ピンク・フロイド
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ピンク・フロイド | |
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ピンク・フロイド左から順にデイヴィッド・ギルモア、ニック・メイスン、ロジャー・ウォーターズ、リック・ライト |
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基本情報 | |
出身地 | イングランド・ケンブリッジ |
ジャンル | サイケデリック・ロック、プログレッシブ・ロック |
活動期間 | 1965年 - 現在 |
レーベル | ハーベスト・レコード、コロムビア・レコード、キャピトル・レコード |
共同作業者 | Sigma 6 |
公式サイト | http://www.pinkfloyd.co.uk/ |
メンバー | |
デヴィッド・ギルモア リック・ライト ニック・メイスン |
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旧メンバー | |
ロジャー・ウォーターズ シド・バレット |
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ピンク・フロイド (Pink Floyd) は、イギリス出身のプログレッシブ・ロック・バンド。
目次 |
[編集] スタイル
実験的な音楽性やスペクタクル性に富んだライブ、現代社会における人間疎外や政治問題をテーマにした文学的・哲学的な歌詞で人気を博した。芸術面で高い評価を得ながらメガ・セールスを記録した稀有なバンドである。クラシックやジャズの素養を持った技巧派の奏者が多いプログレッシブ・ロックの中にあって、ブルースを出発点とする(結成当初はブルース・バンドだった)彼らの演奏技術は細かい符割りや変拍子とは無縁であるが、その音楽は独自の浮遊感・陶酔感を湛えている。また、現在に至るまでジ・オーブやKLFなどのいわゆるエレクトロニカ関連のアーティストにも多大な影響を与え続けている点でも、他のプログレッシブ・ロックアーティストとは一線を画している。
1973年発表のアルバム『狂気』は、芸術性と大衆性を高い次元で融合させ、商業的にも成功した金字塔的な作品であった。この成功が余りに巨大であった為、以降彼らは新作を制作する度に大変な重圧と戦うこととなる(そんな中で、『炎〜あなたがここにいてほしい』や『ザ・ウォール』といった名盤を残している)。内省的なテーマを扱い、前衛的な要素も取り込みながら、常識外れのセールスを記録したこの作品は、プログレッシブ・ロック(或いは、パンク・ロック以前の黄金時代のロック全般)の一つの到達点・飽和点とも言える。
また、フロイドはマスコミへのインタビューや露出を極度に嫌っていた。そのため、彼らの幻想的な音楽、哲学的な詞とあいまって、フロイドに対する神秘的なイメージをかもし出すことになった。その一方で、「ピンク・フロイド」という名前が非常にポピュラーになっても、熱心なファン以外にはメンバーの個人名までは認知されないという状況にもなり、メンバーのソロ活動においてはこの知名度の乏しさが足かせとなって売れ行き不振につながっていたマイナス面もあった。
[編集] バイオグラフィー
[編集] シド・バレット時代
1965年、建築学校(リージェント・ストリート・ポリテクニック、現ウェストミンスター大学)の同級生であったロジャー・ウォーターズ(B・Vo)、リチャード・ライト(Kd・Vo)、ニック・メイスン(Dr)の3人は現代音楽に関して論争を交わしたことがきっかけでバンド結成を思いつき、ウォーターズの旧友であるシド・バレット(G・Vo)も加わって、ロンドンでバンドを結成した。サイケデリック全盛の時代にアンダーグランド・シーンで活躍し、徐々にその認知度を高めていく。当初はシグマ6やメガデスと名乗っており、その後はピンク・フロイド・サウンドへと改名された。バンド名の由来はバレットがピンク・アンダーソンとフロイド・カウンシルという二人のブルース・ミュージシャンから拝借したもの。最終的にマネージャーの進言によりピンク・フロイドというバンド名に落ち着いた。
