日本の貨車操車場
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日本の貨車操車場の項目においては、かつて日本の鉄道貨物輸送の中枢を担った操車場(ヤード、英:classification yard)について、また操車場のその後の経過について記載する。車両基地の一般的な呼称である「操車場」については車両基地参照のこと。以下の記述では、「ヤード(英yard)」は「操車場」と同意義、また操車場とは「貨車操車場」を示すものとする。加えて、過去には数多くの鉄道会社が貨物輸送を行っていたが、いずれも国鉄に比べると極めて小規模なので、この項目でも国鉄の貨車操車場を中心に扱う。
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[編集] 操車場建設の歴史的経緯
1872年(明治5年)に開業した日本の鉄道では、創業して間もない頃から貨物輸送を行っており、やがて鉄道網が日本全国に拡大するにつれ鉄道輸送は旅客・貨物いずれにしても陸上輸送の主流となった。
貨物輸送が増大したのは、特に1906年の鉄道国有化以降である。貨物の増加に対応するため、明治末期から大正時代にかけて、それまで駅構内の付属施設(仕分線)にて行われていた貨車の入換作業を専門に行い、かつ広大な作業場を備えた操車場の建設が行われるようになった。これが操車場建設の第一期である。稲沢操車場や吹田操車場、田端操車場、品川操車場がこの時期に建設されている。品川操車場は後に客車操車場に転向し、貨車入換作業は品鶴線上に新設された新鶴見操車場に移転した。
その後二度にわたって、集中的に日本全国で操車場が建設されていく。
操車場建設の第二期は、日中戦争勃発に伴い、軍需を中心とした貨物輸送が増加した1930~1940年代である。香椎操車場や新潟操車場などが新たに建設された。
そして第三期は戦後の復興期で、やはり経済の復興にあわせて増大する貨物需要に対応するために建設された。富山操車場などが該当する。
1970年代まではこうしたヤード経由式の貨物輸送が中心であった。戦後の高度経済成長の中で、鉄道の貨物輸送は1970年(昭和45年)に輸送量のピークを迎える。
なお、ヤードといっても「ハンプヤード」、「平面ヤード」、「重力ヤード」の3種類があるが、日本の場合は大半が「平面ヤード」で、一般的に知られていたハンプヤード方式をとったのは、郡山・大宮・田端・武蔵野・新鶴見・塩浜・静岡・高崎・富山・稲沢・吹田・門司・鳥栖といった少数の(貨車入換量が特に多い)操車場だけであり、重力ヤードにいたっては一個もなかった。重力ヤードは操車能力こそハンプヤードに劣らぬものの、ヤードが全体的に坂に設置されている必要があって建設に適した場所がなかったことがその理由として挙げられる。全世界的に見ても重力ヤードは圧倒的に少ない。
[編集] ヤード経由式輸送の衰退
1960年代以降、日本国内でもモータリゼーションという社会的変化は進んでいた。その結果、旅客輸送・貨物輸送いずれにおいても自動車が台頭し、特に貨物における鉄道輸送量は大きく減少していった。自動車に比べ小回りが利かないこと、その上操車場での入換作業を要するがために到着までに時間がかかることや、いつ到着するかが極めて不正確であることがシェア低下の要因だった。
ヤード経由式輸送は、貨車の取扱量が多くてこそはじめて威力を発揮し、輸送を効率化させる。しかし1970年以降、取扱量は大きく減少していた。さらに1959年(昭和34年)からはコンテナ専用列車が定期的に走り始め、1969年(昭和44年)には東海道本線・山陽本線でコンテナ専用の特急貨物列車「フレートライナー」が登場したことで、それまでは鉱山から工場、工場から港湾などに限られていた直行輸送がコンテナによってあらゆる貨物輸送の主流となることが明らかになると、操車場系輸送の落日は目に見えてきた。
