蘇我稲目
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蘇我稲目(そがのいなめ、武烈天皇8年(506年)頃? - 欽明天皇32年3月1日(570年3月22日))は飛鳥時代の大臣。蘇我高麗の子、蘇我馬子の父。娘3人を天皇に嫁がせた。(馬子が葛城県を本居としているため、稲目の妻は葛城氏の出と推測される)
宣化天皇元年(536年)大臣となる。同年、天皇の命により凶作に備えるため尾張国の屯倉の籾を都に運んだ。欽明天皇元年(540年)欽明天皇が即位すると引き続き大臣となり、娘の堅塩媛と小姉君を天皇の妃とした。堅塩媛は七男六女を産み、そのうち大兄皇子(用明天皇)と炊屋姫(推古天皇)が即位している。小姉君は四男一女を産み、そのうち泊瀬部皇子(崇峻天皇)が即位している。
欽明天皇13年(552年)百済の聖明王の使者が仏像と経論数巻を献じ、上表して仏教の功徳をたたえた(仏教公伝)。天皇は仏像を礼拝の可否を群臣に求めた。稲目は「西蕃諸国々はみなこれを礼拝しており、日本だけがこれに背くことができましょうか」(「西蕃諸國一皆禮之 豐秋日本豈獨背也」)と答えた。これに対して大連の物部尾輿と連の中臣鎌子は「わが国の王は天地百八十神を祭っています。蕃神を礼拝すれば国神の怒りをまねくでしょう」(「我國家之王天下者 恆以天地社稷百八十神 春夏秋冬 祭拜為事 方今改拜蕃神 恐致國神之怒」)と反対した。天皇は稲目に仏像を授けて試みに礼拝することを許した。稲目は小墾田に仏像を安置して礼拝した。その後、疫病が起こり、民に死する者が多く出た。尾輿と鎌子は蕃神礼拝のためだとして、仏像の廃棄を奏上し、天皇はこれを許した。仏像は難波の堀江に流され、伽藍には火をかけられた。すると、風もないのに大殿が炎上してしまった。しかし、これで仏教が完全に排除された訳ではなく、翌欽明天皇14年(553年)には海中から樟木を引き上げて、天皇は仏像2体を造らせている。
稲目は財務に手腕を振るい、王辰爾を遣わして船賦を数えて記録させた。また、天皇の命により諸国に屯倉を設置している。
仏教受容問題に権力闘争が重なり、蘇我氏と物部氏は激しく争った。決着はつかず、この争いは子の蘇我馬子、物部守屋の代まで引き継がれた。