ジミ・ヘンドリックス
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ジミ・ヘンドリックス | |
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シアトルにあるジミ・ヘンドリックス像 |
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基本情報 | |
出生名 | James Marshall "Jimi" Hendrix |
別名 | ジミヘン |
出生日 | 1942年11月27日 |
出身地 | アメリカ合衆国ワシントン州シアトル |
死没日・地 | 1970年9月18日(満27歳没) |
ジャンル | ロック ブルースロック サイケデリックロック ハードロック ヘヴィメタル |
職業 | ギタリスト シンガー |
担当楽器 | エレクトリックギター |
公式サイト | www.jimihendrix.com |
著名使用楽器 | |
フェンダー・ストラトキャスター | |
ジミ・ヘンドリックス(James Marshall "Jimi" Hendrix, 1942年11月27日 - 1970年9月18日)はアメリカの黒人ロックギタリスト、シンガー、ソングライター。日本では「ジミヘン」という略称で呼ばれることがある。死後40年近く経った現在でも、「天才ギタリスト」として多くのミュージシャンに多大な影響を与え続けている、現代的ロックギターのパイオニアの一人。右利き用のギターを逆さまにして左利きの構えで演奏するスタイルや、ギターを歯で弾いたり、ギター自体に火を放ったり、破壊したりするパフォーマンスはあまりにも有名。
ローリング・ストーン誌の2003年8月号のカバーストーリー、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」に於いて第1位に選ばれるなど、史上最高のロックギタリストと評されることが多い。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
ジミ・ヘンドリックスは1942年、ワシントン州シアトルに生まれる(デビューアルバムの裏には1945年生まれと記されている)。父アルことジェイムズ・アレン・ヘンドリックスは、黒人の父親とアメリカ先住民(いわゆるアメリカ・インディアン)の母親との間に生まれた(いわゆるブラック・インディアン)。純粋なチェロキー族の女性だった祖母ノラ・ヘンドリックスは、幼少期のヘンドリックスに先住民の昔話を教えていたという。その影響はヘンドリックスの作る曲のそこかしこに見いだされる。母ルシールは10代の若さで息子ジミを産んだが、遊び好きで家庭を顧みないところがあったといわれ、幼いジミを置いて出奔し、数年後に亡くなっている。ヘンドリックスの名曲「Angel」は、亡き母ルシールが夢に現れたことから生まれたという説もある。ルシールは黒人だが、白人の血も引いていたと言われる。つまりヘンドリックスは黒人、チェロキー、白人と、多くの人種(民族)の血を引いていたことになる。
ヘンドリックスの誕生当時、父親のアルは招集され太平洋戦線へ出征中だった。母ルシールが出奔してしまったため、ヘンドリックスはルシールの姉夫婦の元で育てられていたという。戦争終結後、帰国したアルが息子ジミを引き取り、父一人、息子一人の生活が始まった。なおヘンドリックスは生まれた当初、母ルシールによってジョニー・アレン・ヘンドリックスと名付けられていたが、父アルが引き取った際にジェームズ・マーシャル・ヘンドリックスと改名している(父アルの談話)。父アルと母ルシールの折り合いが悪かった影響もあり、ヘンドリックスはたびたび祖母ノラの元に預けられていたという。ノラは先住民の居留区に住んでいたらしく、ヘンドリックスはノラから先住民の昔話を聞かされるのと同時に、居留区で希望のない生活を送る先住民の人々の姿を目の当たりにしていた。名曲「I Don't Live Today」(今日を生きられない)はその体験から生まれたと言われている。
[編集] 音楽への傾倒
多くのブルースやロックのミュージシャンと同様、ヘンドリックスもレコードなどを聴いて、独学でギター演奏を学んだ。父アルは庭師の仕事をしていたが、生活は貧しかったと言われている。ヘンドリックスが15歳のころギターに興味を示したため、アルは当時の住まい(アパート)の家主の息子から古いアコースティックギターを5ドルで買い取り、ヘンドリックスに与えたという。これがヘンドリックスとギターとの最初の出会いだった。その後、シアトルの楽器店から初めてのエレクトリックギターを購入している(父アルの談話)。ヘンドリックスはブルースやR&Bやロックンロールのレコードを聴いて練習する一方、テレビのアニメなどのBGMや効果音も熱心にコピーしていたという(ヘンドリックスの幼なじみの談話)。
少年期のヘンドリックスはアマチュア・バンドで経験を積み、全米ナンバーワンバンドの座を得たこともあったというが、自動車窃盗の罪で1961年5月2日逮捕される。その際、投獄されるのを回避するために陸軍に志願して入隊、精鋭部隊・第101空挺師団へと配属される。一緒に軍役についていた仲間の中に、後にバンド・オブ・ジプシーズを組む黒人ベーシストのビリー・コックスがおり、軍隊内のクラブハウスで一緒に演奏することもあった。2005年にアメリカ国内で公表された軍内部の記録によると、自慰行為と薬物、ギターにしか興味を示さない隊内部の劣等兵で、常に隊の規律を乱して問題視されていたが、ある日トイレの個室で自慰行為をしていた所を上官に目撃され、それが最後の一押しとなって除隊させられたという。伝記作家によると、ヘンドリックスは早期に軍役を終えて音楽活動に移りたかったらしく、軍隊では忌み嫌われる同性愛者を装って、わざと問題を起こしていたとの説もあるようだ。最終階級は三等軍曹。
除隊後に本格的に音楽活動を始めるが、当時は無名のバックミュージシャンだった。アイク&ティナ・ターナーやアイズレー・ブラザーズなど、数々の有名ミュージシャンのバックでプレイし、全米各地へのツアーにも同行していた。一時期は、リトル・リチャードのツアーに参加しており、音が大きく衣装やアクションが派手だったことから、リチャードに「俺より目立つな!」と怒られるほどだった。
[編集] エクスペリエンス結成
