作新学院高等学校
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過去の名称 | 作新学院高等部 下野英学校 私立尋常中学作新館 下野中学校 作新館高等女学校 |
国公私立の別 | 私立学校 |
設置者 | 学校法人船田教育会 |
校訓 | 一校一家 自家学習 誠実勤労 |
設立年月日 | 1885年 |
創立記念日 | 9月28日 |
創立者 | 船田兵吾 |
共学・別学 | 男女共学 |
中高一貫教育 | 併設中学校に一貫コースあり |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
所在地 | 〒320-8525 |
栃木県宇都宮市一の沢1丁目1-41 北緯36度34分5.5秒東経139度51分35.4秒 |
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電話番号 | 028-648-1811 |
FAX番号 | 028-648-8408 |
外部リンク | 公式サイト |
作新学院高等学校(さくしんがくいんこうとうがっこう)は、栃木県宇都宮市一の沢一丁目にある高等学校。
目次 |
[編集] 特色
[編集] 概要
日本最大の規模と卒業生を持つ高校であり、ピークには約1万人の在校生がいた。長年、同一敷地内に別学の男子部・女子部を設置していたが、2003年、二つの部を統合し、「総合進学部」を設置した。現在、英進部、総合進学部、情報科学部の3部で、約4千数百名の在校生を擁する日本一の生徒数を誇る学校である。敷地内に幼稚園・小学部・中等部があり、安全のために車の乗り入れは禁止されている。高校の分だけで、10以上の校舎、3つの体育館、3つのグラウンドを持つ。[1]校名の「作新」は、黒羽藩校「作新館」に由来する。藩校の「作新館」は、勝海舟によって名付けられたと言われている。[2][3]廃校になった作新館の名称を継承したが、直接的な関係は無い。設立においては、田中正造らの協力があった。[4]
[編集] 教育方針
一校一家 自学自習 誠実勤労
[編集] 教育課程
3つの部に別れ、それぞれが全く異なった教育課程を持っている。授業の相互乗り入れ、単位互換等はない。また、原則として転部は行われない。
[編集] 英進部
- 旧男子部・女子部の英進コース(A'などとも呼ばれた)を元に、1988年に設置された。設置当初は英進科(国公立大学目標)進学科(私立大学目標)の2科に別れ、それぞれで募集を行っていたが、後に現在の形態になった。
国立選抜コース
- 難関国公立大、医歯薬科系大学への進学を目指すコース。2年次以降国立医理選抜コース、国立文系選抜コースに別れる。
国・私立選抜コース
- 国公立大、MARCHクラスの私立大への進学を目指すコース。2年進級時に国立選抜コースへ編入することができる。
中高一貫コース
- 1990年度より正式に始まったコース。中学での先取り学習を引き継ぎ、大学進学を目指すコース。
[編集] 総合進学部
- 男子部・女子部が、2003年に統合再編されて設置された。
大学進学系列
- 旧進学コース(A)を継承する。特進選抜コースと大学進学コースに別れる。特進選抜コースは国公立大、有名私立大合格を目標としており、かつての英進コース(A')を彷彿とさせる。大学進学コースでは系列の作新学院大学、同短期大学部への進学を目指す。
専修進学系列
- 旧専修進学コース(S)を継承する。2年次より文理に別れ、主に専門学校への進学を目標とする。
キャリア系列
- 旧就職コース(W)を継承する。就職を目標としたキャリア教育を行う。
[編集] 情報科学部
- 旧男子部・女子部にあった普通科以外の学科(商業科・情報科・電気科・電子科・美術デザイン科)を統合して1991年に設置された。2003年、女子部にあった生活科学科を編入し、現在の形になった。2006年、学科の新設・再編を行い、それに伴う学科名称の変更があった。
ビジネスサイエンス科(旧商業科→流通経済科)
- 2年次以降、トータルビジネスコースとアドバンスコースに別れる。
コンピュータサイエンス科(旧情報科)
- 2年次以降、プログラミングコースとマルチメディアコースに別れる。
電気・電子システム科(旧電気・電子科)
