管理教育
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管理教育(かんりきょういく)
管理教育(かんりきょういく)とは、学校(教員)が一元的に児童・生徒の在り方を決定し、これに従わせる様式の教育方法、ないしその方針である。
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[編集] 概要
これらの教育方法では、児童・生徒が学校の意思決定に参加しない。特に初等教育では、児童らに判断力が乏しく自律的に何らかの行動指針を決定したり、あるいは行事の計画を行ったりということは大人の助け無しには困難ではあるが、一般に中等教育よりは生徒会などの形で一定の自主的な管理・運営機関を設けて学校運営に関与する。しかし管理教育では、自主性をもって生徒らが学校の意思決定に参加できず、専ら教員の意向に従うことを求められる。
この中では、指導上でやむを得ないと考えられる範囲を超えた規則や罰則などを否定的に捉える上で「行き過ぎた管理教育」として問題視される傾向を含み、日本の戦前の教育全般を指しても使われる。ただし、戦前でも大正デモクラシーの時期に、児童の自主性・自発性を重視しようとする大正自由教育運動が盛り上がりを見せた。
これらは教育の中に「社会性を育む(協調)」が組み込まれ、個人の欲求や希望よりも、社会全体の統制が優先されることに適応させようという管理社会的な理念も在るが、同時にこれら生徒の主体性を否定し、ともすれば性悪説的な理念に基づいて、管理と統制が無ければ個人は社会の中では無価値だという発想も見て取れる。
戦後は、1970年代から1980年代の義務教育が、比較的管理教育の傾向が強かったとされる。当時の文部省としても、児童・生徒が協調性のある労働者に育ってくれることを望んでおり、教員たちも児童・生徒の団結力を培おうとしていた。その過程において、管理教育と批判される傾向が生まれた。こと管理教育として槍玉に挙がるようなケースでは、管理側の都合のいいように各々の個性を無視ないし否定するなどといった部分が殊更問題視される。
ただ管理教育が攻撃される一方で、無秩序な集団を見て見ぬふりをする放任主義的な姿勢に疑問を呈する声も無い訳ではなく、こと学生運動が学校占拠など集団暴力的な側面で社会問題化した時代や、校内暴力が激化した時代、あるいは学級崩壊という言葉が取り沙汰された時代には、こういった問題行動に対するアンチテーゼとして、管理教育ないし強権的な管理体制を支持する個人ないし団体も見られ、教育現場では依然として試行錯誤が続けられている。
[編集] 管理教育的とされることのあるもの
以下に挙げるのは、過去の日本国内の教育で行き過ぎた管理の具体例として問題視されたり疑問が呈され、一部では撤回された管理内容である[要出典]。こういったものの中には、事故や事件により負傷ないし死亡した生徒やその関係者が問題を提起して社会運動になったり、あるいは裁判で争われたケースも見られる。
- 遅刻を理由の如何によらず容認せず、徹底させる意図で危険行為を辞さない態度
- 登校時の校門指導と校門閉鎖
- 生徒の意見を聴取せずに制定される校則
- 体罰の行使
- 朝礼、業間体育(全校統一授業 2時限目と3時限目の間に行われるためこの名がある)への強制参加
- 軍隊的な体育授業(集合時や準備体操時に大声を出すよう強制され、声が小さいとやり直させるなど)
- 運動会(体育祭)における行進・組体操・ダンス・マスゲーム等の長期にわたる反復練習、体罰や言葉の暴力も伴う厳しい指導を通して形成される統一された動き
- 強歩大会の強制参加
- 課外(早朝、定時後)の学習強制
- 運動部活動の加入強制
- 高校野球(日本高等学校野球連盟)
- 礼儀作法の重視や服装規定などが、人権の観点から管理教育的とする見解もある。
- 学習指導要領への服従強要
- 教育勅語
- 持ち物検査と私物の没収
