ザ・フー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ザ・フー | |
---|---|
基本情報 | |
出身地 | イングランド ロンドン |
ジャンル | ロック モッズ |
活動期間 | 1964年 - |
レーベル | ブランズウィック・レコード (米)デッカ・レコード リアクション トラック・レコード MCAレコード ポリドール・レコード ワーナー・ブラザーズ・レコード ユニバーサル・リパブリック |
公式サイト | ザ・フー 公式サイト |
メンバー | |
ロジャー・ダルトリー ピート・タウンゼント ジョン・エントウィッスル キース・ムーン ケニー・ジョーンズ |
|
ザ・フー(The Who, 1964年 - )は、イギリスのロックバンド。当初はスモール・フェイセズ(のちフェイセズに改名)と並びモッズカルチャーを代表するバンドとされていた。のちには、1969年に発表されたアルバム『ロック・オペラ “トミー”』でロック・オペラというジャンルを発展させ、1971年発表の『フーズ・ネクスト』では当時貴重なシンセサイザーを、後のテクノにも影響を与えたミニマル・ミュージック風に導入するなど、先進的な音楽性を持つバンドに成長するに至る。ギターを叩き壊しドラムセットを破壊する暴力的なパフォーマンスとT・S・エリオットに影響を受けた文学的知性豊かな歌詞世界とのギャップが魅力のひとつでもあった。
彼らの楽曲は常に聴き手、特に若者達の複雑な感情を代弁するものであり、その聴き手に対して常に誠実であろうとする姿勢は作詞・作曲家であるピート・タウンゼントの生涯一貫したものである。
目次 |
[編集] メンバーと主な担当楽器
[編集] 正式メンバー
- ロジャー・ダルトリー (Roger Daltrey CBE, 1944年3月1日 - )(ボーカル)ライブでは曲によってハーモニカ、タンバリン、ギターも担当する。
- ピート・タウンゼント (Pete Townshend, 1945年5月19日 - )(ギター、ボーカル、キーボード、シンセサイザー)ザ・フーのメイン・ソングライター。
- ジョン・エントウィッスル (John Entwistle, 1944年10月9日 - 2002年6月27日)(ベース、ボーカル、ブラス)
- キース・ムーン (Keith Moon, 1946年8月23日 - 1978年9月7日)(ドラムス)
- ケニー・ジョーンズ (Kenney(またはKenny)Jones, 1948年9月16日 - )(ドラムス)キース・ムーンの死後1979年に加入し、1988年2月8日の英国レコード産業協会 (BPI) 特別功労賞受賞時の再結成ライブまで在籍した。
[編集] サポートメンバー
- ジョン “ラビット” バンドリック (John "Rabbit" Bundrick, 1948年11月21日 - )(キーボード、ボーカル)(在籍期間 1979年 - 1981年、1985年 - )
- ザック・スターキー (Zak Starkey, 1965年9月13日 - )(ドラムス)(在籍期間 1996年 - )
- サイモン・タウンゼント (Simon Townshend, 1960年10月10日 - )(ボーカル、ギター)(在籍期間 1996年 - 1997年、2002年 - )
- ピノ・パラディーノ (Pino Palladino, 1957年10月17日 - )(ベース)(在籍期間 2002年 - )
[編集] 来歴
原型はロジャー・ダルトリーのバンド、The Detours。テレビで同じ名前のバンドが存在するのを知り、バンド名をザ・フーに改めた。
1964年、ザ・ハイ・ナンバーズというバンド名で一旦デビューしシングル「アイム・ザ・フェイス」を7月に発表するが不発に終わり、バンド名をザ・フーに戻した後、翌1965年1月、デッカ系列のブランズウィックレーベルからシングル「アイ・キャント・エクスプレイン」で再デビュー。同年11月、「マイ・ジェネレイション」の全英チャート2位のヒットによって現在までの評価を決定づける。
1967年6月、モンタレー・インターナショナル・ポップ・フェスティバルに出演。
1969年8月、ウッドストック・フェスティバル及び第2回ワイト島フェスティバルに出演。
1970年8月、第3回ワイト島フェスティバルに出演。