1967年、シド・バレット作のシングル「アーノルド・レーン」でデビュー。この歌の歌詞が下着泥棒を示唆する内容からBBCでは放送禁止に指定されたが、全英20位のヒットとなる。続くセカンド・シングル「シー・エミリー・プレイ」(当初の邦題は「エミリーはプレイガール」)が全英9位のヒットを記録する。
同年ファースト・アルバム『夜明けの口笛吹き』(当初の邦題は『サイケデリックの新鋭』)をリリースする。このアルバムをレコーディングしていた時、ちょうど隣のスタジオでビートルズが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を制作していた。ピンク・フロイドのレコーディングの様子を窺いに来たポール・マッカートニーはバンドの音楽を耳にし、「彼らにはノックアウトされた」と語ったという逸話が残っている。
この時期は名実ともにバレットのワンマン・バンドであり、「ピンク・フロイド=シド・バレット」という状態だった。しかし、バレットは重度の麻薬摂取などによって奇行などが目立ち始め、バンド活動に支障をきたし始める。翌1968年には、彼を補う形でデヴィッド・ギルモア(G・Vo)が加入し一時的にフロイドは5人編成となる。しかし、結局バレットはバンドを脱退することになる。
[編集] プログレッシブ・ロック全盛期
バレットは1968年の3月にバンドを脱退し、フロイドはウォーターズ、ライト、メイスン、ギルモアの4人で再スタートすることになった。バレット脱退後当初はシングルも数曲作り続けるが、バンドは方針を転換し、サイケデリック・ロックから脱却して独創性の高い音楽作りを目指すようになる。シングル・リリースもイギリスでは1968年発表の「It would be so nice」(ライト作)以後行われなくなる。それまでの直感的な即興音楽ではなく、建築学校出身という強みを生かした楽曲構成力に磨きをかけていく。1968年発表のセカンド・アルバム『神秘』のタイトル曲は、約12分のインストゥルメンタル曲である。
1969年発表の『モア』は、バルベ・シュローダー監督の映画『モア』のサウンド・トラックである。この頃バンドはテレビ映画などのサウンド・トラックも担当していた。スタンリー・キューブリックが1968年に発表した映画『2001年宇宙の旅』ではフロイドに音楽制作の依頼が来ていたという話が伝わっている。
続く1969年発表の『ウマグマ』は2枚組アルバムで、ライブ・アルバムとスタジオ・アルバムに分かれている。当時バンドは精力的にライブ活動を繰り広げており、そのライブ・パフォーマンスの一端が窺える。スタジオアルバムは、バンドメンバー4人のソロ作品である。当時バンドはライブで『The Man/The Journey』なる組曲を演奏しているが、この組曲は既に発表されている曲を組み合わせたものであり『ウマグマ』収録のスタジオ・テイクの一部も組み込まれている。
そして、1970年には『原子心母』を発表。これは全英1位を記録し、また批評家筋からも絶賛されるなど音楽的商業的な成功を収める。タイトル曲は収録に前衛音楽家のロン・ギーシンを招き、オーケストラを全面的に取り入れたロック・シンフォニーであり、23分にわたる大曲である。本作品以降、「プログレッシブ・ロック」を代表するバンドとして認知されるようになる。
1971年発表の『おせっかい』は、セールス面では前作『原子心母』ほどではないもの、バンドの音楽的な飛躍作とされる。本作でも引き続き23分を越える大曲「エコーズ」が収録されている。バンドはこの「エコーズ」の誕生を持って「初めてバンドがクリエイティビティを獲得した」と認識している。1971年8月には初めて来日、日本の音楽フェスティバル「箱根アフロディーテ」に参加する形でコンサートを披露した。また、大阪でもコンサートを行っている。
[編集] プログレッシブ・ロックの雄からロックのスターダムへ
