マニラの戦い (1945年)
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マニラの戦い | |
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イントラムロス地区の米軍M-4 シャーマン戦車 |
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戦争:太平洋戦争 | |
年月日:1945年2月3日 - 3月3日 | |
場所:マニラ | |
結果:連合軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 |
アメリカ合衆国 フィリピン |
指揮官 | |
岩淵三次 | Oscar Griswold |
戦力 | |
日本海軍 10,000名 日本陸軍 4,300名 |
米軍 35,000名 フィリピン人ゲリラ 3,000名 |
損害 | |
戦死 12,000名 | 戦死 1,010名 戦傷 5,565名 民間人死者 100,000名 |
マニラの戦いとは、第二次世界大戦末期の1945年2月3日から同年3月3日までフィリピンの首都マニラで行われた日本軍と連合軍と市街戦のことを指す。日本軍は敗れ、三年間に及んだ日本のフィリピン支配は幕を閉じた。
目次 |
[編集] 背景
[編集] 無防備都市宣言問題
1944年(昭和19年)10月、日本軍はレイテ沖海戦で敗北した。12月までにレイテ決戦にも敗れると、ルソン島への連合軍の上陸は時間の問題となった。連合軍は、マニラ港の補給拠点としての利用という軍事的目的と、首都及び捕虜収容所の解放という政治的目的から、マニラ奪還を重視していた。
対して、日本陸軍の第14方面軍司令官山下奉文大将は、マニラの無防備都市宣言をして司令部をバギオに移動し、山野での長期持久を図ろうとした。マニラの放棄は市民の犠牲を避ける理由もあった(短期間に全市民の避難は不可能と判断された)。マニラを含む南部地区担当の振武集団のうち、小林隆陸軍少将指揮のマニラ防衛隊(野口部隊など3個大隊を除く)は、東方山地へと退去した。
しかし、大本営陸軍部はマニラの放棄には同意しなかった。現地でも第4航空軍は強硬なマニラ死守派であった。海軍もマニラ放棄に反対し、マニラ駐留の第31特別根拠地隊(司令官:岩淵三次海軍少将)を基幹にレイテ沖海戦の沈没艦乗員などを集めた海軍陸戦隊マニラ海軍防衛隊(マ海防)を編成し、市街戦の態勢を作った。海軍が市街戦を主張した理由は、マニラの港湾施設の戦略的価値、物資の山岳地帯への搬出が未了、海軍将兵は野戦訓練に不安があったことなどであった。ただし、海軍のうちでも、現地の南西方面艦隊司令長官大川内伝七中将は第14方面軍の方針に同調し、マニラ放棄に賛成であった。結局、マニラの無防備都市化は実現しなかった。
[編集] マニラの状況
マニラ海軍防衛隊は、当初は約26,000人の海軍軍人・軍属を有していたが、兵器の大幅な不足から戦力化できなかった約10,000人を、北部ルソンのカガヤンなど他地域へ移動させていた。戦闘直前の2月3日にも、兵器製造などを行っていた6000人(ほぼ非武装)を東方山地へ脱出させたため、戦闘となったときの兵力は約10,000人であった。マニラに残った海軍将兵は陸戦隊7個大隊に再編成されたが、そのうち本格的な地上戦訓練を受けていたのは第31特別根拠地隊の陸上警備科1個中隊のみであった。また、マニラ海軍防衛隊指揮下には、野口勝三陸軍大佐の指揮する野口部隊(臨時歩兵2個大隊基幹)など陸軍3個大隊約4,300人が配属されたが、これも在留邦人からの現地召集が大半であった。陸海軍部隊合計で、高角砲43門と対空機銃250門、艦載砲弾流用の噴進砲6門、迫撃砲・歩兵砲46門を装備していた。ラグナ湖方面に陸軍1個大隊、ニコラス飛行場に陸戦隊1個大隊、マニラ東方のサンフアンと東南方フォート・マッキンレー(現在のマカティ市フォート・ボニファシオ)に各陸戦隊1個大隊が配置され、残り陸戦隊4個大隊・陸軍2個大隊が市内中心部と港湾部に展開した[1]。
マニラ港の港湾設備は1月6日から破壊作業が進められ、1月中旬にほぼ完了した。すでに港内には日本側の艦船はほとんど残っていなかった。
2月当時、マニラ市内には約70万人のフィリピン人市民が残っていた。
[編集] 戦闘の経過
[編集] 連合軍の到達
1945年1月に連合軍はルソン島に上陸し、2月3日、米第14軍団(第1騎兵師団と第37歩兵師団)がマニラ地区へ突入した。市街地に立てこもった日本軍に対し、アメリカ軍は徹底した砲爆撃を加えた。これにより、市街地は廃墟と化した。アメリカ軍の支援を受けたフィリピン人ゲリラ約3,000人も、戦闘に参加した。
