テンメイ
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テンメイ | |
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品種: | サラブレッド |
性別: | 牡 |
毛色: | 鹿毛 |
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生誕: | 1974年4月13日 |
死没: | 1993年10月7日 |
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父: | ルイスデール |
母: | トウメイ |
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生国: | 日本(北海道苫小牧市) |
生産: | 藤沢武雄 |
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馬主: | 近藤克夫 |
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調教師: | 坂田正行(栗東) →村上初男(水沢) |
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競走成績 | |
生涯成績: | 62戦13勝 (中央36戦6勝) (地方26戦7勝) |
獲得賞金: | 1億9393万0200円 |
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テンメイは、日本の競走馬。1978年天皇賞(秋)で史上初の天皇賞母子制覇を成し遂げた。牝馬初の啓衆社賞年度代表馬・トウメイの代表産駒である。主な勝ち鞍は天皇賞(秋)の他に京都大賞典がある。
同期には、当時の規定によりクラシック出走権利は無かったものの、その快速振りから『スーパーカー』と言われた持込馬・マルゼンスキーがいる(未対戦)。
目次 |
[編集] 出生地の経緯
1971年末の有馬記念快勝を手土産に引退したトウメイであったが、流感騒動の為に急遽藤沢牧場(藤沢牧場は現在調教師として名を馳せる藤沢和雄調教師の実家である)で繁殖生活を送る事となった。この一時避難的な藤沢牧場時代の1974年、ルイスデールとの間の2番目の仔として生まれたのがテンメイである。
[編集] 戦績
[編集] 3歳、4歳(中央競馬)
母トウメイにも跨った清水英次騎手を鞍上に、札幌競馬場で3歳11月にデビュー、3戦目で勝ち上がる。母と同様にクラシック戦線での活躍が期待されたが、テンメイは4歳になってからも条件戦で勝ちきれないレースが続き、春のクラシック参戦は叶わなかった。しかし7月に2勝目を挙げると、1戦はさんで600万円条件戦を2連勝し、クラシック最後の一冠・菊花賞に滑り込み出走を果たした。
この菊花賞でテンメイはその能力を発揮する。単勝9番人気のテンメイは最後の直線コースで伸びを欠く1番人気・ラッキールーラを尻目に先頭に立つとしぶとい粘りを見せ、最後は郷原洋行が駆るプレストウコウのゴール前強襲に屈したものの2着と健闘した。続くオープン戦3着・阪神大賞典2着と好走し、菊花賞がフロックでは無い事を証明した。
[編集] 5歳~天皇賞制覇まで
15戦した4歳時とは打って変わり、5歳シーズンはゆったりとしたローテーションで使われた。サンケイ大阪杯で復帰し8着とした後、母が2連覇したマイラーズカップで2着に入ったが、春シーズンはこの2戦だけで終えた。秋に復帰し9着・2着とした後、母トウメイが勝った天皇賞(秋)に出走する。
この年の天皇賞(秋)は予想外のアクシデントから始まった。出走馬の枠入り直後、パワーシンボリがゲートに噛み付いたためにゲートが開かず、『発走やり直し(カンパイ)』という珍事が発生。ゲートから出た馬達を呼び戻し、発走前のファンファーレから再びやり直しとなった。再スタートとなったレースは、スタートを待つ間に興奮してしまい、郷原の豪腕をもってしても制御が利か無い状態となったプレストウコウが、止む無く大逃げ(→脚質を参照)を打つ形となった。向正面で10馬身近い差を付けたプレストウコウがその差を利用しての粘り込みを図った所を、菊花賞とは逆にゴール前でテンメイが半馬身差交わし優勝。初重賞制覇が天皇賞となると共に、史上初の母子天皇賞制覇を成し遂げた。しかも、『母と同じ大外12番スタート、半馬身差勝利、同一馬主・同一調教師・同一騎手勝利』というおまけ付きであった。
[編集] 天皇賞後~岩手競馬時代
天皇賞制覇後は京都大賞典をレコードタイムで勝利するが勝ち星はそれ一つに留まり、7歳春の宝塚記念12着を最後に中央競馬から岩手競馬(水沢競馬場)に移籍した。「天皇賞馬」の肩書きはあるものの、スピード競馬の黎明期にあってステイヤー色の強い血統と母から受け継いだ見映えのしない馬体が響いたのか種牡馬としては引き取り手が無かったためである。岩手の移籍直後は4連勝を記録したものの、重賞には手が届かなかったが、当地の「グランプリ」桐花賞では3年連続ファン投票1位に選ばれる程の人気を誇った。
[編集] 引退後
岩手で9歳まで走り続けたテンメイだが、この境遇を知った競馬ファン有志が「テンメイを守る会」を結成し、資金を出し合ってテンメイを買い上げた。これによりテンメイは故郷・藤沢牧場で種牡馬生活を送る事が叶ったのである。その後、種牡馬としては活躍馬を送り出せず、1993年に骨折が原因で母トウメイより先に死亡したが、同期の馬の多くが波乱の一生(韓国に渡り最期を迎えたプレストウコウとラッキールーラ、使役馬として供され過労死したハードバージ、行方不明になった同世代唯一の年度代表馬カネミノブ等)を送った事に比べると、ファンに恵まれたお陰で故郷で最期を迎えたテンメイは幸せ者と言えよう。
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