1966年7月、アニマルズのベーシストだったチャス・チャンドラーに見いだされ9月に渡英する。チャンドラーにヘンドリックスの情報をもたらしたのは、キース・リチャーズ(ローリングストーンズのギタリスト)の恋人だったリンダ・キース。当時のヘンドリックスは単なるバックミュージシャンを脱し、自らのバンド、ブルーフレームズを率いていたが、チャンドラーにスカウトされたのはヘンドリックス一人だけだった。チャンドラーはヘンドリックスの演奏を初めて聴いた際「ギタリストが3人くらい同時に演奏しているのかと思ったが、実際にはジミ1人だけと知り驚いた。これほどの才能に誰もまだ気がついていなかったなんて、何か裏があるのではないかと不安になるほどだった」と感じたという。チャンドラーに渡英を勧められた際、ヘンドリックスはイギリスで自分のようなブルース系ミュージシャンが受け入れられるか不安だったらしく、イギリスの音楽シーンについて多くの質問を投げかけた。その際、自分と同系とみなしていたイギリス人ギタリストのエリック・クラプトンの名を挙げ「会わせてくれるか?」とチャンドラーに尋ねている。チャンドラーは「君の演奏を聴いたら彼(クラプトン)の方から会いに来るよ」と答えている(チャンドラーの談話)。
ロンドンに於いてオーディションを行い、ノエル・レディング(ベース)、ミッチ・ミッチェル(ドラムス)と共にジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを結成。1966年10月から活動を始める。その際、名前を「James(Jimmy)」から「Jimi」に変えた。イギリス国内でクラブ出演を重ねる一方、ポリドール系のトラックレコードからデビューシングル「Hey Joe/Stone Free」をリリース。全英4位のヒットを記録しスターの座に上る。アメリカの伝統的なブルースをベースにしながら、それまで誰も聞いたことのなかった斬新なギターサウンドや卓越した演奏技術、そして圧倒的なインプロヴィゼーション能力を披露することにより、ヘンドリックスは一般の音楽ファンはもちろんプロのミュージシャン達にも大きな衝撃を与えた。渡英したばかりのヘンドリックスの演奏を初めて目の当たりにしたエリック・クラプトンは「誰もジミー(Jimmy)のようにギターを弾くことはできない」という言葉を残している。後年、ジェフ・ベックやクラプトンは、「(メジャーデビューしたばかりのヘンドリックスの演奏を聴いて)廃業を考えた」と語っている(英国BBCの音楽番組のインタビュー)。ヘンドリックスのステージには連日ビートルズやストーンズなどのメンバーが顔を見せ、出演するクラブには長蛇の列ができたと言われる。
「Summer of Love」と呼ばれた1967年の夏、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスは米カリフォルニア州モンタレー(モントレーなどと表記される場合もある。スイスのモントルーと混同している例もあるので注意)で開催された世界初の本格的野外ロックフェスティバル、モンタレー・ポップ・フェスティバルに出演。これはポール・マッカートニー(ビートルズ)が「ジミを出さないフェスティバルなどありえない」と熱心に推挙したため。ヘンドリックスはモンタレーで、聴衆を圧倒する演奏とギター燃やしのパフォーマンスを炸裂させ、母国アメリカでも一気にスターダムにのし上がった。イギリスでデビューしたヘンドリックスだが、母国で成功を収めた後はアメリカを本拠として活動するようになる。全米をくまなくツアーする過密スケジュールの合間にスタジオでのレコーディングも続け、1968年にはロック史上屈指の名アルバム『エレクトリック・レディランド』をリリースした。
ヘンドリックスがスターになった理由は純粋に演奏技術が高かったからだけではなく、ギターを歯で弾いたり、ギターをあたかも男性器であるかのごとく扱ったりといった、ワイルドかつセクシーなステージアクションによる部分も多かった。演奏のクライマックスでギターを破壊した上、さらに火を放つなど、常軌を逸したようなショーマンシップも発揮していた。デビュー当時のトレードマークだったミリタリールックや、東洋風のキモノ、強くパーマを当てた髪(エレクトリックヘア)、頭や脚に巻いたカラフルなスカーフなど、ファッション面でも話題の的だった。白人が持つ「黒人は性的にパワフル」という潜在イメージもあって、アメリカでは「ブラック・エルヴィス」(黒人のエルヴィス・プレスリー)、「ワイルドマン」といった異名も生まれ、センセーショナルな扱いを受けることが多かった。しかし生身のヘンドリックスはシャイで礼儀正しい人物だったという証言も多い。
また黒人でありながら白人向けのロックスターとして売り出されたのも異例なことだった。白人の若者達にとって神のごときアイドルとなった一方、黒人の公民権運動が隆盛を見せていたアメリカでは、同じ黒人達から「裏切り者」と見なされる面もあった。そのため黒人向けの音楽を主体としていたラジオ局などでは、ヘンドリックスの曲は徹底的に無視された。さらには黒人運動家とそれをなだめたい白人政治家の両方が、黒人なのに白人に支持されているヘンドリックスの立場を利用したがっていたとされる。ヘンドリックス自身はあまり政治的な人間ではなかったという論評が多いものの、暗殺された黒人指導者マーティン・ルーサー・キング牧師のために寄付を行ったこともある。ヘンドリックスは同胞である黒人層に今ひとつ受け入れられないことに悩んでいたとされるが、マネージメント側はヘンドリックスをあくまでも白人向けロックスターとして売っていく方針だった。ヘンドリックスと親交のあったギタリストのジョニー・ウィンターは、ヘンドリックスが敬愛する先輩ブルースギタリストのハウリン・ウルフ(黒人)と共演した際、ウルフから「白人と組んで金儲けをしている奴」と罵られたエピソードを明かしている。ヘンドリックスはウルフの言葉に黙って耐えていたという。
[編集] エクスペリエンス解散とバンド・オブ・ジプシーズ結成
多くのロックバンドの例に漏れず、過密なスケジュールや精神的なプレッシャーにより、バンドや周辺の人間関係は悪化していったと言われる。まず、ヘンドリックスの音楽面でのプロデューサーだったチャス・チャンドラーが、混乱した状況に嫌気が差して『エレクトリック・レディランド』のレコーディングが行われている時期にヘンドリックスの元を去った。悪徳マネージャーとも言われるマイケル・ジェフリー(アニマルズのマネージャーでもあった)が完全に実権を握ることになったが、ヘンドリックスとジェフリーの関係は微妙で、ヘンドリックスはジェフリーと直接話をするのを避けていたという証言がある。
