フェルナンド・セギノール
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フェルナンド・セギノール Fernando Seguignol |
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基本情報 | |
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国籍 | パナマ |
生年月日 | 1975年1月19日(33歳) |
身長 体重 |
6' 5" =約195.6cm 257 lb =約116.6kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投両打 |
守備位置 | 一塁手 |
初出場 | MLB / 1998年 NPB / 2002年 |
経歴 | |
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■Template ■ウィキプロジェクト 野球選手 |
フェルナンド・セギノール(Fernando Alfredo Seguignol , 1975年1月19日 - )は、パナマ出身のプロ野球選手。主なポジションは一塁手だが、持病の膝ケガの影響で指名打者に回ることが多い。
スイッチヒッターで、左右両打席ともに特大の本塁打を狙える長距離打者である。
目次 |
[編集] 来歴・人物
ヤンキース3A、エクスポズなどを経て、2002年にオリックス・ブルーウェーブに入団。
一塁手または指名打者としてプレーし、5月5日の大阪近鉄戦と翌6日の千葉ロッテ戦で2試合連続左右打席本塁打を記録、更にこの年の7月26日にもシーズン3度目の左右打席本塁打を達成(ともに日本プロ野球史上初)。
オリックス入団前は「大崩れしないコンスタントな成績」、「スイッチヒッターの中距離打者」という触れ込みで、大きな期待をかけられていたが実際は当たれば飛ぶがめったに当たらないという粗っぽい打者であり、打率は2割を超えるか超えないかという低空飛行で、4番を打っていた時期もあったがすぐにレギュラーも危うくなった。シーズン終了時の打率は.204と結果を残せず、首脳陣との対立もあり2002年限りでオリックスを解雇された。
2003年にヤンキースの傘下の3Aに所属し、本塁打と打点の2冠王を達成。メジャー再昇格も果たした。それを見込まれ2004年に北海道日本ハムが獲得した。
2004年開幕直後の打率は4割を大きく越え、4月の月間MVPを受賞。それ以降も並外れたパワーで、広い札幌ドームで本塁打を量産していった。この年は打率.305、本塁打44本、打点108で福岡ダイエーホークスの松中信彦と同数で本塁打王を獲得し、ベストナイン(指名打者部門)にも選ばれた。
2005年は前半戦はいまひとつ調子が上がらず、7月まで16本しか打てなかったのが、後半になるにつれて調子を上げ、8・9月だけで15本と本塁打を量産した。前年110三振を記録したが、この年はさらに30個以上多い141三振を喫した。
2006年は前半戦極度の不振に陥り、一時は稲葉に4番を譲ることもあった。本塁打・打点は昨年より少なく物足りなかったが、優勝争いを繰り広げている9月に4割・8本塁打と驚異的に盛り返し優勝に貢献した。しかしアジアシリーズ前に帰国し、日本ハム球団が2006年シーズンの契約に契約終了後の優先交渉権を盛り込んでおらず、また、セギノールの代理人とは契約終了前の11月中には一切連絡が取れない状態だったため、同年12月1日に日本ハムの支配下を一旦離れフリーエージェント(自由契約)となった。日本ハム側はそれ以後も残留に向けた交渉を行い、他球団からのオファーも無く、2007年に入ってから金銭及び契約年数で双方の歩み寄りがあり、再契約を結んだ。
2007年はシーズン通して不振で調子が上がらず打率.249・本塁打21本と低調な成績に終ってしまった。日本シリーズでは打率.333、2本塁打を放つも、来季の契約更改は行わない方針を球団が掲げ、この年限りで退団となった。その後オリックス・バファローズや横浜ベイスターズが興味を示したが、獲得には至らなかった。
2008年3月、コロラド・ロッキーズとマイナー契約を結ぶ。
低め・内角変化球には弱いが並外れたパワーを備え、入団以降ファイターズ不動の4番打者となり、3番・小笠原道大、5番・稲葉篤紀と並ぶ2005年~2006年シーズンのクリーンナップは絶大な破壊力を誇った。スイッチヒッターとしてのシーズン歴代最多本塁打記録や、その他数々の記録を保持し(後述)、「歴代最強スイッチヒッター」との呼び声が高い。なお、米国時代セギノールにスイッチヒッター転身を進言したのは当時マイナーリーグの監督で、後に日本ハムでも監督を務めたトレイ・ヒルマンである。
