四天王寺
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四天王寺 | |
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中心伽藍回廊 |
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所在地 | 大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18 |
位置 | 北緯34度39分14.04秒 東経135度30分59.22秒 |
山号 | 荒陵山(あらはかさん) |
宗派 | 和宗総本山 |
本尊 | 救世観世音菩薩 |
創建年 | 推古天皇元年(593年) |
開基 | 聖徳太子 |
別称 | 金光明四天王大護国寺 |
札所等 | 聖徳太子霊跡1番 新西国三十三箇所1番 近畿三十六不動尊1番 法然上人二十五霊跡 6番(六時堂) 西国薬師四十九霊場16番 摂津国八十八箇所25番 西国三十三箇所番外 ほか |
文化財 | 紙本著色扇面法華経冊子5帖他(国宝) 六時堂、絹本著色両界曼荼羅図他(重要文化財) 八角亭(登録有形文化財) |
四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区にある寺院。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音(ぐぜかんのん)である。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいう。
『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されている。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。宗派はもと天台宗に属したが、日本仏教の祖とされる聖徳太子建立の寺であり、「日本仏教の最初の寺」として、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に和宗総本山として独立宣言を出している。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 『日本書紀』に見る創建の経緯
四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。その草創については『日本書紀』に次のように記されている。
用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだとりで)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。聖徳太子こと厩戸皇子(うまやとのみこ、当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の形を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという。(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった。)
以上が『書紀』の記載のあらましである。聖徳太子の草創を伝える寺は近畿地方一円に多数あるが、実際に太子が創建に関わったと考えられるのは四天王寺と法隆寺のみで、その他は「太子ゆかりの寺」とするのが妥当である。
四天王寺の伽藍配置は中門、塔、金堂、講堂を南から北へ一直線に配置する「四天王寺式伽藍配置」であり、法隆寺西院伽藍(7世紀の焼失後、8世紀初め頃の再建とするのが定説)の前身である「若草伽藍」の伽藍配置もまた四天王寺式であったことはよく知られる。
[編集] 異説
当初の四天王寺は現在地ではなく、摂津の玉造(大阪城付近)の岸辺にあり、593年から現在地で本格的な伽藍造立が始まったという解釈もある(森之宮神社の社伝では、隣接する森之宮公園の位置に「元四天王寺」があったとしている)。
また、山号の「荒陵山」から、かつてこの近くに大規模な古墳があり、四天王寺を造営する際それを壊したのではないかという説もある。四天王寺の庭園の石橋には古墳の石棺が利用されていることはその傍証とされている。
大阪にある帝塚山古墳は、「大帝塚山」「小帝塚山」地元で称されているものがあり、現在一般的に帝塚山古墳と呼ばれているのは「大帝塚山」である。その大帝塚山は、別名荒陵とも呼ばれていた。なお、小帝塚山は、住吉中学の敷地内にあったと言われている。
また、東高津神社は、仁徳天皇の皇居であるとする明治31年(1898年)の大阪府の調査報告などがあることから、歴代天皇のいずれかの皇居であったのではないかという説もある。
