真如苑
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仏教 |
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真如苑(しんにょえん)は、東京都立川市に総本部を置く、真言宗系の新宗教教団である。在家仏教教団の一つ。
目次 |
概要
- 名称:宗教法人 真如苑
- 総本山:燈檠山真澄寺(とうけいざん・しんちょうじ)
- 立教:1936年2月8日
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- ※1951年宗教法人法施行後、1953年文部省が宗教法人として認証した
- 本尊:久遠常住釈迦牟尼如来(くおんしょうちゅう・しゃかむににょらい、開祖自刻の釈迦涅槃像)
- 経典:大乗大般涅槃経(正依経、傍依として般若経典と法華経等他、なお般若・法華・涅槃は真如三部経と呼称する)
- 開祖:伊藤真乗(いとう・しんじょう 1906~1989)
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- 伊藤友司(いとう・ともじ 1912~1967)
- 現代表:伊藤真聰(いとう・しんそう 1942~)
- 信徒数:現在、公開はしていない。
- 所在地:東京都立川市柴崎町1-2-13 電話-042(527)0111
略史
草創期
真如苑の前身は、1936年に開かれた講(成田山立川立照講)であり、真言宗醍醐派・立川不動尊教会、まこと教団と称す。1951年、真如苑と改称し現在に至る。
開祖の伊藤真乗(俗名:文明)と妻・伊藤友司(のち摂受院、また摂受心院)は共に山梨県出身で「またいとこ」にあたる間柄である。文明は技術者として立川飛行機に勤める傍ら、武田信玄の甲陽軍鑑に裏打ちされた伊藤家家伝の易学「甲陽流病筮鈔」を通して、会社や同僚、また多くの人々の相談に応じているうちにお互いの家系の宗教的背景から、宗教家としての道を感得していく。1935年暮れ、運慶一刀三礼の作と口伝される平常眼の大日大聖不動明王を譲り受け自宅に迎えた。翌36年、1月4日から30日間にかけて水垢離をとるなど、初の宗教的な行を修めるなかに、妻・友司が祖母から伯母に伝わる法華経の流れを汲む「霊能」を相承し開発した。
当初、当時の時代背景もあり、宗教の道に進むのを共に躊躇逡巡していたが、これによって文明は会社を退き宗教専従の道に立った。その後、易学の縁から真言宗成田山新勝寺の講中として「成田山立川立照講」を設立。1938年、初の会堂である真澄寺建立を機に、「真言宗醍醐派・立川不動尊教会」と改名する。
文明は1936年、真言宗醍醐派総本山醍醐寺において出家得度。その年、長男・智文(法号「教導院」)を失うが、醍醐寺に於いて修行を続け、1939年に修験の灌頂である在家の大法、恵印灌頂を修め、さらに1943年、出家の大法である、金胎両部伝法灌頂を畢(お)えて醍醐寺三宝院流の伝法阿闍梨(大阿闍梨)位を得て、真乗と改める。
終戦後、宗教団体法の廃止による本山末寺の包括関係の見直しに機を得て、真言宗から立川不動尊教会を独立させて、まこと教団と改称。教団内に「智泉寮」(現在の智流学院、略して智流院と呼称)を開設して教師の養成の傍ら、瞑想行「まこと基礎行」を行う。
まこと教団事件と真如苑としての出発
1950年、以前の内弟子が宗教家に相応しくない所行を諫められたことを逆恨みし、開祖から暴力を受けたとして提訴する事件が起きる。開祖は逮捕され、教団は壊滅の危機に瀕する。のちに、その元弟子の提出した傷害の診断書に日付等の不整合が発生するなど、論拠となる証拠には疑うべき点が多く列挙されたにも関わらず、当時の社会風潮と団体法等規制令が制定されたわずか数年の期間の中で行われた裁判であることから、1954年1月に有罪判決が出ている。これは、当時の樋貝詮三国務大臣(開祖と同じ山梨出身で法学者)の伝で紹介され結成された弁護団が「もう少しで無実が証明でき裁判に勝てる」と強く勧めたが、開祖は「宗教活動に専念したい」との理由から上告しなかった結果、この有罪判決が確定している。
(裁判と並行して)1951年「真如苑」と改称し、妻・友司が代表役員(苑主)として再出発する。そして裁判中であるにも関わらず(1951年施行された宗教法人法において)1953年、文部省が「真如苑」を宗教法人として認証する。
真如苑を研究する宗教評論家たちは、「昭和25年の法難」に関してはおおむね開祖側に同情的であり、開祖への有罪判決は、新宗教を十把一絡げに邪教淫祀扱いする戦前以来の日本官憲の偏見によるものだ、との見方が有力である。
大般涅槃経を礎とした教学体系の確立
1936年から整備がつづけられていた、「大乗の菩薩行による実践」を中核として大乗涅槃経を中心に、教学の体系化がなされ、その教学を裏づける修行形体も、接心(後述)を中心に整備される。
出家だけでなく、在家者をも同じような境涯に導く修行を模索していた真乗は、大般涅槃経と邂逅、その象徴とも言える大涅槃像謹刻を自ら発願し、1958年の接心道場建立に際して、丈六尺の自刻の大涅槃像を2ヶ月半で完成させている。真乗は大般涅槃経について「出家僧も在家教徒も平等に救われる仏教の理想的完成系」と説き、通常は出家して本山に登り研修しなければ伝授できなかった密教上の教義、哲学、手印などを精進のレベルに応じて信徒に教授し、精進が一定まで進展した者には僧階を授与している。 先の「まこと基礎行」を「接心」(霊能者と対座し、その霊言を以って精進の指針とする)と『相承会座』(霊能者を目指して自らの霊性を磨いていく修行)へと発展させている。また、この時期に経・部会・連合部という教団の信徒組織や青年会を発足、教師養成機関の「智泉寮」を「智流学院」へと発展させ、現在に至っている。
教主再婚とお家騒動
※注意:この節には事実と違う内容が含まれている可能性があるため、ノート:真如苑も参照のこと。
昭和42年の摂受心院遷化(せんげ、俗にいう死去)から約二年間、大きなお家騒動の発端は、教主・伊藤真乗の再婚問題であった。 摂受院の一周忌も済まぬうちに伊藤は後妻を家に連れ込もうとする。その相手の松島某子という女性は東京都千代田区平河町の料亭の仲居であった(なお、宗教評論家の清水雅人によれば、南方園という中華料理屋とし、かつて創価学会の池田大作も足繁く通っていたが、事の経緯を知るやばったりと来なくなったという)。