温厚かつ真面目な性格で、死球を受けても怒りを顕わにすることはほとんど言っていいほどなく、スランプに陥ったときは誰よりも悩み練習に熱を入れる。
- 試合開始前に、グラウンドの三遊間後方でダッシュをするのが習慣となっている。
- 大好物はバナナで、スタンドで巨大なバナナ(の風船)を掲げるファンも多い。試合中にもよくバナナを食べている。
- なお2004年から3年連続で12球団全選手本塁打平均飛距離ランキングでベスト3に入っている(2004年1位、2005年3位、2006年2位)。
[編集] 年度別打撃成績
年度 | チーム | 背 番 号 |
試 合 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1998年 | MON | 33 | 16 | 42 | 6 | 11 | 4 | 0 | 2 | 21 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | 15 | 1 | .262 | .304 | .500 | .804 |
1999年 | 19 | 35 | 105 | 14 | 27 | 9 | 0 | 5 | 51 | 10 | 0 | 0 | 0 | 2 | 5 | 7 | 33 | 1 | .257 | .328 | .486 | .813 | |
2000年 | 76 | 162 | 22 | 45 | 8 | 0 | 10 | 83 | 22 | 0 | 1 | 0 | 1 | 9 | 3 | 46 | 5 | .278 | .326 | .512 | .838 | ||
2001年 | 46 | 50 | 0 | 7 | 2 | 0 | 0 | 9 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 1 | 17 | 4 | .140 | .185 | .180 | .365 | ||
2002年 | オリックス | 55 | 89 | 280 | 39 | 57 | 8 | 0 | 23 | 134 | 47 | 1 | 0 | 0 | 0 | 40 | 6 | 104 | 5 | .204 | .316 | .479 | .795 |
2003年 | NYY | 48 | 5 | 7 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 3 | 0 | .143 | .250 | .143 | .393 |
2004年 | 日本ハム | 5 | 125 | 443 | 86 | 135 | 24 | 0 | 44 | 291 | 108 | 0 | 1 | 0 | 3 | 70 | 14 | 110 | 15 | .305 | .413 | .657 | 1.070 |
2005年 | 133 | 489 | 72 | 141 | 20 | 0 | 31 | 254 | 86 | 1 | 1 | 0 | 1 | 45 | 9 | 141 | 12 | .288 | .358 | .519 | .878 | ||
2006年 | 132 | 485 | 60 | 143 | 37 | 0 | 26 | 258 | 77 | 0 | 0 | 0 | 6 | 40 | 9 | 119 | 13 | .295 | .356 | .532 | .888 | ||
2007年 | 134 | 470 | 50 | 117 | 21 | 0 | 21 | 201 | 68 | 0 | 0 | 0 | 2 | 65 | 9 | 130 | 14 | .249 | .350 | .428 | .777 | ||
MLB通算 | 178 | 366 | 42 | 91 | 23 | 0 | 17 | 165 | 40 | 0 | 1 | 0 | 5 | 20 | 11 | 114 | 11 | .249 | .303 | .451 | .754 | ||
NPB通算 | 613 | 2167 | 307 | 593 | 110 | 0 | 145 | 1138 | 386 | 2 | 2 | 0 | 12 | 260 | 47 | 604 | 59 | .274 | .362 | .525 | .887 | ||