バンドは1971年11月に『おせっかい』ツアーを終えると、次のアルバム制作に取り掛かった。バンドのリーダーのウォーターズは新作のアルバムのテーマを「人間の内面に潜む狂気」を描くことを提案し、バンドはこれを元に組曲を作り上げ、翌年1月20日のコンサートから『A Piece For Assorted lunatic』というタイトルで早速披露された。これが後に大ヒットアルバムとなる『狂気』である。バンドは1972年1月からイギリスを皮切りにコンサート・ツアーを開始、1972年3月には2回目の来日を果たしている。こちらでも『狂気』組曲が披露された。
アルバム名は『dark side of the moon』と決定しかけたが、メディシン・ヘッドが同名のアルバムをリリースしていたことが分かり一旦は『Eclipse』と変更される。しかしメディシン・ヘッドのアルバムは商業的に失敗に終わり、元の『Dark~』が復活した。
バンドはこの『狂気』制作に取り掛かる一方、1972年2月下旬から再びバーベッド・シュローダー監督の映画『La Vallée 』のサウンド・トラックも担当、フランスに赴き約2週間で『雲の影』を完成させた。こちらは全米46位を記録し、ウォーターズ作の軽快なナンバー「フリー・フォア」がシングル・カットされている。
そして1973年3月にコンセプト・アルバム『狂気』を発表する。本作では歌詞をウォーターズが全面的に書き下ろしたバンド史上初めてのものである。フロイドのアルバムに歌詞が掲載されたのはこの『狂気』が初めてだった。ウォーターズはなるべく歌詞の内容が誤解を受けないように腐心。アルバムは発売されるや、シングル・ヒットした「マネー」とともに、初の全米1位を記録するなど全世界で大ヒットを記録、音楽的にも商業的にも大成功を収めて、ピンク・フロイドは一躍ロック・スターダムにのし上がることになった。
これ以後、フロイドを取り巻く環境は一変することになる。コンサートの客が大幅に増え、また客層も一変する。このことはバンドのメンバー、特にウォーターズを大いに苛立たせることになり、これは新たにウォーターズにとっての創作活動にも影響を与えることになる。
1974年には『狂気』の次作を作るべくバンドはレコーディングを開始する。当初は、楽器を一切使わない組曲「Household Objects」を作ろうとしていた。そのため、ワイングラスに水を入れる、輪ゴムをセロテープで止めるという創作を行っていたとされる。しかしこれは、あまりにも手間がかかるため結局は断念した。
新たなアルバム作りは困難を極めた。『狂気』の成功で注目を集めたことによる重圧、『狂気』でやりたいことをやりつくしたという満足感、バンド個人の問題(ウォーターズとメイスンが離婚の危機を抱えていた)などが原因であった。それでもどうにか曲を作り上げ、1974年のフランス、イギリスツアーで披露された。それが「shine on you crazy diamond」「You've gotta be crazy」「Raving and drooling」の大曲である。
新アルバムではこの三曲を収録することが決まりかけていたが、この1974年のコンサートを収録した海賊盤『British Winter tour』が大いに売れまわってしまった。このため「Crazy」と「Raving~」の収録は見送られた。
こうして1975年に2年ぶりの新作となる『炎~あなたがここにいてほしい』を発表。大ヒットアルバム『狂気』の次作ということで注目されたが、アルバム内容が地味な内容であるとの評判を受け、セールス面では伸び悩んだが、現在ではバンドを代表するアルバムの一つとの評価を受けている。全米・全英ともに1位を記録。この作品でもウォーターズが歌詞を書き下ろしている。以後、フロイドが発表するスタジオ・アルバムはコンセプト・アルバムの体裁となる。
[編集] ロジャー・ウォーターズ時代へ
バンドは次第にロジャー・ウォーターズのイニシアチブが強くなっていく。1977年発表の『アニマルズ』はコンセプトアルバムであるが、全5曲中4曲がウォーターズ単独の書き下ろし曲であり、ウォーターズによるリード・ボーカルである。サウンド面でも、それまでの幻想的な面が大きく後退し、またハーモニーのパートが大きく減るなど、よりストレートなロックサウンドとなっていった。
