藤沢和雄
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藤澤 和雄(ふじさわ かずお、1951年9月22日 - )は中央競馬・美浦トレーニングセンター所属の調教師。北海道出身。新聞など(JRA公式ページにおける表記も含む)では常用漢字外の文字の使用には制約があるため、藤沢 和雄と表記される事が多い。
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[編集] 経歴
北海道産業大学にて教職課程を修得するが、教師への適性に自ら疑問を抱き、父の友人である小牧場「青藍牧場」の主、田中良熊の下で馬産の手伝いをするようになる。しかし、その頃はホースマンになろうという確固たる信念は無く、彼にとって競馬界は自身の将来を定めるまでの短い「腰掛け」に過ぎなかった。
しかし、「青藍牧場」で働く中、徐々に田中の影響を受け、藤沢はホースマンへの志を固めていく。そして田中の強い勧めで渡英、名門厩舎のギャビン・プリチャード・ゴードン厩舎の下で厩務員として4年間働き、そこで競馬に対する哲学、馬への接し方等、今日の藤沢厩舎を築くことになる競馬理論を形成していくことになる。彼の信念である「ハッピーピープル・メイク・ハッピーホース」はその最たるものであろう。ちなみに彼を競馬界へと導いた田中は、藤沢が渡英した翌年、急逝している。
帰国した藤沢は、美浦・菊池一雄厩舎の調教助手として日本のホースマンとしての第一歩を踏み出し、二冠馬カツトップエース(皐月賞、東京優駿(日本ダービー))の調教に携わるなど、闘病中の菊池に代わり、番頭として同厩舎を切り盛りする。菊池が病死し(厩舎清算のため、菊池の死後1年間、元調教師の佐藤勝美が名目上の後継調教師となっている)、厩舎が解散した後は野平祐二に誘われ、野平厩舎へ。そこで名馬シンボリルドルフと後の厩舎の主戦騎手岡部幸雄とめぐり合うことになる。
1987年、独立して厩舎を開業。初勝利は、若い管理馬たちのリーダーとなるよう地方競馬からスカウトした老馬ガルダンだった。しばらくしないうちに頭角を現すが、勝利数の割に重賞を勝てず手腕が疑問視された時期もあった。しかし、1992年に、シンコウラブリイで初重賞(ニュージーランドトロフィー4歳ステークス)制覇を達成すると、翌1993年には再びシンコウラブリイで初のGI(マイルチャンピオンシップ)を制覇。それからもタイキブリザード、バブルガムフェロー、レガシーオブゼルダ等を率いて数多の戦果を挙げ、1998年には管理馬タイキシャトルがフランスマイルレースの最高峰「ジャック・ル・マロワ賞」を鞍上岡部幸雄で1.9倍の断然人気で制覇する。(なお7日前には森秀行管理のシーキングザパールが鞍上武豊で「モーリス・ド・ゲスト賞」を制覇している)
この頃の藤沢の管理手法は、馬に無理はさせず、クラシックは意識せずに活躍は古馬になってからでもいいという考え方であった。 これは主戦の岡部幸雄の馬優先主義の考えによる所も大きく、岡部が桜花賞を勝てなかった所以のひとつともされる。 そのためか、日本競馬の最高峰、東京優駿(日本ダービー)には縁がなく、有力とされていたバブルガムフェローの故障などもあり、2001年までロンドンボーイ(1989年/24頭中22着)ただ1頭しか出走馬がいなかった。
だが、2002年に久しぶりに管理馬を東京優駿(日本ダービー)出走させることとなり、この際にはシンボリクリスエス(2着)をはじめ、所属馬を一気に4頭も送り出した。その後クラシック競走を意識するようになる。2004年には厩舎初のクラシック制覇(桜花賞)をダンスインザムードで飾り、ゼンノロブロイで秋古馬GI(天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念)を3連勝する。
2005年に厩舎の主戦騎手であり、調教等で所属馬に英才教育を叩き込んでいた岡部幸雄が引退してからは、一時期のようにオープン馬を十数頭抱えるという事は無くなってきたが、それでも美浦のトップステーブルとの評価は揺らいでいない。
2008年、管理馬のカジノドライヴをベルモントステークスに出走させることが明らかになったが、レース当日に出走を回避した。前哨戦のピーターパンステークスを勝利した。
ちなみに日本中央競馬会には栗東に藤沢則雄(代表管理馬:ナリタセンチュリー)という同姓の調教師が在籍していることから、競馬新聞やスポーツ新聞では「藤沢和」と表記される。
[編集] 依頼騎手
所属騎手
所属騎手以外
[編集] 連載
- デイリースポーツサラブnet 藤沢和雄の「伯楽一顧」(Web)
[編集] 著書
- 競走馬私論―馬はいつ走る気になるか ザ・マサダ競馬BOOKS
- 競走馬私論―プロの仕事とやる気について 祥伝社黄金文庫
[編集] DVD
- スーパートレーナー 藤沢和雄 名馬を語る ポニーキャニオン
- スーパートレーナー 藤沢和雄 調教の秘密 ポニーキャニオン
[編集] 成績
[編集] 記録年表
- 1977年、菊池一雄厩舎にて調教助手となる。
- 1982年、佐藤勝美厩舎に移籍。
- 1983年、野平祐二厩舎に移籍、シンボリルドルフによって岡部幸雄との知遇を得る。
- 1987年、JRA調教師免許取得。
- 1988年3月開業。初出走は3月12日2回東京5日目1Rケイアイパワーの3着。
4月24日1回新潟2日目11Rガルダンで延6頭目にして初勝利。
- 1992年、シンコウラブリイで初重賞(ニュージーランドトロフィー4歳ステークス)制覇
