細川頼春
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細川 頼春(ほそかわ よりはる、1304年(嘉元2年)? - 1352年4月5日(正平7年/文和元年閏2月20日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将である。父は細川公頼。兄弟に細川和氏、細川師氏。妻に里沢禅尼ほか。子に細川頼之、細川頼有、細川頼元、細川詮春、細川満之。名は源九郎。蔵人、刑部大輔、讃岐守、官位は従四位下。生年は1299年(正安元年)とも。
[編集] 略歴
鎌倉時代後期の1333年(元弘3)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、細川氏は足利尊氏の挙兵に参加している。建武の新政において蔵人となる。中先代の乱を契機に尊氏が建武政権から離反すると細川氏も従い、九州へ落ちる際には四国へ分遣される。細川氏は四国を平定して湊川の戦いなどで戦い、頼春は京都内野での戦いや、南北朝成立後には斯波高経らに従い北陸落ちした南朝の新田義貞攻めなどに従軍する。
足利氏の武家政権においては1338年に阿波国、備後国の守護となり、鎌倉時代には守護であった小笠原氏を傘下に治める。さらに南朝の脇屋義助の死に乗じて伊予国(愛媛県)へ進攻して大館氏らを駆逐し、伊予の豪族であった河野氏と対立する。のちに足利政権において尊氏の弟である足利直義と尊氏、執事の高師直との対立から内紛に発展した観応の擾乱が起こると頼春は師直派に属し、直義派であった斯波高経から越前国の守護職を奪取する。そのため斯波氏と対立するようになり、この対立は後に管領となる子の頼之の代にまで影響する。
頼春はこの頃九州で反乱した尊氏の子で直義派の足利直冬の討伐に従軍し、師直がクーデターで直義を失脚させると従兄弟の顕氏が出奔したために追討に向かう。直義が南朝に属して軍事的優位に立つと、頼春は対抗のために分国の阿波国へ下り、紀伊水軍の安宅氏を地頭職に任じるなど国人の被官化を行うが、一宮氏など小笠原氏一族の反抗にあい、南朝方に与した小笠原氏との対立は子の頼之の代まで続いた。1352年に 南朝の楠木正儀、北畠顕能、千種顕経らが京都へ攻勢をかけると頼春は尊氏の子の足利義詮を守り、七条大宮付近で戦死する、享年49、もしくは54。
[編集] 関連
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