ロベルト・バッジョ
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ロベルト・バッジョ | ||
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名前 | ||
愛称 | ロビー、コディーノ | |
ラテン文字 | Roberto Baggio | |
基本情報 | ||
国籍 | イタリア | |
生年月日 | 1967年2月18日(41歳) | |
出身地 | カルドーニョ | |
身長 | 174cm | |
体重 | 73kg | |
選手情報 | ||
ポジション | FW/MF | |
利き足 | 右足 | |
代表歴 | ||
1988-2004 | イタリア | 56 (27)
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ロベルト・バッジョ(Roberto Baggio、1967年2月18日 - )(バッジオ/バッジォと表記することもある)は、イタリア共和国ヴェネト州ヴィチェンツァ県カルドーニョ出身のサッカー選手。 1993欧州年間最優秀選手、1993FIFA最優秀選手。03-04シーズンで現役引退。セリエA通算205ゴールは歴代5位。使用スパイクはデビューから引退までディアドラ(1999年、イタリア代表での試合など一時期のみkappaを使用)。
「イタリアの至宝」、「偉大なるポニーテール」と称され、現役を退いた今も世界中に多くのファンをもつ。華麗なプレースタイルはアレッサンドロ・デル・ピエロやフランチェスコ・トッティらが、その系譜となる。今ほど衛星放送(CS・BS)が普及していなかった頃からすでに彼の名は日本などでも知られていた。
趣味はハンティング。通称は「ロビー」、愛称は「コディーノ」(馬の尻尾。髪型に由来する)。親日家。
目次 |
[編集] プレースタイル
一言でいえばファンタジスタ。ポジションはセコンダプンタまたはトレクァルティスタ。重心の低いドリブルはスピードとテクニックを兼ね揃えディフェンダーは彼の間合いになる前にボールを奪う必要がある。シュートはコースをついたテクニカルさを持ち味とし、キーパーのキャッチしづらいコースを狙う。この点では、シュートとは「スピード」でなく「コントロール」が重要である、ということの証明であり現役選手のよき見本であろう。プレースキッカーとしても一流で、FKは非常に精度が高く、元ブラジル代表のジーコに「バッジョのFKは素晴らしい、もし同じ時代にプレーしていたなら習っていただろう」と言わしめた。 ここ一番の無類の勝負強さを持ち合わせており、代表、クラブのいずれでも発揮された。引退直前は、さすがに多少スピードは衰えたが絶妙なボールコントロールと見事な動きで得点感覚も衰えることはなかった。現役最終の03-04シーズンには、センターフォワードタイプではないにもかかわらずセリエA通算200得点(史上5人目)を挙げるという偉業も達成した。
[編集] クラブチーム
キャリアを通じてイタリア国内リーグで活躍。1981年にセリエC1のヴィチェンツァでデビュー。1984-85シーズンに12得点を記録。1985年にはセリエAのフィオレンティーナに移籍した。ところが契約成立からわずか2日後、右膝十字靭帯断裂の大怪我を負う。それでもフィオレンティーナは契約を破棄せずに辛抱強く回復を待った。移籍直後の1985-86シーズンを欠場(コッパ=イタリアの試合には出場)、1986-87シーズンも数試合の出場だけにとどまってしまう。だが、怪我の回復した1988-89シーズンには15得点(ヴィオラはUEFAカップ出場)、1989-1990シーズンには17得点という活躍をした。マラドーナ率いるナポリ相手に見せた、ドリブルで独走して決めたゴールは有名。
1990年、(当時)史上最高の150億リラという移籍金でユヴェントスに鳴り物入りで移籍(ユヴェントス移籍がヴィオラのオーナーによる一存で、フレンツェでは暴動が起こっている。バッジョ自身も望まぬ移籍だったため困惑した)。1992-93シーズンに21得点を挙げ、チームをUEFAカップ優勝に導いた。これはユヴェントスにとっては久々のヨーロッパタイトルだった。この功績・貢献が認められ、同シーズンのFIFA最優秀選手賞とバロンドールを受賞。