信者の親族であったというこの女性が教団に入り込んできて、教主夫人として権力を振るうのは好ましくないということで、有力幹部や四人の娘たちが猛反対したのは想像に難くないが、次女・孜子、三女・真砂子、四女・志づ子の三人は、教主の私的行為を許せず教団から飛び出してしまった。二年後になってこの三人は父の懇請を容れて教団に戻ったが、入れ替わりに、長女・映子とその夫・幹司(伊藤家の婿養子であり、教主の後継者の筆頭候補であった)が教団から追放された。 この間、教主は娘たちから「宗教家にあるまじき私行」として抗議書を突き付けられたという話もあり、最終的に、教団の有力な幹部の中からもかなりの数の脱退者を出した。その後、伊藤の再婚は、「周囲の反対を押し切る形で実現」する。 この騒動の最中の1969年3月には、三女が東京駅八重洲口付近でダンプカーに飛び込んで自殺を図る(未遂に終わっている)という事件も起こっている。これは当時独身であった彼女が、長女の夫から手を出され、不倫の間柄になったのを苦にしてのものと言われている。元々、長女の夫には「覗き」の性癖があったと言われ、それを次女が罵り、1968年11月会議において「幹司の修行のやり直し」が決定。何故、そのような異常者と結婚したのか、教主がその結婚を許したのか、あるいは「覗き」は単なる濡れ衣なのか、など疑問もあるが、この決定を次女は不服として「教主が再婚したいが為に長女夫婦と取引した」と主張。この混乱の中、1968年12月学生部部長で事務局財務部にいた三女は 四女と共に「闡堤」(後述)とされ苑外追放。1969年9月17日教苑会議で幹司は「苑での後継者としての資格を失い府中で再修業」という事に決定。この決定に対し長女は「普通の幸せな家庭を築くので引き止めないで」と苑を出て行く。この言葉から組織内部は「普通ではなかった」ことが想像される。次女はこれを受けて教団後継者の地位を迫るが、教主はこれに答えなかった。その後、1974年・1975年、霊能者として力を伸ばしていた次女に対して、智流院の講義で子供の自慢話をするという「苦情の投書」が殺到する。1977年、教徒の信頼を失った次女は苑を去る。彼女が「里帰り」と称して真如苑総本部に突入をはかって、警備の連中と小ぜりあいを演じ、さらに、伊藤真乗の昔の行状を暴露する情報をマスコミに流すこともあった。長女と次女は脱退後、創価学会に入信、この頃から創価学会は真如苑に対する攻撃を激化したと言われる。
近年・開祖の死去以降
1980年前後から、三女・真聰、四女・真玲を両法嗣(りょうほっし)として公式に真乗の後継者としていたが、1989年に真乗が死去すると、当初は「定記」と呼ぶ真乗の遺言に沿って、 真聰を「継主」(けいしゅ、表苑主)、真玲を補佐として「雍主」(ようしゅ、裏苑主)、この2人を「両常慧(りょうじょうえ)」と定め「表裏一体」の体制を整えた。しかし近年はさらに整理され、真聰が苑主、真玲は一財団の理事長を務め、現在に至る。
1980年代中頃に、爆発的な信徒の増加に伴い公称200万人として文部省に届け出た。これにより「創価学会も驚く新宗教」などとマスコミなどから取り上げられる事にもなった。しかし急激な信徒の増加の裏には、経親や導き親の逸脱行為など様々な問題もあり、教団は公称ではなく実際に活動している信徒数を把握するため、磁気システムによる信徒カードを導入するなどして、活動していない会員などを除いて、実数を届け出るように方針を変更、それにより公称80万人となった。新宗教の多くは公称信者数を水増しして信者数が増している事を誇張する中、真如苑のこの判断は特異的なものといわれる。
近年においては、2001年、東京都武蔵村山市の日産自動車村山工場の跡地を購入し話題となった。また、真乗が立教前に勤務していた立川飛行機製作所跡(現・多摩モノレール立飛駅前)に信徒修練場「総合道場」(応現院)を建設し、2006年3月25日に落慶法要が行なわれた。
教義と修行体系
本尊
現在の(根本的な)本尊は、久遠常住釈迦牟尼如来(開祖謹刻の六尺の大涅槃像)である。
立教時に勧請した大日大聖不動明王が、大日如来を中心とする密教の体系のひとつであることから、この久遠常住釈迦牟尼如来の造形が、顕教の釈迦如来と密教の大日如来を一体とさせたものであることは興味深い。密教では曼荼羅として、仏の内証を示す多くの形式が描かれ、それが礼拝・修行の中心となるが、真如苑においても久遠常住釈迦牟尼如来(自性輪身 じしょうりんじん)、十一面観世音菩薩(正法輪身 しょうぼうりんじん)、涅槃法身大聖不動明王(教令輪身 きょうりょうりんじん)の三輪身(さんりんじん)を中心とした、部類眷属が礼拝の対象として徐々に整えられており、真如苑が真言密教を出発点とした名残りと言えるだろう。
なお、涅槃経を所依として教義を体系化する以前に勧請した不動明王像は、運慶一刀三礼の作で北条時政公の持仏と口伝されていたことから、もともと仏像彫刻の大家である仲丸奥堂仏師が大事に所有していた。当初はこの仏師が模刻した不動尊像を購入する予定であった。しかし、「どうしてもこの不動明王が先生(文明)の元へ行きたいといって彫らせてくれない」という仏師の不思議体験を通し、無償でこれを譲り受けて自宅に迎えたという。この不動尊像は一般的な不動尊像と違い、眼が平常眼(へいじょうがん)といわれる。開祖が修行時代に先輩にその話をすると「冗談じゃない。巷にそんな不動尊像はない。それを持っているものは一宗を創(ひら)くといわれている。覚鑁上人も平常眼の不動明王を本尊として新義真言宗を創いたのだよ」といって笑われた、というエピソードが残っている。
また、教主が大般涅槃経を正式に所依とした後は、涅槃像を謹刻し根本の本尊に据えることとなったので、勧請した大日大聖不動明王像を秘仏とし、その代わりとして涅槃法身大聖不動明王を真乗が模刻し礼拝の対象とした。また涅槃像の光背曼荼羅(化仏)には阿弥陀如来や大日如来を配置し、釈迦が涅槃経を説くまでの四十余年における説法を表現している。なお当初の不動尊像を勧請した際に台密の密教咒経典が伝えられた事や、台密の歴史に基づく十一面観世音菩薩の縁などから、これら「三輪身」は東密、台密、涅槃密の三密帰一の妙を具現化したものであると説明している。
なお、「三輪身」については「涅槃経の中には釈迦如来が久遠常住であるとか、不動明王や十一面観音を本尊とせよとは全く説かれておらず、真如苑は本尊が頻繁に変わり増えている。これらを本尊とするのは涅槃経の経旨に背くもので我見である」などと日蓮を本仏とする一部の法華系教団が厳しく批判している。しかし、立教当初から涅槃経を正式に所依とし現在に至るまでの経緯から見ても、そのように批判される性格のものではなく、「如来常住」もはっきりと涅槃経中で繰り返し何度も説かれている。また、密教の伝法灌頂を法畢した大阿闍梨は、経文上に捉われず(経文を否定するのではなく、表面的な文面だけという意)、仏意を感得した上で自由に仏像を開顕することができると教団では説明している。教主謹刻の涅槃像が釈迦入滅時の80歳のお姿ではなく、悟りをお開きになった35歳の青年の面影で表現されているのも、御仏は人生の苦悩を超越し不生不滅の境地を得て今日もなお生きていらっしゃるからと真乗は述べている。
また、宗教界においては、いわゆる偶像崇拝として仏像を礼拝することが批判される場合がある。しかし真如苑では「仏像をつくるというのは形の仏をつくるのではなく、『一切悉有仏性』というように、一人一人の心底に秘められている仏性を開発して生きた仏たらしめ、この世に『常楽我浄』の仏土を顕現していく願いのため」、また「大涅槃像は単なる偶像ではなく衆生の仏性を具現化したものである」として「偶像崇拝」を強く否定している。
双親さま・両童子さま
双親さま(そうおやさま)とは、真乗・友司夫妻のこと。ただし、総親さま(そうおやさま)と言った場合、真乗のみを指す。真乗は1951年真如苑と改称時から「真如教主」「教主」と称した。
真乗と友司は、またいとこの間柄であり、それぞれ幼少時から宗教的背景があったという。ちなみに、伊藤家の名は「甲斐国志」にも見え、伊藤家家伝の甲陽流病筮鈔も、永田徳本という漢方医がこの易学をもって武田信虎や信玄を診察したといわれる。
また両童子さま(りょうどうじさま)とは、真乗の長男・智文(立教直後の1936年没。享年1歳10ヶ月。院号:教導院)、次男・友一(「まこと教団事件」の渦中、1952年没。享年15歳。院号:真導院)のこと。教団では教導院さま・真導院さまと呼称する。教団では、この両童子は幼少時から霊的なものがあったと説明している。たとえば智文は、教主夫妻が霊能で信徒に対応していた際にむずがったりすると、信徒の心が違っていたことを示したなどとし、死去した際に不動明王の真言に不思議なメロディー(これを教団ではご霊咒という)を摂受心院に遺したという。また百か日を機に摂受心院に智文の霊が感応道交した。
