細川氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
細川氏(ほそかわし)は、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流河内源氏の流れを汲む足利氏の支流。細川姓は鎌倉時代13世紀に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来。家紋は九曜(18世紀中頃からは「離れ九曜」)、五七の桐。
目次 |
[編集] 概要
足利将軍家の一門として南北朝時代の動乱の中で北朝・足利幕府方として活躍。畿内・四国を中心に一族で八ヶ国の守護職を占める有力守護大名となる。細川頼之は管領として3代将軍足利義満をよく補佐し、以後嫡流(京兆家)は代々管領に任ぜられ、斯波氏・畠山氏とともに三管領の一つに数えられる。応仁の乱で細川勝元は東軍の総帥となり、その子細川政元は明応の政変で10代将軍足利義材を退けて幕府の実権を握る。
しかし、政元は生涯独身を貫き実子がなかったうえ養子を3人も迎えており、養子同士の争いの中で殺される。細川氏は2派に分かれそれぞれに被官や畿内近国の諸勢力が結びついて争うが、政元の養子の一人細川澄元の出身の阿波守護家の守護代三好氏が畿内に進出し、その勢力は主家を凌ぐようになる。
織田信長が15代将軍足利義昭を擁立して畿内から三好氏の勢力を一掃すると、細川昭元は信長に属しその妹婿となったが、旧領を回復することはなかった。
一方、傍流の和泉上半国守護家の細川藤孝(幽斎)は足利義昭の側近としてその将軍職就任に奔走したが、後には長男で奥州家に養子に出した細川忠興(三斎)とともに織田信長の部将として活躍した。本能寺の変では縁戚の明智光秀に味方せず、天下人となる羽柴(豊臣)秀吉に属した。その後、忠興は関ヶ原の戦いの功により豊前小倉藩39万9千石を領した。
その子・細川忠利の代に肥後熊本藩54万石の領主となり、以後代々受け継いで明治維新に至る。明治時代には侯爵となる。子孫の細川護煕は熊本県知事・内閣総理大臣を務めた。
細川氏は、多くの大名の中でも、鎌倉、室町から江戸、現代まで名門として続いた希有の家である。
[編集] 中世
足利氏の祖・足利義康の庶長子である足利義清が開祖。 平安時代末期、義清は木曾義仲に属し、都から追い落とした平家軍と備中国水島で戦って戦死した。
鎌倉時代に足利本家の義氏が三河守護となると、義清の孫・義季は兄の戸賀崎義宗・仁木実国らとともに三河国へ進出。細川郷を領して細川二郎と名乗った。 しかし、同じ足利一門でも斯波氏や畠山氏の家格が高く本家からの独立性が強かったのとは異なり、この時代の細川氏はさほど有力ではなかった。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、和氏・頼春兄弟やその従兄弟の顕氏・定禅らが足利尊氏に従う。 細川和氏は、1333年(元弘3年/正慶2年)に尊氏が倒幕の兵を挙げると、上杉重能とともに後醍醐天皇に帰順を願う使者の役割を果たし、京都の六波羅探題攻撃にも加わった。 さらに、新田義貞に奉じられて鎌倉を陥落させた尊氏の嫡子・千寿王(後の2代将軍足利義詮)を補佐するために下向し、義貞に対抗して鎌倉を足利氏に掌握させる。 和氏と顕氏は尊氏の命により四国に渡り、阿波、讃岐を中心に南朝方との争いを勝ち抜き、在地豪族の被官化を推し進めた。 この時代に、細川氏は有力な守護大名へと成長する。