日米通算 | 791 | 2533 | 349 | 684 | 133 | 0 | 162 | 1303 | 426 | 2 | 3 | 0 | 17 | 280 | 58 | 718 | 70 | .270 | .354 | .514 | .868 |
- 2007年シーズン終了時点
- 表中の太字はリーグ最高
[編集] タイトル・表彰・記録
[編集] タイトル
[編集] 表彰
- 月間MVP:2回 - 2004年3・4月、2006年9月
[編集] 記録
- 左右打席本塁打通算7度 - 通算7度はプロ野球最高記録。
日付 | 対戦球団 | 球場 | 回 | 打席 | 相手投手 | 回 | 打席 | 相手投手 | |
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1 | 2002年5月5日 | 大阪近鉄7回戦 | グリーンスタジアム神戸 | 3回 | 右 | 小池秀郎 | 6回 | 左 | 門倉健 |
2 | 2002年5月6日 | 千葉ロッテ7回戦 | グリーンスタジアム神戸 | 1回 | 左 | 小野晋吾 | 3回 | 右 | 川井貴志 |
3 | 2002年7月26日 | 大阪近鉄16回戦 | 大阪ドーム | 2回 | 右 | 前川勝彦 | 6回 | 左 | 宮本大輔 |
4 | 2004年5月21日 | 大阪近鉄6回戦 | 東京ドーム | 1回 | 左 | 川尻哲郎 | 3回 | 右 | 高木康成 |
5 | 2004年6月29日 | 千葉ロッテ16回戦 | 札幌ドーム | 2回 | 左 | 内竜也 | 4回 | 右 | 高木晃次 |
6 | 2006年9月9日 | オリックス19回戦 | 京セラドーム大阪 | 1回 | 右 | 中山慎也 | 2回 | 左 | 萩原淳 |
7 | 2007年6月19日 | 広島3回戦 | 広島市民球場 | 3回、6回 | 右 | ジャレッド・フェルナンデス | 7回 | 左 | 横山竜士 |
- 2試合連続左右打席本塁打 - 2002年5月5日・6日(ともに上記)。プロ野球史上初。
- 左右打席3打席連続本塁打 - 2007年6月19日(上記)。ロイ・ホワイト(読売、1980年6月12日達成)以来2人目。
- スイッチヒッターのシーズン本塁打最多記録保持 - 44本塁打(2004年)。従来記録は1990年の西武・オレステス・デストラーデによる42本塁打。
- セ・パ13球団から本塁打 - プロ野球史上初。2007年シーズン終了時点での達成者はセギノールとフリオ・ズレータ(千葉ロッテ、2007年4月1日達成)の2人のみ。
日付 | 対戦球団 | 球場 | 相手投手 | |
---|---|---|---|---|
1 | 2002年4月3日 | 日本ハム | 東京ドーム | カルロス・ミラバル |
2 | 同4月6日 | 福岡ダイエー | グリーンスタジアム神戸 | 田之上慶三郎 |
3 | 同4月12日 | 千葉ロッテ | グリーンスタジアム神戸 | ネイサン・ミンチー |
4 | 同4月15日 | 大阪近鉄 | グリーンスタジアム神戸 | 高木康成 |
5 | 同4月19日 | 西武 | 鹿児島県立鴨池野球場 | 三井浩二 |
6 | 2004年3月31日 | オリックス | Yahoo!BBスタジアム | 本柳和也 |
7 | 2005年5月13日 | 横浜 | 札幌ドーム | 三浦大輔 |
8 | 同5月26日 | 広島東洋 | 広島市民球場 | 長谷川昌幸 |
9 | 同5月29日 | ヤクルト | 札幌ドーム | 館山昌平 |
10 | 同5月31日 | 読売 | 札幌ドーム | 上原浩治 |
11 | 同6月5日 | 中日 | ナゴヤドーム | 山本昌 |
12 | 同6月12日 | 阪神 | 阪神甲子園球場 | 下柳剛 |
13 | 同7月2日 | 東北楽天 | フルキャストスタジアム宮城 | 山村宏樹 |
[編集] 背番号
- 55(2002年)
- 5(2004年 - )
[編集] 愛称
- セギ(チームメイトからの愛称)
- セギちゃん(お茶目な性格から。2007年春頃からこう呼ばれることが多くなってきている)
- セギ様(ファンからの愛称。杉良太郎の愛称「杉様」の捩り。携帯公式サイトの試合速報内にて「神様!仏様!セギ様!」と表記されたのが始まりとも言われている)
[編集] エピソード
- オリックスへの入団会見で「優勝したらパナマ運河に飛び込む」とコメント。その後日本ハム入団時に、「優勝したらパナマ運河に飛び込みますか?」と質問されると、「あの時は独身だったので若気の至りでああ言ったけど、今は妻子がいるのでそれは出来ないね」と答えている。