1978年9月7日、キース・ムーンがアルコール依存症を治療する為の薬の過剰摂取により他界。同年5月25日に英シェパートン・スタジオで行われた、ザ・フーのドキュメンタリー映画『キッズ・アー・オールライト』用の演奏がオリジナルメンバーによる最後のライブ演奏となった。その後任として元フェイセズのケニー・ジョーンズを迎え、活動を続行。1979年に入って、キーボードを担当するサポートメンバーのジョン “ラビット” バンドリックを含んだ新生ザ・フーとしてのツアーに臨むが、同年12月3日米オハイオ州シンシナティでのコンサートで開場時に観客が入場ゲートに殺到し、将棋倒しとなって11人が死亡するという悲劇が起きてしまった。同年12月28日、カンボジア難民救済コンサートに出演。
ケニー・ジョーンズを迎えた新体制においても、1981年にシングル「ユー・ベター・ユー・ベット」とアルバム『フェイス・ダンシズ』がヒットするなどある程度の成功は収めたものの、バンドとしての勢いの衰えは否めなかった。1982年にライブバンドとしての解散ツアーを行った後、1983年には新作アルバムのレコーディングも断念して正式に解散。
1985年7月13日のライブ・エイド及び1988年2月8日の英国レコード産業協会 (BPI) 特別功労賞受賞時のライブ演奏のために単発の再結成がなされたのち、1989年に結成25周年記念ツアーが行われた。ツアーバンドとして、1985年から1986年にかけてピート・タウンゼントのライブ時に編成されたディープ・エンドという名のバックバンドが流用される形となり、ドラムを担当したサイモン・フィリップスもその中の一人であった。また、聴力障害の影響でタウンゼントは多くの曲でアコースティックギターを弾くことになり、それを補うためにセカンド・ギタリストとしてスティーヴ・ボルトンが起用される。1990年、ロックの殿堂入り。
1996年、英ハイドパークでの英チャールズ皇太子が主催するプリンス・トラスト・コンサートにおける『四重人格』全曲ライブ演奏を契機に本格的なツアー活動を再開。ドラムにリンゴ・スターの息子であるザック・スターキー、また、ギターとボーカルでピート・タウンゼントの実弟であるサイモン・タウンゼントが加入するなどツアーバンドに変更があった。1997年までツアーは続く。
1999年10月から12月にかけてiBash '99及びニール・ヤング夫妻が主催するブリッジ・スクール・ベネフィット・コンサートへの出演を含め計7回のライブを行う。ジョン“ラビット”バンドリック、ザック・スターキーを含めた5人の基本的なバンド編成に戻り、ピート・タウンゼントもほぼ全ての曲で再びエレクトリックギターを弾くようになる。2000年に北米・全英ツアー、11月27日にはロジャー・ダルトリーが支援している青少年のがんや白血病患者の支援団体であるティーンエイジ・キャンサー・トラストのためのチャリティ・コンサートが英ロイヤル・アルバート・ホールで開催され、ポール・ウェラー、オアシスのノエル・ギャラガーやパール・ジャムのエディ・ヴェダー等と競演。
2001年2月、グラミー賞特別功労賞を受賞。10月20日、アメリカ同時多発テロ事件被害者のための支援コンサートとして米マディソン・スクエア・ガーデンで行われたザ・コンサート・フォー・ニューヨーク・シティに出演。ジョン・エントウィッスルのザ・フーとしてのアメリカにおける最後のライブ演奏となる。
2002年2月7日と8日の両日、英ロイヤル・アルバート・ホールでのティーンエイジ・キャンサー・トラストのためのチャリティ・コンサートに出演。ジョン・エントウィッスルのザ・フーとしてのイギリスにおける最後のライブ演奏。6月27日、北米ツアー開始前日にエントウィッスルが公演予定地の米ネバダ州ラスベガスで薬物摂取に起因する心臓発作で急死。後任にピノ・パラディーノを迎え、7月1日からツアー続行。当初から予定されていたとおり、サイモン・タウンゼントもツアーに参加。
2003年1月、ピート・タウンゼントが児童ポルノサイトに接続した容疑で逮捕される。スコットランドヤードによる4ヶ月近くの捜査の結果、タウンゼントが所有するコンピュータに違法画像を保存した形跡は発見されなかったが、接続した事実は認めたため性犯罪者リストに5年間登録される事になった。本人は幼少のころに虐待を受けており、逮捕以前のエッセーにおいてこうした虐待問題について言及していた。そこでは「私もそうしたサイトを閲覧したが、それはひどいものだった」と書いており、それを逆手にスケープゴートにされたのである。
2004年6月12日、復活版ワイト島フェスティバルに出演。7月24日および25日、横浜と大阪で開催されたロック・フェスティバルであるPOCARI SWEAT BLUE WAVE THE ROCK ODYSSEY 2004に出演、これが初の来日公演。
2005年7月2日、英ハイドパークで行われたLIVE 8に出演。ベースのピノ・パラディーノはジェフ・ベック、ドラムのザック・スターキーはオアシスとツアーに出ていたため、代役としてデーモン・ミンチェラとスティーブ・ホワイトがそれぞれのパートを担当。