友一の場合は、生まれる前に三鷹に住む一婦人教徒が訪ね、「釈尊と同じ4月8日に男の子が生まれるので、世間的な人の子として育てるのではなく仏様の子としてお育てになるよう」と紅白の二重の寝具を寄進したことにはじまるという(ただし教主は当初これを信じなかった)。友一は生まれつき体が弱くいろいろな病気をして最終的に股関節カリエスを患い順天堂病院に入院、そして死去したが、成長するにつれ、仏の教えを身や口をもって体現していたといい、信徒が「私は友一さんの病気が治り、教団も大きくなればいい」と言ったことに対し、友一は「僕の病気は治らなくてもいい、また教団の大きくなる事より一人でも多くの人たちがが救われることが僕は一番うれしい」と語っていたといわれる。また看護士など非信徒にも親しまれ、「他の病人やお子さんと違って素直に従い、また言動や態度も立派」だとも評された。この友一の死去により信徒への物理的な救いや信徒の精神的境涯が深まったことなどから、霊的な不可思議な力が顕著に顕れたとし、「真如霊界」における「抜苦代受」の道は、智文が亡くなったことに創始され、友一が亡くなったことで救いの力が整ったと教団では説明している(なお智文及び友一という男子の後継ぎが亡くなっていることから、日蓮を本仏とする原理急進的な法華系新教団では、日蓮が唱えた四箇格言(しかのかくげん)の一つ、真言亡国の現証だとして真如苑を厳しく批判している)。これらから双親及び両童子はそれぞれ、没後に壇上に胸像として荘厳され、感謝・信仰の対象とされている。
なお教団では、「双親さま」などと敬称をつけて呼称するが、文字にする場合は「様」という漢字はほとんど使わない。これは平仮名の「さま」とすることで、やわらかくあたたかい印象を与え、また遠くの存在ではなく身近な感謝の対象として留めるなどという意味あいを持っている。このような理念は教団の随所に見られ、その表現も一言一句丁寧に思惟して文字化するのが特徴である。
摂受
「摂受」は正しくは摂引容受といい、「折伏」と対をなす仏教用語である。法華系新宗教諸教団が他宗派の教えを厳しく論破・排斥することが「折伏」と一般的に認知されていることに対し、真如苑は「摂受」(全てを受け容れる)というスタンスをとっている。これは他宗教に対し、あからさまに厳しく批判や排斥することなく、比較的融和にその教えをいったん受け入れ(その立場を認め)るというもので、基本的に他宗派・他教団との摩擦を回避する傾向が強い。
これは釈迦最後の説法とも言われる、涅槃経を所依とし、涅槃経の「全ての川が最終的に大海に流れ着くように、妙法、秘密甚奥蔵門、悉くこの大涅槃に帰す」という一節から、自教団の教えを「大海の教え」「究極の教え」と位置づけ、法華系教団も含め他宗派の諸要素や元信徒をも抵抗なく受け容れる=「摂受」というスタンスによる(但し、80年代に真如苑が爆発的な信徒増加があった頃に日蓮を本仏とする宗派や教団がスパイとして潜り込んだり、法具や教書を金品で買い取ろうとしたという話が、信徒の間でまことしやかに噂されたため、創価学会や日蓮正宗をはじめとする富士門流系列に対しては、一定の警戒は持っている)。
教団では、摂受という理念は早くからあった。1941年に東京都武蔵村山市にあった醍醐派一住坊常宝院が廃寺となっていたため、特命住職を拝命し、これを復興し祖山に返納した。これは現在、青梅市の塩船観音寺に吸収されている。また同じく、1948年に茨城県かすみがうら市にある宝性院歩崎山長禅寺(通称:歩崎観音)が長い間、荒廃していたのを見かねた地元民の要請から村長が真如苑に相談、これを教団で管理し修復して再興させた。なお現在は、地元の要請及び教主が仏意を感得したことにより、1981年に再び返納されている。
しかし、摂受が顕著になったのは1966年以降である。まず同年に、タイ国・パクナム寺院から仏舎利を奉載されるが、当時の曹洞宗管長・元全日本仏教会会長、高階瓏仙(たかしなろうせん)禅師が式師として登壇したことに始まる。その後、伊藤教主及び友司苑主が海外宣教として東南アジア、北欧宣教の旅に出たが、キリスト教の信仰的霊力によって、友司の体調が悪化していたが、当時のローマ法王・パウロ六世に謁見した瞬間、元気になり、その時にキリスト教との霊和解があった、と教団では説明している(なおこの北欧宣教から帰国後間もなくして友司が遷化した)。
この摂受というスタンスから、浄土宗や曹洞宗の教化団などの既存仏教や南方仏教の宗派などの見学や訪来を積極的に受け入れているほか、重要な法要などでは醍醐寺の座主をはじめ、奈良仏教の流れを汲む法相宗大本山薬師寺の安田暎胤管主など、既存仏教の各宗派の管長や代表役員を多く招いている。また大阪・高槻にある悠音精舎の落慶法要には天台宗の山田恵諦前座主が来賓として出席、その後も単身で再度訪問した。応現院の落慶法要には現在の渡辺恵進座主が招かれた。
また、応現院の文化講演会には、これまで薬師寺の安田暎胤管主、多くの仏教関連の著書があるひろさちや、駐日エジプト大使のヒシャム・バドル、瀬戸内寂聴などが招かれ、信徒に限らず広く一般にも公開されている。
他の新宗教団体には見られない特徴として、既存仏教の宗派に属する僧侶や南方仏教の出家者がその僧衣のまま真如苑の信徒として教団施設に出入りする姿も時たま見られるほか、松久朋琳の弟子など幾人かの仏師も真如苑の信徒として存在する。またマスコミでも何度も取り上げられ本も出版した占星術師など、数名の著名な占い師も信徒として確認されている。また北海道のアイヌ民族の協会で知られる北海道ウタリ協会はこれまで公式に仏教を認めたことが無かったが、その幹部関係者が幾人か信徒となったことからその民族衣装で法要に参列したこともある。これらはすべて「摂受」によるものと推察されている。
この「摂受」のもと、例えば、南伝仏教のパーリ語による総礼文・三帰依文・五戒文の読経への採用、あるいは、斉燈護摩(屋外で護摩を焚く修験系の法儀)における(修験装束を身につけた)外国人職衆の登用と多言語による作法の読み上げなど、珍しい試みも散見される。また信徒による浄財の寄付を呼びかけ薬師寺の伽藍再興にも協力したこともある。
また、苑の用語や教団運営のシステムも、様々な要素から成り立っている。
例えば「上求菩提」(苑においては、教えの上の疑問点を自分より上位の導き親、経親(後述)や事務局等に訊ねること)「下化衆生」(指導し相談に答えること)などは、元来、前者は菩薩が悟りを開かんと行う自行のこと、後者は菩薩が衆生を教導することを指す汎仏教的な術語であるが、苑はこれら術語に独自のニュアンスを与えて用いている。「接心」も本来は禅の用語である(後述)。これらの苑用語は、伊藤が涅槃経の現代的解釈作業を行った昭和30年代以降に用いられている。
「おたすけ」他、教化やシステムに関するしくみ・語彙は、天理教、立正佼成会等の新宗教諸教団と類似するものも多い。その他、教理の面以外で他宗派・他教団との軋轢を回避する姿勢の具体的な事例としては、例えば、苑による葬儀の執行に際し
- 故人が信者であること
- 家庭内に異議のないこと
- 家として檀家等になっている寺院や帰依している宗派がないこと
というガイドラインが設けられ、他宗派・他教団との紛争を未然に防ぐことを強調している。