その後、自身のケガと若手のアレッサンドロ・デル・ピエロが台頭するなか、若返りを推し進めるユベントスは、1995年ライバルチームであるACミランへ放出してしまう。ACミランではファビオ・カペッロ(およびアリゴ・サッキ)監督が(ポジションが重なるためとはいえ)FWにはデヤン・サヴィチェヴィッチを重用、さらにバッジョ本人の怪我もあり、在籍2シーズン中は、さしたる活躍はできなかった。特にサッキはバッジョからPKキッカーを取り上げるばかりか、完全にピッチから彼を追い出した。
しかし、ワールドカップシーズン直前の1997-98にボローニャに心機一転移籍すると、自己ベストの22得点をマークして結果を残す。このためワールドカップ予選ではまったく呼ばれなかったが、見事に本大会メンバーに選考される。
1998年から、再びビッグクラブのひとつインテルで2シーズン過ごす。移籍初年度の1998-99シーズンはバッジョとロナウドという夢の2トップにインテリタは心躍らせた。その二人がトップを組んだUEFAチャンピオンズリーグのレアル・マドリー戦ではバッジョは2ゴールを挙げる活躍を果たす。だが、ロナウドはキャリアを左右する膝の大怪我、バッジョも何度も負傷を起こし、結局この二人が組むことはほとんどなかった。その後も、怪我と(特にマルチェロ・リッピ)監督との確執によって再び出場機会が減少してしまう。
このインテル時代のハイライトは、2000年5月23日のパルマ戦(CL出場権プレーオフ)であろう。このシーズンは、スクデット争いにさえも参加できない低調で無様なシーズンであった。そのため、クラブ首脳陣はCL出場権を獲得しなければ、監督更迭をも視野に入れていた。そんな中で、この試合はまさにバッジョのためのゲームだった。前半35分にFKで先制、同点にされた後半38分左足ボレーで決勝点を奪う活躍を見せ、ガゼッタ・デロ・スポルト誌での評価点“10”を獲得(通常、最高評価点で有る10が出ることは滅多に無く、引退する選手へのご褒美もしくは生命を救った選手に与えられる)。この試合でバッジョは退団、有終の美を飾り、CL出場権を獲得したリッピは監督続投決定、というなんとも皮肉な結果に終わる。
2000年から、 ブレシアで4シーズンを過ごし、信頼するカルロ・マッツォーネ監督の下でいぶし銀の活躍を見せる。
2001-02シーズンでは、日本でのワールドカップ出場のため、並々にならぬ闘志を燃やして臨み、シーズン前半にゴールを量産。しかし、ワールドカップイヤーの2002年1月31日のコッパ・イタリア準決勝パルマ戦で彼は左膝十字靭帯に全治6ヶ月のケガを負ってしまう。誰もがワールドカップ出場が絶望と思われたが、彼は本大会出場を目指し脅威のリハビリで僅か2ヶ月で復帰。4月21日のフィオレンティーナ戦で後半25分から出場すると、そこから2ゴールを挙げ奇跡を復活を果たした。だが、こうした彼の努力も報われず、当時のイタリア代表監督ジョバニ・トラパットーニは本会メンバーに彼を選ばず、チームも本来の力を出せずにベスト16で姿を消した。
2004年5月16日のサン・シーロでのACミラン戦(2-4で敗戦)を最後に引退した。この試合で83分にバッジョの途中交代(コルッチが出場)を告げられると、バッジョに対してスタジアム全体からスタンディングオベーションが送られた。ブレシアの背番号10はクラブの永久欠番となっている。ちなみに、ブレシアのクラブショップでは彼の引退後も、新しいレプリカユニフォームにNo,10/BAGGIOのネームナンバーが入った物が発売されている。
独自の美学を貫いたため監督と意見が合わず、幾つもチームを渡り歩くキャリアであった(監督の立場としては、怪我が多く常時戦力と期待できない面もあった)。しかし、守備戦術が横行するファンタジスタ受難の時代においても、バッジョのサッカーセンスは何処でもまばゆい輝きを放ち続けた。 また、優れた人格者で、人をひき寄せる魅力があり、バッジョと共にプレーするために移籍する選手もいた。
[編集] イタリア代表
バッジョはW杯イタリア代表においての活躍が目立つ一方、欧州選手権にはキャリアを通じて縁がなかった。1988年11月16日オランダ戦がイタリア代表デビュー。1989年4月22日ウルグアイ戦が初ゴール。1990年イタリア、1994年アメリカ、1998年フランスワールドカップに出場し、3位、準優勝、準々決勝進出と、いずれもベスト8に入った。ちなみに3大会の敗退はいずれもPK戦によるもので、バッジョは3大会ともPKキッカーをつとめている。
[編集] 1990年イタリア大会