ノエル・レディングが音楽上の意見の相違により脱退。そのためデビュー当初のジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとしての活動は1969年6月までである。レディング本人は「ギャランティ支払いの内容に関し明確にするよう求めたことによる解雇」と主張している場合もあれば、「自分の知らない間にジミが次のベーシストを選考していると記者から言われ嫌気が差し脱退した」などと述べている場合もある。1999年BBC制作のドキュメンタリー番組「ジミ・ヘンドリックス―神になったギタリスト―」(原題: The Man They Made God)では「ギャラに関し疑問を呈したのが問題視された」といった意味の内容を述べている。ヘンドリックスが多重録音に凝りだしたこと、ヘンドリックスが気まぐれで時間にルーズであること(約束の時間にレコーディングスタジオに現れず、遊び歩いている)などに対し、レディングは常に批判的な意見を表明していたと言われる。
ノエル・レディング脱退後、ヘンドリックスはミッチ・ミッチェルと、軍隊時代からの友人ビリー・コックス(ベース)と共にジプシー・サンズ&レインボウズとして活動を開始。エクスペリエンスがトリオ編成だったのに対し、コンガなどのパーカションやサイドギターも加え、ビッグバンド結成を狙っていた。1969年8月に6人編成でウッドストック・フェスティバルに出演しトリを務め、音楽史に残る名演「The Star-Spangled Banner」(星条旗、アメリカ合衆国の国歌)を演奏。フィードバックやアーミングといったエレクトリックギターの特殊奏法の限りを尽くし、爆撃機が空襲を行い民衆が泣き叫び逃げまどう様子を、音で完璧なまでに再現してみせた。これは泥沼化して先が見えないベトナム戦争と、希望のない戦争にのめり込むアメリカ合衆国への痛烈な批判だった。後年、ミック・ジャガー(ローリングストーンズ)はヘンドリックスのアメリカ国歌演奏を「1960年代最大のロック・パフォーマンス」と賛美している。
ヘンドリックスが目指したビッグバンド形態は、マネージメント側がそれを望まなかったことや、ヘンドリックスが多人数をまとめあげるには経験不足だったこともあり長続きせず、1969年10月にはビリー・コックス(ベース)、バディ・マイルス(ドラムス)というメンバー(全員が黒人)でバンド・オブ・ジプシーズを結成する。1969年12月31日〜1970年1月1日にニューヨークのフィルモア・イーストで行われたデビューコンサートの模様はアルバム『バンド・オブ・ジプシーズ』等で聞くことができる。特に当時のベトナム戦争で戦う兵士たちの極限の状態をギターで完璧なまでに再現した「Machine Gun」の演奏は神がかり的で、ヘンドリックスの最も過激な部分が露出した名演と言える。ジャズ界の帝王マイルス・デイビスは同曲を聴き「俺はこういう音楽がやりたかったんだ」と語ったと言われる。
イギリス人の白人(ミッチェルとレディング)に代わり、ヘンドリックスがアメリカの黒人2人と組んだ画期的なロック・ファンク・バンドだったバンド・オブ・ジプシーズだが、ヘンドリックスのマネージメント側は黒人だけのグループに難色を示した。マジソン・スクエア・ガーデンでの大規模な公演が失敗に終わり(ヘンドリックスが出番の前に強いドラッグを飲まされ、まともに演奏が出来なかったためと言われる)、ヘンドリックスとバディの音楽面での確執もあって、バンド・オブ・ジプシーズは1970年初頭に解散と短命に終わった。バディ・マイルスは「バンド・オブ・ジプシーズのリーダーは自分であり、名称などは自分が発案した」とたびたび発言しており、ヘンドリックスとの主導権争いも存在していたとされる。またバディ・マイルスは自発的に脱退したのではなく、ヘンドリックスがマイケル・ジェフリーに命じて解雇させたという証言もある。
当時の多くのロックミュージシャンと同様、ヘンドリックスもヘロインやLSDなどを常用し、薬物依存の傾向があった。1969年にはカナダのトロント空港で麻薬不法所持の疑いで逮捕されたものの、裁判の後に嫌疑不十分で無罪となっている。代表曲「Purple Haze」はドラッグソングとされる場合もあるが、本人は「あれは海底を歩いている夢を見たことから生まれた曲」などと反論している。
[編集] バンド・オブ・ジプシーズ解散後
その後は、ミッチ・ミッチェルとビリー・コックスをバックに活動を再開。アメリカやヨーロッパ、ハワイなどでコンサートを開催している。また米ニューヨークに自身のスタジオ、エレクトリック・レディ・スタジオを建設。1970年8月末にはイギリスのワイト島で開かれたフェスティバルに出演したが、その後のヨーロッパツアーではドラッグによる体調不良や、ビリーが精神不安で帰国してしまうなどのトラブルが続いた。
この間、元エクスペリエンスのノエル・レディングや、元マネージャーのチャス・チャンドラー(元アニマルズのベーシスト)が、ビリーの代わりにベーシストを務めるのでは…といった憶測も飛んでいた(ノエルには実際にヘンドリックスからオファーが届いていたという説もある)。
そういった騒動でツアーが中断した時期、ヘンドリックスはチャス・チャンドラーの家を訪ね、「再び僕のマネージメントとプロデュースをしてほしい」と伝えようとしていたらしい(チャンドラーの談話)。
モニカ・ダンネマンという女性と二人でロンドンのホテルに滞在中、バルビツール酸塩の過剰摂取で死亡[1]。死亡時は27歳。デビューからわずか4年ほどでの死だった。
飲酒しながらバルビツール酸系の睡眠薬を大量に服用したのが死亡原因とされている。そのほか、ヘロインやLSDなどの薬物を常用していた。「自殺したのでは」などの憶測も飛んだが、現在では否定されている。死亡する際に一緒にいたダンネマンの行動に不審な点があると指摘する声もあるが(ヘンドリックスの様子がおかしいのにすぐ救急車を呼ばなかった、ヘンドリックスの肺や胃から異常に多量のワインが検出された、など)、死の真相は不明なままになっている。故郷である米ワシントン州シアトルでの葬儀には、マイルス・デイビスも参列した。
[編集] ミュージシャンとしての特徴
一般的に、ギタリストとして語られることが多いが、常に新しいサウンドを模索しており、ギターに執着しているわけではなかった。演奏者として優れているだけではなく作曲者・アレンジャー・レコーディングエンジニアとしても独特な才能を備えており、歌手としても味わい深く表現力に富んでいる。そこが、いわゆる3大ギタリスト達(エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ)との違いだろう。