なお、よく誤解されるが仏教における折伏は入信や改宗させる時の手段とは限らない。真如苑では折伏という用語ではなく「駆遣訶責」を使うが、涅槃経長寿品第4の「戒を破し正法を壊(え)す者あるを見ば、即ち駆遣、訶責、挙処(くけん・かしゃく・こしょ)すべし。もし善比丘、壊法の者見て置きて、駆遣、訶責、挙処せずば当に知るべし。是の人、仏法中の怨(かたき)なり」とあるように、ある程度信心が進んで教えを受け入れられる器(これを仏教では機根という)が整ったと経親や導き親が判断した場合は、駆遣訶責されることもある。
したがって、他宗教や未入信者、また初信者には「摂受」(=相手が理解できるまで説明する)で接するが、入信し信心が深まった人が、もし人道的・倫理的、また教えに背く言動や行いがあった場合には、このように駆遣訶責される。つまり教団における「摂受」と「折伏」の概念は、法華系宗派団体などとは異なり、折伏(駆遣訶責)はあくまでも入信した人にのみ適用される。
三つのあゆみ
仏教の修行・六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を集約したとする「三つのあゆみ」が信徒の日常の徳目として挙げられ、その実践がもとめられる。(信徒は諸々の実践・活動のことを精進といい、精進することをしばしば「あゆむ」と表現する)
「三つのあゆみ」とは、
- おたすけ(=身近な人などに入信して頂くこと)
- 歓喜(=財施。世間一般でいうお布施、献金。「かんき」ではなく「かんぎ」と読む)
- ご奉仕(=教団や他の為に自分の体を使って働くこと)
の三項目を基本とする。
「歓喜」=布施波羅蜜などではなく「おたすけ・歓喜・ご奉仕」それぞれが六波羅蜜を集約した修行であるとしている。
究極の利他行としての“おたすけ”
仏教では、布施行のなかでも、法施(仏の教えを説くこと)、無畏施(恐れや不安を除くこと)は尊いとされるが、真如苑ではそれを「お救け(おたすけ)」と呼び、究極の利他行と位置づけている。
「おたすけ」は、一般的に「信者獲得の勧誘」と認識される向きが多い。そのため、宗教に対する偏見や警戒感から、いきなり「おたすけ」しても誰も入信しない。教団や篤信の信徒もこの点をよく認識している。また、他人を入信させることで自分の霊位を向上させるという役割もあるため、信徒は頑張って周囲の人を入信させようとする。これは他の教団でも同じような手法が取られているため、一般的に外部からは信者獲得のノルマと見られやすい。また実際に信心の浅い信徒などはノルマと思いがちであることも事実である。
しかし、教団では信者を獲得するノルマという認識では「おたすけ」は成立し得ず、あくまでも個人対個人の信頼関係の上に「おたすけ」が成り立つものであるという認識を持っている。したがって霊位向上、霊能者を目指すために「おたすけ」しても、それは目的違いの本末転倒であるということに、信徒自身がいずれ気づくだろうと考えている。したがって教団では、この「おたすけ」によって、信徒一人一人が家族や周囲から自分の悪い性格や言動を指摘されるなどにより、生活や周囲に対する態度を見つめ、自分自身を変えていくきっかけになると位置づけけている。
これらのことから、教団や信徒は、「おたすけ」は短期間でできるものとは考えておらず、基本的に個人が信頼関係を構築した上でなされるという、長いスパンで「おたすけ」を行う傾向が強い。(稀に初対面の人をおたすけする場合もある)
年間費用と歓喜
必須の費用は、入信費200円、年会費(=苑費という)月200円×12ヵ月=2400円である。 その他、接心、護摩、廻向(供養)などの冥加料・献金がオプションとなる。
年間合計「数十万円」奉納する者が多いといわれ、限度額は設定されていない。
なお、1959年から「歓喜委員制度」という布施行為の制度があったが、2007年1月をもって廃止した。これは、かつて教団を去った一事務局員が懺悔し復帰したのち、その進言により1959年に設けた布施の制度である。入信後一年以上の条件付きで、1000円から受付し、毎月一定額を納め、委員の誓約をするというものであった。ちなみに、歓喜委員5000円、大歓喜委員10000円、特別大歓喜委員20000円、我浄委員30000円であった。しかし応現院が無事落慶したことから、対外的に誤解や批判を与えることになりやすいという理由などから廃止した。
歓喜については、あくまでも個人の自発的な意思によるもので強要されることはない。ただし経親や導き親と(篤信ではない)信徒との間などでは、うまく意思の疎通ができないこともあり、それによって「強要された」と受け取る教徒もいる。
ご奉仕
「ご奉仕」はいろいろあるが、早朝奉仕がよく知られる。これは1970年に一部の青年教徒の有志が早朝に集まって立川駅を清掃したものが、今日教団全体で実施され全国に広まったものである。早朝奉仕とは早朝5時から、30分~1時間程度、駅周辺など公共施設を清掃することである。現在では早朝から出勤する人も増えているが、当時はまだその時間帯は人も少なく、なるべく人目に付かないように行なうことが(陰徳を積めるので)尊いとして行われていた。またこの行為は地元への感謝や愛着に加え、釈迦の弟子で物覚えの悪かったチューラパンタカ(周利槃特)が釈迦の指導により清掃することで悟りを得たという故事に因んで行われている。
また、その他のご奉仕としては、法要の際に信徒を誘導したり整理する、トイレや精舎建物を清掃する、夜警など、教団の事務局員だけでは手が廻らない細々としたことを手伝うことなどが挙げられる。
接心(せっしん)と霊能
接心はもともと禅宗の用語で、瞑想をもって思惟することを指す。しかし真如苑ではこれに独特のニュアンスを持ち、霊能によって日常生活の態度や信心のあり方を瞑想思惟することを接心という。
具体的には、教団施設において霊能者(修行によって「真如霊界の境涯」に進展した指導者。またかつてはミーディアムと呼んだ)と対座し、瞑想、問答、思惟しながら己の精神境涯の向上を目指す。信徒は霊能者を通じてご霊言という各種指導を受け、修行や生活の指針とする。なお接心は霊能者から霊言を受けるものだけではない。霊能者を通して得る接心を有相(うそう)接心、日常生活や社会の場で実践する際に思惟することを無相(むそう)接心という。真如苑においては有相だけではなく、無相の行を社会即道場として重要視する。
他の新宗教でも霊能をもって信徒を教化する教団は多い。しかしその多くは突然、神がかり状態(いわゆるトランス状態)になり、指導する言葉も「お前は間違っている、生前の間違いによって安霊できないのだから、自身がその業を浄化しなければ救われない」などといった命令的や断定的な口調が多い。しかし真如苑における霊能は、突然の天啓によるものではなく、祖先の家系の伝承を経て教主夫妻によって結実したものであり、その霊言もあくまでもソフトであり、霊能者も完全なトランス状態ではなくあくまで意識をはっきり持っており、また信徒へ指導するにも断定的な口調はほとんどなく、「自分は間違っていない、正しい、相手が間違っているんだ、という心がありませんか?」などと、やさしく諭すような語り方が特徴である。またかつて1970年代にマスコミで話題となった占い師・田中佐和のように「青空が見えます」、「大きな橋を1人で渡っている姿が表れてきます」といった、やや抽象的なイメージをもって、信徒に思惟を促して導くのも特徴的である。