1990年の地元開催では当初はスーパーサブ的存在であったが、グループリーグ第3戦目のチェコスロバキア戦において、中盤から単独ドリブル突破を仕掛け、ディフェンダーを次々と抜き去ってゴールを決めた。この得点は、大会のベストゴールのひとつと数えられ、バッジョはイタリア代表の新たな旗手として世界に名を知られることになった。バッジョ自身のサッカー人生にとっても間違いなくハイライトとなるゴールのひとつである。しかし当時は、同じサブメンバーからついには大会得点王になった”救世主”サルヴァトーレ・スキラッチほどは注目されなかった。それだけ、スキラッチの活躍は眩いものであった。順調に勝利を重ねて迎えた準決勝。相手はマラドーナ率いるアルゼンチンであった。この試合、なぜかビチーニ監督はバッジョをスタメンから外し、変わって不調に陥っていたジャンルカ・ヴィアリを先発させる。その時のヴィアッリの発言である「ハードな試合にはハードな男が必要なんだ」の発言は余りにも有名。 結局イタリアはアルゼンチンに1-1に追いつかれた後、PK戦で破れてしまい、バッジョを先発させなかったビチーニ監督に非難が集中した。フル出場した三位決定戦のイングランド戦ではピーター・シルトンの致命的なミスを付いて先制点を記録し、さらには決勝点となるPKを誘い(彼はキッカーを大会得点王のかかったスキラッチに譲った)、幻に終わった試合終了間際のゴールの基点となるなど、存分に持ち味を発揮した。
[編集] 1994年アメリカ大会
バッジョが出場した3大会で、最もその存在感を示したのは1994年のアメリカワールドカップであることは間違いない。ヨーロッパ予選では、イタリアの10番、まさにエースと呼ぶにふさわしい活躍でチームを本大会出場に導く。さらには前年の1993年にバロンドールを受賞していたこともあって、周囲の期待は大いに高まっていた。ところが大会直前に右足に怪我を負ってしまう。一抹の不安を抱えたまま、ついに1994年ワールドカップを迎えた。
不安は現実となり、予選グループ初戦を落としたイタリアは、1勝1敗1分けで辛うじて決勝トーナメント進出という低調にあえいだ(当時の規定でグループ3位ながら救われた)。気温40度を超すピッチで「ゾーンプレス」戦術が機能しにくかったことが苦戦の原因だが、無得点と精彩を欠くバッジョへの風当たりは厳しく、地元メディアはジャンフランコ・ゾラへの交代を唱えた。さらに屈辱的だったのは、第2戦ノルウェー戦でペナルティーエリア外での故意のハンドの反則をしたGKジャンルカ・パリュウカが退場処分となった際、アリゴ・サッキ監督が控えGKルカ・マルケジャーニの投入のためにバッジョをベンチに下げたこと(このとき、バッジョはサッキに対して「狂っている」と漏らしたといわれる)である。試合後に監督は「(足を怪我して)走れないバッジョを人数の少なくなった状況では使いづらいから」と説明したが、エースと監督の信頼関係は微妙なものになっていった。
しかし、チーム内は徐々に意識統一が明確となり、サッキは1人の力に依存する方法に否定的ではあったが、選手達にはバッジョを中心とした攻撃態勢が整いつつあった。 決勝トーナメント1回戦のナイジェリア戦も先制を許し、しかも反撃の切り札で投入したゾラが退場処分となり1点を追い掛ける苦しい展開になった。しかし、試合終了直前の89分、ついにバッジョが劇的な同点弾を決め、延長戦でもPKを沈めてエースの真価を証明した。同点弾は冷静にコースを狙ったバッジョらしいシュートで、地元新聞は「アズーリを帰りの飛行機のタラップから引きずり下ろした」と見出しを打って賞賛した。
その後も、眠りから醒めたようにバッジョはゴールを量産した。準々決勝のスペイン戦でも再び終了直前にカウンターから決勝点をあげて、2-1で勝利。準決勝のブルガリア戦でも続けざまに芸術的な2得点を挙げて2-1と勝利した。決勝トーナメントの準決勝までの3試合でチーム6得点中5得点、どのゴールも試合を逆転・決定するもので、酷評から一転して救世主扱いとなった。しかし、準決勝で右足を再び痛め、決勝への出場が危ぶまれた。
