死の部隊
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死の部隊(しのぶたい、death squads, escuadrones de la muerte)は、主に第三世界の各国、特にラテン・アメリカで行われていた(若しくは現在も続けられていると見られる)、冷戦期には反共主義、近年では反テロなどを名目とした市民に対する暗殺作戦を実行する白色テログループの総称である。
多くの場合、アメリカ陸軍米州学校(現「西半球安全保障協力研究所」)やイスラエル、スペインなどの支援により訓練された、軍や情報機関、警察、或は自警団などの準軍組織の民兵などにより行われる。軍や警察の関与が証明された場合超法規的処刑などと呼ばれる。狙撃で殺害する場合もあるが誘拐が伴うことも多く、遺体が見つかるまでは強制失踪と呼ばれ(=拉致)、被害者は拷問にかけられることも多い。こうした法治国家としてはあるまじき外道の禁じ手は「汚い戦争」と呼ばれる。そしてこうした治安機関による人権侵害はアルゼンチンのような一部の国を除いては、基本的に処罰されない。
米国などでは「死の部隊は社会秩序を維持するために活動するのでテロ組織ではない」とする主張がみられる。また彼らの標的にはホームレスやストリートチルドレンが加わる場合もある。死の部隊は概ね支配層のイデオロギー、信仰、階層、人種などに与しない者に向けられる(ジェノサイドの実行手段の一つである)。
1930年代のソヴィエトのNKVDやナチス・ドイツの特別殺戮部隊、クメール・ルージュも死の部隊の一種に位置付けられることもある。
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[編集] 東南アジア諸国
[編集] インドネシア
1965年当時インドネシアではインドネシア共産党容認のスカルノを排除するためにスハルトら軍部とCIAが接近、クーデター(9月30日事件)を起こした。以来インドネシア軍とCIAの関係が続く。1975年の東ティモール侵攻にキッシンジャーが承認を与えたとする批判もある。現在もアチェ独立運動やイリアンジャヤ問題を抱えている。
[編集] ミャンマー
[編集] 中米・カリブ海諸国
中米やカリブ海諸国では、米国企業ユナイテッド・フルーツ、ドール、デルモンテなどが進出し各社はバナナやコーヒーや砂糖などのプランテーションを広げていた(バナナ共和国)。現在最も中米で安定した国家のコスタリカも例外ではなかった。
中米はクリオーリョによる独裁政権が多かったが、軍人大統領にはメスティーソもかなりいたので(エルサルバドルのマルティネスなど)白人だけとするのは余り適切ではない。民主化運動からゲリラ闘争まで幅はあるが各国でそれぞれの動きがあった。運河建設などを図る米英の干渉を受け、戦争や侵略が相次いだ(パナマ運河参照)。時折成立した左派政権等は必ずしも共産主義を掲げなかったがキューバ革命以後、キューバのように武力革命を目指したゲリラが活動するようになると、それに抵抗した政府も反共主義を掲げ、死の部隊の活動が活発化した。 ゲリラとの内戦が激化すると、もはや政府は死の部隊に頼らず、政府軍は直接ゲリラと関係ありそうな農村を襲い住民を皆殺しにする作戦(ジェノサイド)にでた。一方でゲリラも政府軍に協力している農村を選択的に襲い、こうした中米の国々の農民は板ばさみになって虐殺された。
[編集] グアテマラ
グアテマラでは1954年ハコボ・アルベンス・グスマン大統領がユナイテッド・フルーツの土地の有償での接収を決めたことにCIAが介入し(PBSUCCESS作戦)「共産主義者」とされた約千人が殺害され政権が転覆された。1959年にはCIAがグアテマラ軍の反カストロ軍事訓練を開始するなど軍とCIAの繋がりはあったが、学生運動、農民運動、労働運動から数派のゲリラまで民主化から革命を求める勢力までが多数存在した。
その中で「反ゲリラ活動」として「ラ・マノ・ブランカ」(白い手)などの死の部隊が創設された。1962年には米グリーン・ベレーによる「対ゲリラ訓練」がイサバル県で始まった。1966年右派のフリオ・セサル・メンデス・モンテネグロ大統領が就任すると米軍事顧問のジョン・D・ウェバー大佐の意向でグリーン・ベレーも参加しサカパ県で約1万5千人を殺害した[1]。
カルロス・アラーナ・オソリオ大佐が司令官となり「サカパの殺戮者」の称号を得た(ウェバー自身は1968年に逆にゲリラにより暗殺された)。それと同時に米国際開発局 (USAID) は公安局を通じてグアテマラ警察を訓練した。そして統合参謀本部第二局 (G2) や大統領参謀本部 (EMP) といった軍情報機関が活動した。1978年5月28日には農地解放を求めるマヤ系先住民の農民に対するパンソスの虐殺がなされた。1982年3月クーデターによりエフライン・リオス・モント大統領が就任すると6月に「民間自衛パトロール」(PAC, 自警団の徴用、90万人)を創設、以後マヤ系も含めた「自警団」による虐殺が続く。7月18日のサンチェス平原の虐殺など約440の村が村ごと虐殺を受けるなどし、内戦期間中の犠牲者は20万人に上るとみられている。