このアニマルズのコンサート・ツアー「Pink Floyd : In The Flesh」は、ヨーロッパと北米を跨った当時のフロイドでは最大級のコンサートである。ウォーターズはこのツアーの最終日である7月6日のカナダ・モントリオール公演で、大騒ぎしていた前列の観客に激怒し、演奏途中でツバを吐き掛けるという行為に及んだ。ウォーターズはこの自らの行為が発想の引き金となって、コンサート終了後に次作のアルバム制作に没頭する。一方、他のメンバーはそれぞれのソロ活動を開始し、デヴィッド・ギルモアは1978年に『デヴィッド・ギルモア』を発表して小ヒットを記録する。
そして、1979年11月に2枚組アルバム『ザ・ウォール』を発表。シングル「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール(パート2)」とともに大ヒットを記録した。2枚組全26曲のうち、数曲を除けばほぼウォーターズが単独で作詞作曲を行っている。共同プロデューサーとしてアリス・クーパーのプロデュースなどで知られるボブ・エズリン招かれ、アルバムのレコーディングも多数のセッション・ミュージシャンが招かれている。
バンドの内部では文字通りウォーターズの独裁がますます進み、『ザ・ウォール』のセッション途中でウォーターズはリック・ライトを解雇するなど、ますます亀裂が進んでいった。そしてライトはバンドを脱退することになる。1980年から翌年にかけて行われたツアーにライトはサポート・メンバーとして参加する。よって、同ツアーで発生した莫大な赤字に対する支払いをライトがこうむることはなかった。
そのコンサートでは、実際に演奏途中から観客席と舞台の間に壁を実際に構築し、そして構築された壁が最期の曲である「Outside The Wall」の直前で完全に崩れ去るという大規模なもので評判を呼んだ(但し規模が大きすぎて経費手間が掛かりすぎ、全世界で4都市のみの公演に留まった)。またアルバムのコンセプトを具現化した映画『ピンク・フロイド ザ・ウォール』がアラン・パーカー監督の下で制作され、1981年に公開された。
そして1983年発表の『ファイナル・カット』は、"A Requiem For The Post War Dream by Roger Waters"(ロジャー・ウォーターズによる戦後の夢へのレクイエム)というサブタイトルから伺えるように、ピンク・フロイド名義ではあるが実質的にはウォーターズのソロ作品である。ウォーターズ以外のメンバーであるデヴィッド・ギルモアとニック・メイスンはレコーディング・セッションではウォーターズに乞われたときにしか動かないという状態だった。
当初『ファイナル・カット』に伴うコンサート・ツアーも行う予定だったが、ウォーターズがこれを中止させた。結局ピンク・フロイドは活動停止状態となり、メンバーはそれぞれのソロ活動を行うことになる。脱退したリック・ライトも個人プロジェクトを立ち上げた。
1984年、ギルモアは『狂気のプロフィール』を、ウォーターズは『ヒッチハイクの賛否両論』を発表し、アルバムに伴うコンサートツアーも行った。しかし、両者のアルバムの売り上げならびにコンサートの観客動員は芳しいものではなかった。ピンク・フロイドのコンサートと違って、空席の目立つ観客席を前に演奏する連続だった。ギルモアのコンサートはわずかに黒字を確保したが、ウォーターズは(エリック・クラプトンという大物が居たにも関わらず)コンサート・チケットを売り切ることが全く出来ず、大幅な損失を被ってしまった。
ロジャー・ウォーターズは1985年に「ピンク・フロイドは創造性を使い切った」との理由で脱退する。ウォーターズは、バンドのリーダーである自分が脱退したことでバンドの実質的な解散を意図していたが、ギルモアはあくまでもフロイドの活動継続にこだわった。
後に両者はピンク・フロイドの活動を巡り大きく対立し大きな禍根を残すことになる。
[編集] ウォーターズ脱退とデヴィッド・ギルモア時代
1985年6月、ウォーターズはスティーブ・オラークとの契約を破棄しようとした。しかし、オラークはウォーターズの意に反して引き続いてピンク・フロイドの仕事を続けたため、ウォーターズはギルモアとメイスンの同意を取り付けようとした。しかし両者は拒否したため、ウォーターズはピンク・フロイドを脱退するという手段に出た。1985年12月である。ウォーターズにとっては、ピンク・フロイドはもはやその存在価値を無くしているということであった。