- 2年次以降、電気システム科と電子システム科に別れる。電気システム科は電気テクニカルコースと電気工事士養成コースに別れる。
美術デザイン科
- 2年次以降、美術コースとデザインコースに別れる。3年次に、美術コースは絵画・デザイン・彫刻の各専攻に、デザインコースはグラフィックデザイン、ビジュアルデザイン・プロダクトデザインの各専攻に別れる。
ライフデザイン科(旧家政科→生活科学科)
自動車整備士養成科(新設)
- 三級自動車整備士の養成課程(実技試験免除)である。
普通科総合選択コース(新設)
- 普通科の授業に加え、専門学科の授業を受けるコース。総合学科的な位置づけである。
[編集] 生徒会活動・部活動など
高等部時代には、伝統的に各部に生徒会が独立して存在していた。1987年までは男子部・女子部にそれぞれ生徒会が存在した。1988年、英進部設立により、英進部生徒会が設置されたが、「英進部には部活動がごく少数(文化部がいくつかのみ)しか存在しない」という理由で、英進部生徒会予算の大半が男子部・女子部の生徒会に拠出されていた。
1991年の4部時代には、それぞれの部に生徒会があり、会長・副会長・幹事(10人)の計12人の役員がそれぞれ存在した。そこで、前述の予算問題を名目上解決するために、各部の会長・副会長によって、「高等部生徒会」を編成し、予算の扱いを一元化した。
2003年の再編時は、一時的に生徒会が5つ(英進部、男子部、女子部、情報科学部、総合進学部)存在した。ただし、この年の総合進学部生徒会は幹事10名のみで構成されていた。2004年からは英進部、総合進学部、情報科学部の3生徒会に整理された。現在、総合進学部の生徒会役員構成は会長、副会長(2名)幹事(15名)である。
運動部においては、硬式野球部・軟式野球部・自転車競技部・ボクシング部・弓道部、柔道部、ラグビー部などが強豪として知られる。[5]硬式野球部は1962年に、八木沢荘六・加藤斌を擁し、史上初の春夏連続優勝を成し遂げている。1973年には江川卓を擁し、夏の大会に出場したが、2回戦、銚子商業に延長12回、押し出し四球で敗れた。またプロ野球界へOBを20名以上輩出している。[6]軟式野球部は全国制覇10回の強豪で全国最多優勝。ボクシング部は、インターハイ学校対抗優勝7回、個人優勝23人は日本一。応援部は、試合の時だけの即席応援団ではなく、今では貴重な部活動として存在している。第72回選抜高等学校野球大会で応援団優秀賞受賞した。
文化部においては、演劇部・吹奏楽部・チアリーディング部が有名である。[7]特に演劇部は、関東大会・全国大会の常連校として知られている。[8]チアリーディング部は、NHK紅白歌合戦に数回参加している。
[編集] 交通
JR宇都宮線宇都宮駅より関東バス「作新学院・駒生」行き、「作新学院前」バス停下車
登下校時にはバス停で生徒会役員による乗車指導が行われている。
[編集] その他
- 作新学院歌(第一)は、校歌としては珍しくワルツ調(3/4拍子)である。これは、「ダンスとして踊れるような曲」として作られたためである。[9]
- 現在の制服選定コンテストが学内で実施された。審査員は広末涼子や卒業生でファッションプロデューサーの大出一博、野球解説者の江川卓などであった。
- 燃焼系アミノ式のCM「ピラミッド高校生」のロケがグラウンドで行われた。
- 対外的な各部の表記順序は「英進部・総合進学部・情報科学部」(再編前は「英進部・男子部・女子部・情報科学部」)であるが、かつて(90年代初頭の)各部の力関係により、一部の校内・校外における文書の表記順として「男子部・女子部・情報科学部・英進部」(情報科学部と英進部は入れ替わることがある)が見られた。その名残か、現在でも総合進学部を最初に表記するケースが見られる。なお、英進部の旧英進科、旧進学科には、学科を示す英字略号が存在しなかった。(それぞれ英・進の1字で表記。なお、英進部内でのみE・S、保健室でのみEE・ESも用いられた)
[編集] 沿革
[編集] 経緯
1885年、船田兵吾らによって、私塾「下野英学校」として設立された作新学院は、大正末期~昭和初期の一時期を除いて、船田家による家族経営が続けられてきた。
[編集] 年表
- 1885年 - 船田兵吾らによって、下野英学校として栃木県宇都宮市馬場町に設立。
