阪急51形電車
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阪急51形電車(はんきゅう51がたでんしゃ)は、阪急電鉄の前身である阪神急行電鉄時代に51~88の計38両が製造された、木造車体の電車である。
厳密には51・63・75・81・87(当初は300)の5形式に分かれるが、同一グループとして一体となって運用され続けた車両であることから、ここで一括して説明することとする。
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[編集] 概要
1920年の神戸線開通に際して設計された15m級3扉車体の本格的高速電車である。高速運転の実施を念頭に置いて高回転型の主電動機を採用し、その後の阪急電車に受け継がれてゆくこととなる基本方針の幾つかを確立した。
製造は51形51~62が1920年5月梅鉢鉄工場、63形63~74が1921年4月梅鉢鉄工場、75形75~80と300形300・301が1922年9月川崎造船所、81形81~86が1923年10月川崎造船所である。
[編集] 車体
いずれも台枠側面に補強用のトラス棒が装着された木造15m級3扉車であるが、南海鉄道にも車両を供給していた梅鉢が設計した51形は、妻面の平面形を半円状とし5枚の窓をその円周上に配置した、俗に卵形と称される流線型構造[1]を採用し窓配置がD(1)5D(1)4(1)D(D:客用扉)、その改良型に当たる63形と川崎造船所製の75形、それに阪神急行として初の制御車として設計された300形は妻面が緩やかな曲面を描く平妻構造とされて3枚窓化され窓配置が1D(1)5D(1)4(1)D1(D:客用扉)、最終増備車となった81形は妻面や窓配置は63形などと同様ながら、屋根がこれまでの側面に明かり取り窓のある二重屋根からシンプルな丸屋根に変更、と各時代の流行を反映しつつ改良が進められたことが見て取れる。
なお、客用扉は新造時は全て手動扉であったが、後に中央扉についてドアエンジンの整備が実施され、この際本来の戸袋窓を潰して隣接する側窓1枚を戸袋窓化し、中央扉を拡幅する工事[2]が施工されている。
[編集] 主要機器
高速運転実施に備え、主電動機は当時としては高回転型のゼネラル・エレクトリック(GE)社製GE-263-A[3]を4基搭載し、制御器は電空カム軸式のGE社製PC-5に弱め界磁機能を付加して高速運転に対処した。
51・63形の竣工当初はポール集電でしかも連結器として左右にバッファを備えた連環式連結器を装着していたが、1922年にパンタグラフ化と自動連結器化が実施され、同年竣工の75形以降は当初より自動連結器およびパンタグラフ装備(300形を除く)で竣工している。
台車は51・63形がJ.G.ブリル社製Brill 27-MCB-2、それ以降がボールドウィン社製BW-78-25Aがそれぞれ装着された。
ブレーキは51形竣工当初はGE社製非常直通ブレーキであったが、これは早期に同じGE社製のJ三動弁によるAVR自動空気ブレーキに置き換えられ、その後ウェスティングハウス・エアブレーキ社系のM三動弁によるAMM・ACM自動空気ブレーキに交換されている。
[編集] 運用
神戸線開業時の主力車として運用されたが、600形就役開始の段階で51形が全車、900形の就役開始後1932年までに残る63・75・81形も全車宝塚線に転出した[4]。但し、300形→87形は1934年に複巻電動機による回生制動の試験車に改造されて比較的勾配の多い今津線で試験を実施しており、この時期同形式のみは足取りが異なっていた。なお、1939年までに79~86が電装解除されて制御車に改造されている。
54と77の2両は終戦直後に火災事故により全焼し、車籍のみ973・974に引き継がれた。
戦後は車体が老朽化し、また木造車の危険性が指摘されるようになったことに伴い、1953年から電気機器を流用の上で610系に改造された。なお、51と78の2両は、1950年に鋼体化改造され、のちに98形となった。また余剰となった車体の一部は、地方私鉄や倉庫として売却された。
[編集] 脚注
- ^ 当時、南海や大阪電気軌道を中心とする関西私鉄各社で流行していた。
- ^ これにより扉間の窓配置がD(1)5D(1)3(1)Dに変更された。
- ^ 端子電圧600V時定格出力48kW/720rpm。
- ^ これは1932年10月より宝塚線で急行運転が開始されるにあたり、高速走行特性の優れた本形式で運用車両を統一する必要があったためである。
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