- 学区外外出時の事前届出制
- 非常に細かい行動規則
- n度の傾きで挙手する
- 会釈時の上半身の角度
- 授業時に鉛筆、消しゴム、教科書、ノート等の置く位置の指定
- 学習成果の公表(各人のテスト点数により色の異なるシールを貼った表を掲示する)
この他、オートバイ(原付自転車)の禁止に絡んで運転免許の取得に厳しい罰則を設けることや、赤毛の生徒に髪を黒く染めることを強要したケース(ミックスである金髪の生徒には強制されていない)、禁止された物品の校内持ち込みをチェックする上で個人のプライバシーに関わるような部分にまで踏み込んだ所持品検査なども問題視された。これら問題視されたケースでは、個々の理由を無視して規則の徹底と画一化を押し通した結果として、実質的に問題とはなりえない生徒の排斥といった事態に至った事例も報じられている[要出典]。
[編集] 管理教育と自治
学校生活においては、児童や生徒は社会に出る準備段階として、自らの集団を自治する活動が体験学習的に行われている。勿論初等教育では教員などに拠るサポートも行われるが、中等・高等教育では段階的により高度な自治権が与えられ、規則の策定や運用基準の判断、個々の事例に於ける判定などといった活動も行われる。過度の管理教育がなされている場合では、こういった自治権は制限され、場合によっては何ら実権を持たない・単に上意下達的に命令を伝える場に成り下がっている場合もあり、そもそもそういった自治管理団体が存在しない場合すらある。
- 小学校
- 児童会がある。高学年の児童が役員を担当しているが、小学生段階では自律が困難であるので、社会参加の訓練もしくは自治活動の模擬体験という性質をもっている。教員が適切な指導・助言を行う必要がある。これらは学校側の意向を児童らに伝達する場であったり、特に重要ではない細々した校内や行事の決定事項を児童らに委ねるなどの活動を通して、自主性・自律性を育むものと位置付けられている。
- 小学生段階での意思決定訓練としては、児童会活動よりも、ゆとり教育の象徴的存在である総合的な学習の時間を活用した方がより児童の発達に適合した訓練になるとも見られ、ことクラス内や班内での取り決めなど、様々なレベルでの意思決定活動への個人の参加を通して、各々が集団の中で意思決定に参加するという体験をすることも期待されよう[要出所明記]。
- 中学校・高等学校
- 生徒会がある。ただし生徒の自治組織ではなく、あくまで教育の一環であり、生徒会が全会一致で決めたことでも職員会議で否決できる。児童の権利に関する条約以降、校則や制服に対する要望も学校が聞き入れる傾向にあり、生徒らの要望を集約して、学校側と交渉する立場を取る。団塊の世代による1970年前後の学園紛争の時期は、これの影響を受けた生徒が生徒会を取り仕切り、生徒会の発言力が強まった。(この管理教育への反抗による学園紛争が、さらなる管理教育の締め付けにつながっていったとの意見も多い)なお、この時期、千葉県立千葉高等学校の生徒会が廃止されるという事件が発生した。それから30年以上経った現在も千葉高校には生徒会なるものは存在しないままである。また、学年単位の級長会のような組織もあり、生徒会よりも顧問の教師の権威が強く生徒たちから最も恐れられていた場合もある。
- 校則の可否に関しては、学校側の意向が重視されるものの、生徒会内部で議論され、これが変更に追い込まれるなど大きな運動を起こすことも無いことではない。また行事などでは、全体の進行や運営に際して一定の自治権を発揮する校風を持つ学校も存在し、イベントの発案や各々の出し物の可否・調整などを行う事例も聞かれる[要出所明記]。公立中学校において1970年代に生徒により教師側と服装などに関して交渉し「男子の長髪、体育時の女子のトランクス(短パン)着用可」で合意したものの1980年代に入ったとたんに「男子の丸刈り、女子のブルマー強制』が教師側から一方的に通告された例があり、その中学校は校内暴力などが発生した例もある[要出典]。