- 実際にパナマ運河に飛び込むと、通行料を取られる可能性がある(パナマ運河は人間も通行可能である。過去にパナマ運河を泳いで渡った人物がいて、通行料を36セント(米ドル)ほど支払っている)。
- 2005年6月13日に大阪から札幌へ移動する際、伊丹空港で観光客からボビー・オロゴンと間違えられるハプニングに遭遇したが、笑顔を返し、度量の大きさを見せた。のちに東京ヤクルトスワローズのアレックス・ラミレスに間違われた際は、"Yes, I'm Ramirez."(そう、俺はラミレスだ)と返答している。
- 2006年6月20日のヤクルト戦(セ・パ交流戦)では、8回表にヤクルト・木田優夫から決勝打となる逆転3ラン本塁打を放ち、4対2で日本ハムが勝利。この一撃によりヤクルトの交流戦優勝(同率優勝)は阻まれ(優勝は千葉ロッテマリーンズ)、2006年の交流戦リーグ別成績はパ108勝、セ107勝(引き分け1)となった。試合後、この本塁打について聞かれたセギノールは「そんなにすごい本塁打なのか、じゃあロッテに優勝賞金を分けてもらわないとな」とおどけてみせた。
- 日本のお笑いが大好きなようで、2006年8月27日のオリックス戦のヒーローインタビューで、お笑いコンビ「ザ・たっち」の持ちネタ「チョット!チョットチョット!!」を披露した。これが意外に好評を得たので、その後の試合で本塁打を打ってベンチに戻る際や、ヒーローインタビューでもこのパフォーマンスをたびたび行っていた。2007年8月8日からは「どんだけ〜」に替わり、10月18日のクライマックスシリーズ優勝のビールかけでは小島よしおの「ソンナノ関係ネェ!」「オッパッピー」を披露した。
- 2006年10月30日、自宅のあるアメリカから日本に再入国する際に、母国・パナマ発行の自身のパスポートが10月6日限りで失効していたことが発覚。就労ビザは有効期限内だったため違法ではなく、事なきを得たが、更新に手間取り、再入国が予定より大幅に遅れて、アジアシリーズへの出場が出来ないばかりか、優勝パレード、ファン感謝デーにも参加不可能になってしまった。また、自宅でアジアシリーズをテレビ観戦した際、このシリーズから復帰した木元邦之を見て「新しい三塁手を取ったのか」というコメントを残している。セギノールと木元はセギノールが日本ハムに入団以来、3年間チームメイトだった(木元は2007年6月28日にオリックスへ移籍)。わざとこう言ったのか、それとも本当に忘れてしまっていたのかは不明である。
- バナナを愛し、バナナを活力源としている選手である。2006年の日本シリーズ第2戦(ナゴヤドーム)ではなんとバナナ4本を食べて打席に臨んだ。結果は勝利を一気に引き寄せる2ラン本塁打。フリオ・ズレータ(千葉ロッテ)とともに「パナマの怪人」と呼ばれていたが、このバナナ好きが有名になると、パナマにかけた「バナナの怪人」とも呼ばれるようになる。
- ビリーズブートキャンプでおなじみのビリー・ブランクスに似ているとチームメートの間で話題になっており、本人も2007年6月下旬からモノマネがマイブームとなっている。さらに、同僚の江尻慎太郎が6月22日のブログに「セギーズブートキャンプ」のタイトルでこのことを書いており、岸七百樹サブマネージャーに至ってはセギノールのことを「ビリー」と呼ぶようになっている。
- 札幌テレビ放送のアナウンサー岡崎和久に身長を203メートルと間違われた事が有る。
- 2006年の日本シリーズで日本一になった際には歓喜の輪に入りながら人目をはばからず号泣していた(輪の中で同じく泣いていた新庄剛志と慰め合っていた)。
[編集] 登場曲
- Lil Jon:「Snap Yo Fingers feat. E-40 & Sean Paul of Youngbloodz」
- Nelly、P.Diddy、Murphy Lee:「Shake Ya Tailfeather」
- La Banda Chula:「Sobrao De Mambo」
- T.I.:「Big Things Poppin' (Do It)」
- ドリームズ・カム・トゥルー:「決戦は金曜日」
[編集] 関連人物
- オリックス・ブルーウェーブの選手一覧
- 北海道日本ハムファイターズの選手一覧
- トレイ・ヒルマン - 日米2球団で所属チームの監督を務め、スイッチヒッターへの転向を助言。
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