小泉八雲
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小泉 八雲(こいずみ やくも、 1850年6月27日 - 1904年9月26日)は、新聞記者(探訪記者)・紀行文作家・随筆家・小説家・日本研究家。
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[編集] 経歴
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国籍を取得する前の旧名は、パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)である。一般的に知られているラフカディオは、彼のミドルネームである。ファーストネームはアイルランドの守護聖人・聖パトリックに因んでいるが、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったといわれる。ファミリーネームは来日当初「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは松江の島根県立中学校への赴任を命ずる辞令に、「Hearn」をローマ字読みして「ヘルン」と表記したのが広まり、当人も「ヘルン」と呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したもの。ただ、妻の節子には「ハーン」と読むことを教えたことがある。なお名前の「八雲」は、一時期当人が島根県の松江市に在住していたことから、そこの旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」にちなむとされる。
16歳のときに怪我で左眼を失明して隻眼となって以降、晩年に到るまで、写真を撮られるときには必ず顔の右側のみをカメラに向けるか、あるいはうつむくかして、決して失明した左眼が写らないポーズをとっている。
なお、彼が松江時代に居住していた住居は、1940年に国の史跡に指定されている。
イザベラ・バード、アーネスト・フェノロサ、モラエス、ブルーノ・タウト、ローレンス・ヴァン・デル・ポスト( 『 戦場のメリークリスマス 』参照 )、アンドレ・マルロー等とならび、著名な「日本紹介者」の一人であり、日本人にとっても、祖国の文化を顧る(かえりみる)際の、重要な便(よすが)となっている。若き日の三島由紀夫の愛読書のひとつであり、川端康成との書簡のなかで、しばしば、嬉々として引用している。
[編集] 年譜
- 1850年6月27日、誕生。父はチャールス・ブッシュ・ハーン、母はローザ・カシマティ。生地ギリシア・レフカダ島からラフカディオというミドルネームを付けられた。
- 1852年、2歳のとき父母は父の家があるダブリンに移住する。
- 1854年、父が西インドに赴任し一人となった母は精神を病みギリシアのセリゴ島へ帰国。4歳のハーンはサラ・ブレナン大叔母(家はレインスター・スクェアー、アッパー・レッソン・ストリート交差点)に厳格なカトリック文化のなかで育てられた。
- 1856年、6歳のとき父母は離婚し父は再婚した。
- 1863年、13歳アショウ・カレッジに入学。
- 1863年、フランスの神学校に行く、帰国しセント・カスバーツ校入学。
- 1865年、16歳のとき学校で遊んでいる最中に左目に怪我をし視力がなくなる(以後左を向いた写真ポーズをとる)。
- 1866年、17歳のとき父は西インドから帰国途中に病気で死亡、大叔母は破産した。
- 1867年、セント・カスバーツ校退学、ロンドンに行く。
- 1869年、20歳のときにリバプールからアメリカ合衆国のニューヨークへ移民船で渡り、シンシナティに行く。
- 1872年、トレード・リスト紙の副主筆。
- 1874年、インクワイアラー社に入社。
- 1875年、マティ・フォリーと結婚、当時違法だった黒人との結婚だった為にインクワイアラー社退社。
- 1876年、インクワイアラー社のライバル会社だった、シンシナティ・コマーシャル社に入社。
- 1877年、離婚、シンシナティの公害による目への悪影響を避け、ニューオーリンズへ行く。
- 1879年、アイテム社の編集助手。食堂「不景気屋」を経営するも失敗。
- 1882年、アイテム社退社、タイムズ・デモクラット社の文芸部長になる。この時期の彼の主な記事はニューオリンズのクレオール文化、ブードゥー教など
- 1884年、ニューオーリンズで開催された万国博覧会の会場で大日本帝国、外務省の服部一三に会う。
- 1887年~1889年、フランス領西インド諸島マルティニーク島に旅行。
- 1889年、ニューヨークに帰る。
- 1890年、ハーバー・マガジンの通信員としてニューヨークからカナダのバンクーバーに立ち寄り4月4日横浜港に着く。7月、アメリカで知り合った服部一三(この当時は文部省普通学務局長)の斡旋で、島根県松江尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校)と島根県尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師に任じられ、8月30日に松江到着。
- 1891年1月、中学教頭西田千太郎のすすめで、松江の士族小泉湊の娘・小泉節子(1868/2/4-1932/2/18)と結婚する。同じく旧松江藩士であった根岸干夫が簸川郡長となり、松江の根岸家が空き家となっていたので借用する(現・国指定史跡)。その年の11月、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身校。校長は嘉納治五郎)の英語教師。長男・一雄誕生。
- 1894年、神戸市のジャパンクロニクル社に就職、神戸に転居する。
