加藤斌
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加藤 斌(かとう たけし、1944年5月21日-1965年1月4日)は元プロ野球選手(投手)。栃木県宇都宮市出身。
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[編集] 来歴
作新学院高等学校ではエースだった八木沢荘六の控え投手として主にリリーフを担当していた。
1962年、作新学院は八木沢などの活躍もあって選抜高等学校野球大会に優勝、続く夏の全国高等学校野球選手権大会栃木県大会も勝ち上がり、春夏連覇に期待をかけられた。春の優勝後、加藤は野球部長の勧めで投法をオーバーハンドからアンダーハンドに転向している。
そんな中、作新学院にハプニングが襲い掛かった。甲子園大会直前、エースの八木沢が赤痢にかかってしまったのだ。そこでチームは加藤を主戦投手として戦うこととなった。1回戦、2回戦は苦戦したものの勝ち上がり、準決勝、決勝では共に加藤が敵チームを完封。見事に八木沢の代役を勤め上げ、作新学院は史上初の甲子園春夏連覇を果たした。
甲子園優勝投手となった加藤にはプロ野球からオファーが殺到、獲得競争が始まった。当初は読売ジャイアンツ入りが有力視されていたが、中日ドラゴンズはある作戦を立てた。当時コーチだった土屋弘光と加藤の姉を見合いさせて加藤に接近しようというものであった。果たしてお見合いは見事に成功、加藤も中日入りすることとなった(詳細は土屋の項も参照)。
プロ入りした加藤は、1年目から一軍で登板し、初勝利も挙げている。
勇躍を期待された加藤だったが、2年目のオフに悲劇が襲った。
1965年1月3日、帰郷していた加藤は宇都宮市内で開かれた作新学院のクラス会に出席、その2次会にも参加するため友人を乗せて自家用車で日光市に向かっていた。今市市(現在は日光市に合併)内を走行中、凍結した路面でハンドル操作を誤り、民家のブロック塀に衝突した。加藤は意識不明の重体、同乗の友人も軽傷を負った。病院に搬送された加藤は意識を取り戻すことなく、翌4日に死亡した。享年20。
[編集] 通算成績
35試合 3勝4敗
[編集] 背番号
- 26(1963年-1964年)
- なお、この背番号は後に作新学院の後輩にあたる落合英二もつけている。