霊能といえば、普通は巫女の口寄せや、イタコ、シャーマンといった死者と交信する霊媒師と思われがちである。しかし教団では霊能といっても、巷間の死者と交信する類とは異なると説明する。教団では、草創期の頃からお互いの家系の宗教的背景から霊能は既にあったが、今のような理路整然とした霊能ではなく、たしかにその頃には巷のシャーマン的な霊能に近いもので時にはポルターガイスト現象的な事もあったという。しかし、教主夫妻が修行を畢(お)えて、大般涅槃経に邂逅し所依とし、また教導院や真導院の死去により真如霊界が完成されると、そのような世間一般的な「霊的な現象」は一切無くなり、信徒が日常生活の上で仏の教えを体現する指針を示す「霊能」にシフトしていったという。(平成2年刊「新宗教事典」弘文堂など)
なお霊能は、教団施設でしか発揮できないシステムになっているとされる。そのため主だった分派活動がほとんどないのも特徴である(ただし、大分県別府市に本部があった神光明苑の教祖である石田光蓮は、真如苑で修行したことがあるが、この教祖も既に亡くなり教団も実質的に活動していない)。
また涅槃経・四相品「善男子、我れ久しくこの大涅槃に住して種々の神通変化を示現す」等といった経文により、教法・存在・霊能という教化三原則(きょうげさんげんそく)を三位一体として、その中の霊能だけでは人を済度していけるものではく、単なる売卜(ばいぼく・うらない)になると位置づける。
接心を受けるには法要への参座など幾つかの要件が課される。なお鑑定接心などは、家の購入や仕事上の取引など、人間本位の個人的な事象について仰ぐことが往々にして多いので、無益な乱用を避けるよう指導し、あくまでも信心の基本として「歩む」向上接心を受ける事が基本的に重要とされる。
接心には、以下の種類がある
- 向上接心
- 向上相談接心
- 教化接心
- 相談接心
- 特別相談接心
- 鑑定接心
護摩と施餓鬼
護摩(ホーマ)は密教系の修法で、不動明王の法力によって、あらゆる邪気を退ける為のものであり、信徒がスムースな修行を行なうには欠かせないと、真如苑では言われている。接心において、しばしば、信仰障碍(先祖の稲荷や龍神、神道、行者、佐野厄除け大師等への、誤ったご利益的な信仰が子孫に及ぼした影響)が指摘され、その信仰障碍を緩和するために必要とされる。また屋外で行われる護摩を柴燈護摩(真言系)、あるいは採燈護摩(天台系)というが、真如苑では、ひとしく、ととのう、まとめおさめる等という字義を持つ、斉の字をあてて「斉燈護摩」(さいとうごま)と呼んでいる。¥500より。
施餓鬼とは、本来は、餓鬼界に堕ちた霊人を救済する為の法として、盂蘭盆経(ウランバナ・スートラ)という経典に説かれる法で、日本仏教においては先祖供養、水子供養等供養の1つの手段として行う。こちらも接心において、しばしば先祖等の浮かばれない状況(寒冷所、拘束、病気、けが、障害、等)が指摘され、その影響を緩和するために必要とされる。
なお、一般的に祖先の信仰の障碍(基本的には「障害」とは記さず「障碍」とする)や、祖先の浮かばれない霊などの影響を「悪影響」と言い、またそのように解釈するのが普通ではある。しかし教団ではその捉え方は一般世間と同じであっても、「悪」といった言葉などは使わない。
教師(位階)と霊位
教師(布教師)の資格である位階と、霊能者になるまでの霊位の2つがある。この2つはそれぞれ独立した基準がある修行の一過程であり、教師が霊能者であるとは限らない。また教団組織の経親ともまた異なるシステムである。
教師となるには、一定の基準を満たす信徒が育成機関「智流学院」に申請し入行する。基本的に修養科・本科・研究科の各1年ずつ、計3年間の修養を行う。履修科目は、宗教概論、仏教概論、宗教心理、教相判釈、真如教学、真如事相、特別接心、甲陽流病筮鈔、実践伝道、教制などである。これら教学の学習とともに、「三つの歩み」も基本科目として実践に励む。そして卒行(そつぎょう)を許可された院生は、審査を得て位階を与えられる。僧階は大きく、律師・僧都・僧正(りっし・そうづ・そうじょう)に分けられるが、卒行した院生は、まず「権律師」という位階(僧階、教師資格)を授与される。
得度を受けた教師は、社会即道場として一般社会・世間における修行をさらに積み、教団内で指導する立場になることから、外見上は在家ではあるが実質的には出家したに等しい仏弟子と見なされる。
また、それとは別に信者にはそれぞれの霊性の深浅によって霊位が定められ、小乗→大乗→歓喜→大歓喜→霊能と向上していくことが重要とする。霊能を磨き仏性を開発するため、信者の霊位を向上させるには、大乗会・歓喜会・大歓喜会・霊能会という4段階の相承会座(そうしょうえざ、相承とは師より法や学問を継承し、高い境涯に達すること)に参加しなければならず、これら会座に列するためには、前述の三つのあゆみの実績を満たすことが求められる。
教師はさらに実践に励み、霊位を向上させて霊能者になることを目指す。また経親となることも目標として精進する。
“お力”と“因縁”
お力とは、双親さま・両童子さまを祈り、修行の体系の実践によって得られた、結果的な霊験・救済のことで「抜苦代受(ばっくだいじゅ)」という。これらは、たとえば体験談などで「大難を小難に、小難を無難にと、お力をいただいた」と語られる。
また、努力や修行もせずに「ご利益」だけを求めて神仏に祈ることは、人間(自分)本位のご利益信仰であり、本来の信心ではなく、み仏を使いものにするものであると考える。しかし反対に、日々の日常生活の中での実践により徳積みした結果、お力をいただくこともあるとする。しかし、それはあくまでも実践の結果で福利的に与えられるもので、その(良い)結果を先に求めるのではなく、どのような結果・状況になろうとも教えを求め・貫くことが、本来の信心のあり方であると考えている。また、それらの修行は最終的に「因縁を切る」ことによって身軽になって修行を進め、さらには涅槃経に説かれる常楽我浄の境涯に到達することがその目的とされる。
ここで言う「因縁(いんねん)」とは、本人や先祖、土地の悪業に由来する影の部分、詰まり、悪因縁の事とされ、苑以外の手法では悪因縁を切ることはなかなか出来ず、救われないと説かれる。[要出典]故に、教団の修行から遠ざかることは、それらの障害に晒される結果となると考えられている。
ただ、あまりにも悪因縁が強すぎて真如苑では手に負えない、又は、在籍することが教団の利益にならないか、かえって不利益になる、と導き親や経親が判断した場合は、導き子の要望を無視したり、導き子の神経を逆なでする暴言を吐いたりして、あえて退転させる場合もある(要するに自主的に退会するように持って行く)
教えを誹謗し他を惑わせる者については、涅槃経で説かれる一闡提(いっせんだい 略して闡提、悪に染まった心を立て替えず、仏法を信じないばかりか誹謗中傷する謗法者のこと)とされる。真如苑における代表的な闡提としては以前の青年教務総長、開祖の長女、次女などがいる。
ただし、これは教団単位ではなく個人やグループ単位におけるあやふやな観念定義で、公式にはこの2人が闡提であるという直接的な明言は極力避けている。とはいえ、釈迦の実子として一に善星、二に優波摩那、三にラゴーラの例を挙げて、善星は涅槃経に説くように仏に違背し外道の信徒に近親し悪邪の心を起して阿鼻地獄に堕し、優波摩那は善星と仏のどっちつかず、そして羅ご羅だけが仏の道を全うしたという、「三子のたとえ」をもって教化したこともある。ただし真如苑では、他の法華系教団と違い、問題を起して(あるいは対立して)去った人物に対して公に激しく批判・糾弾することはない。また、教えに違背し実際的には破門扱いとなった事務局員が復帰した例などもある。それどころか、法難の首謀者については、教団でも闡提とは定義づけず、開祖は智流学院の扁額に小さく「…(法難首謀者)の懺悔を祈る」とも刻んでいる(これは信徒でも知らない人が多い)。これらのことから、釈迦に反逆した提婆達多のように、真如苑でもそういう反逆した人物については非常に微妙な存在、立場であると考えられる。