マニラ港内に残っていたわずかな日本側艦船は脱出を試み、2月7日、駆潜特務艇などの小艦艇7隻が成功した。砲艦唐津は2月5日に港内で自沈処分され、そのほか小型艇1隻も自沈した[2]。
2月6日から、サンフアンで本格的な戦闘が始まったが、守備していた日本軍陸戦隊1個大隊はわずか3日で潰走した。陣頭指揮を執っていた大隊長の西山勘六大尉ら幹部が死傷すると、部隊全体の人的損害は比較的軽微であるにもかかわらず統制が失われてしまった。
マニラ南西のナスグブ方面にも米第11空挺師団が上陸及びパラシュート降下し、途中で藤兵団隷下の歩兵第31連隊第3大隊を撃破しながらマニラへ侵攻した。
[編集] 市中心部の戦い
市中心部と港湾部にもアメリカ軍が突入した。南からの米第11空挺師団は2月11日にニコラス飛行場を占領し、13日には北部からの第14軍団と接触した。日本軍は官公庁などの強固な建造物に拠って抵抗したが、包囲下に陥っていった。
日本側の第14方面軍や南西方面艦隊司令部などは、マニラ海軍防衛隊の撤退を実現しようとなお努力していた。岩淵少将も命令に従って2月9日にマニラ市内からマッキンレーに司令部を移していたが、市内諸部隊の脱出が困難な状況を見て、11日に司令部を市内に戻してしまった。連合軍の戦力を過小評価した振武集団本隊は、撤退支援と士気高揚のため、歩兵第31連隊主力などの6個大隊をもって総攻撃に出たが、死傷600名以上の損害を受けて18日までに撃退された[3]。19日にはフォート・マッキンレーも陥落し、市内の日本軍は完全に孤立した。
2月24日、岩淵少将は、拠点を死守する旨の決別電を発した[4]。25日、市内の日本陸軍部隊はついに一斉脱出を試みたが、途中の戦闘で野口大佐と2人の大隊長は戦死した[5]。翌26日に岩淵少将も、できる限り部下を脱出させた後に司令部で自決した。3月3日に、アメリカ軍は戦闘終結を宣言した。
[編集] 結果
[編集] 軍事的側面
日本軍の戦死者は約12,000人、アメリカ軍の損害は戦死者1,020人と負傷者約5,600人であった。市民の犠牲者は約10万人といわれる。マニラ海軍防衛隊の残存兵力は南部に脱出し、振武集団の指揮下で古瀬部隊(指揮官:古瀬貴季海軍大佐)として再編成された。
マニラ所在の捕虜収容所2箇所も解放され、連合軍捕虜約5,800人及びフィリピン人の囚人約3,800人が無事にアメリカ軍に収容された。第14方面軍は捕虜を解放する方針を決めており、連合軍侵攻以前の早期解放も検討していたが、食糧確保などを心配した捕虜の反対があったために、連合軍部隊の到着を待って引き渡しを行った[6]。
連合軍はバターン半島とコレヒドール島の日本軍も制圧してマニラ湾の安全を確保すると、再整備したマニラ港を兵站拠点として利用できるようになった。
[編集] 市街地の破壊
戦闘の結果、マニラ市の建物の多くが被害を受けた。イントラムロス地区の旧アメリカ大使館前に残されている鉄製の旗竿には、おびただしい数の弾痕が刻まれ、当時の激戦をしのばせる。損傷した建物は、戦後復興の過程でほとんど解体されてしまった。
また、政府庁舎や大学、教会などに収められていたマニラ市創建以来の歴史的遺物も、建物とともに破壊されてしまった。アジア・スペイン・アメリカの文化が入り混じり、「東洋の真珠」とも呼ばれたアジア最初の国際都市の遺産は、建築物も美術品もすっかり消滅した。これは今もフィリピンの国家的悲劇と言われている。
[編集] 戦争犯罪の問題
詳しくはマニラ大虐殺を参照。
アメリカは、市民の犠牲者は日本軍の虐殺行為によるものだと主張している。山下大将は、市民虐殺についてマニラ軍事裁判で裁かれ、絞首刑となった(詳細は山下奉文を参照)。対ゲリラの治安戦闘が行われる中で、一般市民が巻き込まれたのではないかという見解もある。
対して戦史家や日本の保守派は、当時の日本軍守備隊の実力では6倍もの市民の組織的殺害は困難であり、物証も無いなどとして否定的である。「米軍の行ったマニラ破壊を日本軍に転嫁するため」[7]との見方もある。また、ゲリラが殺害された人数も「市民」に含まれてしまっているとの指摘がある。
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- 防衛研修所戦史室 『捷号陸軍作戦(2)ルソン決戦』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1972年。
- 同上 『南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』 同上、1972年。
- Center of Military History, United States Army, The U.S. Army Campaigns of World War II - Luzon: 15 December 1944--4 July 1945 [1] (米陸軍公刊戦史)