- 大学
- 自治を持つ大学と持たない大学とに大きく分かれる。
- 自治を持つ大学の学生は、学生自治会は労働組合と同様に、学校当局側と対等に交渉できることが多い[要出典]。これらでは施設運用の裁量権を持っていたり、或いは学内に存在する様々な集団の折衝・調停といった活動による自治運営も聞かれる。会報の発行などにより学校OBや入学希望者に情報提供を行うなどして、校外にまで一定の影響力を持つ大学も見られ、こういった自治運営が校風全体にまで影響を与えているケースもある。
- 自治の無い大学は、学生自治会は存在しないか、あったとしても当局の助言と指導を受けた上での活動となる。
[編集] 管理教育の地域性
[編集] 千葉県
- 1980年代から1990年代前半、「東の千葉、西の愛知」と呼ばれる管理教育の雄として有名だった。
- 特に松戸市、柏市などの東葛地域北部で校則が厳しく、野田市、流山市、我孫子市などでは全ての中学校で丸刈りを強制する校則があった。
- 体罰もしばしば問題になった。我孫子市のある中学校の生徒3人が、柏市内の喫茶店に置かれていた落書き帳に体育教師の悪口を書き込んだところ、同校の生徒が当該教師に密告し、書き込んだ3人は放課後に当該教師(「先生は時には裁判官であり、警察官であり教師なのだ」と発言)から殴る蹴るなどの激しい体罰を受けた[1]。また、柏市内のある中学校では「第2会議室」と称する部屋でしばしば体罰が行われ、生徒の間で「リンチ室」と呼ばれていた。
- 流山市のある中学校では修学旅行時、駅のホームで衆人環視の中、「集合の歌」と称して生徒全員に輪唱をさせていた[1]。
- 東葛地域北部の中学校では現在も登下校時を除いて(体育以外の座学授業時も)学校指定のジャージを着用する。夏季(6~9月)は座学授業や清掃時には半袖の体操服とトレパンを着用する(ブルマーの廃止後は、体操服に短パンまたはハーフパンツで過ごす生徒も多い)。
- 柏市内の一部の小学校ではかつて、登下校時を除いて体操服、短パン、ブルマーを着用させた。このことへの慣れにより、中学校でのジャージ着用も抵抗無く自然と受け入れられた。
- 八千代市の小・中学校ではかつて、背番号若しくは学級番号と姓を入れたゼッケン付きジャージ着用、小学校では2時間目と3時間目の間に軍隊的な「業間体育」が全児童に強制で行われていた[2]。市内の某小学校長が「『作戦要務令』の内容は指導の参考になる」と発言し物議を醸す。なお、「業間体育」そのものは鎌ケ谷市・我孫子市・白井市の小学校でもあったが、内容は縄跳びや持久走、球技など通常の体育授業と変わらないもので、軍隊的要素は無かった(全児童への強制という点は同じ)。
- 中学校、県立高等学校の体育の授業は概ね軍隊的であった。船橋市や市川市、柏市などの公立中学校では、1990年代まで体育の授業や体育祭、課外活動において学校長・来賓に対しナチス式敬礼を強要していた(ただし学校長は答礼しない)[要出典]。
- 学校によっては県民体操の「なのはな体操」を短期間に強制的に覚えさせられ、正確に出来なければ体罰が行われた。
- 船橋市の私立高校では現在も旧日本海軍で行われていた体操を自校体操と称し体育祭で披露している。尚同校では体罰や刈り上げ強制が日常的に行われていて問題になっている。
- 学校給食の指導も厳しく、無言で時間内に食べ終わることを強制する。担任教員にもよるが、給食時間に私語をすると「つばが飛ぶ」などと叱責されることがあった。また給食を残すことが許されず、放課後まで残してでも全部食べさせたり、給食を残した児童が教員に仰向けに押さえ付けられ、給食を口に押し込められることも起こった。これらは偏食(好き嫌い)をなくすためという大義名分があったが、トラウマにより好き嫌いをむしろ助長したり、時間内に食べ終えようとするため、よく噛まないで食べることが習慣化するといった弊害を生んだ。なお、千葉県は「三角食べ」(食べる内容の順序の決まり)強制の発祥の地とされる。