また、夭折した2人の子供(両童子)は、衆生の苦を抜くため抜苦代受したとして祀られているが、本来の仏教は個々の行為に因果の理を説くものであって、善悪の因の果報は、他人が身代わりとなって受けることは出来ない。したがって抜苦代受などは、因果を無視した「外道」(仏道以外の教え)と解釈する向きもある。このことから教義構造はむしろキリスト教に近いとする外部の見解もある。
そもそも「因縁」とは、本来は「物事の関係性-全ては相互依存する」を示す語であり、「因果の理法(縁起)」を知ることが「悟り」に繋がるわけで、つまり本来の仏教においては、因縁を切る・離れる、という概念そのものが成立しない。また「霊的な」という、原因と結果の筋道がはっきりしない関係性もまた、本来の仏教の範疇には含まれない、という指摘もある。
だが、多くの教団や霊能者は、「因縁」と言う言葉を「(切るべき)悪因縁」という意味で使い、それを「切る」には、その組織、又は霊能者に依存する他は無い、と言う。
このような見解や批判に対して、教団では以下のような説明がなされる。
両童子は生れた時から仏意を自然と体現し、またその仏意や信心の在りかたを信徒に覚らせるという、不可思議な霊的な力を具有していた(したがって教団における両童子は、単なる教主夫妻の子供ではなく、菩薩あるいは如来・仏と位置付けていると考えられる)。
また両童子が病に冒された時にもポゼスト(信仰障害霊)が現れた。その頃は信心を求めるのにも手探りの状態で、教主が(信徒のために)夏の暑い時には腕に蝋燭を立て、冬の寒い時には氷の張った水を被るなどして仏意を量っていたが、教導院が亡くなると摂受心院に教導院の霊が感応道交し霊言が発せられるようになり、信心の道すじを信徒に容易に示されるようになった。すなわちこれにより真如霊界の基礎が築かれた。
そして真導院もポゼストを背負い病に冒されるも「僕の病気は治らなくともよい、1人でも多くの人が救われることが僕は一番うれしい」、「教団の大きくなることよりも、多くの人たちが救われてほしい」と、つねに菩薩の心で信徒や周囲の人々に接しまた導いていた。また小学4年生の頃にも「さくら」という詩を発表し、散りゆく桜を仏の内証に擬えるなど、非凡な才を発揮し、その頃から抜苦代受を体現していた。しかるに真導院が死去したことで真如霊界の道すじが完成されたとする。
この抜苦代受は、教団内のみの用語であるが、これは何も突飛な考え方ではなく、仏教における慈悲を表す抜苦与楽(ばっくよらく)、獄苦代受(ごっくだいじゅ)といった、元々仏教用語として存在する言葉を変化転用させたものである。その抜苦代受の精神は仏や菩薩の究極の慈悲心の現れで、これは「維摩経」などに示される「衆生病むが故に、我(もしくは仏)また病む」という経文などから、真如霊界に在して信徒ができるだけ楽に信心が求められるように抜苦代受してくださると説明する。 また「因縁」も、他の多くの教団と同じく「悪因縁」の意を含んで使うこともあるが、「善因は善果を生み、悪因は悪果を生む」如く、教団や霊能者に依存して「切る」ものではなく、あくまでも信徒自身が信心を求める上において「三つの歩み」という六波羅蜜や、もしくは各々ができる範囲での信心によって、「(よくない)因縁」を「切る」べきものであるとする。したがって霊言はその道すじを示す指針に他ならない。
またそうした「因果律」も、祖先の信仰霊(ご利益的なもの人間的な邪心なども含む)や背後霊、また自身が知らず知らず積み重ねてきた過去の事象(ポゼスト)は、意識の奥底にある七識・末那識に潜在しているもので、普段は一般の人々には分からないものであり、「因縁を切る」というのは、それをはっきりと示して信心を求めていく道すじをいうものである、と説明する。
経(すじ)制度
導き親(紹介者である「おたすけ」をした側)と導き子(あるいは所属とも、入信した者)の連続系を経(すじ)といい、その責任者を経親(すじおや)と称する。これは、開祖夫妻である「双親さま」を教化のはじまりとするため、「双親さま」を頂点に、教化側を「親」、被教化側を「子」とする親子の擬制がとられている。 また、経制度は、信徒の管理単位となっている他、教化活動ほかの情報の伝達、各種の奠供帳(供養などの申込書)の管理なども全て親→子/子→親の流れを基本としている。
ただ、そのシステム故に導き親が遠方に転居した場合、せっかく導いた導き子が取り残され教団から離れる場合が多い問題もある。 そこで、それを補うシステムとして考え出されたのが「育て親」である。育て親の役目は、大乗以上の霊位を持ち、かつ、地域にしっかり根付いた信徒が、導き親の転居で退転の可能性がある導き子を導き親に代って歩ませてあげることである。 ただ、育て親の決定には導き親や経親の裁量も大きいが、育て親について無理解や不熱心だったり、或は退転させるべきケースだったりする場合は育て親を決めず、結果として導き子は退転に追い込まれることになる[要出典]。
他の新宗教教団も、当初は同様の親子関係をモデルとする組織構成だったが、大教団化しその拡大に伴い、地域組織化に移行し転換させた。その理由は教団として布教活動・教化育成が困難になるからである。しかし真如苑では、現在の教線発展において地域制度は導入しても、上記の理由から親子関係に擬えるので、この経制度はあえて維持していくという。
また、真如苑の教えは変わらないが、教化(きょうげ、つまり教えを指導すること)は「経親」によって異なる、と教団では説明する。つまり音楽関連の人が多い経、技術者が多い経など、そこへ集う人も似た人が集まりやすいのが特徴で、そういった特徴に合わせて教えを説くので、教化方法は経によりやや異なるものとされる。
真如苑において「権威教化・(主に男女間の)情問題・金銭問題」は三大タブーとされるが、1980年代後半に爆発的に信徒が増加した頃、これが一部の経で横行したといわれる。たとえば経親や導き親が仕事上の立場を利用して入信させたり、権威を利用して教えを説いたり、また信徒間の金銭の貸し借りなどがあった。また、教えとは直接関係のない世間的なもの(たとえばノストラダムスの大予言の一部などを引用し、真如苑の教えとこじつけて教化するなど)を経親や導き親が(方便として)教化するなど、教団内外で問題となった。今では少なくはなったようだが、一部においてこのような誤った、行き過ぎた教化がいまだに報告されることもあり、教団でも頭を痛めているといわれる。
ただし、釈迦の時代でも六群比丘のように素直に釈迦に従わなかった困った弟子もいたこと、また、他教団でも同じケースがあることから、それが教団主導であるか、もしくは教えを正しく理解しない一部の信者やグループの逸脱した違背行為であるかなどは、冷静に注視し判断することが肝要である。ただしこのような逸脱行為がたとえ一部の信者でも行われることについては、教団は甘んじて批判を受けてしかるべきと考えている。
家庭集会・地域の集い
家庭集会とは、ある程度の所属を持つ信徒が定期的に所属を集めて自らの家庭で開催する説法会のことで、同じ経の所属、あるいは同じ部会でそれに近い経の信徒も参加することもあり、読経・体験談発表・質疑応答等が行われる。 地域の集いとは、家庭集会で足りない点を解消し、その地域に在住の信徒なら経に拘束されず、誰でも気軽に参加できる集会である。
