ジャンニ・アニェッリ
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ジャンニ・アニェッリ(本名:ジョヴァン二・カルロ・フランチェスコ・アニェッリ、Giovanni Carlo Francesco Agnelli 1921年3月12日 - 2003年1月24日)は、イタリアの自動車会社フィアットの元名誉会長。愛称は弁護士を意味するアッヴォカート(Avvocato)。
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[編集] プロフィール
[編集] 生い立ち
イタリア最大の自動車会社・フィアット社の創始者ジョヴァンニ・アニェッリの息子のエドアルドと、貴族の娘のヴィルジニア・デル・モンテの間の長男として、イタリア北部の工業都市で同社の本拠地であるトリノで生まれた。14歳の時に父親が死去したが、ジョバンニが幼かったために直ぐには会社を継がず、1966年に会長に就任するまでの間、会社の経営は、第二次世界大戦以前より同社の番頭的存在であったヴィットリオ・ヴァレッタが行い、その間は帝王学を身につけるべく勉学に励む一方、イタリア一の財閥の御曹司として世界中のリゾート地を飛び回って優雅な暮らしを堪能した。
[編集] フィアットを継ぐ
第二次世界大戦が終結した1945年にトリノ大学法律学部を卒業し、同社に副社長として入社したものの、しばらくの間同社の実際の経営はヴァレッタが行い、自らは各国を飛び回り、各国の政財界の指導層や貴族などとの親交を深めた。その後1963年に同社社長に、1966年には会長に就任し自身が経営を行うことになった。
会長就任後は、ソビエト連邦やブラジル、スペインなど各国に生産拠点を作るなど同社の国際化を進めた他、バスやトラックなどの商用車、航空機や鉄道車両の製造にも手を広げた。また、1969年には経営不振で倒産寸前だった高級車メーカーのランチアを、1986年には国営化されてからも経営不振が続いていたアルファ・ロメオを傘下に収めた他、1988年には高級スポーツカーメーカーのフェラーリを、1998年にはマセラティも傘下(正確にはフェラーリの傘下)に入れ、フィアットを名実ともにイタリアを代表する大企業に育て上げた。
[編集] その他の役職
また、1923年から名誉会長を務めていたエデュアルドを継いで、1947年よりイタリアサッカー・セリエAの名門チーム「ユヴェントス」の名誉会長を務めた他、「コリエーレ・デラ・セラ」や「ソーレ24オーレ」などのイタリアを代表する新聞社やテレビ局、出版社など各種マスコミの経営者も務めた。1991年にはイタリア経済に対する貢献が認められ、イタリアの終身国会議員になった。
[編集] 死去
1996年に前立腺癌にかかり、7年に渡る長い闘病生活の末に2003年1月24日に81歳で死去した。ジャンニの死後、フェラーリの本社があるマラネッロにはフェラーリの象徴である「跳ね馬」の紋章の半旗が掲げられた。
また、フェラーリのF1に対する活動への貢献に敬意を表して、フェラーリチームが2003年に使用したシャシー「F2003-GA」は、ジャンニの頭文字「GA」から名づけられた。
なお、ジャンニの後のフィアット社およびグループ企業の責任者の座は弟のウンベルトが継いだものの、翌2004年5月28日にウンベルトも癌で死去した。
[編集] プライベート
[編集] 家族
1953年11月に貴族の娘であるマレーラ・カラッチオーロ・ディ・カスタニェートと結婚し、翌1954年6月に一人息子のエドアルドを儲けたが、2000年11月にトリノの橋から投身自殺した。また、2005年に孫のジョン・エルカーンがフィアットの取締役に、その弟のラポ・エルカーンがブランド・マーケティング担当部長に就任した。
[編集] セレブリティ
そのカリスマ性と社交的な性格から、イタリアの経済界・政界のみならず世界各国の指導者や王族と個人的な関係が深く、アミントレ・ファンファーニやエンリコ・ベルリンゲルなどのイタリア政界の実力者や、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世やヘンリー・キッシンジャーなどの外国の政治的指導者、アーガー・ハーン4世のような大富豪、タキ・テオドラコプロスなどの貴族、アニタ・エクバーグやリタ・ヘイワースのような世界的スターに至るまで幅広い交流があった。
また、ヨーロッパを代表するプレイボーイとしても鳴らし、「老人」と言われる年齢になっても、イタリアの雑誌が主催する「抱かれたい男」の上位に毎年選出されていたことは有名で、ウィンストン・チャーチルの息子の妻との不倫が報道された時、イタリアのマスコミは「第二次世界大戦の敵を討った(イタリアは第二次世界大戦において、当初は枢軸国として参戦しイギリスと戦った)」と報道した。
[編集] モータースポーツ
普段よりフィアット131レーシングやランチア・デルタHFインテグラーレなどの自社の車を運転して回る車好きとして有名で、当然ながら自社とその傘下企業のモータースポーツへの参戦に情熱を傾けた。1970年代-1990年代におけるフィアットやランチアのWRC参戦や、同じく傘下に収めたフェラーリのF1における活動にも積極的に貢献し、1950年代に自動車事故で右足を失ったものの、義足をつけて精力的に世界中のサーキットに足を運んでいた。