- 松戸市内の小学校では校内全域の廊下と階段にセンターラインと横断歩道の白線が表示され、児童は廊下通行の規則に従わなければならず、違反者はその場で体罰を受けた。また、児童で組織される「交通安全委員会」が廊下の通行を監視し、規則違反者は発見次第、取り押さえて記録をし、その場で体罰を行使する権限を与えられていた[要出典]。なお、松戸市には交通ルールを指導する市立の交通公園が設置されており、ここでも児童は安全指導を受ける[3]。
- 正規のPTAを組織させないで学校長主導の保護者組織をつくり、管理教育や体罰を推進するための組織運営をする。
- 社会の流行を追うこと、社会に関心を持つことを禁止された。流行りの文具を使用禁止、流行歌を歌うことを禁止、ゲーム禁止、趣味の禁止など[要出典]。
- 生徒が授業中にあくびをした原因が深夜放送であると発覚したところ、教員が家庭に乗り込んで来てラジオを没収、破壊した例もあった[要出典]。
- 生徒を管理するために暴力的な生徒を教師が利用する一方で、見せしめとして苦情の来ない生徒や大人しい生徒への執拗な嫌がらせや体罰を行う[要出典]。
- 管理教育に対する生徒の不満が高まってくると「こんなことが教育委員会にばれれば先生は教師を辞めなければならない。しかし君たちのためにやっているんだ。」と教員が発言し、管理教育を正当化する説教がしばしば行われた[要出典]。
- 学区制導入の当初は過剰な学区規制が敷かれ、一定の成績を持つにもかかわらず学区外の高校への受験を認められない事態があった[要出典]。
- 公立の学校はかなり改善されたが今なおそういった風土が残っている地域もある。また、私立高校などでは現在でも叩き棒で日常的に体罰を加えている場合がある[要出典]ため注意が必要である。
[編集] 愛知県
- 名古屋、豊橋、一宮、岡崎など戦前からの都市部以外の旧郡部を中心として、一部の中学校と高等学校で比較的強いと言われる[要出所明記]。同県の教育を象徴するのが「形から入る教育」という言葉である[要出典]。旧制第八高等学校も初期の頃は、自由・自治を謳った他の高校と一線を画さんと応援団の禁止、教練の導入、寮雨(外にあるトイレまで行かず、自分の部屋の窓からの立小便)の禁止、服装管理等の政策が行われた。しかし徐々にそれは緩んでいったそうである。
- 小学校
- 中学校
- 岡崎市、新城市、宝飯郡の一部の公立中学でかつて丸刈り校則が問題となった[要出典]。
- 丸刈り校則だけでなく、他市町村への外出に教諭の許可を取って生徒の行動を監視している中学もある[要出典]。
- 高等学校への進路指導も管理色が強く、尾張・三河の二大学区制の建前(尾張を名古屋市内とそれ以外と分け、三河を東西で分ける「裏学区」という見方もある[要出所明記])ながら、中学校が管理することで、中間成績層の生徒の進学先が所在中学校の周辺に制限され、所在中学校との交流の少ない高等学校への進学希望にクレームを付けられることがある[要出典]。実際の学区制以上に高校進学が不本意に変更させられるケースも生じ、一部難関高と底辺高以外は二大学区制の建前が運用されていない。また、高校側でも旧豊田市内の高校が、北設楽郡出身の中学生を学区外入学でないにもかかわらず、ボーダーラインで不合格の対象として入学を規制したケースがあり、旧稲武町が北設楽郡から東加茂郡に郡を鞍替えする原因となった[要出典]。
- 高等学校
- 県立東郷高等学校(1968年創立)で、「マル東訓練」(時間割表に「○に東」の記号で表されていた為この名がある)という軍事教練まがいの集団行動訓練が行われ、スパルタ式の代表校と批判を浴びることがある(1982年には訓練の強制を苦にして生徒が自殺している)。愛知県の管理教育実施校の代名詞とされており、愛知県立天白高等学校、愛知県立豊明高等学校と共に「3T」と称されていた。
- 東郷高校創立以降の新設県立高校も、東郷高校に類似した管理教育色の強い高校が多く、新設の県立高校ほど、生徒の行動を厳しく規制する校則を採用している高校、厳しい規律の校風の高校が多い。