決勝のブラジル戦はバッジョとロマーリオのエースFW対決(大会得点王争い)が見所のひとつであった。灼熱のようなむせ返るほど高い気温の中、バッジョは強行出場したものの精彩を欠き、試合はワールドカップ決勝史上初のPK戦となった。ブラジルがリードを保ったまま最終キッカーであるバッジョの番となるが、彼はゴール左上にはるか高く打ち上げてしまう。これによってイタリアは優勝を逃した。このPKには3つほどの見解がある。ブラジル、イタリア国内(世論)、そしてバッジョのものである。 第1にブラジルでは、同じ年に悲劇の死を遂げた同国のアイドル、「アイルトン・セナの手だ」というもの。(バッジョのシュートは空高く吸い込まれていったことから) 第2にイタリアでは、「筋肉疲労と、極度の緊張、暑さからだ」というもの。 そして最後にバッジョの見解であるが、「仏陀からの究極の問いかけである」というものである。 ちなみに、バッジョは未だ答えを見つけることは出来ていなく、さらにはあの出来事をまだ夢で見ることも幾度となくあるそうだ。このとき、呆然とするバッジョの後姿が撮影された。この写真こそが、これまでの数多あるスポーツに関する写真の中で最も美しく儚い写真であると言う声は非常に多い。
もちろん、仮にバッジョが成功したとしても後攻のブラジルが成功すればブラジルの勝利だった。
大会MVPはロマーリオに譲ったが、バッジョは悲劇の英雄としてサッカーファンの胸に感動を刻んだ(またアズーリを決勝まで導いた救世主にも関わらず、この失敗でバッジョを戦犯にする心無い批判もあった)。しかし、後にサッキ監督がバッジョのスタメン志願を「チームに不利益を招いた」と非難し、しばらく代表から遠ざかる結果となった。
[編集] 1998年フランス大会
1998年フランスワールドカップではデル・ピエロに10番を譲ったが、新たなエースとして期待されたデル・ピエロに代わり、大会で活躍したのはまたしてもバッジョだった。2得点1アシストをマーク。まず初戦チリ戦で先発出場。最初からチリが押し気味に試合を進め、イタリアが守ってカウンターを狙うゲームとなった。 10分、まさにそのカウンターが見事に決まった。マルディーニからのゆうに50m以上あろう距離のロングボールをバッジオが完璧なコントロールでダイレクトでスルーパスを走りこんだビエリに通しアシストを記録、これはまさにバッジョのうまさが光った場面である。 その後追いつかれるが、バッジョ自らPK誘い、4年前の因縁のPKを決めてトラウマを払拭(この時、彼の頭にアメリカのでの出来事が蘇ってきたとのこと)。準々決勝のフランス戦では途中出場し、延長後半に決定的ともいえるボレーシュートを放つ。難しい体勢からながらも全盛期のバッジョを彷彿とさせる一瞬であったが、イタリアにとっては惜しくも(そしてフランスにとっては胸をなでおろす)ボールはクロスバーを越えていった。結局、イタリアは3大会連続PK戦敗退という失望を味わうが、今回最後に失敗したルイジ・ディ・ビアジョを優しく慰めるバッジョの姿が印象的であった。
[編集] 1998年以降
1999年以降は代表からは遠ざかる。現役引退を表明後の2004年4月28日にジェノヴァで行われたスペインとの親善試合にキャリアへの敬意から特別招集され、この試合を最後に代表を引退した。 尚、ロベルト・バッジョのイタリア代表ゴール数は56試合27ゴール。そのうち得点を決めた試合の成績は22試合中18勝4分で“バッジョが点を決めれば負けない”神話を持つ。
[編集] 信仰
- 一般的にキリスト教のカトリック信者の多いイタリアにおいては珍しい熱心な仏教徒(創価学会インターナショナル(SGI)の創価学会員)である。これは若手時代に膝の怪我で苦しんでいた頃に信心し、始めたものである。
[編集] 語録
バッジョの名言
- 「今を戦えない者に、次や未来を語る資格はない。」
- 「思いついたプレーの中でいつも一番難しいものを選択している。」
- 「PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ。」
- 「PKを決めても誰も覚えていないが、外したら誰もが忘れない。」
- 「サッカーをプレイできるなら、寿命が縮んだっていい。」
- 「忘れないで欲しい。君達の足元には永遠にサッカーボールがあることを…。」
- 「私はサッカーに恋をした。」
- 「諦めるより夢を見る方が性に合っている」(2002年W杯の代表入りが絶望視された中で)
- 「自らを愛してくれたファンの前でPKを蹴る事はできない。」(フィオレンティーナ相手にPKを与えられた時)
バッジョを評する言葉
- 「94年米国W杯で僕らを決勝まで連れて行ってくれたのはロビーだった。彼はフットボールそのものさ」
- 「彼はコンコルドみたいなものさ。ただ自由に飛ばせて上げればいいんだ」
(ロナウド)
- 「彼は生まれながらの優雅さを持っている」
(パベル・ネドベド)