対外的活動
海外交流・社会貢献
海外交流は比較的早い時期から積極的に進めている。1966年には、真乗・友司らがタイで開かれた第八回世界仏教徒会議に出席、またそれに先だって同年、タイ・パクナム寺より仏舎利が贈与されている。なお、海外寺院から仏舎利を奉戴した例は他にもあるが、パクナム寺の仏舎利はその縁起が明らかで真性仏舎利である可能性が高く、現在まで日本国内に奉戴された仏舎利の中では覚王山日泰寺の仏舎利と並んで特に貴重なものとされる。
その後も、1967年には、真乗・友司らが宗教交流親善使節団団長として欧州を歴訪、ローマ教皇に謁見するなどしている。1970年にはハワイ巡教、1971年にはハワイに支部設立、1985年には、台湾・フランスに支部、さらに1989年にはロサンゼルスに支部を置くなど、海外に教線を延ばしている。
また教団は後年、インド・スリランカの最大仏教である大菩提会のパンニャチッサ大僧正以下、弟子方との交流により仏舎利を公式に管理するスリランカ政府を通じて三つしかなかった仏舎利のうちの一つを贈与されたほか、最大宗派にして釈尊の仏舎利「仏歯」を管理する事に務め、他宗派とは一切交流を持つことがなかったシャム・アスギリア派より、外国人としては初めて開祖に「大乗仏教栄誉哲学博士~あまねく世を照らす人~」の称号が与えられ、今後、同派は真如苑と共に仏教の啓蒙、教化活動を進めていくとの声明が発表されている。
また、他の新宗教同様に、WFP(世界食糧計画)やUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)への寄付や、ボランティア団体による活動、真如苑が母体となって設立した諸財団による社会貢献にも努めている。
当初、法難という苦い過去から、社会に対してはあまり情報を発信するなど積極的な活動を行なわなかったことや、真言密教に端を発する教団であるという一般認識などから、社会からは閉鎖的と誤解される向きもあった。しかし1980年代以降の教線の飛躍的な進展により、それを社会を還元していこうという理念が深まった。ただし、教団では社会に責任のある、人格的かつ円満な指導者を輩出していくことが第一義であり、あくまでも社会活動や貢献は第二義的である。したがって社会の安定や豊かさを目標前提としつつも、直接的に社会変革を意図することは現時点では無い。しかし教団は、今の社会から受けたものがあるので今度はそれを社会に還元していこうという理念から、ユニベール財団や伊藤国際教育交流財団などを設立するに至った。
また1995年1月17日に起った阪神・淡路大震災において地域の人々と共に多くの信徒も被災した。助かった信徒の中には建物に埋まった人を助け出した人もいる。震災当日に有志のボランティアが現地入りし、状況を把握すると共にボランティアメンバーを募集。22日より救援物資の積み下ろし、仕分け、医療班の補助についた。その後、特に避難所となっている小学校のグランドやお手洗いの清掃活動を中心に約7ヶ月間にわたるボランティア活動を行なった。また兵庫県芦屋市には(摂受心院が遷化した)関西本部があることから、重要な位置づけがなされていることもあり、この経験を通して真如苑救援ボランティアであるSeRV(サーブ)が同年2月1日付で大阪府高槻市の悠音精舎内に組織されるに至った。4月時点ボランティアの登録者は1万人を超え、自治体や被災者の要請に応え現地に派遣された。トイレ清掃は神戸市中央区の要請により開始された。また大阪市の東住吉区や西成区に住む看護士の信徒も自主的に行動し、また同じ信徒で看護士の仲間にも呼びかけボランティア活動を行なった。震災から2ヵ月間でSeRV登録者の約半数が被災地に駆けつけボランティア活動を行なった(1995年4月10日付の産経新聞夕刊「宗教・こころ」欄など)。
マスコミ対応
先述の通り、法難の苦い経験からマスコミへの対応は極力控えていた。しかし1980年代に信徒が爆発的に増加したことで週刊誌などで報じられ、またオウム関連、またその他の宗教団体の問題がクローズアップされると、それまで予想しなかった問題や様々な影響が及んだ。これにより過去の法難や所謂「お家騒動」などが誤った形で伝えられるのを避けるため、またそれだけ大きな教団となりつつある事も自覚し、開かれた教団として今後は対応していくように転じた。ただし取材に関しては短い期間ではきちんと理解してもらえず、また誤解を生む可能性もあるので一定の期間にわたって取材するジャーナリストや報道関係者に限っている。
また、その頃には多くの芸能人や有名人が真如教徒であると報じられた。ただし教団の機関紙では、それらタレントなどが体験談などを述べることなどはあっても、それはあくまでも個人的な行動で、信仰は個人の自由であるという理念を持っている。したがって誰が入信しているかなどは個人のプライバシーもあり公表はしていない。ただし本人が公式に認める場合は別とする。とはいえ相当数の有名人が入信していることは確かで、信徒間でも噂になることもある。一説には、多くの著名な学者や芸術家・人間国宝・芸能人も多いといわれる。また長らく俳優として有名だった人などが事務局員になった例もある。しかし個人のウェブサイトやブログなどで流れている有名人の名前が挙げられているが、出任せや既に退会している人物も多く、必ずしも信用できる内容ではない。
こうした有名人を広告塔として勧誘・布教に使うのは新宗教にありがちであるが、真如苑においても一部の信徒によってはこうした手法を使う人がいることは否めない。ただしこれは経親や導き親の指導教化、またモラルやマナーに任せているので、浅学の信徒などが目に見えないところでよく使う手法であるとされる。ただしそれは相手の機根(性格や教えを聞ける器など)にあわせて「布教」するので、その相手や場合によっては間違いではない。とはいえ、基本的に真如苑の教えを正しく説明する事を以って布教し導くことが肝要とされるのは言うまでもない。
政治関連
基本的には政治思想や信条はあまり強くない。またかつては福田赳夫元首相(一部に信者説もある)などが教団の法要に参座したり、他教団と同じく祝辞を述べられる事もあったが、その頃は政治的な活動はあまり多くなかった。しかしマスコミによる報道が過熱した頃から、関係各方面から注目されるに至り、布教活動や教団施設の建設などに影響が及び始めたことから、そうした対応を迫られるようになった。
現在では、特定の政党は支援しないものの、真如苑の教えや立場を理解してその活動をサポートする個々人の政治家に対しては応援している。なお、これは世間的に政治家を応援する義理心情的なものと同じで、お世話になった議員に対するお返しであると位置付けられている。また数人の信徒が、立川市などで立候補して当選し議員として活動しているともいわれる。教団としては表立って応援はしないが信徒単位で応援組織を形成しているともいわれる。ただし今のところは、公明党のような政治組織を形成する意思は見られない。
ただし、真如苑が政治と関わるのは、前述の通り現実面から仕方のない部分もあるとはいえ、あまり好ましいとはいえないという意見を持つ信徒も存在する。
仏像・落札
2008年3月25日、ニューヨーク・オークションに出品された、運慶作と言われる「木造・大日如来坐像」を1280万ドル(約12憶8000万円)で落札した事を文部科学省にて会見し、公表した。