なお、20世紀末から「日本仏教興隆の祖としての『聖徳太子』は虚構であった」とする言説が盛んになり、『書紀』の記述に疑問を呈する向きもある。[1]また、上記の『書紀』の記述とは別に、四天王寺は渡来系氏族の難波吉士(なにわのきし)氏の氏寺であったとする説もある。[2]
[編集] 四箇院
伝承によれば、聖徳太子は四天王寺に「四箇院」(しかいん)を設置したという。四箇院とは、敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4つである。敬田院は寺院そのものであり、施薬院と療病院は現代の薬草園及び薬局・病院に近く、悲田院は病者や身寄りのない老人などのための今日でいう社会福祉施設である。施薬院、療病院、悲田院は少なくとも鎌倉時代には実際に寺内に存在していたことが知られる。 施薬院は、後に聖徳太子が勝鬘経を講じられた地でもあり、「勝鬘院(愛染堂)」とも呼ばれるようになった。四天王寺の勝鬘院(愛染堂)が故地と伝えられている。
[編集] 平安時代以降
法隆寺が飛鳥・奈良時代にさかのぼる建築や美術工芸品を多数残すのに対し、四天王寺はたび重なる災害のため、古い建物はことごとく失われている。早くも平安時代の承和2年(836年)には落雷で、天徳4年(960年)には火災で主要伽藍が失われている。
聖徳太子は日本仏教の祖として、宗派や時代を問わず広く信仰されてきた。太子の創建にかかる四天王寺は、平安時代以降、太子信仰のメッカとなった。また、四天王寺の西門が西方極楽浄土の東門(入口)であるという信仰から、浄土信仰の寺としての性格も加えていった。太陽の沈む「西」は死者のおもむく先、すなわち極楽浄土のある方角と信じられ、四天王寺の西門は西方の海に沈む夕陽を拝する聖地として、多くの信者を集めた。現在も寺に伝わり国宝に指定されている「四天王寺縁起」は、こうした信仰を広めるのに大いに力があった。「四天王寺縁起」は伝承では聖徳太子の自筆とされ、寛弘4年(1007年)、金堂内で発見されたとするが、実際には後世の仮託で、「発見」時からさほど隔たらない平安時代中期の書写とするのが通説である。既述の「四箇院」のこともこの「縁起」に見えるものである。
院政期の上皇や法皇は四天王寺にしばしば参詣した。後醍醐天皇は上述の「四天王寺縁起」を自筆で筆写し、巻末に手印を捺している(これは「後醍醐天皇宸翰(しんかん)本縁起」として現存し、国宝に指定されている)。平安~鎌倉時代の新仏教の開祖である天台宗の最澄、真言宗の空海、融通念仏の良忍、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍などが四天王寺に参篭したことも知られている。
四天王寺は近世以降もたびたび災害に見舞われた。天正4年(1576年)には石山本願寺攻めの兵火で焼失。豊臣秀吉によって再建されるが、やがて慶長19年(1614年)大坂冬の陣で焼失。この時は江戸幕府の援助で再建される。しかし、幕末の享和元年(1801年)の落雷でまたも焼失。文化9年(1812年)に再建される。この時の伽藍が近代まで残っていたが、1934年の室戸台風で五重塔と中門が倒壊、金堂も大被害を受けた。五重塔は1939年に再建されるが、数年後の1945年、大阪大空襲で他の伽藍とともに焼失。現存の中心伽藍は第二次世界大戦後の1957年から再建にかかり1963年に完成したもので、鉄筋コンクリート造である。
[編集] 伽藍
- 中心伽藍-仁王門、五重塔、金堂、講堂からなる中心伽藍は第二次世界大戦後に再建された鉄筋コンクリート造建築だが、日本の飛鳥時代、高句麗、六朝などの建築様式を加味して創建当時(6世紀末)の様式に近付けようとしたものである。設計は建築史家藤島亥治郎(がいじろう)。金堂本尊は江戸時代の史料には「如意輪観音」とするものが多いが、現在は「救世観音」とされている。
- 五重塔 - 初代は593年建立、現在あるものは1959年建立の八代目
- 聖霊院 - 中心伽藍の東に位置する一画で、「太子殿」とも言い、聖徳太子を祀る。中心伽藍は鉄筋コンクリート造だが、この一画は木造建築である。中心にはそれぞれ聖徳太子像を祀る太子殿前殿と同奥殿がある。奥殿は1979年の完成で、一見法隆寺夢殿に似ているが、夢殿の平面が八角形であるのに対し、この建物の平面は完全な円形である。また、絵堂(1983年完成)には杉本健吉筆の聖徳太子絵伝壁画がある。
- 六時堂(重要文化財) - 1623年建立。椎寺薬師堂を移建したもの。中心伽藍の背後に位置する。堂の手前の「亀の池」の中央にある石舞台は「日本三舞台」の一つとされ国の重要文化財である(他2つは、住吉大社の石舞台、厳島神社の平舞台)。この舞台では毎年4月22日の聖霊会(しょうりょうえ、聖徳太子の命日法要)の日に雅楽が終日披露される。四天王寺の雅楽は、宮中(京都)、南都(奈良)と共に三方楽所とされた「天王寺楽所」によって伝えられ、雅楽の最古の様式を持ち、現在は「雅亮会」が伝統の様式を継承している。
- 五智光院(重要文化財) - 1617年、徳川秀忠による再建。
- 本坊方丈(重要文化財) - 1617年、徳川秀忠による再建。