1996年アルバロ・アルス大統領によりゲリラとの和平合意が成立し、内戦は終結した。虐殺に対する国際的な非難や国内での取り組みは存在するものの真相究明に対する圧力が続いている。1998年4月26日歴史的記憶回復プロジェクト (REMHI) の責任者ホアン・ホセ・へラルディ司教が暗殺された。また虐殺への軍の関与を公式に認めるべきだと批判したオット・ノアク大佐が逮捕された。
[編集] ニカラグア
[編集] エル・サルバドル
エルサルバドル軍は国内で汚い戦争を行っていたアルゼンチン軍の指導の下に対ゲリラ戦を学んだ。
1973年以降、極右によるテロの嵐がエル・サルバドル国内で吹き荒れた。軍内部の死の部隊はEsquadron de la Muerte(EM,暗殺部隊)と呼ばれ、軍内の極右、保守反動派、退役軍人、予備役兵、現役警官などからなり、労働組合構成員などをはじめとして学者、医者、弁護士、学生、農民、神父、尼僧、ジャーナリストなど多岐に渡る市民を夜毎暗殺し続けた。上記に挙げた以外の市民でも見せしめのためだけに暗殺されたものも多数おり、その中には女性や子どもも含まれていた。
「14家族」と呼ばれる国内の富裕層の資金援助により活動を続け、暗殺された者の中にはアメリカ合衆国から派遣された尼僧や、左右両派のテロが吹き荒れる中で国民的な人気を保っていたオスカル・ロメロ神父なども含まれ、特にロメロ神父の暗殺後、エル・サルバドル内戦が始まるのである。
このようにして人口500万に満たない国で、1979年10月から1987年10月の8年間において、死の部隊を含む治安部隊に殺害された国民の数は約62,000人に、行方不明者は約5,000人に、難民に至っては100万人以上に及んだ。
内戦終結後も暗殺部隊の行動は止まらず、現在も深夜に徘徊し、社会浄化作戦と称して非行少年などを暗殺しているようである。
[編集] ホンジュラス
ホンジュラスは中米紛争で戦場にならなかったが、ホンジュラスを拠点としていたニカラグアの反政府組織コントラやホンジュラス軍も国内で汚い戦争を行っていたアルゼンチン軍の指導の下に対ゲリラ戦を学んだ。ただし、この技術がホンジュラス人に使われるような事態にはならなかったようである。
[編集] キューバ
[編集] 南米
中米と同じようにほぼ全ての国がラテン・アメリカの国であり、キューバ革命以降、革命に影響を受けたゲリラが武装闘争を開始し、多くの国では内戦状態になった。治安回復のために各国の国軍がアメリカの援助と指導の下にクーデターを起こし、ゲリラ関係者や労働組合関係者、左翼とみなされた人間、及び全く無関係の市民を次々と暗殺していった。
南部南米では農村民を皆殺しにするジェノサイド作戦には出なかったものの、北部、中部アンデスのコロンビアやペルーでは、中米と同じようにアメリカ軍の指導を受けて対ゲリラ戦を学び、多くの農村で政府軍やパラ・ミリタリーによりジェノサイドが行われた。
[編集] ブラジル
ブラジルでは、1964年にこれまでの左派民族政権をクーデターで追放して、この地域で最初の官僚主義的権威主義体制と呼ばれる軍事政権が誕生したのを機に、軍部による反対派の弾圧が始まった。サンバやボサノヴァやカルナヴァルの内容までもが検閲され、多くのアーティストがブラジルを去っていった。1985年にようやく民政移管した。
また、死の部隊と呼ばれる程ではないが、大地主が人を雇って土地改革を訴える農民を暗殺させるような事件も起きている。
[編集] アルゼンチン
アルゼンチンでは政権を握った左翼民族主義者のポプリスタ、フアン・ペロンが保守派軍人によって追放されると、それまでも安定しなかったアルゼンチンの政治は一気に不安定化し、ペロニスタと軍部の間で抗争が続いた。軍部はペロニスタを標的に暗殺を始めたが、キューバ革命の影響を受けてペロニスタ側からモントネーロスを代表とするゲリラが現れ、武装闘争を始めると、軍人や巻き添えになった一般人が犠牲になった。
軍部は政局を収めるためにペロニスタとの和解を目指し、1973年に自由選挙で勝利したペロンが帰ってきたが、すぐに死亡し、後を継いだ妻のイサベル・ペロンにも困難な政局を収める事はできなかった。こうしてペロニスタの無能力のため、ホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍が1976年にクーデターを起こし、アルゼンチンでも官僚主義的権威主義体制と呼ばれる軍事政権が誕生した。
政権を握った軍部は今度はペロニスタ、労働組合関係者、左翼、無関係の市民に狙いを定め、一連の汚い戦争で8,000人とも30,000人ともいわれる市民を暗殺した。
こうして培われたゲリラ弾圧技術は中米紛争で各国の政府軍や極右民兵隊に伝授されたが(アルゼンチン・コネクション)、1982年のマルビーナス戦争での敗北により軍部の威信は地に落ち、軍事政権の人権侵害の罪を訴追しないことを条件に民政復帰したが、近年になって当事の軍人による人権侵害は訴追され始めている。
[編集] チリ
チリでは、1970年に成立したサルバドール・アジェンデの人民連合政権はポプリスモ的な政策を取り、社会改革を行ったが、急進的な改革とそれに対する米国等の経済的政治的な妨害で外貨を使い果たし、経済は大混乱した。