- 1886年 - 二里山(現在の塙田町、栃木県立図書館、船田教育会館などがある場所)に校舎を建築する。
- 1888年 - 私立作新館に改称する。
- 1895年 - 尋常中学校としての許可を得、私立尋常中学作新館に改称する。
- 1899年 - 旧制中学校としての許可を得、私立下野中学校に改称する。
- 1919年 - 下野中学校に改称する。
- 1925年 - 前年に起こった事務職員の卒業証書偽造事件の影響により、経営が悪化、半官半民の財団法人下野中学校に改組される。
- 1940年 - 全民の財団法人に改組される。
- 1941年 - 財団法人作新館高等女学校が、清水町(現在の千波町)に設立される。
- 1946年 - 前年校舎を焼失した作新館高女が、陸軍第14師団輜重兵第14連隊跡地(現在の一の沢キャンパス)に移転する。
- 1947年 - 下野中学校が騎兵第18連隊跡地(現在の一の沢キャンパス、旧女子短大付近)に移転する。作新館高女と下野中学校が合併し、作新学院高等部(共学)となる。
- 1952年 - 高等部を男子部・女子部の併設に改組する
- 1988年 - 英進コースを独立させ、英進科を設置する。
- 1991年 - 商業科・情報科・電気科・電子科・美術デザイン科を独立させ、情報科学部を設置する。
- 2003年 - 校名を作新学院高等学校に改称、同時に学部再編を行い、男子部・女子部を統合し、総合進学部を設置する。女子部にあった生活科学科を情報科学部に移す。
- 2006年 - 情報科学部の学科再編を行い、自動車整備士養成科・普通科総合選択コースが新設される。
[編集] 著名な関係者
[編集] 出身者
- 政治分野
- スポーツ分野
- 天知俊一(元中日ドラゴンズ監督)
- 八木沢荘六(元千葉ロッテマリーンズ監督)
- 島野育夫(元阪神タイガース二軍監督・星野仙一のパートナーとして有名)
- 加藤斌(元中日ドラゴンズ)
- ヒデカズ(元福岡ダイエーホークス)
- 江川卓(元読売ジャイアンツ・現野球解説者)
- 落合英二(元中日ドラゴンズ)
- 神長英一(日本通運硬式野球部監督)
- 五十嵐久人(モントリオールオリンピック体操男子団体総合金メダリスト・新潟大学教授)
- 高岩映善(NECラグビー部監督)
- 神山雄一郎(競輪選手、アトランタオリンピック、シドニーオリンピック日本代表)
- 古口哲(ボクサー、鬼塚勝也のトレーナー)
- 小口雅之(ボクサー、「づらボクサー」として知られる)
- 二瓶卓郎[3](日本空手松濤連盟所属、2006年アジア大会男子組手70キロ級銅メダリスト)
- 渡辺かをり(プロゴルファー)
- 小林庸尚(大宮アルディージャJリーグサッカー選手)
- 飯嶋則之(競輪選手、2007年オールスター競輪でG1初優勝。師匠は同校先輩である神山雄一郎)
- 芸能・音楽分野
- 染谷恵二(ラジオ日本アナウンサー)
- 斉藤和義(シンガーソングライター)
- 東京ぼん太(コメディアン)
- 高内春彦(ジャズギタリスト、松坂慶子の夫。デザイン科卒業)
- 藤水名子(作家)
- 黒乃奈々絵(漫画家)
- 谷口宗一、加藤英幸(元BAKU)
- 柴野真理子(しばのまり子ボーカル、吹奏楽部OG)
- その他
- 大出一博(ファッションプロデューサー)
- 安藤勇次(画家)
- 君島龍輝(版画家)
[編集] 教職員
- 山本理(硬式野球部元監督・部長 甲子園などの全国大会にあわせて16回出場させ、優勝3回・準優勝1回・ベスト4進出2回などの実績を残した。下野県民賞受賞。とちぎテレビ高校野球番組解説者。)
- 野沢慶次郎(硬式野球部元監督。春夏連続優勝時の監督。NHK高校野球番組解説者。)
[編集] 脚注
- ^ 『百十年誌』作新学院編、1995年
- ^ 「作新学院同窓会 作新学院の歴史」[1]
- ^ 大田原市立黒羽小学校ホームページ[2]
- ^ 『百年誌』作新学院編、1985年
- ^ 『百年誌』作新学院編、1985年
- ^ 『作新学院硬式野球部 栄光の100年史』作新学院硬式野球部100年史出版実行委員会編、2003年
- ^ 『百十年誌』作新学院編、1995年
- ^ 『平成18年度栃木県高等学校総合文化祭演劇研究大会パンフレット』栃木県高等学校文化連盟演劇部会・栃木県高等学校演劇研究大会実行委員会編
- ^ 『作新学院九十年』作新学院「九十年」編集委員会編、1975年