- 1896年、東京帝国大学文科の英文学講師、帰化し「小泉八雲」と名乗る。
- 1897年、次男・巌誕生。
- 1899年、三男・清誕生。
- 1903年、東京帝国大学退職(後任は夏目漱石)、長女・寿々子誕生。
- 1904年3月、早稲田大学の講師を勤め、9月26日に狭心症により東京の自宅にて死去、満54歳没。戒名は正覚院殿浄華八雲居士。墓は東京の雑司ヶ谷墓地。
- 1915年、贈従四位。
[編集] 評価についての論争
東京帝国大学名誉教授となった日本研究家のバジル・ホール・チェンバレンは、ハーンは幻想の日本を描き、最後は日本に幻滅したとした。ハーン研究者でもある比較文学者の平川祐弘はこれに反対して、チェンバレンはハーンとの友情を破り、冷たい頭で日本を描いたが、ハーンは日本を愛し暖かい心で日本を描いたとした。しかしやはり比較文学者の太田雄三はこれに反論し、『B・H・チェンバレン』(リブロポート)や『ラフカディオ・ハーン』(岩波新書)で、ハーンは日本の過去を美化しすぎており、チェンバレンは学者として正確な日本像を描こうとしたのだと反論した。また、ハーン礼讃はナショナリズムの現われではないかとしてハーンのオリエンタリズムを批判する論者、あるいは「神々の国の首都」を書いたハーンが、明治期天皇制を日本古来のものと勘違いしたと指摘する者もいる(福間良明『辺境に写る日本』)。平川も『ラフカディオ・ハーン』(ミネルヴァ書房)で、ハーンの筆致に誇張があったことを認めているが、上記のごとく、一部(左派系)文化人のハーンの「脱神話化」の試みにもかかわらず、現代の日本人の間での支持には確固としたものがある。
[編集] エピソード
- アメリカで新聞記者をしていたとき、「オールド・セミコロン(古風な句読点)」というニックネームをつけられたことがある。句読点一つであっても一切手を加えさせないというほど自分の文章にこだわりを持っていたことを指している。
- 英語教師としては、よく学生に作文をさせた。優秀な学生には賞品として、自腹で用意した英語の本をプレゼントしていた。
- 日本名「八雲」については「音読みにするとハウンになる」こととの関連を指摘されることが多い。この説は古くからあったようで、教え子の田部隆次は早稲田大学の委嘱で書いた伝記「小泉八雲~ラフカディオ・ヘルン~」の中でわざわざ「八雲はハウンに通じるという考えは少しもなかった」と明記している。
- 東京帝国大学では学生の信望が厚く、解任のときは激しい留任運動が起きた。川田順は「ヘルン先生のいない文科で学ぶことはない」といって法科に転科した。後年この話の真偽を尋ねられた川田はそれが事実であると答え、後任の夏目漱石についても「夏目なんて、あんなもん問題になりゃしない」と言った。
[編集] 家族・親族
- 妻 セツ(島根県,小泉湊の娘)
- 長男 一雄
- 長女 寿々子
- 次男 巌(教師、母セツの養家であった稲垣家をつぐ)
- 三男 清(画家)
- 孫 小泉時(エッセイスト) 、小泉閏、稲垣明男、種市八重子、佐々木京子
- 曾孫 小泉凡(学者・島根県立島根女子短期大学助教授)
[編集] 作品
- 『知られざる日本の面影』(Glimpses of Unfamiliar Japan) 1894年
- 「鳥取のふとんの話」「日本人の微笑」ほか
- 『東の国より』(Out of the East) 1895年
- 『心』 (Kokoro) 1896年
- 『仏陀の国の落穂』(Gleanings in Buddha-Fields) 1897年
- 「人形の墓」ほか
- 『霊の日本にて』(In Ghostly Japan) 1899年
- 『影』(Shadowings) 1900年
- 「和解」「死骸にまたがる男」ほか
- 『日本雑録』(A Japanese Miscellany) 1901年
- 「守られた約束」「破られた約束」「果心居士のはなし」「梅津忠兵衛」「漂流」ほか
- 『骨董』(Kotto) 1902年
- 『怪談』(kwaidan) 1904年
[編集] 著作集
- 西川盛雄/アラン・ローゼン共編(平井呈一訳・小泉凡挿し絵)『対訳小泉八雲作品抄』、恒文社、1998年9月。ISBN 4-7704-0984-2
[編集] 参考文献
- 太田雄三『ラフカディオ・ハーン-虚像と実像』(『岩波新書』新赤版336)、岩波書店、1994年5月。ISBN 4-00-430336-2
- 小泉時・小泉凡編『文学アルバム小泉八雲』、恒文社、2000年4月。ISBN 4-7704-1016-6
- ジョナサン・コット(真崎義博訳)『さまよう魂-ラフカディオ・ハーンの遍歴』、文藝春秋、1994年3月。ISBN 4-16-348890-1
- 西川盛雄/アラン・ローゼン共編(平井呈一訳・小泉凡挿し絵)『対訳小泉八雲作品抄』、恒文社、1998年9月。ISBN 4-7704-0984-2
[編集] 関連項目
- 富山大学:『ヘルン文庫』
- 日本の面影:NHKドラマ、舞台
- 山田太一:NHKドラマ『日本の面影』の原作と脚本。
- ジョージ・チャキリス:NHKドラマ『日本の面影』小泉八雲役
- 風間杜夫:舞台『日本の面影』小泉八雲役
- 松岡正剛 『 おもかげの国 うつろいの国 』 :NHK人間講座(2004)
- 渡辺京ニ 『 逝きし世の面影 』 : 葦書房 (1998)、平凡社ライブラリー (2005)
- 果心居士
- セント・マロ
- 日本の史跡一覧
- 神戸文学館
- 佐野史郎
[編集] 外部リンク
- 島根ゆかりの文学者 小泉八雲
- 小泉 八雲:作家別作品リスト(青空文庫)
- ラフカディオ・ハーン・データベース
- 小泉 八雲
- 小泉八雲記念館
- 小泉八雲旧居
- 小泉八雲と武士の娘たち
- 偉人小泉八雲
- 小泉八雲のお墓
- 松岡正剛 『千夜千冊』【0007夜】 ベンチョン・ユー 『神々の猿』 「ラフカディオ・ハーンの芸術と思想」についての論考