奇抜なファッションや派手なステージアクション、機械によるサウンドエフェクトにばかり頼っているのでは…という批判もあったが、エリック・クラプトンは「一度目をつぶって演奏に耳を傾けてみればいい。ジミがどれほど優れたミュージシャンであるか分かるはずだ」、あるいは「僕とジェフ・ベックが二人がかりでいっても、ジミにはかなわないだろう」と最大級の賛辞を送っている。ジェフ・ベックは「好調な時のジミを超えるギタリストなどいるはずがない。自分がギタリストであることが恥ずかしくなるよ」と語っている。ヘンドリックス自身「機械ばかり使っていると言われるが、ステージ上で起きていることは機械がやったのではない。僕がやっているんだ」と反論している。
ヘンドリックスのプレイスタイルについては、破天荒なアクションが取り上げられることが多いが、基本はあくまでブルースやR&Bに根差し、これにジャズのコードやスケールを加えたベーシックなものである。ただし音の選び方やフレーズの展開は強烈に非凡なもので、従来からのブルースやR&Bの枠に収まらないような画期的なものだった。
ヘンドリックスは非凡なインプロヴィゼーション能力によって、「Red House」や「Machine Gun」など、アドリブが曲の大部分を占める曲で、ライブごとに全く違った展開のアドリブを行った。これは、「指癖的な小さなフレーズ(リック)を沢山覚えておき、それらを組み合わせてアドリブを構築する」のではなく、「その瞬間に頭の中で鳴ったフレーズをギターで弾く」というアドリブのとり方を行っていたからであると思われる。事実、ヘンドリックスは自分の歌声(=自分の出したいと思っている音)とギター(=実際にギターで弾く音)をユニゾンで完璧に弾くことができた。
ヘンドリックスのソロプレイは、例えば後に登場してくるハードロック/ヘヴィメタル系ギタリスト等と比べると特に速弾きとは言えず、運指もやや正確さに欠けるところがある。しかしギターという楽器が本来備えている音に加え、大音量に付随する電気的なノイズまでも駆使し、音色を刻々と変えながら、まるで自分の手足のごとくギターを扱い、即興で感情の高まりを表現していく能力により、現在もヘンドリックスに並ぶロックギタリストは出現していないと評価されることもある。ライブ演奏が素晴らしかっただけではなく、スタジオ録音でも革命的と言えるような多彩なサウンドを生み出した。後に登場してくるハードロック/ヘヴィメタル系ギタリスト等と比べると音の数こそ少ないが、緩急自在のフレージングと、タイム感のコントロール(いわゆるタメとツッコミ)により、聴き手に与えるスピード感は非常に高い。ソロイストの面が重視されることも多いが、自身の歌と絶妙に絡み合う、グルーブ感に富んだバッキングギタリストとしても非常に優れている。また、作曲面においても後にロックのスタンダードとなる数多くの名曲を残した(特に「Purple Haze」、「Little Wing」、「Voodoo Chile(Slight Return)」、「Red House」、「Fire」、「Foxy Lady」などの曲は多数のミュージシャンによってカバーされている)。
エレクトリックギターという楽器の可能性をそれ以前とは比較にならないほど拡大しており、メジャーシーンでの活動期間がわずか4年ほどだったにも関わらず、後世のギタリストに与えた影響が比類のないほど絶大であることから、史上最高のロックギタリストと呼ばれることが多い。
ヘンドリックスはギターの音質を電気的に変化させる機材(いわゆるエフェクター)を多用することで知られた。スタジオ録音はもちろんステージでもエフェクターを使用し、従来のギタリストでは考えられなかったほど音質に豊富なバリエーションをもたせている。これもヘンドリックスの大きな功績のひとつと言える。主に使用していたのは音を歪ませるファズ、踏み加減で音質が連続的に変化するワウペダル、音を波立たせるユニヴァイブといったものだった。ヘンドリックスが存命の頃には「機械に頼っていて邪道」という評価もあったが、現在の目で見るとヘンドリックスの機材はむしろ非常にシンプルであり、現代のギタリストの方が遙かに数多くのエフェクターを使用している。またヘンドリックスはエフェクターの能力に頼るというよりも、そのエフェクターの潜在能力を見つけ出すことの方が多かったと言われる。手に入れたエフェクターの可能性を探ろうと何時間も演奏を続け、そのエフェクターの設計者ですら想定していなかった斬新な音を引き出していたとされる。その結果ヘンドリックスの演奏の中には、どういう方法で出したのか今もって不明な、謎のサウンドが非常に多い。これはスタジオ録音だけではなく、ライブでも同様である。エフェクターなどの電子機器設計の達人だったロジャー・メイヤーが、ヘンドリックスのアドバイザーだったのも大きな意味を持っていると言われる。なおロジャー・メイヤーが製作したペダルが現在では一般に販売されている。
ギタリストであると同時に歌手でもあるヘンドリックスだが、ずっと「自分は歌が下手だ」と卑下し続けていた。そんなヘンドリックスにとってのヒーローは、独特の歌唱法でフォーク/ロック界を席巻したボブ・ディラン。ディランの歌を聴いたヘンドリックスは「これなら俺も歌えるかも知れない」と勇気づけられたと言われる。ヘンドリックスはディランに大きな影響を受けており、ディランの曲「Like a rolling stone」や「All along the Watchtower」などをカバーしている。ヘンドリックスが「All along the Watchtower」をシングルヒットさせたことを受け、ディランは「あの曲は俺が書いたが、権利の半分くらいはヘンドリックスのもの」と発言している(ディランの伝記より)。またディランは、ヘンドリックスのアレンジに近い形で同曲を演奏したこともある。エリック・クラプトンも「ジミはギターだけではなく歌もとてもうまいよ」と述べている。
ヘンドリックスは音楽の理論などに疎く楽譜もほとんど読めなかったものの、音に対する感性と表現力はまさしく天才的で、ジャズ系ミュージシャンとのセッションでも引けを取ることはなかった。帝王マイルス・デイビスやジョン・マクラフリン(ギタリスト)に才能を絶賛されていたほか、マイルス作品の編曲などで知られる巨匠ギル・エヴァンスもヘンドリックスとの競演を熱望していたと言われる。ギル・エヴァンスはヘンドリックスの死後、ヘンドリックスの曲をアレンジして演奏したレコード「THE GIL EVANS ORCHESTRA PLAYS THE MUSIC OF JIMI HENDRIX」を発表。1988年に亡くなるまでステージでヘンドリックスの曲を演奏し続けた。エバンスいわく「ジミのレコードを聴くと毎回新しい発見がある。彼が優れた作曲家だった証拠だよ」。