しかし国鉄は、コンテナ輸送の拡大と並んで、操車場の近代化・効率化も同時に推進した。1974年(昭和49年)に開業した武蔵野操車場のようにコンピューター(yard automatic control system、略称「YACS」と呼ばれる)による貨車仕分けの自動化や、無線操縦機関車やカーリターダー(自動減速器。線路に設置される)、リニアモーターカー(線路内に設置されたリニアモーターで駆動する貨車加減速装置)、ダウティユニット(線路内に油圧ジャッキ式のユニットを多数設置して貨車の速度を制御する)等を用いて省力化・高速化が図られたところもあった。近代化前の操車場では、貨車の突放や減速などは作業員が走る貨車の横につかまって調節するという危険なものだった(実際大勢の死者が過去に発生していた)ので、これは極めて画期的なことだった。他に、コンピューター化された操車場としては、郡山・新南陽・北上・塩浜・高崎が挙げられる。
しかし国鉄の貨物輸送が減少し、国鉄全体の収支も悪化したため全国の操車場を近代化する計画は頓挫してしまった。ゴーサントオや1980年10月1日国鉄ダイヤ改正では大幅に貨物列車が削減された。数々の効率化・合理化も空しく、1984年2月1日、ヤード経由式輸送は全廃された。その後全国の操車場の大半は廃止され、遊休地化するものも多かった。あるいは大幅に縮小されるも存続して貨物駅として再生した旧操車場もあった。さらには操車場が縮小され、別名を名乗る操車場もあるが、かつてのような有蓋車の入換作業は見られない。
以後、国鉄そしてJRの貨物輸送はコンテナや企業の私有貨車による直行輸送がほとんどとなった。
[編集] 主な国鉄の操車場
国鉄社内では、操車場を含む貨車の入換作業を行う駅(貨物駅も含める)を組成駅と総称しており、1980年10月1日時点で150を数えた。組成駅は社内規則により、本社指定組成駅、地区指定組成駅(支社による指定)、局指定組成駅(鉄道管理局による指定)の3つに重要度別に分けられていた。
その中で正式名称として「操車場」と呼ばれるのは、貨物列車の組成のみを行う独立した駅(停車場)のことで、さらに基幹操車場と地区操車場に分けられていた。まれに操車場が貨物の取扱を始める場合があり、その時は「操駅」(そうえき、操車場駅の略)に格上げされた。現在でも田端操駅と新小岩操駅が稼動している。
[編集] 本社指定組成駅
1978年(昭和53年)5月当時の本社指定組成駅の一覧である。1978年当時は31箇所あったが、1984年(昭和59年)2月1日のダイヤ改正までにすべて指定が解除(廃止)された。
- 青森操車場
- 東北三大操車場の一つ。東北本線と奥羽本線の結節点であり、対北海道輸送の拠点であった。1926年(大正15年)10月25日開業、1984年2月1日に機能停止。1986年に青森信号場に降格した。
- 郡山操車場
- 東北本線と磐越東線・磐越西線の結節点。東北三大操車場の一つ。1965年(昭和40年)10月1日開業、1977年に貨物の取扱を開始し郡山貨物ターミナル駅に昇格した。1984年2月1日に操車場機能を停止。1994年に操車場跡地に貨物設備が移転した。
- 新潟操車場
- 新潟港といくつもの貨物支線で結ばれ、新潟市の列車組成作業を担っていた。1957年(昭和32年)10月1日開業、1984年2月1日に機能停止。国鉄分割民営化直前に新潟操駅に昇格、1990年に貨物設備が操車場跡地に完成し、新潟貨物ターミナル駅に改称した。
- 長岡操車場