ウォーターズは脱退後、早速ソロ・プロジェクトに取り掛かり、映画『風が吹くとき』のサウンド・トラックを制作した。これはウォーターズにとってアイデアのヒントにもなり、『ヒッチハイクの賛否両論』に続くソロ・アルバムの制作に取り掛かった。ウォーターズはプロデュースをボブ・エズリンに依頼しようとしたが、結局断られる形になった。断られた理由が、ギルモア主導のピンク・フロイドの新作プロデュースのためであり、ウォーターズの怒りを買うことになった。
ギルモアはメイスンとともにピンク・フロイドの「解散」に強く反対しグループの存続を主張しており、ウォーターズが脱退したのを受けて、自らが指揮を執ってピンク・フロイドの再活動を立ち上げた。このため、ギルモアは多数のミュージシャンを招聘してアルバム制作に取り掛かった。
ウォーターズはこのピンク・フロイドの再結成に激怒し、裁判に訴えてフロイドの活動中止を目論む。このため、ギルモアは裁判対策を余儀なくされるが、『ザ・ウォール』に関する権利をウォーターズに譲る、ステージに使われる「豚」の使用禁止、そして楽曲の使用収入の20数パーセントをウォーターズに支払う、などを条件に両者は和解した。この両者の大きな対立はマスコミやファンにとっての格好の注目の的になり、例えばロック雑誌『ローリング・ストーン』がこのピンク・フロイドを特集を組んだ号はその年の同誌の売り上げナンバー・ワンとなった。
こうして、新生ピンク・フロイドは1987年に『鬱』を発表し、さらに大掛かりなツアーを敢行してピンク・フロイドの復活を印象付けた。ウォーターズも同年にソロアルバム『RADIO K.A.O.S.』を完成して発表した(時期的にはウォターズのソロアルバムが発表が先)。ウォーターズは『鬱』ならびに新生フロイドを「フロイドの真似事をしただけのニセモノ」と手厳しく非難した。両者は同時期にアルバムを発売し、さらにコンサート・ツアーも行いアメリカではいくつかの都市で両者がバッティングすることがあったが、観客動員や注目度でフロイドの圧勝に終わっている。
ピンク・フロイドのコンサートは各地でソールド・アウトを記録したため、公演の追加に次ぐ追加で1989年まで続いた長丁場となった。1988年には3度目の来日公演も果たしている。
ウォーターズは『ザ・ウォール』に関するもろもろの権利を手にしたが、1990年ベルリンの壁が崩壊したのを受けて『ザ・ウォール』の再現コンサートをベルリンで行うことになった。こちらにも多数のミュージシャンが集まっての一大イベントとなった。これは評判を呼び、『ザ・ウォール~ライブ・イン・ベルリン』としてライブ盤とビデオが発売されている。
1992年、ウォーターズはソロアルバム『死滅遊戯』を発表する。これはウォーターズ得意のコンセプト・アルバムであり、批評家からも高評価があったものの、セールス面ではゴールドディスクにとどまる。当時、「200万枚売れたらツアーをやる」と公言していたが、結局このときは実現しなかった。
ピンク・フロイドは1993年秋頃から再活動し、1994年に『対(TSUI)』を発表。そして再び大規模なコンサート・ツアーに出る。このツアーでは一部公演で『狂気』組曲を1975年以来19年ぶりに演奏している。このライブの模様を収めた『P.U.L.S.E』もリリースしている。しかし、再び沈黙に入る。
ピンク・フロイド側とロジャー・ウォーターズ側は決定的に反目し、インタビューでロジャーとギルモアがお互いを非難しあうことが多かった。しかし1990年末より少しづつ両者の間の距離がわずかずつであるが変わり始めることになる。
[編集] メンバーのソロ活動の再開、久々のアルバム発売、そして再会へ
2000年になって、1979年発表の『ザ・ウォール』に伴うツアーの模様を収録したライブアルバム『ザ・ウォール・ライブ:アールズ・コート1980-1981』を発売。