[編集] ストラトの魔術師
現在ではロックギターの代名詞的なモデルとなっているフェンダー・ストラトキャスターだが、ヘンドリックスが登場した頃には使用するミュージシャンもほとんどおらず、生産中止の噂もあった。しかしヘンドリックスが使用することによってストラトキャスターの知名度が一気に上昇。特にストラトキャスターのシンクロナイズド・トレモロ・ユニットによる驚異的なサウンドマジックは、世界中のギタリストの度肝を抜いた。ストラトキャスターの設計者であるフレディ・タバレスは「ベンチャーズやザ・ビーチ・ボーイズのようなサウンドは予想していたが、ヘンドリックスのトレモロマジックは全くの想定外」と発言している。また、レオ・フェンダーが「あれ(トレモロ)はあんな風に使うものではない」と激怒したという逸話も残っている。
ストラトキャスター以外ではギブソンのフライングVやSG、レスポールを始め、様々なメーカーのギターを使用していたことが写真などから確認できる。12弦アコースティックギター(トニー・ゼマイティスが、楽器製作を初めて間もない頃に製作したもの)で「Hear My Train A Comin'」を弾き語りする映像も残っているが、このギターはヘンドリックスの所有物ではなく撮影に当たって用意されたものと言われている。
ヘンドリックスのギターサウンドというと歪みきった大音響がイメージされる場合が多いが、名曲「Little Wing」などで知られるように、実際にはボリュームを絞ったクリーンなサウンドも多用している。ストラトの3つのピックアップを使い分け、ボリュームやトーンを頻繁に調整し、演奏中に音色を大きく変化させることも多かった。エリック・クラプトンが使って有名になったハーフトーン(ストラトのピックアップ切り替えスイッチを中間位置にすることで生じるフェイズサウンド)も、実際はヘンドリックスのほうがずっと早く使用している(ヘンドリックスが考案したのではなく昔からある裏技だったらしい)。ボディやネックを叩いて弦を共鳴させフィードバックを起こしたり、トレモロユニットのスプリングを弾いて不思議な音を出したりと、ギターから発生するあらゆる音を演奏に利用していたのも有名。
ヘンドリックスの存命中にストラトキャスターを使用するフォロワーはほとんどいなかったが、死後にはエリック・クラプトン、ジェフ・ベック、リッチー・ブラックモアなどがストラトキャスターをトレードマークにし始め、ヘンドリックス以降数多くのロック、ブルース系のギタリストがストラトを使用したことで、ソリッドボディのエレクトリックギター=ストラトと言えるほどポピュラーになった。
ギターは半音下げチューニングを多用していた。これはヘンドリックスの声域(音域)に合わせる目的と、チョーキングなどの奏法をしやすくする目的と、両方の意味があると見られる。スタジオレコーディングの曲の中にはレギュラーチューニングも多い。ライブ音源の中には全音下げチューニングで演奏されている曲も確認できる(レコードやCDにする際、レコーディングエンジニアが音程を電気的に変化させている例もあるので注意)。
[編集] 左利きの奏法
ヘンドリックスは右利き用のストラトキャスターを逆さまにして、右手で押弦し、左手で弦を弾く。つまり左利きの奏法である。弦は下に細い1弦、上に太い6弦と左利き用の順番に張り替えてあった。左利きでありながら右利き用のギターを逆さまに使用することで、3つのコントロールノブが上側にくるため、演奏中に左手で自在にノブを操作し音質を変化させるという独特の奏法を生み出すことができたという説もある。ヘンドリックスは晩年に左利き用のギブソン・フライングVを所有していたが、上手く使えないからとローディーだったエリック・バレットにそのギターをプレゼントしている。右利き用ギターをひっくり返して使用しているうちに、コントロール部が上に位置していないと上手く弾けなくなっていたらしい(バレットの談話)。バレットはそのギターを後に売却。現在はハードロックカフェに展示されている。
もっとも「ヘンドリックスは本来は右利きだったのではないか」という説も根強く囁かれている。その証拠として、食事や書字の際には右手を使っていたことも挙げられる。「エレクトリック・ジプシー」(ハリー・シャピロ&シーザー・グレビーク)や「ジミヘンドリックスの創作ノート」、「天才ジミ・ヘンドリックス ギター革命児の真実」[2](ジョン・マクダーモット、エディ・クレイマー)など複数の伝記にその様子を写した写真が掲載され、「ジミは字を書く時は右利きだった」と記載されている。さらに父アルも伝記映画や雑誌「エクスワイア」1993年4月号など複数の媒体において、一貫して「ジミは左利きにあこがれがあった」「ボールを投げる時は右手だった」などと証言している(同時に息子ジミがギターを始めた時に、右利きなのに左利きの弾き方をするので直そうとしたという逸話も紹介している)。左手で弾くことで単に普通とは違った音を出したかったという説もある。以上の点から、ギターは左利き、書字は右利きと、変則的な利き手だったと考えられる。
ただしヘンドリックス本人は1967年の「Beat Instrumental magazine」掲載の取材で「最初に(右利き用の)ギターを弾いた時、自分は左利きだから違和感を覚えた」と語っている。また「天才ジミ・ヘンドリックス ギター革命児の真実」には、ヘンドリックスは右手でも左手でも書字が可能だったという記述もある。
[編集] 影響とエピソード
数々のヒット曲を持つヘンドリックスだが、ビルボード最高位は20位止まりである(ホット100)。とはいえ難解な音楽でファンが少なかったなどということはなく、むしろ当時のアメリカのロックミュージシャンの中で最も集客力のあるスターで、ウッドストックのトリを務めたのもそのため。ただし本来ヘンドリックスの出演は最終日(日曜日)の夜の予定だったのに、スケジュールが押して翌日(月曜日)の朝になってしまい、40万人とも言われた観客の大半は帰途についていた。日本人でウッドストックを観た数少ない一人であるギタリスト成毛滋も、ヘンドリックスのステージを観ずに会場を離れている。
ヘンドリックスは様々なジャンルのミュージシャンとセッションすることを好んだが、1960年代半ばのイギリスではそういった習慣(文化)があまり普及しておらず、イギリスでセッションの習慣を定着させたのはヘンドリックスであるという説も存在する(ピート・タウンゼントの談話)。