- 「偉大なフットボーラーのリストにバッジョを加えるつもりはないよ。なぜなら彼は別の惑星からやって来た宇宙人だからだ。」(エンリコ・キエーザ)
- 「デル・ピエロがピントリッキオ(ルネサンス期の画家、ラファエロの兄弟子)だとしたらバッジョはラファエロだ。」(ジャンニ・アニェッリ)
- 「10番というより、9.5番だ。」(ミシェル・プラティニ)。」
- 「今まで一緒にプレーした選手の中で最高のプレーヤーだ」(ジョゼップ・グアルディオラ)
- グァルディオラはバッジョを慕ってイタリアのクラブに移籍した経歴をもつ。
- 「彼のようなフットボーラーと出会うには、少なくともあと20年はかかる。」(ガブリエル・バティストゥータ)
- 「それでも貴方は偉大だ。」(クラウディオ・タファレル)
- 94年アメリカワールドカップの決勝戦のPKの決着がついたあと、当時ゴールを守っていたブラジル代表のGKの彼が、PKを外したバッジョに対してかけた言葉。
- 「世界でイタリアだけが唯一、彼をNo.1だと認めなかった」(ジネディーヌ・ジダン)
- 「彼はフィールドの中で出来ない事など何も無い。」(ジーコ)
- 「現役のとき、私には悪夢のような選手が3人いた。マラドーナ、ファン・バステン、そしてバッジョだ。」(ジュゼッペ・ベルゴミ)
- 「私はバッジョをピッチに送り出すとき一つだけ指示をする。『90分間で一度だけでもいいから君らしいプレイをしてくれ』とね。それが我々に歓喜をもたらすのを私は知っているからね」
- 「ネドベドもヴィエリもトッティもいらない。バッジョだけで十分さ」
- (ともにカルロ・マッツォーネ)
- 「僕がイタリアに来てから、いつもバッジョとサッカーをすることを夢見ていた。」(イバン・サモラーノ)
- 「将来引退したら、みんなに自慢するのさ。僕はあのバッジォとプレーしたんだ!ってね。」(ステファン・アッピア)
- 「確かに、私の元には沢山のクラブからオファーが届いた。確かにビッククラブからもとどいたよ。だけど、どこもここ程にいいオファーなんてなかった。バッジォとプレーできる!それだけでどのクラブでプレーするよりも意義のあることといえる。」(ジョゼップ・グアルディオラ)
- 「生まれながらのファンタジスタにして本当に最後の本物のファンタジスタよ、あなたは永遠に私達の中でプレーし輝き続けるであろう!」(引退試合のときにファンが掲げたフラッグ)
[編集] 所属クラブ
- 1979年-1985年 ヴィチェンツァ( イタリア)
- 1986年-1990年 フィオレンティーナ( イタリア)
- 1990年-1995年 ユヴェントス( イタリア)
- 1995年-1997年 ACミラン( イタリア)
- 1997年-1998年 ボローニャFC( イタリア)
- 1998年-2000年 インテル( イタリア)
- 2000年-2004年 ブレシア( イタリア)
[編集] タイトル
[編集] クラブ
- ヴィチェンツァ
- セリエC1 1984-85
- ユベントス
- コッパ・イタリア 1995
- UEFAカップ 1993
- セリエA 1994-95
- ACミラン
- セリエA 1995-96
[編集] 個人
- バロンドール 1993
- FIFA最優秀選手 1993
- 英誌ワールドサッカー選出世界年間最優秀選手 1993
- オンズドール 1993
- ブラヴォー賞 1990
- U-23欧州最優秀選手 1990
- FIFA100 2004
- ゴールデンフット賞 2003
- イタリア代表通算得点記録 歴代4位
- セリエA通算得点記録 歴代5位
[編集] 個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1982-83 | ヴィチェンツァ | セリエC1 | 1 | 0 | |||||||
1983-84 | ヴィチェンツァ | セリエC1 | 6 | 1 | |||||||
1984-85 | ヴィチェンツァ | セリエC1 | 29 | 12 | |||||||
1985-86 | フィオレンティーナ | セリエA | 0 | 0 | |||||||
1986-87 | フィオレンティーナ | セリエA | 5 | 1 | |||||||
1987-88 | フィオレンティーナ | セリエA | 27 | 6 | |||||||
1988-89 | フィオレンティーナ | セリエA | 30 | 15 | |||||||