- 県立東郷高等学校設立の背景には、1970年安保時の全共闘運動が高校まで拡大したことにあり、これに手を焼いた愛知県教育委員会を中心とした保守的な教育者たちが糾合し、「健全な教育の確立」を目指し急遽設立したという[要出所明記]。特に東郷高校設立時には、東郷町(この町名は東郷平八郎に由来するという)に校舎は無く、県立明和高校の休眠校舎を借用して開校。週末は東郷町の校舎建設予定地に生徒を「体育の授業」として建設現場での作業に従事させていた。
- 東郷高校での「管理教育」が「不良化」「反抗化」を阻止出来ると評価した愛知県教育委員会はその後、高度成長終了後も止まない愛知県への人口流入を背景に、県下に続々「管理教育高校」を設立。新設の「管理教育高校」には、前述の「3T」で「高校生を管理する楽しみ」を知った[要出典]教師たちを「幹部教員」として派遣した。
- 新設の「管理教育高校」が、名古屋市周辺の旧郡部に多く建設されたことからも、人口のドーナツ化もさることながら、愛知県教育委員会による「管理教育」による愛知県の保守化を狙ったことが伺える[要出典]。
- また、この「管理教育高校」の新設を強く後押ししたのが、県教育委員会出身で時の知事・仲谷義明であることは県下では周知である[要出典]。仲谷は県教育委員会時代に、旧制中学を母体にした有名校を学校群化して、弱体化を図ったこともある(しかしながら自らの子息を「学校群」にも「管理教育高校」にも入らない高校に入れたことで強く批判された[要出所明記])。
- 反面、旭丘高校、時習館高校等旧制中学以来の難関県立高では校則が比較的緩い高校が多く、「一種の学校階級社会を生んでいる」という意見がある[要出所明記]。
- 入学試験で内申書を重視する点数配分から、上記の難関県立高の受験は15歳の春に事実上限られるため、新設県立高の管理教育が「過剰ともいえる地方国立大学への受験傾向を生む原因、名古屋に関東のMARCH、関西の関関同立のような早慶に次いで全国各地で認知され、人気も高い私立大学が育たない原因」とする意見もある[要出所明記]。
- 全体指導の際には「周りの高校よりも緩い」という言葉が多用される[要出典]。しかしながら、教師が主張する「周りの高校」に該当する学校も愛知県立であり、比較は無意味である。
- 愛知県内の私立高校も一部の難関校を除いて同様に管理教育色が強く、県立高校の対抗馬となっていない。
- かつては、こうした指導が社会人になって以降役立てられているという評価もあったが、学校・教師が児童・生徒の心身に対して干渉できる範囲を逸脱しすぎているという評価も根強かった[要出所明記]。近年では、現場からのイノベーションが企業経営において重要視されるなど社会通念の変化によって、独創性のあまりにも欠けた労働者は歓迎されなくなり(指示を受けるまで動けない、“歯車の一個”以外に使い道が無い)、前者の意見は一時の勢いを失っている[要出所明記]。
- 一方、教育委員会が愛知県から独立している名古屋市は愛知県への対抗意識が強く、その影響か名古屋市立の高校は自由な校則、校風の学校が多い[要出典]。
[編集] 山梨県
- 1990年代前半まで山間部を中心に丸刈り校則のある中学校が多数存在した。
- 校歌詠唱の際、声が小さい者がいた場合連帯責任で学年単位で居残りをさせられ、納得するまで歌わされる高校がある。また歌わない者に対しては全校生徒の前で糾弾され、ひきずり出されるケースもある[要出典]。
- 山梨県は強歩大会の距離が他と比べて特に長い[4]。それに対し喘息持ちなど健康面において参加することができない者にも参加を強制したり、また主に運動部や学級によっては本来の制限時間より更に厳しい目標時間内をたてられてその時間内に走破出来なかったり決められた順位内に入らなければ罰を受ける所もあった[要出典]。そのため罰を恐れて無理なペースで走破しようとした生徒が途中で突然死したり交通事故に巻き込まれるケースが発生している。