- 信越本線と上越線の合流地点にあたる。1931年(昭和6年)7月11日開業、1984年2月1日に機能停止。1985年(昭和60年)に南長岡駅に統合され、1996年(平成8年)にその貨物設備が跡地に移転した。
- 新小岩操駅(新小岩操車場)
- 千葉県方面の貨物輸送の拠点。新金線という貨物線で常磐線と接続した。1926年(大正15年)2月24日開業、1968年(昭和43年)に新小岩駅の客貨分離に伴い新小岩操駅として独立。1984年2月1日に操車場機能を停止。廃止時は地区指定組成駅であった。なお、1986年(昭和61年)に新小岩操車場に降格したが、国鉄分割民営化直前に再び新小岩操駅に昇格した。
- 大宮操駅(大宮操車場)
- 東北本線と上越線の結節点で、東京における貨物輸送の北の玄関口として機能した。1928年(昭和3年)3月1日開業、1961年(昭和36年)に大宮駅の客貨分離に伴い大宮操駅として独立。1984年2月1日に操車場機能を停止し、1986年に大宮操駅は大宮操車場に降格した。東北本線の操車場として一部が現存。跡地はさいたま新都心。
- 田端操駅(田端操車場)
- 構内に田端運転所を擁する。大宮・武蔵野の各操車場開業で役目を縮小していた。隅田川駅と貨物線で連絡。1915年(大正4年)5月10日開業、1961年(昭和36年)に田端駅の客貨分離に伴い田端操駅として独立。1984年2月1日に操車場機能を停止。廃止時は局指定組成駅になっていた。なお1986年に田端操車場に降格したが、1990年に再び田端操駅となった。
- 武蔵野操車場
- 付近の貨車入換を行う駅を統合する形で1974年(昭和49年)10月1日に開業。1984年2月1日に機能停止、1986年に廃止。跡地は住宅・商業施設として再開発の予定。
- 新鶴見操車場
- 日本三大操車場の一つ。大宮操車場や汐留駅と結ばれていた。北の大宮に対して南の牙城。1929年(昭和4年)8月21日開業、1984年2月1日に機能を停止し新鶴見信号場に降格した。跡地は空き地のまま。
- 東静岡駅(静岡操車場)
- 東海道本線静岡付近の列車組成作業を担う。1962年(昭和37年)10月6日開業。1984年2月1日に操車場機能を停止、1993年(平成5年)に跡地に東静岡駅の貨物設備が移転、静岡貨物駅となった。
- 米原駅(米原操車場)
- 東海道本線と北陸本線の結節点。1984年2月1日機能停止だが、廃止時は地区指定組成駅になっていた。一部がJR貨物の操車場として現存し、跡地は「米原貨物ターミナル駅」として再開発予定。
- 富山操車場
- 北陸本線とその支線における貨物輸送の一大拠点。1955年(昭和30年)10月1日開業。1968年(昭和43年)に日本で初めてコンピューターが導入された。1984年2月1日に操車場機能停止、国鉄分割民営化直前に富山操駅に昇格、1990年に操車場跡地に貨物設備が完成し、富山貨物駅となった。
- 竜華操車場
- 関西本線と城東貨物線・阪和貨物線の結節点にあり、百済駅とつながっていた。1938年(昭和13年)10月1日開業。1984年2月1日に機能停止、1986年に竜華信号場に降格。竜華信号場も1997年に廃止。跡地は竜華副都心建設予定地。
- 岡山操車場
- 岡山駅西方にあり、山陽本線・伯備線・宇野線を発着する貨車の組成作業を担った。1921年(大正10年)10月1日開業。1984年2月1日に機能停止、1990年に西岡山駅に併合され、その貨物設備が跡地に移転した。
- 東広島駅(広島操車場)
- 広島駅東側にあった。1969年(昭和44年)3月1日開業。1984年2月1日に機能停止、1995年に跡地に東広島駅の貨物設備が移転、広島貨物ターミナル駅となる。旧貨物設備跡地は、広島東洋カープの新本拠地となる球場が建設される予定。
- 高松駅