ヘンドリックスの代表曲である「Purple Haze(邦題:紫の煙)」で使用されているE7(#9)というコードは、本来ブルースやジャズなどにおいて使用されていたものだが、ヘンドリックスの同曲の演奏によって「サイケデリックな響きのするコード」として有名となった。日本では「ジミヘンコード」などの名称で呼ばれることもある。
モンタレーの記録映像で有名なギター燃やしだが、それが初めてではなく、イギリスで既に何度も行っていた。ヘンドリックスが初めてギターに火を放ったのは、ウォーカーブラザーズのツアーに前座として同行した時(1967年3月)。ギター燃やしを発案したのはヘンドリックス本人ではなく、知人の記者だったと言われている。「アメリカ国歌」のライブ演奏もウッドストックが初めてではない。「アメリカ国歌」には多重録音を駆使したスタジオ録音バージョンも存在している。
レインボーのアルバム「STRAIGHT BETWEEN THE EYES(闇からの一撃)」(1982年)のタイトルは、ヘンドリックスのイメージから名付けられたという説がある。レインボーのリーダーだったリッチー・ブラックモア(ギタリスト)がミュージシャン仲間と語り合っている際、誰かが「ジミの演奏は視覚にストレートに飛び込んでくる」と発言したのを受け、その言葉をアルバムタイトルに拝借したのだという(ジミー・ペイジの談話)。
[編集] レス・ポールとの関係
ギタリストでありエンジニアでもあったレス・ポールは、1960年代半ばの無名時代のヘンドリックスの演奏を間近で聴いたことがあるという。ヘンドリックスがニューヨークのクラブでオーディションを受けていた時のことらしい。後にエレクトリック・レディ・スタジオを開設した際、ヘンドリックスは業界の大先輩であるレス・ポールに挨拶の電話をかけたという。受けたレス・ポールが「君のことが気にかかって、ずいぶん探したんだよ」と語ると、ヘンドリックスは「レス・ポールさんがそんな近くで見ていたのに気付かなかったなんて」と恐縮していたという(レス・ポールの談話)。
[編集] フランク・ザッパとの関係
1968年のマイアミ・ポップ・フェスティバルでヘンドリックスが燃やしたギターは裏方スタッフが拾って持ち帰り、のちに知人の家へ泊めてもらったさいに宿代代わりにプレゼントした。この知人というのがフランク・ザッパであり、ザッパはこれを直してしばらくステージで使用していた。インストゥルメンタル曲「Sexual Harassment in the Workplace」(アルバム『ギター』収録)などでその音色を聴くことができる。この通称ヘンドリックス・ストラトは、ザッパの死後に息子のドゥイージル・ザッパがオークションに出品し、話題になった。
他のミュージシャンに対して辛辣な発言をすることが多いザッパだが、ヘンドリックスのことは賞賛している。よく知られている発言としては「今のメジャーシーンでまともな音楽をやっているのはヘンドリックスとキャプテン・ビーフハートくらいだね」というものがある。その反面「彼のステージを観た際、スピーカーの真ん前にいたために気分が悪くなった。なぜあそこまで大音量にするのか理解できない」とも述べている。
ザッパの1968年のアルバム「We're Only in It for the Money」のジャケット(ビートルズの「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」のパロディ)には、ヘンドリックスと思われる人物が写っている。
[編集] ローリング・ストーンズとの関係
渡英後間もない時期のヘンドリックスと最も親しかったのはブライアン・ジョーンズ(ローリング・ストーンズのギタリスト)だったといわれ、ヘンドリックスがイギリスのミュージックシーンで人脈を築くのを助けたほか、アメリカへの逆上陸となったモンタレー・ポップ・フェスティバル(1967年)ではヘンドリックスを観客に紹介する役も買って出ている。この時期、ジョーンズはミック・ジャガー(ストーンズのボーカル)達と仲違いし、ストーンズ内で孤立し初めていた。ヘンドリックスはジャガー達に憤っていたらしく、自身のステージにジャガーとマリアンヌ・フェイスフル(女優兼歌手、当時のジャガーの恋人)が顔を出した際に二人の間に割り込んで座り、フェイスフルに「この後、俺と付き合えよ」と聞こえよがしに発言。隣のジャガーはヘンドリックスの挑発的な言葉に気づかない振りをしたため、その場で喧嘩になるようなことはなかった。ジョーンズが1969年7月に急逝した後、ヘンドリックスは追悼の意を込めて「Lovers」を制作している。
とはいえミック・ジャガーはヘンドリックスへの敬慕の念を常々表明しており、ヘンドリックスの死後に制作された伝記映画『Jimi Hendrix』(1973年)に登場しインタビューに答えている。1980年代末のソロ活動の際には「Red House」や「Foxy Lady」といったヘンドリックスの曲をステージで披露し、大きな話題を呼んだ。またジャガーは「俺はジミとレコーディングしたことがある。どこかにそのテープが残っているはずだ」と述べている。
ヘンドリックスが初めて手にしたストラトキャスターは、元々はキース・リチャーズのものだったという説がある。ヘンドリックスをチャス・チャンドラーに紹介したリンダ・キースがリチャーズの恋人だったため、リチャーズが所有していたストラトをリンダがヘンドリックスに渡したというのだが、諸説あり真偽は不明。ストラトは高価なギターだったために、無名時代のヘンドリックスには手が届かなかったと言われている。
[編集] ザ・フーとの関係
モンタレー・ポップ・フェスティバル(1967年6月)には、ヘンドリックスと同様に楽器破壊パフォーマンスを売りにしていたザ・フーも出演している。主催者はジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとザ・フーを連続してステージに登場させようとしたため、両バンドは大いに困惑した。先に出演した方が、観客に与える衝撃度が確実に高いからだ。ザ・フーのギタリストのピート・タウンゼントは、ヘンドリックスに「君は天才ミュージシャンだが、俺達には楽器破壊の芸しかない。俺達を先に出させてほしい」と懇願したという(タウンゼント自身の談話)。話はまとまらず、主催者側のジョン・フィリップス(ママス&パパス)がコインを投げ、その裏表で出演順を決定することになった。結果、ザ・フーが先、ヘンドリックス達は後という出演順になっている。
ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとザ・フーは宣伝担当エージェントが共通で、しばしば同じステージに立ったりしていた。イギリスではザ・フーの方が先にデビューしていたため、ヘンドリックスがザ・フーの前座として出演することもあったという。ピート・タウンゼントは「ジミから『ザ・フーのみんなにはとても世話になった』と、とても丁重に礼を言われたことがある。だが本当の友人になることができないうちに、彼は死んでしまった」と残念そうに語っている。タウンゼントはヘンドリックスのギターに惚れ込み、ヘンドリックスの渡英後間もない時期には可能な限りステージに通い詰めていたと言われる。ヘンドリックスが出演しているクラブにタウンゼントが出向いた際、出入り口でジェフ・ベックと擦れ違い「あいつ(ヘンドリックス)は俺の真似をしているんじゃないか?」と悔しそうに言われたというエピソードがある。
[編集] マイルス・デイビスとの関係
ジャズ界の帝王、マイルス・デイビスはヘンドリックスの才能を絶賛しており、ヘンドリックスの死後に「あれほど音感のいい人間は滅多にいるものじゃない」と語っている。これはデイビスとヘンドリックスがセッションした際、ヘンドリックスが譜面を読めないためデイビスがピアノなどでコードを弾いてやると、ヘンドリックスが即座に反応してギター演奏で返してきたというエピソードに基づく(口述筆記によるデイビス自伝より)。
またデイビスは自身のバンドのギタリストに対し、「ジミ・ヘンドリックスのように弾くんだ」と常々指示していた。バンドに参加していたギタリストのジョン・マクラフリンやマイク・スターンが、いわゆるジャズ的な演奏をしても決して満足せず、ロック風な演奏をすると「それだ!」と喜んだという逸話もある。ヘンドリックスと同年代のマクラフリンは、ヘンドリックスと度々セッションを行っており、後に「ジミは後年の全てのギタリストに影響を与えた。私もジミに何らかの影響を与えられたのだろうか(自分では何とも言えない)」と述べている。スターンはヘンドリックスより若く、ヘンドリックスの影響を大きく受けたジャズギタリストとして知られる。
デイビスの妻だったベティ・デイビス(黒人の歌手、同名の白人ハリウッド女優とは別人)はヘンドリックスと不倫関係にあったと言われるが、デイビスはそれに構わずヘンドリックスを自宅に招きセッションを行ったと言われる。デイビスとヘンドリックスを引き合わせたのはジョン・マクラフリンらしい。
デイビスのバンドのベーシストだったデイブ・ホランド(ヘンドリックスとも度々セッションを行っていた)によると、ヘンドリックスとデイビスのレコーディングの仕方は非常に良く似ている面があったらしい。どちらかがどちらかに影響を与えていたのか、そうでなかったのかは不明。ただし、いわゆる“電化マイルス”という方向性が、ヘンドリックスの影響によるものだったことは広く知られている。
ヘンドリックスとデイビスは共同でアルバムを制作する寸前だったが、直前にデイビス側から「前金でギャラが欲しい」という申し出があり、お流れになってしまったらしい(ジョン・マクダーモットによるヘンドリックスの伝記より)。
[編集] 三大ギタリストとの関係
いわゆる三大ギタリストの内、エリック・クラプトンとジェフ・ベックはヘンドリックスと友人だったと言われているが、ジミー・ペイジはニュー・ヤードバーズ、すなわち後のレッド・ツェッペリン立ち上げの時期で忙しく、ヘンドリックスのステージを観る機会が一度もなく会うこともできなかったという。ただしペイジがレッド・ツェッペリンのアメリカ公演の合間にニューヨークのクラブに出向いた際、偶然同じ店に来ていたヘンドリックスと同じテーブルに着いたことがある。その時のヘンドリックスは完全に酩酊状態で、まともに話をすることもできなかったらしい(ヘンドリックスはあまり酒が強くなかったと言われている)。結局ペイジが生前のヘンドリックスと会えたのはその時だけだった(ペイジ本人の談話)。
ジェフ・ベック・グループが初のアメリカ公演を行った際(1968年6月)、アンコールにヘンドリックスが登場し、ベックと共演したことがあるという。ベックは「ステージでジミと一緒に演奏していると、自分が歴史の一ページに立ち会っているんだというような深い感慨があった」と述べている。雑誌の記者に「若手ロックギタリストに最も大きな影響を及ぼしているのはジミ・ヘンドリックスとあなた」と言われたベックは「本当か!」と驚喜したという。ヘンドリックスもベックのことを「イギリスで最高のギタリスト」と評したことがある。ベックは1980年代半ば、ヘンドリックスの演奏で有名な「Wild Thing」(オリジナルはトロッグス)をヘンドリックス風のアレンジでレコーディングしている(珍しくベックがリードボーカルを務めた)。またヘンドリックスのトリビュート・アルバムで「Manic Depression」をカバーしている。コンサートのアンコールで、ミッチ・ミッチェル、ノエル・レディング(いずれも元エクスペリエンス)とトリオで演奏したこともある。
クリームの名曲「Sunshine of your love」は、クリームのメンバー3人(ジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカー、エリック・クラプトン)がヘンドリックスのステージを鑑賞した夜、ヘンドリックスの演奏に触発されて生まれたという(ブルースとベイカーの談話)。それを知っていたかどうかは不明だが、ヘンドリックスも同曲を気に入っており、たびたびステージで演奏していた。イギリスのTV番組「ルル・ショー」(生放送)にヘンドリックスが出演した際、司会のルル(女優兼歌手)と「Hey Joe」をデュエットするという予定を無視し、解散したばかりのクリームに捧げるため同曲を演奏したのは有名(1969年1月)。
ヘンドリックスとエリック・クラプトンはたびたびセッションを行っていたとされるが、ヘンドリックスから見るとクラプトンのサイドギターの技術は芳しくなかったらしい。ヘンドリックスはクラプトンに対し「おまえはギターよりベースを弾いた方がいい」と面と向かって発言し、クラプトンが怒って帰ってしまうということもあったらしい。
クリーム時代のエリック・クラプトンが生み出したウーマントーンは一般にギブソンのレスポールまたはSGによるものと思われているが、ストラトキャスターのフロントピックアップによるものという説がある。ウーマントーンの代表曲「Sunshine of your love」のレコーディングはストラトキャスターで行われたという証言も存在する。これが正しいとすれば明らかにヘンドリックスの影響だろう。クラプトンはヘンドリックスと同じような“エレクトリックヘア”(チリチリのアフロヘア)にしたり、東洋風のヒラヒラした衣装(キモノ)を着用したりしていた時期があり、ヘンドリックスから強い影響を受けていたことが知られている。