- 山間部の小学校では朝に全校生徒が学校の周囲を裸足で走らされるところがある[要出典]。
[編集] 兵庫県
- 神戸や姫路、県北部、淡路島(洲本市を除く)の公立中学で丸刈り校則が問題になった。神戸は海軍、姫路は陸軍の伝統が強いためにこのような制度が取られていたとされる[要出所明記]が、これは不登校の原因にもなった。
- 私立では神戸の六甲学院、播州では白陵高等学校も丸刈りを採用していた。一方で淳心学院高等学校など自由な校風を謳う学校も存在した。
- 1990年、神戸高塚高等学校で門限間際に登校しようとした生徒が、教諭が閉めようとした校門に挟まれて死亡する事件が発生した。
- 旧多紀郡(現・篠山市)のある中学校では、「自宅から電柱3本以上の外出は制服を着用」など、学校内外の生活について校則で細かく定めていた[要出典]。
[編集] 長崎県
長崎県には旧陸軍第46歩兵連隊があったのでその伝統が残り[要出典]長崎県立国見高等学校サッカー部での丸刈り義務付けと東京国立競技場での入場行進の際の軍隊調の行進方法は典型的である(丸刈り義務は茨城県立古河第一高等学校サッカー部でも同様だった)。
[編集] 南九州(熊本県・宮崎県・鹿児島県)
- 早朝、定時後、長期休暇中の強制学習で生徒を管理し、国立大学への現役合格者を多数あげることで有名な学校が、鹿児島県、宮崎県といった南九州に多い。鹿児島県立甲南高等学校が代表例である。但し、大学進学後、大学を留年・中退する生徒が多いことで問題視されるようになった[要出所明記]。なお、甲南高校の教育方針は、愛知県の五条高校、岐阜県の可児高校にも導入され、甲南高と同様、その管理色が問題視されることがある[要出所明記]。
- 宮崎県では、高校になってもフルネームの名札を着用させるケースが多い[要出典]。
- 鹿児島県では現在も丸刈り強制の校則が存在する中学校がある[要出典](奄美大島、喜界島、徳之島など)。
熊本県では2000年以降も、多くの中学校で丸刈り校則が残っていたが、2006年には丸刈りを強制する中学校はなくなった[要出典]。 学校側が、かたくなに続けていた丸刈り校則を廃止した理由は、いくつか考えられるが、女性活動家が、丸刈り校則を大々的に批判するサイトを立ち上げ、そのサイト上で丸刈り強制の実態や学校側の動向などを逐一掲載し、熊本県内はもちろん、全国からも批判が集まったことが大きく影響したものと思われる[要出所明記]。しかし、丸刈り強制がなくなったとはいえ、熊本県内の一部の中学校では、部活動の全員参加、校区外への制服着用の強制、自転車に乗るときは、休日であってもヘルメットの着用や蛍光たすき(昼間でも)をさせるなど、管理的といえるものが残されたままとなっている[要出典]。
[編集] 宮城県
- 宮城県内の中学校では、過去に一部の学校において男子生徒に対する丸刈りが強制されていたが、現在では一部の生徒(例えば野球部員)を除いて強制されていない[要出典]。
- 仙台市(あるいは仙台市に通学可能な地域)を除く学区において、特に共学でない普通科高校(地元では進学校と呼ばれる)では、過去に管理教育が実施されていた。しかし、男女共学化が進んだり、進学率(少子化の影響や指定学区以外に進学する制度が設けられたため)に問題が生じるようになったため、近年では見直しが進められている。それ以前には、私服が許可されているのにも関わらず、中学校時の制服の着用を強制されたり、昼食時間の全てを地域学校間のスポーツ対抗戦時に用いられる応援練習に当てられたりしていた[要出典]。
[編集] 福岡県
- 筑後地区を中心として、丸刈り、おかっぱ強制が1990年代後半まで残っていた学校が多かった[要出典]。
- 1970年代後半から80年代にかけて開校した公立高等学校においては、管理教育が強化された学校が多かった。
[編集] その他
