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蘇我氏 - Wikipedia

蘇我氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

蘇我氏(そがのうじ、宗賀、宗我)は、古墳時代から飛鳥時代6世紀 - 7世紀前半)に勢力を持っていた氏族。(おみ)で、代々大臣(おおおみ)を出していた有力豪族。

目次

[編集] 表記

[編集] 概要

『古事記』や『日本書紀』では神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰(たけしうちのすくね。たけのうちのすくね)を祖としているが、具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目(そが・の・いなめ)からで、それ以前に関してはよく分かっていない。

河内の石川 (現在の大阪府の石川流域、人によっては詳細に南河内郡河南町一須賀あたり)、あるいは葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)を本拠にした土着の豪族であった、または(系譜に現れる名前などから)その地に定住した渡来人であった、などの説があるがいずれも定かではない。『新撰姓氏録』は蘇我氏を皇別(歴代天皇から分かれた氏族)に分類しているが、現在ではほとんど支持されていない。

蘇我氏自身の出自はともかく、渡来系の氏族と深い関係にあったのは確かなようで、王権の職業奴属民としての役割を担っていた渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられている。また、仏教伝来した際にそれをいち早く取り入れたのも蘇我氏であったとされる。これは、朝廷の祭祀を任されていた姓の物部氏中臣氏を牽制する為の目的も有ったと推察される。

6世紀後半には今の奈良県高市郡近辺を勢力下においていたと思われる。蘇我氏が政治の実権を掌握した時代から、その地域に集中的に天皇の宮がおかれるようになったことからもそれがうかがえる。

[編集] 全盛期

稲目の代になると、過去に大臣を出していた葛城氏平群氏は既に本宗家の滅亡により勢いをなくしており、蘇我氏は大連大伴氏物部氏にならぶ三大勢力の一角となり、やがて大伴金村が失脚すると、大連物部尾輿)と大臣の蘇我(稲目)の二大勢力となる。また、過去の葛城氏や後の藤原氏同様、娘蘇我堅塩媛、小姉君を欽明天皇に嫁がせることにより天皇家の外戚となっていく。(馬子の本居(ウブスナ)が葛城県だったことから、稲目の妻は葛城氏の出で、その血統に連なることにより、天皇へ妃を輩出出来る一族に連なったとする説もある。)

稲目は欽明天皇とほぼ同時期に没し、二大勢力の構図は次代の蘇我馬子(そが・の・うまこ)まで引き継がれるが、用明天皇没後に後継者をめぐる争いがあり、小姉君の子ながらも物部氏に擁立されていた穴穂部皇子を暗殺し、戦いで物部守屋を討ち滅ぼすと、その後は大連に任じられる者も出ず、政権は蘇我氏の一極体制となる。ここから馬子による崇峻天皇の暗殺や推古天皇への葛城県の割譲の要求、蝦夷(えみし)による天皇をないがしろにするふるまい、蘇我入鹿(そが・の・いるか)による上宮王家(山背大兄王)の討滅、境部摩理勢の失脚などの専横ぶりが伝えられ、三代にわたって権力を欲しいがままにしたとされている。だが、馬子の死後に蘇我氏に対する皇族や諸豪族の反感が高まって蘇我氏の政治基盤が動揺して、それを克服しようとして入鹿による強権政治に繋がったという見方等『日本書紀』等による蘇我氏に否定的な記述に対する反論もある。結局645年中大兄皇子中臣鎌足らのクーデター(乙巳の変)によって、入鹿が暗殺され、蝦夷が自殺するとその勢力は大幅にそがれた。

[編集] 大化の改新から壬申の乱まで

しかしながら、この政変はあくまでも蝦夷を嫡流とする蘇我氏宗本家の滅亡を意味し、クーデターには、傍流とされた蘇我倉麻呂(蝦夷の弟)の子、蘇我倉山田石川麻呂も中大兄皇子の協力者として関わっており、石川麻呂はこの後右大臣に任じられ娘の遠智娘姪娘を中大兄皇子の后にしている。石川麻呂は649年に冤罪で自害し、讒言した弟の蘇我日向は大宰府に左遷(口封じとの説がある。)させられたが、他の弟、蘇我赤兄蘇我連子天智天皇の時代に大臣(赤兄は左大臣。連子ははっきりは分からないが、右大臣と推定されている。)に任じられており、蘇我氏は一定の地位を保持している。

しかし、彼らの栄光も長続きはせず、連子は天智天皇の正式な即位を見ないまま死去、赤兄ともう一人の弟、、蘇我果安壬申の乱大友皇子につき、敗れてそれぞれ流罪自害となった。その甥で、連子の子である蘇我安麻呂は、天武天皇の信任が厚かったために蘇我氏の後を継ぎ、石川朝臣の姓氏を賜った。このように、乙巳の変後も倉麻呂の息子達が政治の中心的立場になおとどまったが、相次ぐ政争でさらに衰退しながらも連子の系統のみがしばらく続く事になる。