和氏の嫡子である細川清氏は当初将軍義詮の執事職(後の管領)として幕政の実権を握ったが、佐々木道誉の讒言により失脚し(康安の政変)、南朝方に属して滅び、また顕氏の子・細川繁氏も急死し、頼春の嫡子である細川頼之が細川氏で随一の実力者となる。代々幕府の管領に任ぜられることになる京兆家は頼之の弟で養子の頼元の子孫であり、その他の分家も多くは頼之の時代に派生した一族である。
細川氏は京兆家を中心とした同族連合体とも言うべき集団を形成することで一族間の内訌の危険を減らし、これにより有力守護の勢力を削ごうとする将軍の干渉を排し、管領・有力守護の地位を保ち続けた。
[編集] 京兆家
細川氏の嫡流で、代々室町幕府の管領、摂津・丹波の守護。京兆(けいちょう)とは右京大夫の唐名で、当主が代々任ぜられたことに由来する。
細川頼之は中国管領、四国管領を歴任し、讃岐・阿波・土佐など四国の分国化を進めた。中央では管領となり幼少の将軍足利義満を補佐する。頼之は義満の信任は厚かったものの、1379年(天授5年/康暦元年)の康暦の政変で一旦没落する。しかし、四国に渡り阿波を中心とする分国支配を堅持することにより敵対勢力を退け、やがて中央政界に復帰。弟の細川頼元を管領に推し、細川氏は畠山・斯波両氏とともに三管領・幕府宿老として重きをなした。
細川勝元は3度に渡って計23年間も管領職を歴任し、山名宗全(持豊)と手を結び畠山氏を弱体化させた。しかし、将軍家や守護家の家督相続問題などで宗全と対立し、東軍の将として足利義視を推戴し、宗全率いる西軍との間で11年に及ぶ応仁の乱を引き起こし、その途中に病没する。
戦国時代の畿内は、将軍と京兆家を中心とした争乱が続く。勝元の子・細川政元は明応の政変で将軍足利義材(義稙)を廃立、政敵の畠山政長を抹殺し幕政の実権を掌握した。畠山・斯波両氏は没落し、京兆家は管領職を独占するようになる。しかし、政元は妻帯せず、細川澄之・細川澄元・細川高国の3人を養子に迎えたため、この3人が家督をめぐって争い、1507年(永正4年)、政元は澄之を推す配下に暗殺される。
その後、澄元が澄之を討ち、さらに翌年、前将軍足利義尹(義稙)を擁する周防守護大内義興と結んだ高国が将軍足利義澄と澄元を京都から追い落として管領となった。1527年(大永7年)に今度は澄元の子・細川晴元が高国を追い落とし、さらに1531年(享禄4年)に高国を滅ぼし、台頭する家宰の三好元長も討ち、将軍足利義晴を擁立して幕政を握る。しかし、1549年(天文18年)、元長の嫡男・三好長慶に追われて近江に逃れ、その政権は崩壊。晴元はその後も将軍足利義輝擁して長慶との争いを続けるが、1561年(永禄4年)に和睦し、その2年後に没した。
晴元の嫡子・細川昭元は、足利義昭に仕えた。後に織田信長に近臣として仕え昭元から信良と名を改めたが、最早政治的に何ら影響を及ぼす存在ではなかった。昭元の嫡子・細川元勝(頼範)は豊臣秀頼の近臣として大坂城に在り、大坂の陣では豊臣方となった。敗戦後は讃岐国に隠棲し、のちに妹の嫁ぎ先秋田実季を頼り常陸宍戸藩に赴き、そこで客分として迎え入れられた。元勝の嫡子・細川義元の時に秋田氏の家臣に列し、子孫は家老として仕えた。義元以降は、細川宣元(義元の子)、細川忠元(宣元の子)、細川孚元(忠元の養子。三春藩家老・小野寺泰忠の子)、細川昌元(孚元の養子。藩主秋田延季の七男)と家督が継承されている。
[編集] 典厩家