- 戸塚ヨットスクール(愛知県美浜町)における体罰が社会的に取りざたされたこともある。ただ後に同スクールは暴行事件として幾つかのスクール生死亡・行方不明事件で有罪が確定した。しかし積極的推進派を含む体罰容認派の中には、同スクールの指導内容の如何に関わらず同スクールを支持ないし支援する者たちもいないではない。
- 中学の管理教育に反発して制服等を着用しなかった愛知県豊橋市の私塾経営者の息子兄弟が、教諭によって行動問題児とされたため、内申書評価のある高校進学を断念して、大学入学資格検定に挑戦。16歳で合格し、1982年に長男が東大理科III類、1983年に次男が京大経済学部、1987年に長女が京大文学部に合格したことが話題になった。ドラマ『中卒・東大一直線 もう高校はいらない!』の原案。
- この様な管理教育が徹底された県からは、芸術分野で優れた業績を残す者が極めて過少である問題も、依然として横たわっている[要出典]。特に愛知県が深刻であり、複数の音楽大学を持つにも関らず、ここ数年は世界進出を試みた県民はいても、果たした音楽家はいない。
- 管理教育が批判されるようになった1990年代ごろから、丸刈り強制などを励行してきた教師たちの精神科外来受診が目立ち始め、うつ病を発症する者も少なからず見られるようになった。いわゆる「自分を見失った状態」に陥り、職場復帰を果たせなかった者も少なくなかった[要出典]。管理教育を励行する教師の場合、町内会など地域社会内でも摩擦を生じている場合が多い[要出典]。また精神科領域における患者間の自助的グループ内においてもそのグループが自分の支配下の学校であるかのように振舞う場合もある[要出典]。
[編集] 脚注
- ^ a b NHK取材班・今橋盛勝 『NHKおはようジャーナル 体罰』 日本放送出版協会、1986年。
- ^ 森与志男 『校長はなぜ死んだか 「教育臨調」の先どり--千葉の「管理主義」教育』 あゆみ出版、1984年。ISBN 4751920014
- ^ 松戸市内の公立小学校で実施されていた校内交通規則の一部-1.廊下を渡るときは横断歩道を使うこと。そのとき一旦停止をし、手をあげて首を振って「右・左・右」を確認しなければならない、2.センターラインの右側を通行しなければならない、3.廊下を歩くときはなるべく手を後ろに組むこと、4.廊下を走ってはならない、5.違反をしたら交通安全委員の指示に従い体罰を受けること。
- ^ 甲府一高が有名であり、かつては小諸から甲府まで105kmを22時間以内に走破しなければならなかった。その他の高校でも40~50kmを決められた時間以内に走破しなければならない所が多い。
[編集] 関連項目
- 校則
- 生徒指導
- ゼロ・トレランス方式(米国に於ける細部まで規定を示した教育方針)
- 体罰 - ビンタ - 暴力 - 言葉の暴力 - 暴行 - 傷害 - 強要
- 虐待 - 児童虐待 - 身体的虐待
- パワーハラスメント - アカデミックハラスメント - モラルハラスメント
- スパルタ式
- ナチス式敬礼
- 神戸高塚高校校門圧死事件
- クラブ活動
- 日本教職員組合
- 学生運動 - 全日本学生自治会総連合
- 保坂展人
- 内藤朝雄
- 藤井誠二
- 外山恒一
- 児童会 - 生徒会 - 学生自治会
- 制服 - 服装の乱れ - 名札
- いじめ
- 校内暴力
- 学級崩壊
- 絶対評価 - 相対評価
- 大正自由教育運動
- ゆとり教育
- 人権
- 教育基本法改定の動き
- 日勤教育
[編集] 参考文献
- 森与志男 『校長はなぜ死んだか 「教育臨調」の先どり--千葉の「管理主義」教育』 あゆみ出版、1984年。ISBN 4751920014
- NHK取材班・今橋盛勝 『NHKおはようジャーナル 体罰』 日本放送出版協会、1986年。
- 沢間俊太郎 『暴力教師を訴えろ! 父親の教育裁判奮戦記』 駒草出版、1991年。ISBN 4906082386
- 『<いじめ学>の時代』(柏書房、2007年)ISBN 978-4760132195