- 四国唯一の本社指定組成駅。1984年2月1日機能停止。付近に貨物ホームもあったが、高松貨物ターミナル駅に移転した。
- 門司駅(門司操車場)
- 九州の貨物輸送の玄関口。1942年(昭和17年)4月1日開業、1984年2月1日機能停止。跡地に2003年(平成15年)に貨物設備が完成し北九州貨物ターミナル駅となった。
- 鳥栖駅(鳥栖操車場)
- 鹿児島本線と長崎本線の分岐点。かつて藤井フミヤが勤めていた。1926年(大正15年)6月15日開業。1984年2月1日に機能停止、跡地に1990年に貨物設備が完成、その後鳥栖貨物ターミナル駅となる。
- 熊本駅(熊本操車場)
- 熊本駅構内南方にあった。1984年2月1日機能停止。付近に熊本駅貨物ホームがある。
[編集] 主要な地区指定組成駅
- 亀山駅(亀山操車場)
- 関西本線と紀勢本線の交点。1984年2月1日廃止。
- 直方操車場
- 筑豊炭田の石炭輸送の牙城。石炭業と共に衰退、1982年11月15日廃止。廃止時は局指定組成駅に降格していた。
[編集] 主要な局指定組成駅
- 北上操車場
- 東北本線北部の貨物輸送の拠点であり、作業がコンピューター化されていたことで知られていた。国内で最も遅くできた操車場。1984年2月1日に機能停止、1986年に廃止。現在貨物駅の建設が計画されている。
- 酒田駅
- 羽越本線と羽越貨物支線(酒田港線)の結節点。山形県庄内地方の中心。1984年(昭和59年)2月1日操車場機能廃止。
- 鼠ヶ関駅
- 山形県庄内地方と新潟県下越の境界。1972年(昭和47年)操車場機能廃止。
- 坂町駅
- 羽越本線と米坂線の結節点。新潟県北部の中心。1980年(昭和55年)10月1日新潟操車場に集約する形で操車場機能廃止。
- 新津駅
- 信越本線と羽越本線、磐越西線の結節点。1980年(昭和55年)10月1日新潟操車場に集約する形で操車場機能廃止。
- 新南陽駅(新南陽操車場)
- 旧称「徳山操車場」。山口県南部の中心。1984年2月1日に操車場機能停止、跡地に1986年に新南陽駅貨物ホームが移転。
[編集] その他
炭田地帯や鉱山付近には大小多くのヤードが存在していた(岩見沢操車場や東折尾駅もそれらの一つ)。石灰石輸送で知られていたヤードとして美祢ヤードが挙げられる。
計画されたものの、建設されずに終わったもので大井操車場がある。1960年代に東京外環状線計画が発動された時に、当時の大井埋立地にコンテナ対応の貨物駅(大井駅)と併設される形で建設が予定されていた大規模操車場である。しかし、鉄道貨物輸送の衰退に伴い、操車場の建設は取りやめとなった。その建設用地には現在、東京貨物ターミナル駅がある。
また、この項目では国鉄を中心に取り扱っているが、私鉄でも貨物ヤードを保有する会社は存在した。東武鉄道の業平橋駅付近の広大な空き地(一部は新東京タワー建設に用いられる)も、元々貨物ヤードだった名残である。
[編集] 参考文献
- 祖田圭介「国鉄時代の貨車操車場をめぐって」1~3
- 交友社『鉄道ファン』2006年12月号、2007年1月号、3月号 No.548、549、551
[編集] 関連項目
- 操車場:ヤードの種類について記載されている。
- ゴーサントオ(1978年10月2日国鉄ダイヤ改正):国鉄始まって以来の、貨物列車の大幅削減。
- 1980年10月1日国鉄ダイヤ改正:さらなる貨物列車の削減。岩見沢操車場の廃止。
- 1982年11月15日国鉄ダイヤ改正:貨物面でも合理化を推進。ヤード式前提輸送では最後の改正。
- 1984年2月1日国鉄ダイヤ改正:ヤード経由式輸送の全廃。
- 武蔵野線
- 東京外環状線
- 山手貨物線
- 東海道貨物線
- 品鶴線
- 梅田貨物線
- 物流
- 貨物列車
- 荷物列車