「強い仏縁を感じ落札を決めた。(大日如来坐像を)未来に伝えていく責任があり、その為の調査には協力したい」として、像内に収められている木札や水晶の調査・国重要文化財指定への協力を示唆した。「立川市と武蔵村山市にまたがる敷地に建設する新施設にて公開する。施設完成までの5~10年間は、東京国立博物館に寄託する方向で調節している」としている。
真如苑の位置づけ - 新宗教か否か
真如苑が新宗教や新興宗教であるか?という見方や議論がある。しかしその前に、新宗教や新興宗教という用語にどのような観念があるかは人によって、あるいは使い方によってまちまちであり、その用語の概念や観念が一定ではないことを注意しなくてはいけない。
教団成立は早く見ても、真言宗醍醐派・立照閣の1936年、遅く見れば宗教法人認証の1953年であり、おおむね江戸時代以降に興きた宗教とするならば、間違いなく新宗教である。この点は真如苑でも公式に認めている。しかし伝統仏教の正統な法流を汲んでいることや、開祖夫妻に宗教的背景が元々あり、突然の天啓や神がかりによる典型的な開教ではないことなどから、淫祠邪教といわれる侮蔑的な意味での「新興宗教」と類されることは、真如苑は否定している。
新宗教の中には伝統仏教の諸宗派に属していた者が開いた教団も少なくない。しかし真如苑の開祖・伊藤真乗の場合に特徴的なのは、一僧侶や修行者ではなく、真言宗醍醐派総本山醍醐寺において得度・修行し、同派において大阿闍梨(マハー・アーチャーリャ:大会(だいえ)の導師や灌室を開くことのできる阿闍梨。師・先生の意。弟子の行為を正し、その師範をなる徳の高い僧のこと。特殊の場合としては授戒の師を指すが、のち日本では僧職の一に用いる)の位を得ていたことである。真如苑では恵印灌頂と伝法灌頂の二つの灌頂を得たことで、醍醐寺・座主になることもできたが、敢えてその道を選ばず、真如苑という宗派を開くことが公的に認められた(免許皆伝)と説明している。
また、開祖・伊藤真乗から実の娘の真聰へと受け継がれていることに世襲制ではないかという批判があるが、開祖である教主夫妻及びそれぞれの家系に宗教的な背景があり、それをまた同じく厳しい修行をした真聰が受け継ぐのは当然であると考える、と公的に世襲制を認めている。
なお、立正佼成会の庭野日敬氏の強い勧めから、一時期、新宗連(新日本宗教団体連合会)に加盟していた時期もあるが、諸般の理由により離脱し、現在は加盟していない。
血脈相承と新しい法流
前出の通り、真如苑は真言宗の法脈を受け継いでいるとする。これに対し日蓮を本仏とする宗派などから「大日如来を根本仏とする真言宗の血脈(けちみゃく)を相承したと主張するのに、釈尊を根本仏として涅槃経を所依とし涅槃像を祀るのは矛盾する」等という批判もある。
これに対し教団では、大阿闍梨となって真言密教の法脈を相承するも、出家・在家、また順縁・逆縁も問わず、すべての人が救われる教えを、なおまだ模索してついに涅槃経に邂逅し所依とするに至った、と極めて端的に説明する。
教団ではこれ以上の説明をあまりしないため、そのような批判もされるが、真如苑の場合は真言密教の法脈を窮(きわ)め大阿闍梨となった。したがって修行途中の僧侶が宗派を開くのとは異なり、これは宗教界における暗黙のルールとして免許皆伝を与えられたもので、大阿闍梨は仏意を感得して既存の教義などに頼らずとも新しく教義・本尊などを定めて教えを創始することができる、と捉えている。
たしかに真言宗は釈尊ではなく大日如来を根本仏とするが、その大本を辿れば畢竟して仏教を開いた釈尊に行きつく。また真如苑に批判的な立場の宗派でも五時教判の方等時に、大日如来が説いた大日経や金剛頂経を配している。密教では経典の表面に表れた文字だけに頼らず口伝を尊ぶという側面も持ち合わせる。したがって、そこに開祖が仏意を感得したものと見ることもできる。
これらの諸般を鑑みると、真如苑では真言宗の血脈を相承しつつも、それとはまた異なる教えを創始したと捉えることができる。開祖は、祖山醍醐寺で修行してすべてを畢(お)えたとはいえ、開祖のもとに多くの在家信徒が集い醍醐派の活動とは別に既に独自の活動を行っていたため、より実践的な救いを優先したものと考えられている。また既存の教えに加え、現代の世情に即応した在家を中心とする教えを新しく開いたものであり、顕教・密教問わず、すべての法流を最終的に帰一させるという涅槃経を以って釈尊に立ち帰り根本の仏とした、という見解もある。
なお、開祖が新しい法脈を創始したことに関し、醍醐寺・岡田宥秀門跡は「従来の東密、台密に加え、新しく真如密が加わった」と評した。また1984年に、醍醐寺からの要請により金堂において開祖の導師による弘法大師御入定一千百五十年御遠忌法要が執行され、さらに1997年には、開祖の浄行を荘厳するため、醍醐寺境内に真如三昧耶堂を建立している。これらのことにより、新しく真如三昧耶流が創始されたことを表しているという。
参考文献
- 石井研士『理想』-世俗社会における仏教の可能性(理想社、1986年2・3月合併号)
- 立井啓介対談集『夢はゆめ色』(清水弘文堂、1987年) 絶版
- 詩人で非信者である著者が教団の信徒である各界著名人との対談した本。立川商工会議所発行の月刊誌『とぅもろぅ』に連載された対談をカットせず、ほぼオリジナルな形で再収録。
- 山口富夫『真如苑 常楽我浄への道』(知人館、1987年) 絶版
- 幻想的共同体論をメインテーマとする著者が、初めて真如苑を内部取材したルポルタージュ。
- ひろたみを『ルポルタージュ真如苑-その現代性と革新性をさぐる』(知人館、1990年) 絶版
- フリージャーナリストである著者が、山口富夫氏の本に反発し、まこと教団事件や長女・次女問題などの教団事件史も加え教団を内部取材。
- 桜井秀勲『かっぽう着の法母(上・中・下)』(学研、1990年) 絶版
- 三土修平『水ぶくれ真如苑―急成長の秘密と欺瞞の構図』(AA出版) 絶版
- 経済学を教える著者はその傍ら東大寺にて得度。その視点で徹底した批判を展開した論評。現東京理科大学教授。
- 毎日新聞社『ブッダ最後の教え 真如苑-涅槃経に生きる人びと』(毎日新聞社)
- 毎日新聞社によるグラフ。
- 本多順子『真如苑―祈りの世紀へ』(原生林)
- 3年間にわたる取材を経た著者が、自身のこころに重ねて綴る異色のルポルタージュ。
- 秋庭裕、川端亮『霊能のリアリティへ―社会学、真如苑に入る』(新曜社)
- 社会学者が、真如苑のインタビューと統計調査を踏まえて書いたレポート。
- 芳賀学、菊池裕生『仏のまなざし、読みかえられる自己 - 回心のミクロ社会学』
- (ハーベスト社、2007年1月)ISBN 9784938551926
- 青年部弁論大会の詳細な記述と分析を通し、弁論=「自己の物語」を語ることにより、一人一人の信者がどのように回心の過程を辿っていくのかを描いている。
- 奈良康明ほか『真乗 心に仏を刻む』(中央公論新社、2007年)
- インド仏教文化専攻の文学博士であり、駒沢大学で教授・学長を務めた著者などによるドキュメント。
制作番組
関連項目
外部リンク
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- 教団をサポートする一如社
- 災害時などのボランティア団体SeRV(真如苑救援ボランティア)
- 写真美術館清里フォトアートミュージアム
- 老人福祉を主業務とする財団法人ユニベール財団
- 外国人留学生援助を主業務とする伊藤国際教育交流財団
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