[編集] 石川朝臣

石川氏は飛鳥時代末期から奈良時代においても、その血を引いた天皇(持統天皇元明天皇。それぞれ石川麻呂の娘、遠智娘姪娘が母。)を出した。しかし、その一方で蘇我赤兄の外孫である山辺皇女が持統天皇に排除された夫の大津皇子に殉死したり、文武天皇の妻の一人で、血縁者と言われている石川刀子娘が天皇崩御後、某男との関係を持った事からその身分を剥奪され、子の広成皇子・広世皇子も連座して皇族の身分を剥奪される暗い事件も起きている。また、同じ赤兄の外孫である穂積皇子万葉集によれば、但馬皇女との密通がばれて左遷されていたという。穂積は持統崩御後、知太政官事に出世したが、母大蕤娘に先立って亡くなった。

この内、刀子娘の事件は異母兄弟の首皇子の競争相手を排除する目的があった藤原不比等橘三千代夫婦の陰謀説があるが、不比等の正妻は安麻呂の娘である蘇我娼子(藤原武智麻呂藤原房前藤原宇合の母。)であり、弟である石川石足とその子の石川年足は当時嫡流とされた武智麻呂を祖とする藤原南家と結びついた。特に年足は武智麻呂の次男で大いに権勢を振るった藤原仲麻呂が設立した紫微中台の大弼としてその補佐に当たったが、概ね中高年齢期でやっと大体中納言参議まで出世するクラスまで低下しながらも中流貴族としてその命脈を保った(ただ、他にもその間の元明天皇から孫の首皇子へスムーズに皇位継承されなかった事、そしてその元明天皇の娘で石川麻呂の曾孫にあたる吉備内親王長屋王の変で夫や自ら生んだ子と共に自害を余儀なくされた事などの一連の政争は藤原・石川両氏の暗闘が背景にあったのではなかったかと指摘する意見もある[1])。

[編集] 衰退

しかし、その藤原南家が藤原仲麻呂の乱で衰退してしまうと、石川氏も再び振るわなくなり、平安京遷都後間もなく亡くなった、正四位上・参議石川真守(年足の孫、馬子の7代孫)を最後に公卿は出なくなり、歴史から姿を消す事になる。近世大名の牧野氏は蘇我氏の末裔ではないかと言われるが、他にも同氏の出自は諸説あり、定説にはいたっていない。ただ、蘇我氏の血統は女系ではあるが、皮肉にも衰退する最大の原因を作った藤原氏を通して現代にも伝わってはいる。五摂家の一つ、近衛家の跡取りで、映像クリエイターである近衛忠大は不比等・娼子から46代目の子孫にあたる。

[編集] 蘇我氏渡来人説

現在蘇我氏渡来人説というものがあり、学者間で議論となっている。その例を以下に記す。

  • 応神天皇の代に渡来した、百済の高官、木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が同一人物であると言う説。提唱者は門脇禎二
  • 稲目の父は高麗(こま)、祖父は韓子(からこ)で、継体紀の継体24年秋9月の条の注に「大日本人娶蕃女所生為韓子也」(大日本人、蕃女(となりのくにのめ)を娶りて生めるを韓子とす)と書かれていることから生じた説である。つまり、皇別の武内氏が渡来人系の妻に産ませた子供が蘇我氏になったという説である。(当時の豪族は、姓は父方から受け継がれる代わりに、名は母方や養育者から付けられるという風習が流行っていたと見られている。)

ただし、いずれも決め手となる証拠がないために通説になるには至っていない。

[編集] 系図

 孝元天皇
   ┃
 彦太忍信命
   ┃
 屋主忍男武雄心命(『古事記』には無し)
   ┃
 武内宿禰

武内宿禰以前は後世の架上と言われており、蘇我石川宿禰も子孫の石川氏による創作と見る説がある。

            武内宿禰
              ┃
           蘇我石川宿禰
              ┃
             満智
              ┃
             韓子
              ┃
             高麗(馬背)
              ┃
             稲目
          ┏━━━╋━━━━━━┓
    欽明帝┳堅塩媛  馬子     境部摩理勢 
  ┏━━━━┫      ┣━━━┓
 推古帝  用明帝    蝦夷 倉麻呂(雄当)  
             ┃   ┣━━━━━━┳━━┳━━┳━━┓
             入鹿 倉山田石川麻呂 赤兄 連子 日向 果安
                  ┃          ┃
              天智帝┳姪娘         安麻呂  
                 ┃           ┃
                元明帝         石川石足                                    
                             ┃
                               年足                                    
                             ┃
                               名足

[編集] 近年の研究

2005年11月13日奈良文化財研究所は甘樫丘東麓遺跡で蘇我入鹿邸「谷の宮門」跡とみられる遺構を発掘したと発表、考古学者たちは『日本書紀』の記述が裏付けられるだろうと期待を寄せている。

[編集] 外部リンク

[編集] 脚注


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