仏舎利
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仏舎利(ぶっしゃり)とは、入滅した釈迦が荼毘に付された際の遺骨及び棺、荼毘祭壇の灰塵を指す。
「舎利」は遺骨または遺体を意味する梵語シャリーラ(śarīra)の音写(śarīra शरीरの本義は単に「肉体」の意で、英語body同様に死体も指す)。また、仏舎利と舎利は日本に於いてしばしば同義語で、「舎利」と言うことで聖者や釈迦のそれを他と区別する。[1]
ちなみに寿司で言う「シャリ」(飯/酢飯)の語源との説もあるが、これは誤り。詳しくは寿司#用語を参照。
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[編集] 歴史
釈迦入滅の地クシナガラの統治部族マウラ族は当初仏舎利の専有を表明し、仏教を国教とする周辺国との間に仏舎利を巡って争いが発生する事態となったが、結果として8等分され、それに、容器と残った灰を加えて周辺内外の10か所の寺院に奉納された。
200年の後、インドの敬虔な仏教徒であったマウリヤ朝のアショーカ王はインド統一を果たした後、全国8個所に奉納されていた仏舎利のうち7か所の仏舎利を発掘し、遺骨は細かく粉砕しひと粒ひと粒に分け、灰塵は微量づつに小分けする作業を行って、最終的に周辺国も含めて8万余の膨大な寺院に再配布を実施した。
仏教が後年に伝来する中国では、多くの僧が仏舎利の奉納されたインドやタイに赴き、仏舎利の収められたストゥーパ(仏舎利を納骨する円すい形の仏塔。日本の卒塔婆のモデルであり語源である)の前で供養した宝石類を「仏舎利の代替品」として持ち帰り、それを自寺の仏塔に納めた。この宝石を仏舎利の代用として奉納する手法は古くから日本でも行われてきた。
[編集] 日本
日本への仏教伝来は538年とも552年とも伝えられており、このとき仏像や経典が渡来したとあるが、舎利についての記述はない。
『日本書紀』には、推古元年正月15日(西暦593年)に、「仏の舎利を以て、法興寺の刹の柱の礎の中に置く」とある。 1956年、飛鳥寺周辺の発掘調査により、法興寺(または元輿寺)の遺構が現れた。そして今は失われた仏塔の芯礎から、木箱に収められた舎利容器が発見された。舎利は593年に芯礎に安置されたが、完成した仏塔は1196年に落雷のため焼失した。舎利は翌年いったん掘り出され、新しい舎利容器と木箱に入れて、ふたたび芯礎部分に埋めたものという。
飛鳥時代には法興寺、斑鳩寺(現在の法隆寺)、現在の四天王寺など、立派な仏塔を備えた寺院が建立されているが、これらの仏塔は仏舎利を祭るものである。
『日本書紀』はまた、推古30年7月(西暦623年)に新羅の真平王が仏像・金塔・舎利などを贈ってきたとある。この舎利は四天王寺に収められたとされている。
初期仏教では仏法(教え)を貴び、またインドの慣習儀礼に基づき像を造ることがなかったので、仏舎利が唯一具体的な形を持った信仰対象となっていた。しかし日本へ伝来したときは最初から仏像があったので、仏舎利とそれを祭る仏塔は必ずしも信仰の中心ではなかった。
754年に鑑真が仏舎利を携えて来日しているが、806年に空海らが真言密教とともに大量の仏舎利を持ち帰った。以降、日本において仏舎利信仰が再燃し、仏塔だけでなく舎利容器に収めたものを室内でも礼拝するようになる。
江戸時代の鎖国、明治の廃仏毀釈などで海外との交流は途絶えるが、明治末期の1900年以降、スリランカ、タイなどの上座部仏教圏との交流から仏舎利を贈与された例がいくつかある。
[編集] 真贋
仏舎利については不可思議な伝承が多く、
- 「仏舎利を奉戴するに相応しくない者が持てば消滅する」
- 「仏舎利奉戴に相応しい者が持てば数も増え、大きくなったり、変色したりする」
といった、信心の深さによって変化が現れると言われる。この伝承が、宗教団体法の華三法行を主催した福永法源が「真性仏舎利を奉戴した後、超能力で100個に増えた」と言ったことからも分かるように、「仏舎利が増えるならビジネスになる」という悪智慧の温床にもなってしまっている。一説には、現在アジア全土に自称仏舎利の合計は2トン[2]にも達するという。
仏舎利は、釈迦の遺骨・灰塵である真性の仏舎利のほか、宝石等による代替仏舎利が、時を経るごとに混乱して真・代いずれが何処の寺院に奉納されているのかが不明瞭になっている。そのため後年スリランカ政府が実態を調査し、回収可能なものは回収するなどして管理している。 現在スリランカ政府は「仏舎利は金銭(布施)による取引で贈与することはなく、奉戴するに相応しい寺院団体を審査のうえで選出し、贈与している」としている。
考古学的に本物の釈迦の遺骨とされるものは、1898年にインドで発掘されたものであり、これは当時インドを支配していた英国からシャム国(現在のタイ王国)に譲渡されている。その一部はシャム国王ラーマ5世から日本国民へ贈られ、それを納めるために創建されたのが覚王山日暹寺(現在の覚王山日泰寺)である。
[編集] 仏舎利崇敬の是非
釈迦は晩年、弟子らに対して「総てのものには必ず終わりがある/私の亡き後は私の遺した教えが皆の拠り所である。怠らず弁ぜよ」と語り、諸行無常は必然とした上で、教義の伝承を最重要と説いていることから、後代の解釈では、物として実在する仏舎利を過度に崇拝崇敬することは釈迦の意向から逸脱している、と考える向きもある。
しかしながら、南伝の上座部仏教においては、上記で説明される通り、まぎれもなく仏舎利を信仰の対象としていた。
また、北伝の大乗仏教においても、仏舎利は法身や仏性と同義と解釈する。涅槃経には以下のように説く。
もし法身舎利(経典、つまり涅槃経を意味する)を尊重せんと欲すれば、便(すなわ)ち諸仏の塔廟を礼敬すべし。所以(ゆえん)は如何(いかん)。諸の衆生を化度せんと欲するが為の故なり。また衆生をして我が身中に於いて、塔廟の想(おもい)を起こして礼拝・供養せしむれば、是の如きの衆生、我が法身をもって帰依処となす。一切衆生、皆、非信邪義の法に依る。我れまさに次第して、為に真法を説くべし。また非真僧に帰依する者あらば、我れ当に依真僧処と作るべし。もし三帰依を分別(ふんべつ)する者あらば、我れ当に為に一帰依処と作り、三差別無かるべし。生盲の衆に於いて為に眼目と作り、また当に諸の声聞・縁覚の為に真帰処と作るべし。
– 『大般涅槃経』如来性品第十二(南本)
このように、仏塔や仏像を創設し、その中に宿る仏性を見つめていくことで、仏の世界へ近づくことが出来るという解釈が成立していることから、仏舎利への敬慕信仰という思想自体も正道から外れたものではない、と考える向きもある。