2001年にはベストアルバム『エコーズ〜啓示』をリリース。ウォーターズを含めた4人で選曲が行われ、ピンク・フロイドにとって初と言ってもいいベスト盤となった。全英・全米ともに2位を記録し、相変わらずの人気を示した。メンバーの和解による再結成の期待が高まったが、再びバンドとしての活動が無い時期が続く。
2003年、長年ピンク・フロイドのマネージャーを務めたスティーヴ・オラークが死亡。葬儀の際にギルモア、メイスン、ライトが「デブでよろよろの太陽」と「虚空のスキャット」の2曲を演奏する。
[編集] ウォーターズ復帰「LIVE 8」~現在
2005年7月2日に行われたアフリカ貧困撲滅チャリティー・イベント「LIVE 8」では、ウォーターズを含めた4人によるラインナップで突如再結成を果たし、復活ライブを披露。同イベントでも屈指の反響を得た。その後しばらくして、ウォーターズを加えた形で再始動するとの報道も流れていたが、ギルモアはこれをキッパリと否定している。この幻のワールド・ツアーに対しては200億円を用意するというオファーもあった。 2005年、英ロックの殿堂入りを果たす。授賞式にはギルモアとメイスンが参加。ウォーターズは滞在先のローマから中継で参加。ライトは目の手術のため不参加。
2006年7月7日、かつてのリーダーであったシド・バレットが死去。メンバーから追悼のコメントが寄せられた。バレット死去に際して再結成の噂も聞かれたが、こちらも実現はしなかった。
同年、ギルモアの新作発売に伴うツアーにライトが参加。また、ウォーターズのツアーにはメイスンが数回参加している。5月31日には、ギルモアのロンドン公演にメイスンがゲスト出演していることも確認されている。実は、この公演でギルモア側からウォーターズにもゲスト参加の要請もあったが、ウォーターズ自身のツアー・リハーサルに専念するとの理由で参加は無かった。
同じく2006年、『P.U.L.S.E』のDVD化(『驚異』という邦題が付けられた)に伴い、ギルモア、ライト、メイスンが揃って発売記念イベントに参加。
2007年5月4日、ロンドンのアビー・ロード・スタジオにて行われたストーム・ソーガソンの本の出版記念パーティーにギルモア、ライト、メイソンの3人が駆けつける。
同2007年5月10日、「アーノルド・レーン」のプロデューサーを務めたジョー・ボイド主催のシド・バレットの追悼コンサート“Madcaps Last Laugh”がロンドンで行われる。クリッシー・ハインド、ロビン・ヒッチコック、ジョン・ポール・ジョーンズらと共にウォーターズ、ギルモア、ライト、メイスンが出演する。ウォーターズはショー前半のトリでジョン・カーリンを伴い「フリッカーリング・フレイム」を演奏。後半のトリにギルモア、ライト、メイスンの3人がカーリン、オアシスのベーシストのアンディ・ベルを伴い「アーノルド・レーン」を演奏する。その後、出演者全員で、「バイク」を演奏したがウォーターズは現れず、4人の共演は実現しなかった。
[編集] エピソード
- ピンク・フロイドのアルバム・ジャケットを手がけているデザイン・チーム「ヒプノシス」のリーダーであるストーム・ソーガソンは、ロジャーとシドの高校時代からの仲間。『原子心母』や『狂気』などのアルバム・ジャケットは彼の代表作となっている。
- シド・バレットの後釜のギタリストとしてジェフ・ベックを加入させるという話があった。実際にジェフ・ベックにコンタクトが取られたが、折り合いが付かず、デヴィッド・ギルモアが加入することになった。選ばれた理由は「ウマが合ったから」とのこと。
- そのデイヴィッド・ギルモアは、フロイド加入以前にモデル活動をしていたことがある。あくまで金稼ぎのためにこなしていた程度らしい。
- 1971年の初来日の際には、箱根で開催された野外フェスティバルのトリとして登場し、日が暮れて霧が立ち込める中で、幻想的なライヴを披露した。
- 2005年のLIVE 8出演の際、ロジャーは「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール Part II」を演奏することを提案したが、デイヴがこれを拒否した。歌詞の一節"We don't need no education"がアフリカへ向けるメッセージとしては不適当だったからだと、後にインタビューで語っている。
