下村正助
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下村 正助(しもむら しょうすけ、1885年(明治18年)1月9日 - 1953年(昭和28年)7月30日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍中将。山形県米沢市出身(北海道出身と記述する資料を散見するが事実無根である)。
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[編集] 略歴
旧制山形県立米沢中学校より海軍兵学校第35期入校。入校成績順位は183名中第17位、卒業時成績順位は172名中第29位。
第一次世界大戦の際に、ユトランド沖海戦でドイツ艦隊から一斉斉射攻撃を受け轟沈したイギリス海軍の巡洋戦艦クイーン・メリーに、日本海軍から観戦武官として派遣され乗艦中に戦死した下村忠助海軍大佐(海軍兵学校第30期卒)は実兄。また下村の妻は同郷出身の佐藤鉄太郎海軍中将の長女。
下村は一時期を除き一貫して海軍生活を軍令系統と海外駐在勤務で占める。
日中間に風雲急を告げていた時期に下村は第10戦隊司令官に就任するが、当時の日本海軍の通信系統、即ち、北京海軍駐在武官→旅順→東京→佐世保→高雄→第三艦隊旗艦出雲と転送される正規の通信順序に頼らず、北京海軍駐在武官→旅順→高雄→出雲と短路設定をさせ情報の収集に努めた結果、日華事変が勃発した当日、出雲艦上に於いて下村は第三艦隊司令長官長谷川 清海軍大将と会談中に誰よりも早く事変発生をいち早く知り得るなど此の手のエピソードには事欠無い。
また能力に欠ける上司上役の出す命令を鵜呑みにする者に対して、「棒読み」、「過度の謹直」等と、時には本人の面前で遠慮無い発言すら憚らなかった為に、元帥伏見宮博恭王海軍大将や嶋田繁太郎海軍中将に忌避され予備役に編入された。
[編集] 人物像
下村正助個人を識る義弟の大井篤の回顧では、下村は日本海軍で井上成美より更なる極合理主義者で、慣習儀礼に捉われる事無く、物事の本質を見極め行動するタイプだった由。
海軍大学校甲種学生で、堀悌吉とは同期で2人は仲が良かったそうだが、提出する試験課題が論理に基づきながらも、両名の答案は両極端とも言うべき内容で部内でも評判になる。また情報探知能力では日本海軍唯一の逸材と言われていた。
1929年~30年にかけて山梨勝之進海軍次官、堀悌吉軍務局長の懐刀としてロンドン軍縮会議成立の為の資料作成に携わり、側面から軍事参議官岡田啓介海軍大将の協力体制の下に会議が纏ったとされている。然し下村自身は文書作成の類が苦手で、信頼する部下の高木惣吉海軍中佐と大井篤海軍少佐に、口述し資料の要約作成を総て任していた由。
太平洋戦争では、開戦前の対英米避戦と終戦促進に対し、岡田啓介、左近司政三、米内光政、井上成美、高木惣吉などを側面から協力した。
下村は写真で見る限り、海軍兵学校同期の大柄で恰幅のよい野村直邦と異なり小柄な容姿だった。
[編集] 年譜
- 1885年(明治18年)1月9日- 山形県置賜郡米沢町(現在の米沢市)生
- 1904年(明治37年)11月18日- 海軍兵学校入校 入校時成績順位183名中第17位
- 1907年(明治40年)11月20日- 海軍兵学校卒業 卒業時成績順位172名中第29位・任 海軍少尉候補生・2等巡洋艦「橋立」乗組
- 1908年(明治41年)1月25日- 練習艦隊遠洋航海出発 香港~サイゴン~シンガポール~ペナン~ツリンコマリー(Trincomalee)~コロンボ~バタヴィア~マニラ~馬公~佐世保~大連~釜山~大湊方面巡航
- 1909年(明治42年)11月1日- 2等駆逐艦「綾波(初代)」乗組
- 1910年(明治43年)3月22日- 2等巡洋艦「千歳(初代)」乗組
- 1911年(明治44年)4月20日- 海軍水雷学校普通科学生
- 1912年(大正元年)12月1日- 海軍大学校乙種学生
- 1913年(大正2年)5月24日- 海軍砲術学校高等科第12期学生
- 1915年(大正4年)6月30日- 装甲巡洋艦「磐手」分隊長 少尉候補生指導官
- 1916年(大正5年)4月3日- 帰着
- 1918年(大正7年)11月26日- 海軍大学校卒業 卒業時成績順位20名中第6位
- 12月1日- 第3水雷戦隊参謀
- 1919年(大正8年)12月1日- 任 海軍少佐・横須賀鎮守府附・兼海軍省軍務局第1課出仕
- 1923年(大正12年)6月1日- 帰朝
- 1924年(大正13年)11月20日- 軽巡洋艦「五十鈴」副長
- 1925年(大正14年)10月20日- 海軍大学校教官
- 1928年(昭和3年)12月4日- 軽巡洋艦「北上」艦長
- 1929年(昭和4年)10月5日- 海軍省兼軍令部出仕
- 1930年(昭和5年)11月1日- 在アメリカ日本大使館附海軍駐在武官
- 1932年(昭和7年)11月15日- 帰朝
- 1933年(昭和8年)3月2日- 軍令部参謀
- 1934年(昭和9年)6月26日- 欧米各国出張
- 11月15日- 任 海軍少将・第5水雷戦隊司令官
- 1935年(昭和10年)11月15日- 第1潜水戦隊司令官
- 1936年(昭和11年)12月1日- 軍令部出仕
- 1937年(昭和12年)1月22日- 第10戦隊司令官
- 1938年(昭和13年)11月15日- 任 海軍中将
- 1939年(昭和14年)12月15日- 待命
- 1940年(昭和15年)2月1日- 南洋拓殖会社 専務理事
- 1946年(昭和21年)1月15日- 南洋拓殖会社 専務理事 辞任
- 1953年(昭和28年)7月30日- 死去 享年68
[編集] 参考文献
- 戦史叢書・第72巻・ 中国方面海軍作戦(1) (防衛庁防衛研究所戦史部編・朝雲新聞社)
- 高松宮日記(細川護貞・阿川弘之・大井 篤・豊田隈雄編・中央公論新社) ISBN 4-12-490040-6 C0320
- 細川日記(中央公論新社) ISBN 4-12-000818-5 C0020
- 高木惣吉日記と情報・上下巻(みすず書房) ISBN 4-622-03506-5 C3031
- 山本五十六(阿川弘之著・新潮社) ISBN 4-10-300415-0 C0093
- 米内光政(阿川弘之著・新潮社) ISBN 4-10-300413-4 C0093
- 井上成美(阿川弘之著・新潮社) ISBN 4-10-300414-2 C0093
- 海軍大将米内光政(高木惣吉著・光人社) ISBN 4-7698-0021-5 C0095
- ある終戦工作(森 元治郎著・中公新書) ISBN 4-12-100581-3 C1221
- 日本陸海軍の制度・組織・人事(日本近代資料研究会編・東京大学出版会)
- 海軍兵学校沿革・第2巻(海軍兵学校)
- 海軍兵学校出身者名簿(小野崎 誠編・海軍兵学校出身者名簿作成委員会)