1973年9月11日、、アウグスト・ピノチェトの率いる軍はアジェンデの立てこもるモネダ宮殿を攻撃し、アジェンデは抗戦の末に死亡した。(チリ・クーデター) チリの軍事政権は周辺諸国でも最も厳しいものであり、クーデター直後から人民連合狩りが行われ、チリ軍は徹底的に左翼や中道の反体制派の粛清に取り掛かり、すぐにビクトル・ハラをはじめとする市民がサンチャゴ・スタジアムに集められ、虐殺された。 このようにしてクーデター直後の数日間だけで虐殺された人数は、軍事政権の発表による最小の見積もりでは6,000人に、国際機関などの報告を照らし合わせるた見積もりによると、最大では100,000人以上に及ぶ。そしてこのような人権侵害はピノチェト政権を通して続き、激しさを増していった。
その後高まる国際的な批判により、1990年にようやく民政移管がなされたが、アウグスト・ピノチェトはその後もチリ軍総司令官として隠然たる影響力を保ちながら生涯を終えた。
[編集] ウルグアイ
ウルグアイでは1950年代後半以降、畜産品モノカルチャー経済が落ち込むと、ラウル・センディックが都市ゲリラトゥパマロスを組織し、革命を目指してモンテビデオで活動した。そしてトゥパマロスがモンテビデオで活動するにつれ、アメリカ合衆国の支援を受けてウルグアイ軍部は徐々に死の部隊を育成していった。
ツパマロスは1972年に内戦宣言が出されるとたちまち消滅したが、軍部はツパマロスを壊滅させた見返りとして政治に介入しはじめ、1973年以降は事実上の軍政が敷かれた。こうしてウルグアイでも軍部により官僚主義的権威主義体制(ブラジル型軍政)が成立した。
その後軍政下では、人口三百万人の国で実に三十万人がブラックリストとして監視されるという異常な警察国家体制が完成した。学校や職場に軍部の密告者が潜入し、反体制的な言動をした人間は容赦なく刑務所に送られた。 ガス工場での異臭騒ぎによりサボタージュ事件が発生すると、軍が出動して無理矢理労働者を働かせ、結果多くの労働者が死亡するなどの事件が起きたのもこの頃である。このような抑圧的な軍政を嫌い、ウルグアイ人の17%に及ぶ50万人が国を捨て去ったという。
1981年に軍部は軍政の合法化を意図した国民投票を行ったが、厳重な統制下に置かれたこの投票で軍事政権はウルグアイ国民にNoを突きつけられ、1985年にようやく民政移管した。
[編集] パラグアイ
パラグアイでも1954年からはじまったアルフレド・ストロエスネル将軍の長期独裁時代には死の部隊のようなものが存在したようである。
また、死の部隊と呼ばれる程ではないが、現在もブラジルと同じように大地主が人を雇って土地改革を訴える農民を暗殺させるような事件も起きている。
[編集] コロンビア
詳細はコロンビア内戦を参照せよ
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 歴史的記憶の回復プロジェクト 編集 飯島みどり 弧崎知己 新川志保子 訳『グアテマラ虐殺の記憶』真実と和解を求めて 岩波書店 2000年10月 ISBN 4000004484
- William Blum, The CIA, A Forgotten History: U.S. Global Interventions Since World War 2, London: Zed Books, 1986, 428p
- クリストファー・ヒッチンス 著 井上泰浩 訳『アメリカの陰謀とヘンリー・キッシンジャー』集英社 2002年
- Richard Tanter, Mark Selden, Stephen R. Shalom Bitter Flowers, Sweet Flowers: East Timor, Indonesia, and the World Community, Rowman & Littlefield Publishers, Inc., March 14, 2001, ペーパーバック ISBN 0742509680 March 21, 2001, 装丁版 ISBN 0742509672
- Patricia Verdugo, Los Zarpazos del Puma
- Gervasio Sánchez, La caravana de muerte
[編集] 外部リンク
- totse.com l CIA Death Squad Timeline
- The Honduran Republic of Chiquita
- UNHCR - Guatemala. Democracy and Human Rights
- Ezilenlerin Sosyalist Alternatifi Atilim: Haftalik Devrimci Sosyalist Gazete - Semdinli: Uprise for justice
- ディブロ アメリカのコロンビア二重政策
- Brazil: Fear for safety/death threats
- asahi.com : イラク内務省に「死の部隊」陰にシーア派民兵