細川氏(京兆家)の分家の一つ。細川持賢を祖とする。摂津西成郡(中嶋郡)の分郡守護を務めた。政国、政賢と続いた。当主が右馬頭もしくは右馬助を官途としたことから、その唐名にちなんで典厩家と呼ばれるようになっていた。京兆家の側近として仕えており、持賢は京兆家当主の座を13歳で継いだ勝元を補佐する立場にあり、持賢の猶子で2代当主となった政国も9歳で京兆家を継いだ政元の幼少時の後見役であった。細川政賢・細川尹賢の代には本家である京兆家の内紛に介入し、一定の影響力を持ったものの京兆家とともに衰退する。典厩家の出身の細川氏綱が三好長慶に担がれて室町幕府最後の管領となったものの傀儡にすぎなかった。その死後は氏綱の弟の細川藤賢が典厩家の当主となり、将軍足利義昭に仕えた。義昭が織田信長と反目し挙兵した際には、義昭とともに抗戦したが降伏した。その後は信長に臣従し近江坂本城の守備を任された。
[編集] 野州家
細川氏(京兆家)の分家の一つ。細川満元の弟である細川満国を祖とする。持春、教春、政春、晴国と続いた。持春、教春が2代にわたって下野守を名乗ったことから野州家の名が定着したようである。備中浅口郡と伊予宇摩郡の分郡守護を務めた。野州家から京兆家には、教春の子の勝之が勝元のもとへ、政春の子の高国は政元のもとへと、2代にわたって猶子が続いている。 また持春の子・政国が典厩家の持賢の養子に入り、その政国が典厩家の第2代当主となるなど、京兆家との一体性が強い典厩家との間にも緊密な関係を保っていた。 このように野州家は将軍近習としての性格を有した一方で、京兆家、典厩家とも密接な関係を保ち、結果として細川氏一門の幕政関与に貢献したと思われる。
[編集] 阿波細川家
阿波細川氏は14世紀中頃、細川頼之の弟・詮春に始まる。代々阿波守護となった。他の細川庶流家とは異なり室町幕府の相伴衆の家柄であり、京兆家を上屋形と呼ぶのに対し、阿波細川家は下屋形あるいは阿波屋形と尊称された。
当主は幕府の宿老会議にも度々列席するなど、京兆家に次ぐ細川家として高い家格を有していた。
数え方によって変わるが10代で終わる。なお阿波細川氏は成之のころから讃岐守護も兼任するようになり、阿波讃岐細川家とも言う。
詮春から数えて4代目の細川持常のとき、永享12年(1440年)に戦死したとされる一色義貫に代わり一時三河守護職も兼任した。しかし一色義貫の死が6代将軍足利義教の陰謀によるものであったため、持常・成之父子が三河国に守護権を確立する際に一色残党の激しい抵抗に遭い、多大な犠牲を払った。
持常・成之の時代に全盛期を迎えたが、成之の孫・澄元が京兆家の細川政元の養子となり、畿内の争乱に巻き込まれるようになる一方で家宰の三好氏が台頭した。天文22年(1553年)、細川持隆は三好義賢に暗殺され、天正10年(1582年)に持隆の子・真之が十河存保に攻められて自刃し滅亡した。
[編集] 和泉守護家
和泉国では細川庶流二家による、国内を分割しない共同管理方式の守護二人制が採用されていた。両守護家の祖は、細川頼長(頼之の甥)と細川基之(頼之の猶子)である。前者を上守護家、後者を下守護家と呼んだらしい。
守護二人制の採用理由として、和泉国は大国であるがゆえに権力の分散を目的としたとされている。ただし頼長と基之はそれ以前から備後、土佐の守護も併任されており、別に何らかの理由が存在した可能性が推測される。
[編集] 和泉上半国守護家
細川頼之の弟・頼有の子孫が14世紀中頃から和泉守護を代々務めた。頼長のあと、持有、教春、常有(教春の弟)、元有(常有の孫)と守護職を世襲した。細川元有は和泉下守護家とともに紀伊守護畠山尚順と同盟を組み、管領細川政元と敵対していたが、両守護家は政元に大敗し恭順し、そのため畠山尚順に攻め込まれた。元有が1500年に戦死して以後は衰退し、子・元常の代には守護職も名ばかりで、山城国勝龍寺城城主として弟の三淵晴員とともに将軍足利義晴の近臣となっていた。元常には子供がおらず、弟・晴員の次男・藤孝を養嗣子として家督を譲った。
