス | 30 | 33 | 3 | 0 | _ | _ | _ | _ | 0 | 0 | _ | _ | _ | _ |
1961年 | サントス | 26 | 47 | 7 | 8 | _ | _ | _ | _ | 5 | 7 | _ | _ | _ | _ |
1962年 | サントス | 26 | 37 | 0 | 0 | _ | _ | _ | _ | 5 | 2 | 4 | 4 | 2 | 5 |
1963年 | サントス | 19 | 22 | 8 | 14 | _ | _ | _ | _ | 4 | 8 | 4 | 5 | 1 | 2 |
1964年 | サントス | 21 | 34 | 4 | 3 | _ | _ | _ | _ | 6 | 7 | _ | _ | _ | _ |
1965年 | サントス | 30 | 49 | 7 | 5 | _ | _ | _ | _ | 4 | 2 | 7 | 8 | _ | _ |
1966年 | サントス | 14 | 13 | 0 | 0 | _ | _ | _ | _ | 5 | 2 | _ | _ | _ | _ |
1967年 | サントス | 18 | 17 | _ | _ | 14 | 9 | _ | _ | 0 | 0 | _ | _ | _ | _ |
1968年 | サントス | 21 | 17 | _ | _ | 17 | 11 | _ | _ | 0 | 0 | _ | _ | _ | _ |
1969年 | サントス | 25 | 26 | _ | _ | 12 | 12 | _ | _ | 0 | 0 | _ | _ | _ | _ |
1970年 | サントス | 15 | 7 | _ | _ | 13 | 4 | _ | _ | 0 | 0 | _ | _ | _ | _ |
1971年 | サントス | 19 | 8 | _ | _ | _ | _ | 21 | 1 | 0 | 0 | _ | _ | _ | _ |
1972年 | サントス | 20 | 9 | _ | _ | _ | _ | 16 | 5 | 0 | 0 | _ | _ | _ | _ |
1973年 | サントス | 19 | 11 | _ | _ | _ | _ | 30 | 19 | 0 | 0 | _ | _ | _ | _ |
1974年 | サントス | 10 | 1 | _ | _ | _ | _ | 17 | 9 | 0 | 0 | _ | _ | _ | _ |
通算 | サントス | 412 | 470 | 53 | 49 | 56 | 36 | 84 | 34 | 33 | 30 | 15 | 17 | 3 | 7 |
年度 | クラブ | リーグ | 背番号 | リーグ戦 | その他 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
1975年 | ニューヨーク | NASL | 10 | 9 | 5 | 14 | 10 |
1976年 | ニューヨーク | NASL | 10 | 24 | 15 | 18 | 11 |
1977年 | ニューヨーク | NASL | 10 | 31 | 17 | 11 | 6 |
通算 | NASL | 64 | 37 | 43 | 27 |
[編集] エピソード
現役時代には、ペレのプレーを見るためにナイジェリアとビアフラの内戦が中断した、ペレの暴言にレッドカードを出した主審が逆に退場を命じられる、ユベントスに至っては、ペレに対し「契約金はあなたの言い値で」と言わんばかりに白紙の小切手を送った、など数々の逸話がある。

- 1000ゴール達成時には、ブラジル郵政省から記念切手が発行された。
- 1995年から3年間はブラジルのスポーツ長官を務め、他にも多くのスポーツ団体への寄付などスポーツ普及のため尽力している。
- 1999年にブラジルで自動車強盗に遭遇したが、強盗に向かって「ペレだが?」と告げたところ強盗は「すみません」と謝って何も盗らず逃走したという。以前自動車強盗にあったロマーリオは金を奪われたため、やはり選手としての格が違うと語られることになった。
- スパイク契約はプーマである(後年プーマのCMにも出演した)。ペレにあやかってプーマのスパイクを愛用したサッカー選手は数多い。
- バイアグラのCMに出演していたことがあるが、ペレ自身はEDではない。
- 1994年には22歳年下の女性と再婚し、前の夫人との間に1男2女、現在の夫人の間に2女、隠し子で1女の計1男6女がいる。
- ブラジルの子供番組の司会者でアイドルであったシューシャ(Xuxa)と愛人関係だったという噂もあり、一時期はマスコミで騒がれた。なおペレとつきあう前にシューシャがつきあっていたのは同じく国民的英雄のアイルトン・セナであった。
- ブラジルの国民的英雄ではあるが、ブラジル中に隠し子がいるというスキャンダルもあり、一部のブラジル人からはペレより女性スキャンダルの少ないジーコの方がより英雄視されているという意見もある。
- 前述の女性問題やマラドーナを筆頭とする他のプレーヤーや現代サッカー批判などによりブラジル国内でもペレを嫌う者も多い。
- FIFAワールドカップの優勝国予想がことごとく外れ続けることで有名であったが、2006年ドイツ大会のイタリアの優勝で、連敗にピリオドを打った。しかし、その予想が与える影響力とは裏腹に、あまりに予想が外れることからペレの優勝国予想にあげられることをいやがる国は多い。
- 2002年のF-1ブラジルグランプリでゲストに招かれ、チェッカーフラッグを振る役を任された。しかし最終ラップでスタッフと打ち合わせしている間に1位のミハエル・シューマッハ、2位のラルフ・シューマッハが通過してしまい、3位からようやくチェッカーを振るという珍事となった。
[編集] 映画
[編集] 関連項目
先代: テオフィロ・クビジャス |
南米年間最優秀選手 1973 |
次代: エリアス・フィゲロア |
ブラジル代表 - 1970 FIFAワールドカップ 優勝メンバー (3度目) | |
---|---|
1 フェリックス | 2 ブリト | 3 ピアッザ | 4 カルロス・アウベルト | 5 クロドアウド | 6 マルコ・アントニオ | 7 ジャイルジーニョ | 8 ジェルソン | 9 トスタン | 10 ペレ | 11 リベリーノ | 12 アドゥ | 13 ロベルト・ミランダ | 14 バウドッチ | 15 フォンタナ | 16 エヴェラウド | 17 ジョエウ | 18 パウロ・セザル | 19 エドゥ | 20 ダリオ | 21 ゼ・マリア | 22 レオン | 監督 ザガロ |
![]() |
ブラジル代表 - 1962 FIFAワールドカップ 優勝メンバー (2度目) | |
---|---|
1 ジウマール | 2 D.サントス | 3 マウロ | 4 ジト | 5 ゾジモ | 6 N.サントス | 7 ガリンシャ | 8 ジジ | 9 コウチーニョ | 10 ペレ | 11 ペペ | 12 ジャイール M. | 13 ベリーニ | 14 ジュランジール | 15 アウタイール | 16 ゼキーニャ | 17 メンガウヴィオ | 18 ジャイール | 19 ババ | 20 アマリウド | 21 ザガロ | 22 カスチーリョ | 監督 モレイラ |
![]() |
ブラジル代表 - 1958 FIFAワールドカップ 優勝メンバー (初) | |
---|---|
1 カスチーリョ | 2 ベリーニ | 3 ジウマール | 4 D.サントス | 5 ジノ・サニ | 6 ジジ | 7 ザガロ | 8 オレコ | 9 ゾジモ | 10 ペレ | 11 ガリンシャ | 12 N.サントス | 13 モアシール | 14 デ・ソルジ | 15 オルランド | 16 マウロ | 17 ジョエウ | 18 マゾーラ | 19 ジト | 20 ババ | 21 ジダ | 22 ペペ | 監督 フェオラ |
![]() |