- ロジャー・ウォーターズ曰く、バンド内では常に「建築家のロジャーとニック」vs「音楽家のデイヴとリック」という構図になっていたらしい。こうしたコンセプト志向とサウンド志向の対立が傑作を生み出していたとも言える。
- ロジャーの母親は共産党員だったが、ニックは両親とも共産党員だった。そうした共通点から意気投合した二人は、大学時代に学生運動や反核運動に精を出していた。しかし、ニック自身はそれほど左翼思想に傾倒することはなかった。
- デビュー間もない頃、ピンク・フロイドとジミ・ヘンドリックスは一緒にツアーに出ていたことがある。彼らはお互いにミュージシャンとして認め合うコメントを残している。特に、ジミはシド・バレットを高く評価していた。
[編集] メンバー
第一期1967-1968 『夜明けの口笛吹き』
- シド・バレット Syd Barrett ...Guitars & Vocals
- ロジャー・ウォーターズ Roger Waters ...Bass & Vocals
- リチャード・ライト Richard Wright ...Keyboards & Vocals
- ニック・メイスン Nick Mason ...Drums & Percussions
第二期1968 『神秘』
- シド・バレット
- ロジャー・ウォーターズ
- リチャード・ライト
- ニック・メイスン
- デヴィッド・ギルモア David Gilmour ...Guitars & Vocals
第三期1968-1979 『モア』〜『ザ・ウォール』
- ロジャー・ウォーターズ
- リチャード・ライト
- ニック・メイスン
- デヴィッド・ギルモア
第四期1980-1985 『ファイナル・カット』
- ロジャー・ウォーターズ
- ニック・メイスン
- デヴィッド・ギルモア
- ※リチャード・ライトはサポート・メンバーとして「ザ・ウォール・ツアー」に参加。
第五期1986-1987 『鬱』
- ニック・メイスン
- デヴィッド・ギルモア
- ※リチャード・ライトはゲスト・ミュージシャンとしてアルバム「鬱」に参加。
第六期1987- 『光』〜『PULSE』
- リチャード・ライト
- ニック・メイスン
- デヴィッド・ギルモア
第七期(=第三期)2005 LIVE 8
- ロジャー・ウォーターズ
- リチャード・ライト
- ニック・メイスン
- デヴィッド・ギルモア
[編集] ディスコグラフィー
[編集] アルバム
発売年 | タイトル(邦題) | タイトル(原題) | 全英順位 | 全米順位 | 全米売上 |
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1967年 | 夜明けの口笛吹き | The Piper At The Gates Of Dawn | 6 | 131 | 500,000 |
1968年 | 神秘 | A Saucerful Of Secrets | 9 | - | 500,000 |
1969年 | モア | More | 9 | 153 | - |
1969年 | ウマグマ | Ummagumma | 5 | 74 | 1,000,000 |
1970年 | 原子心母 | Atom Heart Mother | 1 | 55 | 500,000 |
1971年 | ピンク・フロイドの道 | Relics | 32 | 152 | - |
1971年 | おせっかい | Meddle | 3 | 70 | 2,000,000 |
1972年 | 雲の影 | Obscured By Clouds | 6 | 46 | 500,000 |
1973年 | 狂気 | The Dark Side Of The Moon | 2 | 1 | 15,000,000 |
1973年 | ナイス・ペア | A Nice Pair | 21 | 36 | 500,000 |
1975年 | 炎〜あなたがここにいてほしい | Wish You Were Here | 1 | 1 | 6,000,000 |
1977年 | アニマルズ | Animals | 2 | 3 | 4,000,000 |