2006年6月17日、ヨーロッパとそれに続く世界ツアーの初日として1970年以来36年ぶりに英リーズ大学でライブを行う。11月、1982年のイッツ・ハード以来24年ぶりのスタジオ録音フルアルバムになるエンドレス・ワイヤーを発表。2007年6月24日、グラストンベリー・フェスティバルのヘッドライナーとして出演。
そして2007年の10月に、ピートは2008年にはフーの来日もあると言葉を残しているがどうなるかはわからない。
[編集] ライブパフォーマンス その後の影響
ザ・フーはライブバンドとしての評価が高く、演奏は初期から大音量で行われていた。モータウン、R&Bのカバー・バンドという原点を持ち、ライブ演奏の技術の面で言えばビートルズ、ローリング・ストーンズといった当時絶大な支持を受けていた他のバンドを圧倒していた。リードベースと言われるジョン・エントウィッスルの高度なテクニック、全編フィルインとも言える手数の多いキース・ムーンのドラムは、他に類を見ない物であった。また、『ロック・オペラ “トミー”』などのドラマティックなロックオペラ、シンセサイザーのシークエンスフレーズと同期させた演奏など、画期的な試みも多い。
肉体的なパフォーマンスも有名であり、ロジャーはマイクを振り回し、ピートは縦横無尽に飛び跳ね、腕を振り回してコードを弾いた(=ウインドミル奏法。風車弾きともいわれるこの弾き方はローリング・ストーンズのキース・リチャーズのスタイルを参考にした)。キースは破天荒にドラムを叩き、ジョンは一人仁王立ちし複雑なフレーズを弾きこなす、というのが彼らのライブのスタイルであった。最後には、ギターやドラム、機材などをステージ上で破壊したことでも知られ(赤字になることもしばしばであった。)、こうしたステージパフォーマンスは、のちパンク・ロックのアーティスト(Sex Pistols,Pearl Jam等)に大きな影響を与える。元祖パンクとも言われ、シングルMy Generationは当時の労働者階級の子供たちの心情を歌詞にしたので労働者階級の子供たちのハートを一気に掴んだ。世界でも彼等に影響を受けたアーティストは数え切れない。
[編集] ディスコグラフィ
- マイ・ジェネレイション - My Generation
- ア・クイック・ワン - A Quick One
- ザ・フー・セル・アウト - The Who Sell Out
- ロック・オペラ “トミー” - Tommy
- ライブ・アット・リーズ - Live At Leeds
- フーズ・ネクスト - Who's Next
- 四重人格 - Quadrophenia
- オッズ&ソッズ - Odds And Sods
- ザ・フ-・バイ・ナンバ-ズ - The Who By Numbers
- フー・アー・ユー - Who Are You
- キッズ・アー・オールライト - The Kids Are Alright
- フェイス・ダンシズ - Face Dances
- イッツ・ハード - It's Hard
- フーズ・ラスト - Who's Last
- ジョイン・トゥゲザー - Join Together
- エンドレス・ワイヤー - Endless Wire
[編集] 日本公演
- 2004年 THE ROCK ODYSSEY 2004
[編集] 外部リンク
- ザ・フー 公式サイト
- ピート・タウンゼント 公式サイト
- ジョン・エントウィッスル 公式サイト
- ユニバーサル ミュージック インターナショナル ザ・フー 情報サイト
- WHO's Generation - ザ・フー 総合情報サイト (日本語)
- thewho.net - ザ・フー 総合情報サイト (英語)
- ザ・フー歌詞
|
|
---|---|
メンバー | ロジャー・ダルトリー - ピート・タウンゼント - ジョン・エントウィッスル - キース・ムーン - ケニー・ジョーンズ |
サポート・メンバー | ジョン “ラビット” バンドリック - ザック・スターキー - サイモン・タウンゼント -ピノ・パラディーノ |
アルバム | マイ・ジェネレイション - ア・クイック・ワン - ザ・フー・セル・アウト - ロック・オペラ “トミー” - フーズ・ネクスト - 四重人格 - オッズ&ソッズ - ザ・フ-・バイ・ナンバ-ズ - フー・アー・ユー - キッズ・アー・オールライト - フェイス・ダンシズ - イッツ・ハード - フーズ・ラスト - ジョイン・トゥゲザー - エンドレス・ワイヤー |
ライブ・アルバム | ライブ・アット・リーズ |
関連項目 | スモール・フェイセズ |
映画 | キッズ・アー・オールライト |