- 1993年、シンコウラブリイで初GI(マイルチャンピオンシップ)制覇、初の全国最多勝。
- 1996年、バブルガムフェローで初の天皇賞制覇、距離適性から菊花賞を回避しての制覇で英断が話題になる。
- 1997年、JRAの年間最多重賞勝利新記録達成(13勝)。
- 1998年、フランス・ドーヴィル競馬場のジャック・ル・マロワ賞でタイキシャトルが勝利し、前週のシーキングザパールに続く、日本調教馬2頭目の海外GI制覇に導く。タイキシャトルが藤沢管理馬初の年度代表馬となる。
- 2002年、シンボリクリスエスを筆頭に4頭を東京優駿(日本ダービー)に出走させる。
- 2004年、ダンスインザムードで桜花賞制覇。クラシック初勝利。ゼンノロブロイが秋の古馬GIを3連勝。
- 2006年、ダンスインザムードで新設GIヴィクトリアマイルを勝利する。
- 2008年、カジノドライヴで米GII ピーターパンステークスを勝利する。
[編集] 成績表
年 | 勝利数・連対率 | 受賞名 |
---|---|---|
1988年 | 8勝 (.193) | |
1989年 | 15勝 (.227) | |
1990年 | 22勝 (.241) | |
1991年 | 36勝 (.307) | '91JRA賞(最高勝率調教師) |
1992年 | 34勝 (.320) | |
1993年 | 44勝 (.319) | '93JRA賞(最多勝利調教師・優秀技術調教師)、 |
1994年 | 37勝 (.305) | |
1995年 | 53勝 (.333) | '95JRA賞(最多勝利調教師・最多賞金獲得調教師・優秀技術調教師)、東京競馬記者クラブ賞 |
1996年 | 52勝 (.352) | '96JRA賞(最多勝利調教師・最高勝率調教師・最多賞金獲得調教師・優秀技術調教師) |
1997年 | 58勝 (.336) | '97JRA賞(最多勝利調教師・最高勝率調教師・最多賞金獲得調教師・優秀技術調教師)、東京競馬記者クラブ賞 |
1998年 | 57勝 (.346) | '98JRA賞(最多勝利調教師・最多賞金獲得調教師・優秀技術調教師) |
1999年 | 49勝 (.310) | '99JRA賞(最多勝利調教師・最高勝率調教師・優秀技術調教師) |
2000年 | 57勝 (.344) | '00JRA賞(最多勝利調教師・優秀技術調教師) |
2001年 | 68勝 (.390) | '01JRA賞(最高勝率調教師・最多賞金獲得調教師) |
2002年 | 51勝 (.327) | '02JRA賞(最多勝利調教師・最多賞金獲得調教師・優秀技術調教師) |
2003年 | 63勝 (.382) | '03JRA賞(最多勝利調教師・最高勝率調教師・最多賞金獲得調教師) |
2004年 | 60勝 (.359) | '04JRA賞(最多勝利調教師・最高勝率調教師・最多賞金獲得調教師) |
2005年 | 48勝 (.286) | '05JRA賞(優秀技術調教師) |
2006年 | 55勝 (.316) | |
2007年 | 48勝 (.292) | '07JRA賞(最多勝利調教師) |
※1991年以来、2001年を除く毎年、優秀調教師賞(関東)受賞。
[編集] 管理競走馬
[編集] 代表馬
- シンコウラブリイ
- 厩舎初の重賞、GI制覇を達成した名牝。
- バブルガムフェロー
- 厩舎初の天皇賞(秋)制覇
- タイキシャトル
- 厩舎初の年度代表馬、海外GI優勝馬
- シンコウキング
- 1997年、高松宮杯優勝。
- タイキブリザード
- 1997年、安田記念優勝。
- スティンガー
- 1998年、阪神3歳牝馬ステークス優勝。
- シンボリインディ
- 1999年、NHKマイルカップ優勝。
- ゼンノエルシド
- 2001年、マイルチャンピオンシップ優勝。
- シンボリクリスエス
- 2002年、2003年と2年連続年度代表馬
- ゼンノロブロイ
- ダンスインザムード
[編集] エピソード
- 実家・藤沢牧場は牝馬初の年度代表馬・トウメイの代表産駒であるテンメイを輩出した事で有名である。因みに、トウメイの育成を行ったのも藤沢牧場で、一時的とは言えトウメイを繁殖牝馬として預かる一因になったと言われている。
- 1993年、シンボリルドルフの仔でデビュー戦を圧勝し期待されていたヤマトダマシイが次のレース中に故障し安楽死となった。今でもこの馬を思い出すと涙ぐむが、今でも元気だと藤沢は言う。
- 短期免許で来日した騎手の身元引き受け調教師となることが多かった。これまでオリビエ・ペリエ、ビクター・エスピノーザ、ダミアン・オリヴァー、ダグラス・ホワイトといった騎手の身元を引き受けている。なお、2006年、外国人ジョッキーは人手が足りない場合でないと呼ばないと宣言し、それ以降は外国人ジョッキーを呼んでいない[1]。しかし2008年にビクター・エスピノーザの身元を引き受けることになったが、日程の都合がつかずに来日を断念している。
- 文字にすると誤解を招きかねないような辛口のジョークをよく発する。ただしほとんどは心にもない、あくまでもジョークである。例としては;
- 同じ美浦所属の国枝栄調教師からは、日本一という意味、また親しみをこめて「フジさん」と呼ばれている。
[編集] テレビ出演
- サンデースポーツ(1997年11月23日)
- 情熱大陸(2004年12月5日)
- プロフェッショナル 仕事の流儀(2007年5月15日)
- 武豊TV!(2007年8月2日)
[編集] 脚注
[編集] 外部リンク
- 藤沢和雄の「伯楽一顧」(サラブnet)