ブルガリアの歴史
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ブルガリアの歴史を以下に記述する。
目次 |
[編集] 古代
いまのブルガリアにあたる地域には古代にはトラキア人が居住していた。紀元前4世紀にはアレクサンドロス大王に征服され、ギリシア化した。さらに、紀元前1世紀にはローマの属州となった。
[編集] 中世のブルガリア
[編集] 第一次ブルガリア帝国
詳細は第一次ブルガリア帝国を参照
ローマの衰退にともないゲルマン民族のゴート人がこの地域に侵入。続いて遊牧民族のアヴァール人が侵入してきた。そして6世紀までにはスラヴ人(南スラヴ人)が居住。これをテュルク系のブルガール人が征服にて681年にブルガリア帝国を建国した。ブルガール人は先住民族のスラヴ人と同化してブルガリア人を形成し、南方の東ローマ帝国からビザンティン文化を受容し、9世紀の終わりにはボリス1世のもとでギリシア正教に改宗した。これによって異教の弾圧が進んだため、保守的なブルガール人の貴族の反乱が起こったが、これらは鎮圧された。しかし、これによってブルガリアにおけるギリシア正教の信仰が定まったわけではなく、ボリスの引退後に王位を継承した長男のヴラディミルは、東フランク王国に接近しつつ異教信仰の復活を図った。このため、父ボリスによって廃位され、3男シメオンが王位につくことになった。このシメオン1世(位893年-927年)のもとで最盛期を迎え、マジャール人を西方に追いやりつつ、一時は東ローマ帝国を軍事的に圧倒し、コンスタンティノープルへの入城も果たした。次王ペタル1世(位927年-970年)は、東ローマ皇帝と婚姻を通じて姻戚関係を結び、正式に「ブルガリア人の皇帝」の称号を得た。しかし、親東ローマ政策をめぐり国内での政治的分裂が進むなかで、再び東ローマ帝国が攻勢を強めていった。10世紀後半には東ローマ帝国の攻撃でプレスラフが占領され、ブルガリア皇帝ボリス2世らが捕虜とされた。この際に国土の東部が失われ、1018年には、東ローマ皇帝バシレイオス2世によって残りの国土も征服された。
[編集] 東ローマ帝国の統治
東ローマ帝国の統治下に入ると、テマ制(セマ制)がブルガリアにも適用された。このころより農村にまで貨幣経済が浸透し、東ローマ帝国による徴税が強化されたことで、反東ローマ反乱があいついで起こった。こうした中で、東ローマ帝国側が11世紀後半以降、セルジューク朝や十字軍の攻撃によって弱体化し、プロノイア制の普及など分権化が進んだ。こうして、ブルガリア地域を統制することが困難になっていった。
[編集] 第二次ブルガリア帝国
トドル(のちのペタル2世)とアセン(のちのアセン1世)という二人の兄弟が、1187年に東ローマ帝国から独立を果たした。都をタルノヴォ(現ヴェリコ・タルノヴォ)に定め、ブルガリア人のほか周辺民族も統治下においた。13世紀初頭には、東ローマ帝国が第四回十字軍によってコンスタンティノープルを占領されるなど分裂状態にあったため、再びバルカン半島に版図を拡大した。イヴァン・アセン2世(位1218-41)のもとで最盛期を迎え、周辺諸国とは婚姻政策を通じて良好な関係を維持し、ブルガリア独自の通貨を発行するなど経済振興も図った。しかし、徐々に東ローマ勢力が復活してきたうえ、帝国内でも反乱が多発し地方の封建貴族が自立を進め、分裂状態へと陥っていった。ついにはセルビア王国との抗争で国力を疲弊させ、オスマン帝国によって併合された。
[編集] 近代のブルガリア