藤孝の後、和泉上半国守護家の流れは次男・興元が継ぎ常陸谷田部藩の祖となった。興元の興の字は兄・細川忠興からのもので、元の字は藤孝の養父・元常に因むといわれる。明治期に子爵に列せられた。なお忠興は、幼少期に足利将軍の命で奥州家細川輝経の養子となったため、子孫の肥後細川家は系譜上奥州家の流れといえる。
[編集] 和泉下半国守護家
基之のあと、持久(基之の孫)、勝信(基経の誤記か)、政久が守護職を継承した。政久は和泉上守護家と同盟し、その上で畠山尚順と結び細川政元に対抗したがその後は恭順した。しかし尚順に攻め込まれ戦死をとげた。政元は畠山尚順を河内で破り、和泉に攻め入り支配を回復したが、そののち和泉下守護家がその地位を保つことはできなかった。
[編集] 備中守護家
頼之の末弟・細川満之を祖とし、頼重、氏久、勝久と代々守護職を継承した。他に伊予国新居郡などの領有の記録もある。備中国はもともと京兆家の影響が強く及んでおり、勝久の代に京兆家細川政元と対立した後はさらに国内が収まらず、以後次第に勢力を弱めていく。
後に野州家の細川政春が備中守護となるが、その子・通政は出雲の尼子晴久の圧迫を受け伊予へ逃れた。通政の甥・通薫(通重)が備中支配の回復を試みるが、中国地方に勢力を伸ばした毛利氏の客将となり、子孫は長州藩に仕えた。
[編集] 淡路守護家
細川氏の庶流の一つ。和氏・頼春の弟の細川師氏を祖とする。師氏の子・細川氏春は、和氏の子・清氏が南朝に降伏すると、それに従って幕府方と戦った。子孫は代々淡路守護。将軍直属軍である奉公衆の一番番頭も務めた。戦国時代初期に細川尚春が三好之長に滅ぼされ断絶した。
[編集] 奥州家
細川氏の庶流の一つ。大外様ともいわれる。和氏・頼春の従兄弟の細川顕氏の子孫。顕氏の兄弟はそれぞれが武勇に優れ活躍したが、彼等は顕氏に先立ちこの世を去る。残った顕氏は讃岐、土佐などの領国化に励み実力をつけ、嫡流の和氏の死後、その弟の頼春と並んで細川氏の実力者となる。顕氏は観応の擾乱で活躍するも、やがて頼春と前後して死去する。顕氏の実子の繁氏は顕氏の領国を受け継ぎ、有力者として武功を積むも急死。その後は、和氏の子・細川業氏が後を継いで存続したが、讃岐など領国は頼春の子・頼之に押さえられ、以後は京兆家に従属的な立場となった。しかし、業氏は3代将軍足利義満、その子孫の細川晴経は13代将軍足利義輝の加冠の際の理髪役を務めるなど、有力な幕臣であった。
和泉上半国守護家の藤孝の子・忠興が戦国時代末期の当主細川輝経の養子となり奥州家を継承した。
[編集] 近世
[編集] 肥後細川家(豊前小倉藩、肥後熊本藩主家)
和泉上半国守護家の出身の細川藤孝(幽斎)は、はじめ室町幕府15代将軍足利義昭を支えたが、のち織田信長に属して姓を長岡と改め、丹後国12万石を領した。 長男の忠興(三斎)は、紀伊雑賀攻めで初陣し、信長の部将として活躍。 本能寺の変では、妻・ガラシャの父・明智光秀に与せず、羽柴(豊臣)秀吉に仕えた。 幽斎は古今伝授の継承者、忠興は千利休の高弟として、文化面でも重きをなした。
秀吉の死後、徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)らの争いが始まると、東軍につき、ガラシャは西軍の人質になることを拒んで自害、幽斎は丹後田辺城で2ヶ月に及ぶ籠城戦を戦い、忠興は関ヶ原の戦いで活躍した。戦後は細川姓に復し、功により豊前小倉藩39万9千石を経て、忠興の子・3代細川忠利の時代に肥後熊本藩54万石を領し、幕末まで237年統治。明治に至り侯爵となる。