クラプトンは、デレク&ザ・ドミノスとしてのアルバム『いとしのレイラ』(1970年)で、ヘンドリックスの代表的なバラード「Little Wing」をカバー。その後もヘンドリックスのトリビュートアルバムに参加し「Stone Free」をカバーしている。
[編集] ギル・エヴァンスとの関係
ジャズ編曲家のギル・エヴァンスもヘンドリックスの才能を高く評価し、自分のオーケストラのソリストに起用することを考えていたと言われる。正式なミーティングも予定されていたが、ヘンドリックスはその1週間前に亡くなった。エヴァンスはヘンドリックスの曲にオーケストラ・アレンジを施し、1974年に『PLAYS THE MUSIC OF JIMI HENDRIX(プレイズ・ジミ・ヘンドリックス)』を発表するに至る。後年、スティングがアルバム『ナッシング・ライク・ザ・サン』でヘンドリックスの「Little Wing」をカバーした時も、エヴァンスが編曲を担当した。
[編集] 関係者のその後
ヘンドリックスのマネージメントを行っていたマイケル・ジェフリーは1973年に飛行機事故で死去。ヘンドリックスを見いだしたチャス・チャンドラーは1996年に死去。ベースのノエル・レディングは2003年に死去。ヘンドリックスが亡くなる際に同室にいた女性モニカ・ダンネマンは、ジミヘン・フォロワーとして知られるギタリストのウリ・ジョン・ロートと後に結婚したが、1996年に自殺している。
ヘンドリックスの父アル・ヘンドリックスは、息子ジミが成人して家を出てから日系二世の女性アヤコと再婚。ヘンドリックスは自分と同じ東洋系(ジミの父方の祖母はインディアン)の女性が義母になったことを非常に喜んでいたという。ジミは義母アヤコに「1970年のハワイのコンサートの後で日本に行く予定だよ、日本に行くのが楽しみなんだ、日本はどんなところなの」と語っていたという(アヤコの談話)。ヘンドリックスの言葉通り、日本でもヘンドリックスのコンサートを含むフェスティバル(富士オデッセイ)の計画が進んでいたが、これは実現していない。結局ヘンドリックスが来日することは一度もなかった(一部で「米軍在籍時代のヘンドリックスが一兵卒として来日しているのでは」という説もあるが、その事実はなかった)。
[編集] ディスコグラフィ
- 詳細はジミ・ヘンドリックスの作品を参照
- アー・ユー・エクスペリエンスト - ARE YOU EXPERIENCED (Track 613 001)(1967年)
- アクシス:ボールド・アズ・ラヴ - AXIS : BOLD AS LOVE (Track 613 003)(1967年)
- スマッシュ・ヒッツ - SMASH HITS (Track 613 004)(1968年)
- エレクトリック・レディランド - ELECTRIC LADYLAND (Track 613 008-009)(1968年)
- バンド・オブ・ジプシーズ - BAND OF GYPSYS (Track 2406 002)(1970年)
[編集] 原盤権の行方
ヘンドリックスの音源の権利は、ヘンドリックスが遺言を残していないこと、マネージャーのマイケル・ジェフリーが事故死したこと、ヘンドリックスが各所にジャム音源を残していたことなどから混乱。ヘンドリックス自身はレコードデビュー後わずか4年ほどしか活動していないにも関わらず、正規版と海賊版を含め無数のレコード(CD)が市場に出回ることになった。しかし裁判の末、1990年代半ばにヘンドリックスの遺族に権利があると確定(それ以前はヘンドリックスと親交のあったミュージシャン、アラン・ダグラスが権利を持っていた)。ヘンドリックスの父アル・ヘンドリックス達によりEXPERIENCE HENDRIXという会社が設立され、ヘンドリックスの音源を管理することになり現在に至っている。アルは2002年に亡くなったため、娘のジェイニー・ヘンドリックスがEXPERIENCE HENDRIXの代表になっているが、ジェイニーはアルの後妻アヤコの連れ子で、ヘンドリックスとは義理の兄妹である。つまりヘンドリックスとジェイニーは血のつながりは全くない。
無名時代のヘンドリックスは様々なレコード会社やエージェントと契約を取り交わしており(多くはその場の雰囲気に流され軽い気持ちで契約書にサインしていたらしい)、生前から権利が混乱していた。特にPPXレコードというインディーズレーベルが「ヘンドリックスは当社の契約ミュージシャンである」として本格的に法廷闘争を仕掛けてきたため、解決策としてヘンドリックスのアルバム1枚の権利をPPX側に与えると決定。そのために制作されたのがヘンドリックスの生前唯一の正規ライブアルバム『バンド・オブ・ジプシーズ』である。こうした経緯に加え、十分な制作時間を与えられなかったこともあり、ヘンドリックスは同アルバムの仕上がりに満足していなかったらしい。
EXPERIENCE HENDRIXがヘンドリックスの音源の権利を獲得しユニバーサルビクターから再発版や新規企画版のCDが発売される際、「オリジナル録音テープを元にリマスターした」と宣伝されたが、一説に一部のオリジナルテープはEXPERIENCE HENDRIXの手に渡っていないといわれ、部分的にはレコード等から音を起こしているのではとの噂も存在する(一部の曲にレコードの針音と思われる雑音があるため)。
[編集] 脚注
[編集] 外部リンク
- Jimi Hendrix at MusicBrainz
- Photo archive of Jimi Hendrix by rock photographer Chris Walter
- Photo gallery showing rare pictures inside Jimi's first Marshall JTM 45/100 amp
- Electric Ganesha Land Tribute to Hendrix by Prasanna, the highly acclaimed South Indian Carnatic guitarist
- The John Marshall Trio Tribute to Hendrix by the John Marshall Trio (US/GER). With links to free complete download of their entire album "Listening with both ears....tribute to Jimi Hendrix"
- Mansized review of Room Full of Mirrors