1979年 | ザ・ウォール | The Wall | 3 | 1 | 23,000,000 |
1981年 | 時空の舞踏 | A Collection Of Great Dance Songs | 37 | 31 | 2,000,000 |
1981年 | ワークス〜ピンク・フロイドの遺産 | Works | - | 68 | - |
1983年 | ファイナル・カット | The Final Cut | 1 | 6 | 2,000,000 |
1987年 | 鬱 | A Momentary Lapse Of Reason | 3 | 3 | 4,000,000 |
1988年 | 光〜パーフェクト・ライブ! | Delicate Sound Of Thunder | 11 | 11 | 3,000,000 |
1992年 | シャイン・オン | Shine On | - | - | 1,000,000 |
1994年 | 対 | The Division Bell | 1 | 1 | 3,000,000 |
1995年 | P.U.L.S.E | Pulse | 1 | 1 | 2,000,000 |
2000年 | ザ・ウォール・ライブ:アールズ・コート1980-1981 | Is There Anybode Out There? : The Wall Live 1980 - 1981 | 15 | 19 | 1,000,000 |
2001年 | エコーズ〜啓示 | Echoes : The Best Of Pink Floyd | 2 | 2 | 4,000,000 |
2007年 | スタジオ・ワークス | Oh By The Way | - | - | - |
全米通算売上枚数 7,450万枚
[編集] シングル
- 1967 アーノルド・レーン/キャンディー・アンド・ア・カレント・バン
- 1967 シー・エミリー・プレイ/黒と緑のかかし
- 1967 アップルズ・アンド・オレンジズ/絵の具箱
- 1968 イット・ウッド・ビー・ソー・ナイス/夢に消えるジュリア
- 1968 星空のファンタジア/ユージン、斧に気をつけろ
- 1979 アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール(パート2)/ワン・オブ・マイ・ターンズ
- 1983 ノット・ナウ・ジョン/ザ・ヒーローズ・リターン
- 1987 幻の翼/理性喪失
- 1987 現実との差異/ラン・ライク・ヘル(ライヴ)
- 1988 理性喪失/抹消神経の凍結
- 1994 テイク・イット・バック/天の支配(ライヴ)
- 1994 運命の鐘/キープ・トーキング
※本国イギリスでのリリースのみ。
[編集] 映像作品
- 1983 ピンク・フロイド ザ・ウォール(映画) - Pink Floyd/The Wall
- 1989 光〜パーフェクト・ライブ! - Pink Floyd in Concert Delicate Sound of Thunder
- 1992 ピンク・フロイド・ライヴ・アット・ポンペイ - Pink Floyd Live at Pompeii
- 1992 道:カレラ・パンアメリカーナ - La Carrera Panamericana
- 1995 P.U.L.S.E - P.U.L.S.E
- 1995 ロンドン 66-67 - London 66-67 Dedicated to Syd Barrett
- 2003 クラシック・アルバムズ:ピンク・フロイド/狂気 - Classic Albums:Pink Floyd/The Dark Side of the Moon
- 2006 驚異 - P.U.L.S.E(95年発表作品のDVD版)
[編集] 日本公演
- 8月6日,7日 箱根アフロディーテ、9日 大阪フェスティバルホール
- 3月6日,7日 東京都体育館、8日,9日 大阪フェスティバルホール、10日 京都府立体育館、13日 札幌中島スポーツセンター
- 3月2日,3日 日本武道館、4日,5日,6日 国立代々木競技場第一体育館、8日,9日 大阪城ホール、11日 名古屋レインボーホール
[編集] 外部リンク