19世紀に民族主義の気運が高まり、1853年のクリミア戦争ではロシア軍の諜報員や軍事顧問が数多く派遣されて情報組織がつくられた。しかし、バルカン半島の戦線が早々に膠着した上に主要大国が敵対あるいは中立するかたちとなったためロシア軍の支援が得られず組織も目立った成果を挙げることなくオスマン帝国の弾圧にあって崩壊。パリ講和会議では当初の目的だったスラヴ人保護は棚上げにされ、さらにブルガリアは深刻な経済危機に見舞われることになった。1876年には四月蜂起と呼ばれる武装蜂起が起こったが、オスマン帝国はこれを鎮圧し、多くのブルガリア人が犠牲となった。この事件をきっかけに南下政策をとるロシアが「バルカン解放」を唱えてブルガリアに出兵(汎スラヴ主義)し、1877年に露土戦争が勃発する。この戦争ののちサン・ステファノ条約に基づきブルガリアは自治権を獲得。一旦は大ブルガリア公国が建国されたものの、ブルガリアがロシアの影響下におかれることを危惧した列国はベルリン会議によってブルガリアの処遇を変更した。この結果、バルカン山脈を境に北部がブルガリア自治公国、南部が東ルメリ自治州、西部のマケドニア地方はオスマン帝国領に復するとされ、大ブルガリア公国は分割された。この時マケドニア地方のオスマン帝国からの自治を求めて内部マケドニア革命組織(内部マケドニア・アドリアノープル革命組織)が結成され、1903年のイリンデン蜂起を引き起こすなど、活発に反オスマン帝国活動を行った。
1908年に青年トルコ人革命がオスマン帝国で勃発すると、オーストリア・ハンガリー帝国の助力でブルガリアは独立を宣言し、大公フェルディナンド1世はツァーリ(国王、皇帝)を称する。翌年1909年4月19日にオスマン帝国が、すでにブルガリアの独立を承認しているロシアとの戦争の賠償の肩代わりにするという条件でブルガリア政府と議定書を交わし、ブルガリア帝国として独立。ロシアに続き、列国もこれを承認する。その後セルビア、モンテネグロ、ギリシアとともに第1次バルカン戦争を戦い勝利する。この結果ブルガリアは領土拡大に成功するがマケドニアの領有をめぐりセルビア、ギリシャと対立。1913年第2次バルカン戦争を起こす。この戦争でブルガリアは敗北。マケドニアはセルビアに奪われ、ドブロジャ地方をルーマニアに奪われ、更に東トラキアはオスマン帝国に奪われる。 第一次世界大戦には中央同盟国側で参戦し、敗北。ヌイイ条約ではエーゲ海沿岸をギリシアに割譲した。敗戦後、ブルガリアの政局は混迷したため、ボリス3世の親政が行われた。
[編集] 第二次世界大戦から冷戦、民主化
第二次世界大戦では枢軸国側に着く。1941年にユーゴスラビアとギリシアが枢軸側に降伏すると、ユーゴスラビア南東部とギリシア東部はブルガリアが占領統治を行った。ブルガリアはソ連に対し宣戦布告を行っていなかったが、1944年9月5日にはソ連軍がブルガリアに宣戦布告し、領内への進入を開始した。ブルガリア軍は無抵抗であった。9月9日にはクーデターにより、政権交代が行われ、対ドイツ戦を開始することとなった。
1946年には祖国統一政府により、国民投票の結果王政が廃止され、ブルガリア人民共和国となった。 オスマン帝国からロシアに解放されたこともあり、冷戦の時は親ソ連の体制をとりソ連16番目の共和国と呼ばれる。
ゴルバチョフが登場しペレストロイカが展開され、社会主義陣営に動揺が生じ、1989年にベルリンの壁崩壊に象徴される東欧民主化の運動はブルガリアにも波及した。1989年11月10日にはジフコフ共産党書記長は辞任。これを受けて非共産主義勢力の活動が活発となり市民団体が組織された。そして11月18日には環境保護と情報公開を求める市民団体が首都ソフィアのアレクサンデル・ネフスキー広場で集会を開催。5万人を越す民衆で広場は埋め尽くされた。集会では35年間にわたるシジコフ政権への不満と批判が噴出、さらに共産党1党独裁の放棄、複数政党制の導入、言論出版の自由、集会の自由、自由選挙の実施が叫ばれ、参加者も拍手でそれに呼応した。翌月には反体制同盟「民主勢力同盟」が発足し、共産党独裁体制は崩壊した。1990年には国名を「ブルガリア人民共和国」から「ブルガリア共和国」に改称。1992年には、民主化後初めての選挙が行われ、民主的勢力同盟のジェレフ大統領が再任された。
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