阪急1形電車
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1形電車(1がたでんしゃ)は、阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道(箕有)が開業時に投入した、木造車体の電車である。
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[編集] 概要
1910年の箕面有馬電気軌道開業(現・宝塚線、箕面線)に当たり1~18が川崎造船所兵庫工場(現・川崎重工業)で製造され、同年末には19~28が汽車製造(現・川崎重工業)で製造された。更に翌1911年には29~33が川崎造船所で製造され、総数33両が出揃った。なお、厳密には19以降の車両は妻面構造や車体裾部の設計の相違などから区分され、19形と呼称される。
[編集] 車体
箕面有馬電気軌道は、阪神電気鉄道や京阪電気鉄道と同じく軌道法による路面電車線の名目で建設された都市間電車で、アメリカのインターアーバンに近いものであった。その様な私鉄における車両は、それまで出入り台はステップで運転台は吹きさらしのオープン・デッキ構造のもの、すなわち当時の路面電車車両と変わらないものが標準であった。しかし箕面有馬電軌の車両は当初よりベスティビュールを備えデッキ部を持たない、いわゆる密閉式運転台で、側窓は上部に2窓連らねた飾り窓があり、一段下降式で床面はリノリウム張りであった。これには、当時同社の専務を務めていた小林一三(後に社長)の高級嗜好も働いていたと言われる。
車体は木造14m級で新造時の窓配置はいずれもD(1)122D(1)12(1)D(D:客用扉、(1):戸袋窓)、緩やかにカーブを描く妻面に3枚の窓が並ぶデザインであった。
やがて、本格的に2両編成での運転が開始されるのに伴い、前面を改装して貫通路付きとし、かつ台車間隔を広げる改造を行い、その後腰板部に鋼板を張る簡易半鋼製車体化された。
この際、運転台部分が延伸されて角張った形状となり[1]更に33は本格的な半鋼製車体化改造を受け、屋根も丸屋根に改造された。
[編集] 主要機器
制御装置は当初より連結運転を考慮してゼネラル・エレクトリック(GE)社製MK電磁単位スイッチ式間接制御器を装備[2]、主電動機もGE社製GE-90[3]×4で、台車はJ.G.ブリル社製Brill 27-E-1であった。
ブレーキは連結運転に備えGE社製非常弁付き直通ブレーキが採用された。
[編集] 運用
開業以来主力車として長らく運用されたが、より大型の新造鋼製車の導入で2線級扱いとなり、戦時中から戦後にかけて7~9と33及び後述する11~18を除いて電装解除が実施されて付随車となり、さらに戦災を受けた10と25(車籍のみ943・944に引き継がれる)以外は1950年より本格的な半鋼製車体化改造を受けた。この時も、1~6と19以降には車体に若干の違いが発生している[4]。一方、付随車化されなかった車両のうち、7と8については、甲陽線で使用されたが、1955年に610系に更新された。また9と33は電動貨車化され、それぞれ201(のち4201)と203(のち4203)となった。付随車化された車両は、300形や320形の中間車として使用されていたが、殆どの車両が1956年に1200系の製造により廃車され、32のみ引き続き使用されたが、これも1962年に廃車されて形式消滅となった。
なお、電動貨車化された4201は宝塚線の昇圧に伴い1969年に廃車されたが、4203は昇圧改造を受けて引き続き西宮車庫の救援車として配置され、1982年4050形貨車の導入に伴い廃車されるまで、実に70年以上にわたる長命を保った。
1は、簡易半鋼製化後の車体に復元され(厳密には細部が異なる)、宝塚ファミリーランドの「のりもの館(旧・電車館)」に保存されていたが、「のりもの館」の閉館後に正雀工場に移動し、イベント時に公開される以外は、屋内の車庫に大切に保管されている。
なお、1949年に起きた京阪京津線(当時は同一会社だった)の四宮車庫火災による車両不足を補うため、翌年にかけて8両(11~18)が京阪大津線区に転属し、京阪10形となった。こちらは阪急に残ったグループより長く使用され、1967年に全廃された。また、廃車になった車両のうち、車体のみ3と26が野上電鉄へ、8が和歌山電気軌道(のち南海貴志川線→和歌山電鐵貴志川線)に売却されている。
[編集] 脚注
- ^ その後ここの側面に小窓が設置されて窓配置が1D(1)122D(1)12(1)D1となった。
- ^ 但し後述の2両連結運転開始時まで連結器も装備されておらず総括制御は不可能であった。
- ^ 端子電圧600V時定格出力37kW。
- ^ 窓高さと幕板・腰板の幅が異なる。
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