- 元三大師堂(重要文化財) - 江戸時代初期建立。
- 石鳥居(重要文化財) - 中心伽藍の西側、西門のさらに外に立つ。永仁2年(1294年)、それまでの木造鳥居を石鳥居にあらためたもので、神仏習合時代の名残である。鳥居上部に掲げられた額には「当極楽土 東門中心」とあり、ここが極楽の入口であるとの意である。ここは西の海に沈む夕陽を拝して極楽往生を念じる聖地であった。
この他、境内には重要文化財の本坊西通用門をはじめ、大黒堂、英霊堂など多くの堂宇が点在する。
[編集] 文化財
[編集] 建造物
- 重要文化財(国指定)
- 「四天王寺 六時堂」
- 「四天王寺 本坊西通用門」
- 「四天王寺 本坊湯屋方丈」
- 「四天王寺 五智光院」
- 「四天王寺 元三大師堂」
- 「四天王寺 石舞台」
- 「四天王寺鳥居(附 左右玉垣)」 - 1294年建立、嘉暦元年(1326年)の銘
他に旧国宝建造物の東大門があったが、第二次大戦時に焼失している。
- 「四天王寺八角亭」(四天王寺本坊庭園内):第5回内国勧業博覧会(1903年)の待合所
[編集] 美術工芸品
- 国宝
- 「紙本著色扇面法華経冊子5帖(九十八葉)」 扇形の紙で製本した冊子に極彩色の下絵を描き、金銀の切り箔で飾った上に法華経を書写したもの。平安時代の絵画、書跡資料として貴重なもの。
- 「懸守」(かけまもり)女性が首から掛けたアクセサリーで平安時代の作品。7点現存する。
- 「七星剣」伝世上古刀の優品。東京国立博物館に寄託。
- 「丙子椒林剣」同じく伝世上古刀の優品。東京国立博物館に寄託。
- 「四天王寺縁起 根本本 後醍醐天皇宸翰本」説明は本記事の「起源と歴史」の項参照。
- 「金銅威奈大村骨蔵器」京都国立博物館に寄託。
- 重要文化財(国指定)
- 「絹本著色聖徳太子絵伝(附 紙本墨書元亨三年旧裏書(六通))」
- 「絹本著色両界曼荼羅図」
- 「板絵著色聖徳太子絵伝 伝狩野山楽筆(旧絵堂壁画)(附 板絵著色同絵伝)」
- 「金銅観世音菩薩半跏像」
- 「銀製鍍金光背(舟後光)」
- 「千手観音及二天箱仏(伝僧空海作)源満仲護持仏」
- 「舞楽面 納曾利、陵王」
- 「木造阿弥陀如来及両脇侍像」
- 「木造阿弥陀如来坐像」-和歌山県有田郡広川町の明王院旧蔵。
- 「木造毘沙門天立像」-高知県香美郡香我美町の恵日寺旧蔵。
- 「木造薬師如来坐像」和歌山県有田郡広川町の明王院旧蔵。
- 「四天王寺舞楽所用具」
- 「漆皮箱(附 茜染綾)」
- 「舎利塔(附 金銅容器)」
- 「銅鏡 花鳥文様アリ」
- 「鳴鏑矢」
- 「細字法華経(一部)」
- 「十七条憲法」
- 「塵地蒔絵経箱」
- 「日本書紀神代上巻断簡(紙背性霊集)」
- 「摂津四天王寺境内出土瓦」
- 「摂津四天王寺講堂阯出土品」
- 重要無形民俗文化財(国指定)
- 「聖霊会の舞楽」 四天王寺聖霊会の舞楽は、天王寺楽所の舞楽の伝統をひき、日本最古の様式を伝えるとされる。天王寺楽所は、宮中楽所(京都)、南都楽所(奈良)と共に三方楽所と呼ばれた。
[編集] 名所・旧跡
[編集] 札所
- 新西国三十三箇所観音霊場第1番
- 西国三十三観音霊場番外札所
- 四国八十八箇所番外札所
- 近畿三十六不動尊霊場第1番
- 摂津国八十八箇所第25番
- 摂津国三十三所霊場第33番
- 西国薬師四十九霊場第16番
- 聖徳太子霊跡第1番
- 法然上人二十五霊跡第6番(六時堂)
- おおさか十三佛霊場第4番
- 大阪七福神霊場(布袋尊)
- 河内飛鳥霊場第1番
- 西山国師十六霊場客番札所
- なにわ七幸めぐり第七の幸
- 大坂三十三所めぐり第20番(六時堂)
- 大坂三十三所めぐり第21番(経堂)
- 大坂三十三所めぐり第22番(金堂)
- 大坂三十三所めぐり第23番(講堂)
- 大坂三十三所めぐり第24番(万燈院)
[編集] 交通
[編集] 周辺情報
[編集] 参考文献
- 井上靖、佐和隆研監修、宮本輝、出口常順著『古寺巡礼西国3 四天王寺』、淡交社、1981
- 『週刊朝日百科 日本の国宝』33号(住吉大社・四天王寺・大念仏寺)、朝日新聞社、1997
- 『日本歴史地名大系 大阪府の地名』、平凡社
- 『角川日本地名大辞典 大阪府』、角川書店
- 『国史大辞典』、吉川弘文館
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 注
- ^ 『日本書紀』に伝えるような従来の聖徳太子観を否定した論書としては、大山誠一『<聖徳太子>の誕生』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー、1999年)、谷沢永一『聖徳太子はいなかった』(新潮社 新潮新書、2004年)などがある。
- ^ 難波吉士氏寺説については、以下の文献・サイトを参照。
- 田村圓澄『飛鳥・白鳳仏教史(上)』、吉川弘文館、1994年、pp238 - 246
- 聖徳太子ゆかりの寺>四天王寺
- 神奈備>四天王寺と中山寺