肥後細川家には藩主一門重臣として長岡内膳家と長岡刑部家があり、支藩としては新田(高瀬)支藩と宇土支藩があった。また、上卿三家といわれる世襲家老、松井氏(長岡佐渡、代々八代城3万石の城代)・米田氏(長岡監物)・有吉氏の三家があり、いずれも藤孝時代からの重臣である。なお、常陸谷田部藩は支藩ではなく、独立の藩である。
8代細川重賢は、藩校時習館の創設や殖産興業など宝暦の改革と呼ばれる藩政改革を行い「肥後の鳳凰」と称され、出羽米沢藩の上杉鷹山や紀伊紀州藩の徳川治貞(紀州の麒麟)とともに江戸時代中期の三名君とされる。熊本藩では江戸時代を通じて百姓一揆等が殆ど見られず農民は豊かであったとされるが、藩財政は厳しく、江戸・大坂の大商人からの借金に対しては何度も踏み倒して貧乏細川と嫌われている。
国宝保存会会長を務めた16代細川護立は「美術の殿様」といわれ、細川家伝来の多数の美術品や自らの収集品などを収蔵した財団法人永青文庫を開設している。近衛文麿の首相秘書官であった17代細川護貞は戦時中政治的活動も行い『細川日記』を残している。護貞は美術、華道、茶道の愛好家としても知られる。
護貞の子・18代細川護熙は熊本県知事を務めた後日本新党を結成し、1993年(平成5年)に内閣総理大臣となり非自民党連立政権を成立させた。その弟で近衛家を相続した近衛忠煇は日本赤十字社社長。
[編集] 細川(長岡)内膳家
関ヶ原の戦いの後、忠興は徳川家との関係を重視し、警戒を解くために嫡男・忠隆とその妻・千世(前田利家の娘)の離縁を命じた。これに反発した忠隆を廃嫡・勘当、家康に人質として差し出していた三男・内記(忠利)を跡継ぎとし、徳川家への臣従の意思を表した。
忠隆は長岡休無と号し京都に隠居していた祖父・幽斎の許に身を寄せるが、幽斎死去後には幽斎所領6千石を基に扶持米3千石が給されることになった。余生を京都で過ごした休無の死後、後妻・喜久との間に生まれた長岡忠恒・長岡忠春は肥後熊本に招かれ、細川綱利から3千石ずつを与えられた。忠春の子・忠季が計6千石を継ぎ、子孫は代々一門首座に列した。家紋は細川九曜紋のほかに、ガラシャ出自を偲び明智氏の土岐桔梗紋を裏紋とした。明治時代に細川姓へ復し、男爵を授爵した。江戸時代の藩主の御茶屋で明治時代には内膳家が住んだ熊本郊外の砂取邸跡は水前寺江津湖公園の一部(熊本県立図書館庭園)として整備されている。
政治評論家細川隆元とその甥細川隆一郎は内膳家牧崎分家の出である。
[編集] 細川(長岡)刑部家
忠興の五男・刑部少輔興孝が2万5千石を与えられて興す。代々「長岡刑部」か「長岡図書」を名乗り、家禄1万石。明治時代に細川姓へ復し、男爵。刑部家が熊本郊外の子飼に設けた下屋敷(旧細川刑部邸)は県の重要文化財に指定され、現在は熊本城三の丸に移築・公開されている。
[編集] 高瀬細川家
肥後熊本藩の支藩・新田藩3万5千石の藩主。細川光尚の子・細川利重から10代。江戸鉄砲洲に住み、幕末に肥後高瀬(熊本県玉名市)に移ったため高瀬藩とも言う。本家6代の細川宣紀は利重の子。
[編集] 宇土細川家
肥後熊本藩の支藩・宇土藩(熊本県宇土市)3万石の藩主。忠興の四男・立孝の子の行孝から11代。5代細川興文は本藩の細川重賢と協力して藩校温知館の創設や水道による農地灌漑・殖産興業に努めるなど藩政改革を行い、外様支藩主ながら幕府老中任用も議せられた。本家10代の細川斉茲、12代の細川斉護は宇土細川家の出身である。
[編集] 常陸谷田部細川家
常陸国谷田部藩(茨城県つくば市)1万6200石の藩主。細川藤孝の子・細川興元より9代。谷田部藩は熊本藩の支藩ではなく独立の藩である。熊本藩が室町時代の奥州家の系譜をひくのに対し、和泉上半国守護家の系譜を継承する。[要出典]
