細川光尚
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細川 光尚(ほそかわ みつなお、1619年10月26日(元和5年9月19日)-1650年1月28日(慶安2年12月26日))は、江戸時代初期の大名。肥後国熊本藩の第2代藩主。父は初代藩主・細川忠利(光尚は長男)。母は小笠原秀政の娘で徳川秀忠の養女・千代姫(保寿院)。正室は中納言・鳥丸光賢の娘・正受院(寧々)。側室は内海氏、清水氏。子に綱利、利重。官位は従四位下、侍従、肥後守。
元和5年(1619年)9月19日生まれ。寛永14年(1637年)、父とともに島原の乱に参陣して武功を挙げた。寛永18年(1641年)、父の死去により家督を継いだ。翌年、阿部弥一右衛門の遺族による反乱が起こり、これを2月21日までに鎮圧したが、これが後に森鴎外の『阿部一族』に取り扱われている。
正保2年(1645年)末、祖父の細川忠興が死去したとき、忠興の遺言によって細川行孝に3万石を分与し、宇土藩を立藩させた。また、家老制度や役人などの官制改革も積極的に行ない、藩政の基礎を固めた。
慶安2年(1649年)12月26日、31歳の若さで死去した。後を子の細川綱利が継いだが、綱利が7歳と幼かったため家督相続を幕府に認めてもらうために細川家中奔走して、危うく取り潰しを免れた。
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