1989-90 | フィオレンティーナ | セリエA | 32 | 17 | |||||||
1990-91 | ユヴェントス | セリエA | 33 | 14 | |||||||
1991-92 | ユヴェントス | セリエA | 32 | 18 | |||||||
1992-93 | ユヴェントス | セリエA | 27 | 21 | |||||||
1993-94 | ユヴェントス | セリエA | 32 | 17 | |||||||
1994-95 | ユヴェントス | セリエA | 17 | 8 | |||||||
1995-96 | ミラン | セリエA | 28 | 7 | |||||||
1996-97 | ミラン | セリエA | 23 | 5 | |||||||
1997-98 | ボローニャ | セリエA | 30 | 22 | |||||||
1998-99 | インテル | セリエA | 23 | 5 | |||||||
1999-00 | インテル | セリエA | 19 | 4 | |||||||
2000-01 | ブレシア | セリエA | 25 | 10 | |||||||
2001-02 | ブレシア | セリエA | 12 | 11 | |||||||
2002-03 | ブレシア | セリエA | 32 | 12 | |||||||
2003-04 | ブレシア | セリエA | 26 | 12 | |||||||
通算 | イタリア | セリエA | 453 | 215 | |||||||
イタリア | セリエC1 | 36 | 13 | ||||||||
総通算 | 489 | 228 |
[編集] 関連書籍
- ロベルト・バッジョ 著/片野道郎 訳「ロベルト・バッジョ自伝 天の扉」 2002年4月 潮出版社
- ロベルト・バッジョ 著/片野道郎 訳「ロベルト・バッジョ自伝Ⅱ 夢の続き」 2003年4月 潮出版社
先代: マルコ・ファン・バステン |
欧州年間最優秀選手 1993 |
次代: フリスト・ストイチコフ |
先代: マルコ・ファン・バステン |
FIFA最優秀選手 1993 |
次代: ロマーリオ |
イタリア代表 - 1990 FIFAワールドカップ | |
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1 ゼンガ | 2 バレージ | 3 ベルゴミ | 4 デ・アゴスティーニ | 5 フェラーラ | 6 フェッリ | 7 マルディーニ | 8 ヴィエルコウッド | 9 アンチェロッティ | 10 ベルティ | 11 デ・ナポリ | 12 タッコーニ | 13 ジャンニーニ | 14 マロッキ | 15 バッジョ | 16 カルネヴァーレ | 17 ドナドーニ | 18 マンチーニ | 19 スキラッチ | 20 セレーナ | 21 ヴィアリ | 22 パリュウカ | 監督 ビチーニ |
イタリア代表 - 1994 FIFAワールドカップ(準優勝) | |
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1 パリュウカ | 2 アポローニ | 3 ベナリーヴォ | 4 コスタクルタ | 5 マルディーニ | 6 バレージ | 7 ミノッティ | 8 ムッシ | 9 タソッティ | 10 R.バッジョ | 11 アルベルティーニ | 12 マルケジャーニ | 13 D.バッジョ | 14 ベルティ | 15 コンテ | 16 ドナドーニ | 17 エヴァーニ | 18 カジラギ | 19 マッサーロ | 20 シニョーリ | 21 ゾラ | 22 ブッチ | 監督 サッキ |
イタリア代表 - 1998 FIFAワールドカップ | |
---|---|
1 トルド | 2 ベルゴミ | 3 P.マルディーニ | 4 カンナヴァーロ | 5 コスタクルタ | 6 ネスタ | 7 ペッソット | 8 トリチェッリ | 9 アルベルティーニ | 10 デル・ピエロ | 11 D.バッジョ | 12 パリュウカ | 13 コイス | 14 ディ・ビアジョ | 15 ディ・リービオ | 16 ディ・マッテオ | 17 モリエーロ | 18 R.バッジョ | 19 インザーギ | 20 キエーザ | 21 ヴィエリ | 22 ブッフォン | 監督 C.マルディーニ |