[編集] その他の支流・庶家
庶家一覧
- 上野氏
- 長岡氏
- 上地氏
- 天竺氏
- 西内氏
- 十市氏
- 綾氏
- 小神氏
[編集] 系図
太線は実子、細線、斜体の字の人物は養子。
義清 ┃ 義実 ┃ 義季 ┣━━┓ 俊氏 義俊 ┏━━┫ ┣━━┓ 頼貞 公頼 俊氏 宗義 ┏━━┳━━┳━━┫ ┣━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 皇海 定禅 直俊 顕氏 師氏 頼春 和氏 ┏━━┳━━┫ ┣━━┓ ┣━━━━━┳━━━━━━━━┳━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━┓ ┏━━╋━━┳━━┳━━┓ 繁氏 政氏 業氏 氏春 信氏 頼有 詮春 頼之 頼元 満之 業氏 清氏 家氏 頼和 将氏 ┃ ┃ ┃ ┣━━┓ ┃ ┏━━┫ ┏━━┳━━┫ ┏━━┫ ┃ 祐氏 満経 満春 頼長 頼顕 義之 基之 頼元 基之 満久 頼重 頼夏 正氏 義和 ┃ ┏━━┫ ┣━━┓ ┃ | ┏━━┫ ┣━━━━━━━━━━━┓ ┃ ┣━━┓ 信氏 顕経 持経 満師 俊春 持有 満久 教久 頼久 満元 満国 氏久 経氏 頼氏 ┃ ┃ ┃ ┣━━┓ ┣━━┓ ┃ ┣━━┳━━┓ ┃ ┃ ┃ 成経 持親 安氏 教春 常有 持常 教祐 持久 持之 持元 持賢 持春 勝久 泰経 ┃ ┃ | | ┃ ┃ ┣━━┓ | ┣━━┳━━┓ | ┃ 尚経 成春 常有 成之 成之 勝信 勝元 成賢 政国 教春 政国 賢春 政春 仲泰 ┃ ┃ ┏━━╋━━┓ ┣━━┓ ┃ ┣━━┓ ┃ ┣━━┓ ┃ ┣━━┳━━┓ 尹隆 尚春 元有 政有 頼常 義春 政之 政久 政元 勝之 政賢 政春 勝之 春倶 晴国 通政 高国 ┃ | ┏━━╋━━┓ ┏━━╋━━┓ ┣━━━━━┓ ┏━━┫ ┣━━┓ 晴経 元有 澄元 氏久 之持 澄元 高国 澄之 尹賢 澄賢 高基 尹賢 通政 通薫 ┃ ┣━━┓ ┃ ┃ ┃ ┣━━┓ ┣━━┓ ┃ | 輝経 元常 晴員 昌勝 持隆 晴元 氏綱 稙国 藤賢 氏綱 晴賢 通薫 | | ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 忠興 藤孝 藤孝 元定 真之 昭元 頼国 元賢 元通 ┣━━┓ ┃ ┃ ┃ 興元 忠興 全隆 之照 元勝
- (肥後藩主家)
藤孝 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 忠興 興元 ┏━━━┳━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┃ 忠隆 興秋 忠利 立孝 興昌 ┃ ┃ ┃ ┃ 細川内膳家 光尚 有孝 興隆 ┣━━━┓ ┃ ┃ 綱利 利重 興生 興栄 | ┣━━━━━━━━━━━┓ ┣━━━┓ | 宣紀 宣紀 利昌 興里 興文 興誠 ┣━━━┓ ┣━━━┓ ┃ ┃ 宗孝 重賢 利方 利恭 斉茲 興虎 | ┃ | ┃ 重賢 利寛 利寛 興晴 ┃ ┣━━━┓ ┃ 治年 利致 利庸 興徳 | | ┃ 斉茲 利庸 興建 ┣━━━━━━━━━━━┓ ┣━━━━━━┓ ┃ 立之 斉樹 利国 利愛 興貫 ┣━━━━━━━┓ | ┝━━━┓ ┝━━━┓ 斉護 行芬 斉護 利愛 利用 利用 利永 ┣━━━┓ ┣━━━┓ | 韶邦 護久 立則 立真 利永 | 護久 ┣━━━┓ 護成 護立 | 護立 ┃ 護貞 ┣━━━┓ 護煕 近衛忠煇 ┃ 護光